年暮れきりし。
2008年 12月 30日
▲街はクリスマスが終わるやソッコウ迎春商戦に入るんよね。そんなもんには巻き込まれないぞ、と「いつもどおり」に徹していたつもりが、ここ数日買い物に行くたびに財布が予想を上回り軽くなっている(いや実際は紙幣が消え小銭が増えて「重くなっている」のだが)
▲連日スーパーやデパートの食品売り場はすごい人出で、みんなそれぞれに、ぎっしり書き込まれた買い物メモを片手に、カートの上のカゴはどの人のも満杯だ。
ウチはいつもどおりで・・と思っているのに。デパートだって、スーパーだって定休日は一年に一回。もはや元旦の一日だけなのに。ついつい明日の分、あさっての分、とカゴにほおりこんでいるおろかもの(←わたし)
▲このあいだ図書館で本棚をぐるぐる回っていたら ヴィンセント・ギャロ・絵、と書いた本 『茶色の朝』(フランク・パヴロフ著/藤本一勇 訳/大月書店刊)に出会った。棚から声をかけられるような、本との出会いは わくわくする。
えっ?あのギャロ?と、手に取る。色とりどりの花、えんぴつで落書きしたような絵がいい感じ。
▲お話は、陽の光がふりそそぐビストロで、主人公の「俺」が友人からペットのラブラドール犬を安楽死させたことを聞く場面から始まる。ちょっと前に「俺」が白に黒のぶちの猫を処分したのと同様に。それは政府が茶色の犬や猫しかペットにしてはいけない、という法律を作ったからだ。「俺」は胸を痛めつつも『人間ってやつは「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」ものだ』と流してしまう。
▲ところが、そのうちこの法律を批判していた新聞が廃刊に追い込まれる。次は図書館の本だ。その新聞社系列の出版社がつぎつぎ裁判にかけられ、そこの本は強制撤去される。
その主人公と友人は、だれに会話を聞かれているかわかったもんじゃない、と「用心のために」ふだんの会話にも、あらゆる言葉に「茶色」という修飾語をつけ加えて話すのが習慣になってしまう。そのうち、「茶色にそまること」に違和感を感じなくなっていく。
▲ある日、二人はお互いにペットの「安楽死」の後、茶色の猫と犬を飼い始めたことを知って、笑い転げる。
『街の流れに逆らわないでいさえすれば 安心が得られて、面倒にまきこまれることもなく、安心が得られて、面倒にまきこまれることもなく、生活も簡単になるかのようだった。茶色に守られた安心、それも悪くない』と。
▲この本(原書)は極右の進出に危機感を持った著者が広く若者に読んでもらいたいと印税を放棄し1ユーロで’98年に出版されたそうで。日本語訳の方は原文にギャロの絵と後半に高橋哲哉氏のメッセージ(『やり過ごさないこと、考えつづけること』)が加わる。高橋氏によれば、ヨーロッパで「茶色」はナチズム、あるいはファシズムの象徴だとか。
▲本を読むのは数分だったけれど、読んだあともずっとこのことを考えている。
本は薄いけど重く、明るい装丁ながらこわい話だったが、年の瀬にふさわしい読書だった。そうだ。やっぱりだいじなことは「考え続ける」こと。そして おかしいことには「おかしい」と言う勇気なのだと。
▲さて、今年もあと一日でお仕舞いです。
いつも読んでくださってありがとう。いっぱいありがとう。
前にも書いた気がするけど、すきな句ひとつ。
『うつくしや年暮れきりし夜の空』一茶
どうぞよいお年をおむかえください。