ごはんは130gのちっちゃいの。
2009年 10月 07日
▲昨日は相方のおかあさんを訪ねた。頼まれたお漬け物に白天、レトルトのごはんは130gのちっちゃいの。それから甘いもん少々と・・・。大急ぎでデパートの地下で買ってバスに乗り込む。ちょっと前まではわたしが行く日は いつも上階の窓からバスが着くのを見て、降りるのを見届けて、部屋に戻っていたらしい義母も、この頃は部屋の中でじっと待ってはる。立っていると足が痛むらしい。
▲部屋に入って、テーブルいっぱい買って来たもの並べて、これは○○、あれは○○・・・と「食品説明会」は、そのまま「ほな、これ、食べてみよか」と「試食会」へと移行する。
ノンストップで2時間ほどしゃべってると、義母は置き時計をちらちらと見始める。「そろそろ支度して帰らんと・・・」と促すのは義母もジッカの母でもおなじ。せっかく来てるのに「ほらほら、早う帰り。早う家に帰ってご飯ごしらえ せんといかんやろ」「××さんも、○○ちゃんもあんた待ってるやろ」と帰りを急かす。そのくせ「ほな、また」と言うとちょっとさびしそうに笑うのもおなじ。
▲帰りのバスの中、同じホームの方たちのおしゃべりが耳にはいる。「いつまでも暑いなあ、と思ってましたのに、なんだか急に冷え込んでまいりましたねえ」「ほんま、ほんま。夏モンに夏モン重ねて着てたけど、もうそれでは肌寒うおますなあ」東言葉に大阪弁、いろんなことばが混じり合う。たいていは何ということのないお天気の話なんだけど、その方の個性や、ちょっと大袈裟かもしれないけど 人生の片りんのようなものが言葉の端々にうかがえるようで興味深い。
▲義母のところに通い出してもう6年になるから最近は顔見知りの方もふえてきて。ひとことふたこと言葉を交わすだけの日もあるし、バスに乗り合わせたひとがわたしたちの他にだれもいない時に、そっと昔話を聞かせてくださったりするのもうれしい。話のあとにはいつも「あなたは若いんだから、どうかそのまま自由にお歩きなさいよ」「毎日をだいじに。そして、すきなことをだいじにね」とはげましてもらう。「若い」と言われて思わず首をすくめながらも、思うにままならない時代を越え 生きてきた大先輩の女性たちのことばをたいせつに受けとめたいと思う。
▲そういえば、こういうとき・・・つまりそんなに長くはない時間だけど、バスや電車で移動するときにバッグに入れてくる本(たいていは再読)の一冊に湯本香樹実さんの文庫版『ポプラの秋』がある。そのあとがきに著者がおばあちゃんを語るところを思い出して、膝の上で開いてみた。
ある日祖母が著者に言う。「あのね、あたしなんか後で考えて、『ああ、あの時は、あんなに若かったのに』って思ったことが山ほどある。一日一日をだーいじに、好きなように、生きなさいよ」(p216)
あらあら、わたしが先輩から言うてもらってる言葉とおんなじではないか。
▲「曾祖母の決めた相手と素直に結婚し、四人の子供たちを育て上げた祖母だったが、やはり祖母には祖母の『生きられなかった自分』への思いがあったのかもしれない。茫漠とひろがるばかりで、いつの間にか食い潰されてしまう時間がおそろしくてたまらないのは、ほんとうにしたいことから逃げているからなのだ、と私はもう自分に対して認めざるを得なくなってしまった」(p216~217)
▲おばあちゃんの言葉を確認したくて開いた本の、この一節の前でわたしは息をのむ。いまの自分のどこにも着地しようのない「茫漠」とした思いを言い当てられた気がして。長いこと足踏みばかりしてたけど、何か目の前がちょっと開け あかるくなったようで、胸がどきどきした。
「○○でーす」運転手さんの声に はっとしてバス停に着いたことに気付く。あわてて本を閉じ「ありがとうございました」と挨拶してバスを降りたものの、自分でもびっくりするほど大きな声だったので、あとで一人赤面するのだった。