「はるか とおくで まほうの じかん」
2009年 07月 18日
▲シーズン初めてのものは、たいてい作り方やちょうどいい量を忘れたり、専用の器をしまいこんでたりで、もたもたして。案の定つゆを作るのに分量を忘れてしまって古い料理帖を繰った。わたしにだけ判読できるシミだらけのノート。でも、走り書きのメモながら「醤油半カップ」というのさえわかったら、あとはするすると味醂やだしの分量が出てくる。(すぐに忘れる図書館のカード番号も最初の三桁を言ってもらったら、九桁ぜんぶ口について出てくるのと同じ。あ、けど、そのうち全部思い出せなくなるんやろけど・・苦笑)
▲ところが、大汗かいて素麺茹でて、早めに作って冷蔵庫に入れたつゆも、器までもよく冷えた頃になると、なんと窓からひんやりすずしい風!
たいてい初素麺の時には上がる「やっぱり夏はコレやなあ」という歓声もなくがっかり。内心「これやったら『にゅうめん』のほうがよかったかも」と思ったりしながら、ふと窓を見たら 全開だったそれもいつのまにか半分ほど閉めてあって。やっぱり、素麺は昼間カァーっと汗かきながら「おお、つめた」とツルツルやるのがおいしいんよね。手間と汗の結晶はかくして大量に余ることになった。
▲ちょっとふやけた素麺は翌日のお昼に「にゅうめん」となって、大汗かきながら完食したけど。こんなふうに暑いし「喉通らへん」とかアレは食べとうない、とか贅沢な事 言うてられん状況にいつかなるかもしれんよなあ・・・そんなことを思いながら、家よりは涼しい図書館に出かけた。
▲一家はよその夫婦と小さな部屋で暮らす。食料はとぼしく、土でかためた床の上で眠る毎日、当然おもちゃも本もない。ある日お父さんが市場にパンを買いに出かけた。日が暮れる頃ようやく戻ってきたお父さんは、パンではなく長い巻紙を抱えて帰ってきたのだ。ほこらしげに「ちずをかったぞ」とお父さん言う。持っているお金で買えるパンはとうてい空腹を「だませる」量ですらなかったから。お母さんはつらそうに「ゆうごはんはぬきね。ちずはたべられないもの」と言う。ぼくは怒る。ひどいお父さんだ、ゆるせない、と。
▲次の日、お父さんは壁一面に買ってきた地図を貼る。そしたら暗かった部屋に色があふれて。ぼくは、うっとり何時間も地図を眺め、しらない国や町のなまえを口にし、運良く紙があるときは、地図を描き写したり。何もない狭い部屋でひもじさも忘れて「はるか とおくで まほうの じかん」をすごすのだった。
▲最初わたしは、そんなにも大きな地図を買えるくらいのお金でどうしてパンが買えないのか、とおもったのだけど。
相方とこの本のことから、ものの値段の話になって、かれに「荷車いっぱいのお金でパン一個、なんていう時代がぼくらが生きてる間にも来るかもしれん」と言われてはっとする。
ものの値段というのは、いつも「今」と同じではないのだ。
ああ、わたしだったらどうしただろうと考える。パンをたのしみに待ってる子どもに、例えそれがひとかけらでも買ってかえる。いや、そんな一瞬にしてなくなるようなものを買ってもよけいひもじいかもしれない、と思ったり。
パンより地図を買った父親とて、おそらく市場の中を何度も行きつ戻りつ考えたにちがいない。だからこそ、その決断と思いの深さを心底すごいなあと思う。
『How I learned Geography』この絵本の原題だ。