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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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いつか、ふかくあまくなって。

▲ 今日は朝から雨ふりで、歩いていると 強くてつめたい風に何度も傘を持って行かれそうになった。買い物を大急ぎですませ義母のホームの送迎バスに乗り込んだ。うしろの席に座らはった入居者の方に運転手さんが「こっち、こっち」と手招き。「昨日から紅葉のきれいなコース走りますねん。前のほうがよう見えるし」とのこと。ビルとビルの間を抜け、住宅地や大きな公園を抜けるとその道に出た。いつのまにか雨もやんで、薄曇りの中 燃えるような紅が 道を挟んで両側につらなり、うきあがり、車中は一瞬しずまり、そのあと誰からともなく「はああ」と吐息がもれた。

▲ このバスの車窓から見る紅葉も七回目になる。
はじめの年は信州ですでにそのうつくしさをたっぷり味わったあとだったので、なんだか時計が逆回りしたような気がした。だけど遠くにいってしまった人はもう戻ることはなくて。不思議なきもちで窓にぴったりと額をくっつけて鮮やかな色の束に見入ったことを思い出していた。

▲ 若い頃 出会いたいものは「自然」より「人」だったので、旅に出ても名所旧跡と呼ばれる所はもちろんのこと、あそこがいい、ここがいいと聞いても素通りして、やきもの屋の一見「へんこ」な親父さんにおずおずと話しかけたり、駅裏のジャズ喫茶に飛び込んで持って行った本を読んで、一杯の珈琲でさんざん長居のあと、閉店の時間まで店主や常連と飲んで話し込んだりするのが断然おもしろかった。親には内緒ごとの多い年頃だったので(苦笑)「閉店まで飲んだ」などということは言わなかったけど「そんなんやったら、わざわざ遠いとこまで行かんでも大阪や京都でよかったんとちゃうか」とあきれられた。

▲ 何年か前 初めて小説を書いてみたら、読んでくれた友人に「自然描写が少ないなあ」と指摘されたのも「見てこなかった」せいかもしれないな、と思った。山や川に囲まれたところで生まれ育ったのに。
けど、どこかで「あたりまえ」のように思ってたものが、決してそうではないことを知って「見え始めた」気がするのは再び街で住み始めたからか。

▲そして、たしかに昔はよく見てなかったけど、山も川も わたしのからだの奥深いところに知らない間に入り、棲んでいてくれた のかもしれないな、と最近になって気がついた。
この話を母にすると「それは、あんたも年とってきた、ってことやろ」と言うので「そんな年になった子が末っ子ってことは、お母さんもえらいおばあさんになったって事やなあ」と笑い合った。

▲そういえば、この間 児童文学作家・神沢利子さんの 『おばあさんになるなんて』 (晶文社刊)という本を読んだ。これは75歳になる(出版当時)著者のこれまでの人生をまとめたものなんだけど、そのまえがきにこんな一節があった。
『年輪の輪のまん中に木の幼い時間があるように、わたしの中にも子どもがいて、年輪の歳月をついとぬけて、往き来しているのかもしれません』(p13「歳月の鏡—まえがきにかえて」より)

▲ 自分の中の「子どもが往き来する」という表現に、うまいなあ、ほんまやなあと納得する。そして「あとがき」のこの最後の一行は最高だ。
『わたし、今七五歳。皺よった吊し柿が、いい風に吹かれている気分でおります。』
わからなかったことがわかるようになり、わかったつもりでいたことのわからなさにうずくまる今のわたしだけど。いつか。皺よった柿はふかくあまくなって。そのときには 神沢さんのようにつぶやいて、しずかに笑ってみたい。



* 追記
晶文社HPの「詩とエッセイの本」今回紹介した神沢さんの本の他にも読みたくなる本が載っています。
by bacuminnote | 2009-11-14 14:39 | 本をよむ