この日の どんな些細なことも。
2007年 03月 17日
おなじ大阪ながら1時間あまりかかる友人の住むまちは、その昔、わたしと相方が最初に2年近く暮らした思い出の地なのである。
▲当時住んでいたアパートは(文化住宅と呼んでいた)友だちんちからは反対の方向なので、いつも行く機会を逃してたんだけど。
今日こそは「ちょっと寄ってみたいねん」と、電話で友に伝えると「わあ。ほんま久しぶりにわたしも見てみたいし。行こ。行こ。ええお天気やしおにぎり持ってくわ」と話がまとまった。
▲だんだん降りる駅が近づいてくると、わたしはちっちゃい子みたいに身をよじって、窓の外、走る景色を追いかける。
24の春だった。その頃どこに行くにも持ってた大きい黒いバッグを肩にかけて「家を出た」。
▲車窓からは暖かそうに見えたけど、電車を降りると風がつめたかった。改札口まで友が迎えに来てくれて、さっそく二人で思い出のアパートを目指して歩く。駅の周辺はみごとに変わって呆然とするも、少し歩いてると思い出の場所は ぽつんぽつんと残っていて。
果たしてそのアパートは改装されて、すっかり新しくなっていたけれど。見覚えのある電柱も、ひとつ奥の通りの古い住宅も。それに裏の土手も。故郷に帰って来たようなほわっとしたきもちになる。
そう、愛は強く(笑)そして友情も熱く・・・乗った電車の名前は忘れても、ここでの時間は「一生忘れない」。
▲そうそう、このあとわたしたちは7回引っ越しをする。
そのつど、親のわたしたちの側にしてみたら、それなりの理由があっての転居だったけれど、こどもにはつらい引っ越しもあっただろうと思う。
荷物の中 小さな自転車にちょっとどきんとする。身も知らぬおうちの引っ越しだけど、こんど住むところでもいっぱいたのしいことがありますように。友だちができますように、って思いながら通り過ぎた。
▲この間読んだ『ドアーズ』(ジャネット・リー・ケアリー著 /浅尾敦則 訳/ 理論社刊)という本も(ロックバンドのDoorsのことじゃないです)親の都合で嫌々引っ越し、転校する女の子ゾーイのお話だった。
ゾーイはお父さんの失業でそれまで住んでいたカリフォルニアからオレゴンの町までやってくる。しかも引っ越し先にはまだ「家」はなくて、引っ越してきたワンボックスカーで親子四人の生活。新しい地では、そんな事情を隠しての登校。だからクラスメイトに「おうちはどこ」と聞かれても答えられないし、友だちになった子に家に招かれても、自分は「おうちにおいで」と言えない。
▲そんなゾーイが宝物のようにしているのは、昔おばあちゃんがくれたガラスのドアノブ。おばあちゃんは「自分のドアを見つけるんだよ」というんだけどね。
「自分のドア」って何だろ?ドアを開けたら、そこには「ここ」とちがった世界が広がるかもしれない。だけど、なかなか その一歩がふみだせなくて。それでも、いろんなできごと、いろんな人とであっていく中で、やがてゾーイにもドアを開ける日が来る。このゾーイ一家の物語にかつての自分や相方を、何より引っ越しの多いこども時代を送った上の子のことを思い、胸がいっぱいになって本を読み終えた。
▲「あとがき」に著者がこんなことを書いている。
【夫と私はまだ若くて元気で向こう見ずだったころのある時期、旅に明け暮れる生活を送ったことがあります。そして結婚して最初の16年間で15回の引っ越しをしました。 (中略) 私の息子たちとマーサー・エルキーにこの物語を捧げます。でもこれは大好きだった家を出ていかなければならなかったすべての子どもたち、そしてすべての大人たちのための物語でもあるのです。あなたがゾーイのように、いろんなところに出かけて自分の居場所を探し求めてくれますように。そしてあなたのドアが見つかりますように】
▲かつてドアの前で考え込んでいた上の息子も、いつのまにか いろんなドアを開け、さっさか 一人で歩く大人になって。そんな様子を親ばかながらうれしく眺める。そして、こんどは下の子が同じように、でも又ちがった方法でドアをみつけ、世界をひろげていきますように、と思う。
昔よくそうしたように、友となつかしい店や通りを 途切れることなくしゃべりながら ゆっくりゆっくり歩いて。身もココロも ほっかほかに ぬくもった。外でおにぎりは食べられなかったけれど。
あ、この日の歩数計は一万歩をこえた。 よう歩いたよね、J。