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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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こうして老いてゆく。

▲今年は閏年やから、1年は366日だということに今更ながら気づく(苦笑)〜いや、わたしの暮らしには一日増えてもたぶん影響はなくて。実際2月の28日+1日もこれまで通りやっぱりなんということもなく、あっというまに過ぎてしまった。
でもねハンコを押したような同じ日々の中にも、思い起こせばそれなりにいろいろあって。

▲そうだ。直近では散歩してる途中、つまずいてそのまま前に両手ついてコケたのだった。
一瞬何が起きたのかよくわからなくて。はっとして一番のウイークポイントである膝を見たら、すぼんがみごとに破けていて焦った。
幸いずぼんの下には膝上までの厚手のレッグウォーマーを、両手には手袋をしていたおかげで、擦り傷も出血もなかったのだけれど。
それでも打ったところが痛かったのと、おもいもかけない転倒に動揺して、少しの間立ち上がれなかったんよね。ちょうど通りには誰もいなかったし、道端で座り込んだまま膝をゆっくりさすってたら、立ち上がることができ、それにふつーに歩けた。ああ、よかったぁ。よかったなあ〜と声が出た。

▲打ちのめされた気分で家にむかう道〜街路樹のゆりの木(すき)はお陽ぃさんに照らされてきらきら輝いて、うらめしいほどええお天気の散歩日和で。いやはや、わたしもこうして老いてゆくんやなあ〜とか思いながらとぼとぼ歩いた。
まずは骨折しなかったことに安心したあと、自分のイメージ(こまったことに、これが実年齢よりつねに若い)では、上がってるはずの足がちゃんと上がってなかったことも、戻せるはずだった体勢が、意に反してそのままコケてしもたことも、気づいてはいたもののショックだった。

▲そういえば、義母も母も生前ホームの自室で転倒するたび(何度も転倒してた)痛みや青あざより「コケた」そのことにしょげかえっていたのを思い出した。「ほんま、気ぃつけてや〜」と言い放ってた自分が今、あのときの二人はこんなきもちやったのか〜と「痛」感。
歳を取るって、そしてそれを受け入れるということも、けっこう、いや想像以上にたいへんな作業であることよ。

▲この間ダルデンヌ兄弟監督の『トリとロキタ』(原題:Tori et Lokita)を観た(by Amazon Prime)。
ダルデンヌ兄弟監督の映画は『イゴールの約束』(1996年)以来ずっと観てる。その作品はいつも痛くてつらいのに、何故観てしまうのかといえば、容赦ない社会や大人たちに押しつぶされそうになっているこどもや若者をごまかしなく映しながらも、愛情をもって深く描かれているからで。観終わったあともしばらくは「で、あなたはどう思った?どう考える?」と、問われるから、で。

▲いつだったか会見の記事中「何故少年少女・・若い人を取り上げるのか?」という質問に「少年や少女には、変われる可能性があるから」と答えた、というのをよく覚えてるんだけど、これはわたしがすきなヤングアダルトの本に感じる希望とも重なっていて。

▲さて、少年トリと少女のロキタはアフリカから地中海をわたりベルギーのリエージュに流れ着く途中に出会う。そんななか二人は生き抜くために姉弟と偽ることになるんよね。トリは施設暮らしでビザがあるけど、ビザのないロキタには正規の職に就くこともできないわけで。
そういう状況に追い込まれた若者がお金を得るため巻き込まれるのは、たいてい不法の、ドラッグの、世界であり。ロキタもまた危険な運び屋をしてお金を稼いでいるんだけど、これはベルギーへの密航の斡旋業者に払うお金や自分が生き延びるためだけでなくて、故郷の母親に送金するためでもあり、つらい。

▲やがてロキタは偽造ビザを手に入れるため、さらに危険な仕事をもちかけられるんよね。この歳の子がこんな決断を迫られることに、胸がえぐられる。
ふたりの夢はアパートを借りてふたりで暮らすこと。ビザを手に入れて働いて祖国に送金すること〜それは「夢」ということばで書くのもためらわれるほど「ただそれだけのこと」であり。十代の子が当たり前に手にできていいはずのことなのに。

▲そうして人としての尊厳も踏みにじられる中で、ときおり見せる年相応の無邪気な笑顔と笑い声に、つかの間ほっとして、そのふたりの絆に、どうかどうか無事に〜と祈るような思いだった。
劇中トリが施設の自転車を借りて夜の街を走る場面が残っている。大きく見えるその自転車を立ち漕ぎするトリのうしろ姿に彼の幼さとロキタを心配するきもちに、映画であることも忘れて見入ったのだった。

▲いや、でも、これは現実から地続きの世界だ。
観終わって何日にもなるけど、今回もまたダルデンヌ兄弟の作品はやっぱり「で、あなたはどう思った?どう考える?何をする?」と、問うてくる。
そして移民難民の問題は遠くの国のできごとではない。

▲以前読んだ『日本に住んでる世界のひと』(金井真紀 文・絵 大和書房2022年刊)を思い出す。(この本のことは2022.12.1ブログにも書きました)
「おわりに」で、著者金井真紀さんは怒る!
《日本に住んでる世界のひと、わけても「難民認定されないひと」「働くことが許されないひと」「入管施設に収容されるひと」「仮放免者」という理不尽な状況に置かれたひとたちについて知るにつけ、こりゃあとんでもないことだ、と引っくり返った。この国の外国人に対する処遇はひどすぎる。それぞれの人生の持ち時間をなんだと思っているんだろう》(p238より抜粋)

▲『トリとロキタ』の公式HPにあった監督のことばをいまあらためて噛みしめている。
《このふたりの若い亡命者とその揺るぎない友情に深い共感を覚えた観客が、映画を観終えた後で、私たちの社会に蔓延する不正義に反旗を翻す気持ちになってくれたら。それが、私たちの願いです。 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ》



*追記
その1)
年明けからいろいろ思う日々が続いています。そんななか、前に読んだ本を何気なく開いて「わあ。いま、まさに会いたかった」という文章との「再会」にカンゲキしつつ、これこそ本がそばにあるしあわせやな〜とおもいます。
このところ一冊の本をなかなか読了することができず、あっち読んでこっち読んで〜みたいな読み方をしていて。どこかうしろめたいような(うまく言えないけど)気持ちがあったんだけど。「道草」ゆえに出会えるたのしさ、をおもっているところ。

そういうたら、今年はじめ『水牛通信』「水牛のように」1月号で映画監督の越川道夫さんが『「道草」の「道」』というエッセイをこんなふうにしめてはったんよね。共感!

《一冊の本を読み始める。読み始めれば、あちらこちらを刺激され、連想のようにその本を読み終わらないうちに別の本に手を出すことになる。別の本を開けば、そこからまた別の本へ…。こうして一冊の本は読み終わることがない。そんな読書が面白い。読み終わったらからといって、それがどうだと言うのだろう。そんな読書が面白い。》


その2)
というわけで「再会」のよろこびに満ちた一冊は『さみしさは彼方 カライモブックスを生きる』(奥田直美・奥田順平 岩波書店2023年刊)でした。新しい本が出るとネットであちこちからいっせいに声があがっては、その内パタリと「声」が消えてしまうけど。そんな中だいじに読みたいとおもう一冊です。で、立ち止まったところは何箇所かあるんだけど、とりわけ付箋がいっぱいの直美さんの「頼りなく外に出る」の最後の一文から。

《思いを言葉にすること、自分の思うままに生きようとすることは、自身の安定のために必要なことだけれど、それは一方で、自身を規定する檻でもある。自身をわかりたい、現在をつかみとりたい、未来を支配したいーー。どうしたってわたしはこれからもそれらを求めつづけるだろう。それでもできるだけ、自身の及ばないものにひらかれていたい。その引き裂かれたあいだを、わたしは勇敢に生きていきたいと思う》(p178より抜粋)



その3)
きょうはひさしぶりにキヨシローを聴きながら。
《どれだけ遠くまで歩けば大人になれるの?どれだけ金を払えば満足できるの?どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの?》
風に吹かれて -RCサクセション
# by bacuminnote | 2024-03-02 16:54 | 映画
▲あたらしい年がやってきて、早や一ヶ月〜年頭大きな地震もあったし、このかん、身近なひとの思いがけない訃報が続き、胸のふさがるひとつきだった。
いずれだれもが「終点」にたどり着く〜とは十分わかってるつもりだけど。以前はずっと向こうに霞んでいた気のするその標識が、かくじつに近づいていることを痛感して。

▲変哲さんこと小沢昭一さんの句「御降り(おさがり)やもうわがままに生きるべき」は、何度もおもいながら自分にとって「もう」とはいつなのか?と、とりあえず棚の上に〜(苦笑)だったんよね。でも、「もう」は今かもしれへんなあ〜とおもう。
というわけで先日60代最後の一年〜がスタートしました。

▲数日前につれあいから聞いて、youtube「福岡伸一の知恵の学校」第3回 動的平衡ライブー生命は機械ではないーというのを視聴したんだけど(2016年3月3日福岡伸一による講義のアーカイブ映像)。氏は以前朝日新聞に「福岡伸一の動的平衡」というコラムを連載しているとき「隙間を見つけた蝶たち」と題したある回の文章で、エリック・カールの『はらぺこあおむし』のことを書いたそうで。

▲この絵本、ちいさいひとが身近にいるひともいないひとも、たぶん、どこかで一回は見たことがあるんやないかな〜とおもう人気の一冊だ。
日曜日に生まれたばかりの青虫はおなかがぺこぺこ。食べ物を探して、月曜にはりんごひとつ、火曜には梨ふたつ、水曜にはプラムみっつ〜と、たべてもたべても満腹にならず、チョコレートにチーズにサラミに・・と、いろんなものを手当たり次第に食べて、とうとうお腹をこわしてしまうんよね。

▲で、また日曜日がきて、こんどはきれいなみどりの葉っぱをたべてお腹も治り、サナギになって、最後は見事な蝶になる〜というストーリーなんだけど。
エリック・カールの絵も色もとてもきれいだし、ページに空いた小さな穴の楽しいしかけは当時めずらしく、たべものの名前だけでなく曜日や数も入っており、世界的なベストセラー絵本やそうで。ウチにも息子らが読んで読んで、よれよれの一冊が残ってる。

▲そういえば、みんぱく(国立民族学博物館)の「言語」のコーナー(すきです)には、47言語(点字も)の「はらぺこあおむし」がずらりと並んでおり壮観。傍らの機械の上にこの本を置くと朗読音声が流れてたのしい。手話では12言語で閲覧できるようにビデオテークに収められていて。
みんぱくに行くと(長いこと行けてないのですが・・)かならず長居してしまうコーナー。と、まあ、そんな人気の絵本の作者にむけて福岡氏はコラムで《でもちょっとだけ言わせてください。カールさんは蝶の生活をほんとに見たことがありますか?一度でもあおむしを実際に育てた人ならご存知のとおりあおむしはあんなにいろんなものを貪ったりしない》と書かはったそうで。

▲曰く、青虫は《もっとずっと禁欲的。アゲハチョウならミカンかサンショウの葉、キアゲハなら、パセリかニンジン。ジャコウアゲハならウマノスズクサという変わった雑草しか食べない。どんなにはらぺこでも絶対に他の葉っぱを食べようとしない。栄養素的にみれば、どの葉っぱを食べても同じはずなのに。なぜ? それは限られた資源をめぐって無益な争いがおきないように、長い年月をかけてそれぞれの種が互いに譲り合い、自然界の中に自分の生きるべき小さな隙間を見出したから。その隙間をニッチという。私はこれだけをよすがに生きていきます。控えめな控えめな独立宣言(後略)》(朝日新聞2016.2.25コラムより抜粋)

▲わたしは絵の「はらぺこあおむし」ならOKだけど、ほんものの青虫はにがてで、ましてそれぞれに食べる葉っぱが違うやなんて、この講演で初めて知ったんだけど。
《それは限られた資源をめぐって無益な争いがおきないように、長い年月をかけてそれぞれの種が互いに譲り合い、自然界の中に自分の生きるべき小さな隙間を見出した》の一文にどきっとする。ああ、ニンゲンは地球上の大先輩である虫に、いま一度ほんま真剣に学び直さなあかんね。

▲さて、youtubeで見た講演には、このコラムに「エリック・カールさんは別に虫の生態を知らないわけじゃない。ちゃんと分かって書いています・・」と言って来たひとが何人もいて〜という話から「表現の自由」の話になるんだけどね。これを書きながら「はらぺこあおむし」のことを調べてたら思いがけず、このときのコラムに《福岡氏の絵本の読みに誤解があるものと思います》と書いてはるブログに出会った。

▲《いくら食べても「あおむし」は少しも大きくならず、お腹も痛くなります。そうして、あらためて緑の葉っぱを食べたとき、「あおむし」はようやく大きくなって、さなぎになって、蝶になります。絵本では、「あおむし」が最後に食べる「おいしいはっぱ」は、最初に卵が産まれたところと同じ葉っぱとして、きちんと描かれています。まさに、福岡さんが記事でも書かれている通り、「あおむし」は決まった葉っぱだけを食べて、そのときはじめて蝶になれるということ、そういう自然界の食性が、きちんと描かれている絵本なのです》(ブログ『ハックルベリーブックス 店長からのお知らせ』 2016.03.11より抜粋)

▲絵本に登場する生き物をどう描くか〜は、デフォルメすることや擬人化もふくめて、ときどき考えることなんだけど、このブログ主さんは「はらぺこあおむし」は福岡氏のいう(書く)《人間の戯画》では、けっしてない〜と。くわえて《絵本をよく見て楽しむ子どもたちは、「なんで、はらぺこあおむしは、こんなにいろいろ食べたのに大きくならないの?」とまさにこの本の大切なところに気づくといいます》と綴ってはる。

▲ううむ〜わたしの頭はあっちに揺れこっちに揺れ、考えこんでるうちに(じつは一ヶ月末日には一回更新のつもりのブログだったが)日付が変わって2月になってしまった。
とちゅう休憩してネットサーフィンしてたら『はらぺこあおむし』出版「50周年記念」(2019年)サイト、というのに絵本作家のヨシタケシンスケさん(すき)がおいわいメッセージに、いつものあのとぼけた表情の親子の絵(すき)と共に《わたしはこの絵本で「自業自得」を学びました》とあって大笑い。

▲おなじものを見ても読んでも、そのひとが見たり、感じ取ったものは、ちがって当たり前で。優柔不断で影響受けやすいわたしだけど、これが最終点とおもわずに、知らなかったことを知ったら、どんどん脳内上書きしてる(つもり)。ただ、いろんな情報を得る前に最初自分が見たもの/かんじたことっていうのも大事にしたいです。そして「すき」であればあるほど、対象物のことをよく見るし、知るし、時にはむこうからの発信も受信することができるとおもう。

▲前に読んだ『虫ぎらいはなおるかな? 昆虫の達人に教えを乞う』(金井真紀 理論社2019年刊)はタイトル通り虫の苦手な著者が《「多様性をおもしろがる人になりたい」なんて言いながら》虫が出て来た途端ビビってしまう「わたし」が《今さら虫が大好きにはなれるとは思えない。だが、せめて虫ぎらいを脱することができたら》と虫の達人7人に話を聞きに行ったリポートで。昨夜「あおむし」のこと考えてたら眠れなくなって、この本をぱらぱらと再読(本のことは2019.5.25ブログにも書きました)

▲この本に登場する達人のひとり〜名ラジオ番組「子ども科学電話相談」の昆虫のセンセ久留飛克明(くるび・かつあき)氏のインタビュー記事をいま思い出している。

《「カタツムリってなんでのろいんですか?」って質問をもらいましたけど、「それはあなたはのろいと思ってるかもしらんけど、カタツムリはそんなん思ってるんかな」っていう。
同じ知識でも、そこにどんな意味付けをするかは立場によって変わりますよね。私はこう思うし、あなたはそう思うし、昆虫はどう思うだろうって。勝手に「いい」とか「悪い」とか、「汚い」とか「きれい」とか、向こう側からしたら「そんなのあんたに言われたないわ」と思うんだろうなと》(2018.9.3文春オンラインより抜粋)



*追記
その1)
前述『虫ぎらいはなおるかな?』の7人目の古川沙織さんは多摩動物公園昆虫園の飼育員(出版当時。いまは知りません)このなかでツダナナフシって虫の話が印象にのこってる。鳥を撃退するために体から独特な臭いの液(ミントっぽい匂い)を噴射すること。で、英語では”ペパーミントスティックインセクト”と呼ばれてること。アダンというものすごく硬い葉っぱしか食べないこと。そして、ツダナナフシは基本的にメスだということ!

古川さん曰く《メスだけで卵を産んで、その卵から次の世代がちゃんと育つんです。オスはまず見つからないです。数年前に石川県の昆虫館でオスが確認されましたが、たぶん世界で初めてじゃないかな》(p150)

いやあ、知らないことだらけやなあ〜と、再読のくせにはじめて読んだみたいにコーフン気味で、ますます眠れない夜となりましたが。
この本では出会ったひと、章ごとに「取材を終えて」というコラムがあるんだけど。最後の金井真紀さんのつぶやきにふかくふかく頷いています。
《古川さんの虫に対する「好き」オーラがすばらしかった。やっぱり「好き」はいいなあ。人をしあわせにするのは「きらい」じゃないんだ、「好き」なんだ》(p153)


その2)
もしかしたらブログの中で「飛ばしてしもた」月は、初めてかもしれません。何かあったというわけではないけど。わたしにしたら、とちゅう投げ出さずによく考えた2024年1月の一ヶ月ではあったとおもいます。
ああ、それにしても、69ってことは来年はもう70(あたりまえ!)。毎年誕生日のあたりに(3日ちがうだけ)電話しあう旧友はわたしより一つ年上やから、すでに70歳なんだけど。「◯ちゃんとしゃべってたら、気分はいまでもsevetteenやのにseventyになったやなんてね」と高校時代一緒に行った映画や貸し合ったレコードの話の後、笑ったとこ。
これからもぼちぼち元気に、なにより、わたし(ら)が わたし(ら)でいられますように。いつのときも縮こまらず、扉を開ける勇気を持てますように。
そして、今頃になりましたが、今年もどうぞよろしくおねがいします。

その3)
きょうはこれを聴きながら。1月にアマプラで観た映画『帰れない山』(原題Le otto montagne より)

Daniel Norgren - Like There Was A Door 
# by bacuminnote | 2024-02-01 12:54 | 本をよむ

きっと世界の終わりも。

▲相変わらずハンコで押したような同じ毎日を送っているから実感がわかないけど。
カレンダーを見たら(見なくても!)12月はあと2日。つまり2023年もあと2日でお終いってことで。速いなあ。ほんますごい速さ。
そういうたら「すごい速さ」って題の歌あったよな〜と、むかし息子2が聴いていた"andymori"をひさしぶりに聴いたら《きっと世界の終わりもこんな風に味気ない感じなんだろうな》という歌詞から始まってた。

▲自分の周りだけが倍速で動いてるような、なんだか自分だけが置いてきぼりにされたみたいな、でもふしぎに清々しいような。若いころのそんな気持ちを思い出したりして。おもいきり歳とったいまも(いまなお)「きょう」という日にしゃがんでしまいそうになってたら、歌は《そのセンチメンタルはいつかお前の身を滅ぼすのかもしれないよ》とつづき。おもわず首をすくめる(苦笑)年の暮れです。

▲今月はじめ、いつものようにシルバーセンターの方たちに剪定をお願いした。
この家も庭もつれあいの親の嗜好ゆえ、いまだに「親の家に帰省してきてる」ような思いがあって、家の中も外もほったらかしのまま20年がすぎてしまって。
おじいちゃんっ子だった息子1がいつだったか帰省してきたとき、庭をみて「おじいちゃんが見たらがっかりするやろなあ。だいじにしてたのに・・」と言うてて、どきん。

▲そんなんやからね、剪定も「できるだけ長く保つよう短めに」と、無粋で、こどものさんぱつみたいなお願いをしてる(すみません)。
剪定の前にはいつも「刈ったらあかんもの」を尋ねられるので〜つれあいが知人からもらってきた山椒と、わたしがご近所友から貰って(お正月に飾ったあとも生き生きしてたから)挿し木した千両には、そのひょろひょろした枝に金色のリボンを結んでおいた。
毎年筍の季節になると「今年こそ」と期待してるのに、山椒の葉っぱは採るのもはばかれるほど少しで。「高いなあ」とぶつぶつ言いながらスーパーで小さなパック詰めを買うことになり、千両は葉っぱこそしっかりついたものの実はならず、毎年末にはやっぱり件の友だちがひと枝届けてくれることになるんだけど。

▲ここに越して来た頃はみなさん「おじいさんたち」と思ってたけど、今やわたし(ら)もしっかりシルバーになっており。
シルバーセンター剪定チーム◯◯班の面々もリーダーやメンバーが次々と変わり。最初はどこかクラブ活動のようなふんいきで、チョキンチョキンと鋏の心地よい音の合間に、時々笑い声が家の中まで聞こえて、休憩時間にはお茶のみながら、互いのmy道具じまんをバリバリの大阪弁で熱く語ってはったりして。ええなあ〜と窓越しに見て微笑ましかった。

▲けれどここ数年〜とりわけコロナ禍以降は黙々と作業してはって、2時すぎには片付けも終わってるから。いつのまにかお茶休憩は10時だけになった。
それでも帰りには「ほなまた来年来まっさ〜」「来年も生きてたら〜」とお決まりの挨拶で笑い合ってたんだけど。来年からはセンターの方針で何ヶ月か前にハガキで申し込み制に変わったらしく。「ほな、また」は、ないまま「おおきに、気ぃつけて〜」と◯◯班のひとらを見送った。

▲希望どおり散髪したてのこどもみたいに、すかすかになった庭は広く見える。金色のリボンを結んだ千両の葉っぱをさすりながら、実が成らない〜というたら以前観た『海よりもまだ深く』(是枝裕和監督2016年)のいち場面がうかんでくる。
団地のせまいベランダで、母親(樹木希林)が青々と茂った蜜柑の木の鉢に水をやっているシーン。それは息子の良多(阿部寛)がこどものころ給食に出たミカンの種を植えたものなんよね。

▲で、その息子の傍で母親がひとりごとみたいに(いや、息子に)ぼそっと言う。
《花も実もつかないんだけどね、なんかの役には立ってんのよね~》
樹木希林さんの辛辣な中にも愛のこもったこのセリフを思い出すたび、さんざん心配かけてきたのに母がおもうような「花も実も」つかなかった子(わたし)は「すいませんねえ〜」と、苦笑している。ああ、でも、もう小言を言うひとのいなくなって気楽で、そして、なんてさみしいこと。

▲さて、今回もあちこち寄り道しながら途中休憩(これが長い)や家事を挟みつつ、書いたり消したり、関係ないもの読んだりしているうちに、今年もあと一日と数時間になってしまいました。一年こんなブログにおつきあいくださって、ほんまにおおきに、ありがとうございます。
年のおわりにいつもおもうことひとつ。来年こそよい年になりますように。Best wishes for 2024 !

《かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとはみえねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。
大路(おおじ)のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。》(『徒然草』第十九段より)

*追記
その1)
今月はほんまに速くて(しつこい)本もあれこれ読みかけのまま、越年することになりそうです。
『味つけはせんでええんです』(土井善晴 ミシマ社2023 年刊)は、帯に《「何もしない」料理が、地球と私とあなたを救う》とあって。日頃ごはんや味つけのことでつれあいがよく意見をいうもので(←文句、ともいう!)ここは土井センセの本でつれあいを論破してやろうと(苦笑)買いましたが。そんな低レベルのフウフげんか用にはなりそうもない、センセ流の哲学であり、深いです。次のブログにはこの本のこと書きたいです。


その2)
今夏より生協個配というのを申し込みました。
そのむかしウチがパン屋やったころ(1987年〜2003年)は、生協のような大きな組織より、まだ地域に根ざした共同購入の会が元気だったころでもあり、ウチのパンもそんな小さないくつかの会に卸しておせわになっていたし、ありがたいことにご近所でウチのパンを共同購入する会をつくって通販の注文をしてくださるグループも各地にいてはって。
当時はいまのように「個人宅配」が主流になるなんて、おもいもつかなかったのですが。時代を思います。

前置きが長くなりましたが、そんな生協の冊子に「タネから世界を考える 藤原辰史さんと小林宙さんの対談が載っていて、とても興味深く読みました。お二人のことは以前2019年11月26日ブログ追記その1にも書きましたので、よかった読んでください。
その対談の中で印象に残った藤原さんのことばをちょっと長くなりますが書き写してみます。

《歴史研究者として歴史のあるタネを優先するという話に励まされたのは、いま政治や経済の中枢を担う人たちがすごく歴史を嫌うんです。今更掘り返すなと。
でも、タネに限らずいま起こっている現象のあらゆるものは、何世代も前からのさまざまな交配のなかに文化としてあるわけです。それを否定していまを考えるからおかしなことになると思っています。

私たちが本当に望んでいる未来像はどんなものなのか本質を考える必要があって、例えば、ある程度地位やお金のある人だけが有機野菜を食べられるなら、それはナチスの発想と同じです。本当に栄養豊富な野菜を食べる必要があるのは、生活に困っている人たちのはずなのに、フードバンクや子ども食堂に集まる食品は大手企業の売れ残った食品になりがちです。

そう考えると、食品ロスの問題とフードバンク、そして子ども食堂がもっと幸せな結びつき方をつくっていけるように皆さんと一緒に変えていけたらと思っています》
(生協コープ自然派 食卓から社会を考える「Table」496 Dec.2023 p9より抜粋)


その3)
またまた長くなってしまいました。きょうはこれを聴きながら。ケイト・テンペストの詩についてはここ(金井哲夫氏のサイト)に訳も一部載っています。
Kate Tempest - People's Faces - 7/16/2019 - Paste Studios - New York, NY
# by bacuminnote | 2023-12-30 21:36 | 本をよむ

あと10年は大丈夫。

▲このあいだ台所のつぎにわたしが長居してる部屋のエアコンを買い替えた。
前にフィルターの掃除をしようとして上蓋?が割れてガムテープを貼ってたけど。リモコンが不調で風向きとか調整できなくなってたけど。まだ動いてたしリモコンは修理したら使えるかな?と思いつつ、いつもの電気屋さんに来てもらった。
だれに聞いても、ネットで見ても「設置から19年半」には即答「そら、あかんで〜」やったから。覚悟はしてたけど(おおげさ)電気屋さんの見立ても「もうね、新しくしましょうや」であり。

▲そういえば、19年前わたしらが信州からここ大阪に越して来て、最初に買った家電がこのエアコンだった。標高1200mのかの地では、9月から始まった暮らしでも、まっ先に薪ストーブやFFファンヒーターを設置(あ、薪ストーブは「すわる」というんよね)したように、ここ大阪の夏ではクーラーやったから。

▲今回はとりあえず一台(同時期に設置したものが他にもあるけど。まだ動いてるし・・苦笑)。まちの電気屋さんならではの気安さ(ありがたさ)で、ここも、あそこも、とエアコン設置以外に気になる所も見てもらって。「ああ、この線、いまテープ巻いといたから、あと10年は大丈夫と思いますよ」と屋根の上からの声に「あ、もう、その時分は生きてへんから大丈夫」と下でつれあいがソッコウ返して、青空の元いっせいに笑う。まあそんな冗談で笑えるほど、いまは幸いにしてみな元気ってことであり。

▲たいていは「ええ!?お宅まだそんなん使うてはるの?」と呆れられるほど「そんなん」各種を使い続けてるわが家だけれど。それでもこの19年の間にはいろんなものが古くなって、壊れて、買い換えた。
さて、このエアコンは何年使えるやろか?
わたし(ら)は、ここであとどれくらい元気に暮らせるやろか?〜

▲このあいだ観た映画『ナイアド その決意は海を越える』(原題:NYAD 監督:エリザベス・チャイ・バサルヘリィ  ジミー・チン 原作:ダイアナ・ナイアド)の主人公ダイアナ・ナイアドは(アネット・ベニングが演じる)マラソンスイマーを引退して約30年が経ち、ずっと思い続けていた「水泳界のエベレスト」と呼ばれるキューバからフロリダまでの約180キロに及ぶ海峡を泳破することを、なんと60歳になってから計画するんよね。
そうして親友でコーチでもあるボニー・ストール (ジョディ・フォスター) や文字通り「献身」的なセーリングチームと共に波乱に満ちた4年間を歩み出すんだけど。

▲このナイアドって、なかなか難儀なひとで(苦笑)「私は他の人とは違う!」「自分と凡人と一緒にするな」〜と、つねに強気、自信満々、マイペース。ひとの言うことに全く耳を貸さなくて。
そもそも、ナイアドというその名前からしてギリシャの水の精霊、水の神の名前なんだから。「私はそういうことをするために生まれてきた!」〜というのがお決まりのことばであり。みんなにも鬱陶しく思われていて。
わたしも最初その言動に嫌気が差して、観るのをやめにしようか〜とおもって。じっさい(Netflixの動画配信で観てたから)とちゅう休憩したんよね。

▲そんな強気のダイアナだけど、カメラは容赦なく年相応の顔のシワもシミもからだのたるみも映し出して、アップのたびにゴクンとつばをのみこんだのは、ダイアナ(というかアネット・ベニング)の歳に近いじぶん自身を見せられているようだったから。いや、だからこそ、その歳で挑むあまりに壮大で過酷な計画にうちのめされるような思いだった。(←それこそダイアナから「凡人のあんたと一緒にするな!」と怒鳴られそうやな)

▲激しいメキシコ湾流のなかで泳ぐだけでも大変なのに、海中にはサメや、刺されたあと2時間以内に解毒剤を打たないと死ぬ〜というハコクラゲが待ち受ける。とにかく50時間以上も泳ぎ続けるのだから、あまりの過酷さにしばしば泳ぎながら幻覚を見たりして。
本人もボロボロだけど、支援するひとたち(ボランティア)にも当然物心両面の犠牲を強いることになるわけで。

▲みな時々ダイアナのワガママや毒舌にしんそこ辟易しつつも、かの女を支えるのは何故か。
とりわけ親友ボニーの愛の深さというたら。この方は健康管理のプロのトレーナーなんだけど、30歳で知り合って以来ダイアナのよき相棒で。航海士のおじさんも言うことをきかないかの女に怒り、家庭の事情で一度は離れたものの、また戻ってきてくれて。
そうして28 歳のときの冒険の失敗から35年、64歳で5度目にして、ついにダイアナは泳ぎ切るのだった。

▲それにしても。
何故あそこまでダイアナが「自分は勝つ」「グレイトだ」と自身を鼓舞する発言をくりかえすのか〜その原因ともおもえる10代のころの経験〜オリンピックチームのコーチから受けた性暴力を、最後の方でかの女はボニーに話す。「誰かにしゃべったら選手生命がおしまい」と当時脅されて何もできなかったことも、歳をとってもなお癒えることのない深い傷をおもうと辛い。とても辛いし性暴力に対して怒りに震える。

▲そうそう。この映画の中で印象にのこってたこと。
「長距離遊泳の覚悟はある?」と親友に聞かれ「プレイリストは今85曲よ。ニール・ヤング、ジャニス・ジョプリン、ビートルズ・・」と応えてたんよね。一瞬「え?海中で?」とびっくりしたけど、これ脳内のプレイリスト。「1000回歌うと9時間45分よ。きっかりね」と。
この映画みたあと、わたしだったらプレイリストにどんな曲あげるかなあ〜と散歩のたびにあれこれ脳内でBGM流しながら夢想してる。

▲最初はかの女を支え続けるスタッフにさえ変わることのない不遜な態度に、ピリピリして観てたけど(苦笑)このセリフとプレイリストの曲が劇中バックで流れるところで頬がゆるんだ。くわえて、目標達成のあと「あきらめないこと」「夢を追うのに年齢は関係ないこと」「個人競技だと思ってたけど、チームのスポーツだった」というダイアナのスピーチに拍手。アネット・ベニングとジョディ・フォスター(シミもしわも、みなかっこいいとおもった)にもおおきく拍手だ。



*追記
その1)
Spotifyでナイアドのプレイリストが公開されている〜とネット友からおしえてもらいました。Beatlesの23曲はここには入っていないそうです。Diana Nyad's playlist for swimmers + land-lovers - playlist by ted_talks | Spotify


その2)
まちの電気屋さんというたら思い出すのが和歌山県の電気屋さんが舞台の『幸せのスイッチ』(安田真奈 監督・脚本2006年)という日本映画。電気屋のおっちゃんはジュリーがええ感じに演じてはります。この映画のことはここにも書きました。(2007.6.20ブログ「ちょっと風を通してから」


その3)
映画もう一本。『不思議の国の数学者』(原題:In Our Primeパク・ドンフン監督)「名門私立高校の競争社会になじめず、数学が苦手な少年ジウと正体を隠してジウの学校で夜間警備員として働く脱北した天才数学者ハクソン」(公式HPより)の物語なんだけど。数学者が大きな黒板に延々数式を書く場面は絵になるし、いろんなドラマや映画が小説でも描かれてるし。「またあんな感じかも」と(苦笑)おもってたけど、意味不明な数式なのにうっとり。数学に躓いてる男の子もええ感じで、ついつい前のめりになって観てしまいました。

わたしは、といえば、よくあんな理解度や成績でガッコ卒業できたなあ?というほど数学(だけやない)がまったくダメなんだけど。劇中ハクソンがジウにする数学とのつきあいの話〜「体当りしてこそ仲良くなり、理解でき、理解してこそ愛せる。労力を費やし、考えること」には、ふかく頷く。これは数学だけでなく、自分が苦手と思い込んでるものやひとにも通じることで。
一方《問題が解けないとき、苛立つ代わりに「いやあ、難しい問題だな。明日また解いてみよう」と思える余裕。これが数学的勇気だ。そうやって淡々と地道にできる奴らは数学が得意になる》には、「難しいな。さっぱりわからん。やめとこう(あとで数学の得意な友だちにノート写させてもらおう)」で、わたしはずっと来たからなあ〜と俯く。
あ、この映画でも、数学の美しさを証明するために円周率から作られた「π(パイ)ソング」のピアノ演奏や、バッハの曲など音楽がよかったです。Amazon prime(レンタル)にて。


その4)
いま読んでいる本二冊〜これを読了して今回のブログに書きたかったんだけど。数年ぶりに障子の張替えしたり!バタバタして読了できず。
『神と黒蟹県』(絲山秋子著 文藝春秋2023年刊)架空の県を舞台にした連作小説集。 日本のどこにでもありそうな黒蟹県〜そのこで紡がれる人々の営み。あれ?これはもしや◯◯県のことでは?と自分の知ってるまちを重ねてみたり。時々地図(本のなかには「地図」も「辞典」もある!)眺めてみたり。「実在」と地つづきに「架空」があり。知らないまちは道にまようのもたのし。架空というたら、絲山秋子さんは『妄想書評』という絲山さんがつくりだした架空の本の書評集も(自主制作)出してはります。さすが〜。
この黒蟹県も架空とおもいながら、読んでるうちにそんなことも忘れてしまって「市内」を歩いてるきぶんになります。さて、また続き読みますか〜

『ためさるる日 井上正子日記1918-1922』(井上迅 編 法蔵館)編者井上氏のHPでもときどき紹介してはった氏の大伯母さま12歳から16歳までの女学校時代の日記です。井上氏がお寺(徳生寺)の六角堂(納骨堂)の片付けているときに見つけたというこの6冊の日記は、京都の古いお寺に生まれ育った多感な少女の生活の記録というだけでなく、その時代背景も文章の合間に見えて、とても興味深いです。
《1918年スパニッシュインフルエンザのパンデミック、第一次世界大戦の終結、米騒動、シベリア出兵、1920年尼港事件、1921年原敬首相の暗殺、1922年急速な資本主義化の反動による経済恐慌など、それぞれ100年後で考えたとき、それに相応する世相が思い当たるのではないでしょうか。 『ためさるる日 井上正子日記 1918-1922』─法蔵館刊行─は、100年前に生きた一人の少女の視点を手がかりに、これからの世界を考える道を照らしているように思うのです》(徳正寺HPより抜粋)


その5)
きょうは『不思議の国の数学者』ハクソンとジウのクラスメイトの女の子の連弾シーンより
「π(パイ)ソング」を聴きながら。
# by bacuminnote | 2023-11-30 19:44 | 映画

ただ空があるだけ。

▲暑くなく、寒くなくて、歩きに出てもきもちのええお天気の日が続く。毎日目標にしてる歩数が一応あるんだけど、それを超えても、もうちょっと行けそう、いや、どこまでも歩いてゆけそう〜なんておもう(妄想)日もあり。もちろん調子にのってそのまま歩いたら、あとで泣くことになるんだけど(そして今朝は半泣きである)。
このごろは途中立ち止まって、ぼーっと空を見上げてることが増えた。

▲よく晴れた秋空の青に見入ってると、あちこちの木々で囀っていた小鳥たちが時折すばやく飛び立って。その様子を撮ろうとスマホを出してる間に、もう遠く(あたりまえ)。ああ、のどかな午後。
けれど、ひとたびそのちいさな世界の窓を開けたら、わたしがいま見上げてる空のつづき〜その先ずっと向こうでは戦闘機が飛び交い、空爆で無惨にもパレスチナのひとびとを街を攻撃されているガザという地があって。
「頭の上にはただ空があるだけ」(ジョン・レノン「imagine」をキヨシローの訳詞で)とぶつぶつ独り言いながら、無力な自分にやりきれなくて。また歩く。

「西空にひとはけの雲きょうわれは怪我したこどものように過ごしぬ」(宮地しもん『f字孔』)

▲先週(10月23日)早稲田大学で<パレスチナ>を生きる人々を想う学生若者有志の会主催「ガザを知る緊急セミナー ガザ 人間の恥としての」(講演・岡真理)の動画配信を知って視聴した。
知らなかったことも多く、何より終始怒りと悲しみに満ちた岡真理さんのレクチャーに「なんとなく知っている」に安住して「もっと知ろうとしなかったこと」を恥じながらも、聴き入った。(文末にアーカイブのURLを貼っておきます。少し長いけれど、聴き始めたらあっというま。まだの方はぜひ)

▲最後「わたしたちに何ができるか?」という質問に、それより「わたしたちが何をしなければならないか」を考え行動すること、と。そして「知らないなら、知る。わからないことを調べる」「周りの人に知らせる」「学びを継続してゆくこと」と。
これはこの問題に限らずいつも思っていることだけど。結局ここから始まるのだ。

「問題の根源は占領。憎しみの連鎖などではない。政治的解決が必要。人道問題にすり替えてはいけない」ということも強く残った。
そうそう、この学習会は若者たちが5日ほどで企画・準備したそうで。会場に行けない人たちのために、動画配信も迅速にしてくださって、こんな機会をつくってくれたことに感謝。
会場では高校生からの質問もあったらしく〜時々忘れてしまいそうになる「希望」ということばがうかぶ。たった一人の高校生であったとしても。

▲講演の内容については、知識のないわたしが綴るよりとにかく視聴してほしいです。とかく政治〜とりわけ海外の政情はムズカシイ、わからない、とスルーしがちだけど(わたしの場合)岡さん曰く「それで黙ってしまえば相手の思うツボ」「わたしも最初は何も知らなかった」と。
岡さんは中・高校生のころホロコーストに関心があり、大学はアラビア語科に。その後「ガッサーン・カナファーニー」(パレスチナの小説家、ジャーナリスト。1972年爆殺される)に出会い、パレスチナのことを学んでいくにつれ、パレスチナを通して植民地主義の問題に出会い、日本の朝鮮植民地支配、沖縄の、アイヌモシリの問題に出会った。最初はだれもが知らないと思う、と。

▲そういえば、昨日届いた大阪のある障がい者作業所の通信のコラムに、思えば特に福祉に関心があったわけでもなかったのだけれど、当時の職場の同僚のこどもの通う公立保育所が「障害児」を締め出している現実に、保育所入所運動にかかわったのが最初の縁、と。その後20年地続きの縁でいまの作業所設立にかかわることになった、とあり。続いてこう語ってはった。

《どんな領域でもそうですが、世の中の動きと無縁の「聖域」は存在しません。福祉を福祉の世界だけに閉じ込めておいたら、障害当事者のおかれている社会的現在地が見えにくくなります。
そして、無批判に国の指針に従っていると、たとえ善意からであっても管理と支配のサイクルに巻き込まれていく危険性があります。
私たちの今生きているこの社会で起こっているできごとやいろんな差別の問題は、障害者差別と密接に関係しています。
環境問題や、沖縄の問題、民族差別、戦争の問題等、いろんなテーマで勉強会を持った時期がありました。
「平和のため」に武器を買い漁るこの国の権力者たちは、福祉や教育も自分に都合よく解釈します。インクルーシブと言いながら、公然と分離教育を進める人達はその典型です》
(「当世作業所事情 92」より抜粋)

▲岡さんの講演やこのコラムを読んでいると、わからなさの前でうずくまっていては、何も始まらない〜とあらためて思う。
「私たちは知らなかった、そんな言い訳は成り立たない。世界が注視する中で起こっている」
「忘却が次の虐殺を準備する」(文富軾『失われた記憶を求めて』より)
「暴力と兵器の実験場としてのガザ」
「地獄とは人々が苦しんでいるところのことではない。人が苦しんでいるのを、誰も見ようとしないところのことだ」(マンスール・アル=ハッラージュ)
ノートにメモしたことばです。

この講演はここでアーカイブが視聴できます。※概要欄には「スライド写真には暴力的な描写が含まれますので、視聴にはご注意ください」とあり、そのスライドの表示時間も記されています)


*追記
その1)
おいしいもん食べても、友だちとあほなこと言うて大きな口あけて笑っても、よい本を読んだ充実の時間も、つぎの瞬間突然無口になったりして。
「飲食のあと戦争を見る海を見る」(吉村毬子『手毬唄』)

それにしても「正しく知る」ことの困難な時代、とおもう。何をテキストにしたらよいのか〜という問題。うそやごまかしを感じる/察知するアンテナって、うまくいえないけど読書やスポーツや楽器演奏と同様に毎日の積み重ね、エクセサイズexerciseが必要なんじゃないかな〜


その2)
最近本が読めない読めない、というてたけど。ひさしぶりに一気に読んだ(読めた)本は『吹きさらう風』(セルバ・アルマダ 宇野和美訳 松籟社2023年刊)です。最初ネットで書影をみて、そのカバー表紙の写真から惹かれて「早く読みたい」と思っていました。本が届いて、ぱらぱらのつもりが案の定(途中しぶしぶ!家事・雑用を「ええかげんに」すませながら)ずっと座り込んで〜。が、一気に読んだらもったいない気がして、ときどき減速しつつも、結局一気に最後まで。

とくべつ何か大きなことが起きるわけでもなく、たまたま車の故障で立ち寄った整備工場で顔を合わした4人の物語。しずかに話はすすむんだけど、4人それぞれが持ってる物語が、あぶり出しの絵のようにうかんで来るんよね。
本文は142頁。会話の場面もええ感じですーっと読めますが「いや、もういっぺん」と引き返したりしながら、読書の時間。そしてあの表紙カバーの写真のような荒涼とした背景と共にいまだ読後の余韻(よい短編映画を観たあとのような)の中にいます。おすすめです。
《アルゼンチンの辺境で布教の旅を続ける一人の牧師が故障した車の修理のために、とある整備向上にたどりつく。牧師、彼が連れている娘、整備工の男、そして男とともに暮らす少年の4人は、車が直るまでの短い時間を、こうして偶然ともにすることになるがーー》(帯文より)


その3)
このあいだから以前読んだ絵本『むこう岸には』(マルタ カラスコ )のことを思い出していました(あ、この本も宇野和美さん訳)。

川のこちら側と向こう側。大人たちは川の向こうには変わった人たちが住んでいるから、渡ってはいけないという。でもある日男の子がロープのついたボートを女の子「わたし」のいる岸へ流してくれて。それに乗って「わたし」は川を渡って「むこうの岸」に行くんよね。
行ってみればむこう岸にいるのは「変わった人たち」なんかじゃなく、自分たちと同じように暮らしているひとたちだ、と知る。
この絵本の 冒頭にチリ生まれの作者のことば。
《この世界のことなる人々が いつか出会い、わかりあうことを願いつつ》

そういえば、この本のことを以前tweetしたときに、絵本の原題が映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』(ウォルター・サレス監督2004年。原作は『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』)の中で流れる音楽といっしょ〜と教えてくださった方がいて。わたしはスペイン語はまったくわからないけど、その音楽が流れた場面〜エルネスト(ゲバラ)の24歳の誕生日を祝う日に、ハンセン病の患者たちがいるアマゾン川の対岸へ〜まさに「むこう岸に」かれが泳いでいくところはとてもすきなシーンでよく覚えています。

その4)
というわけで、きょうはこれを聴きながら。
Al otro lado del río- Jorge Drexler. Diarios de motocicleta Walter Salles. 2005 
# by bacuminnote | 2023-10-31 12:57 | 本をよむ