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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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ふつうのごはん。

▲ 夏の朝は、なんだかくたびれ果てて起きる気がする。これから一日が始まる、というのにね。夜中 暑さとトイレで(←一日じゅう水分のとりすぎ)何度も目が覚めては、うとうと。そのうち外は明るくなって、しーんとした中、小鳥の鳴き声がひびき始める。窓を開けると少し冷ための風がすいーっと流れて~ああ、ええきもち。なんかこの感じ 開田高原(信州)の朝みたいやなあ、と思いながら熟睡するも束の間のこと。
じきに蝉が鳴き始め、どんどんボリュームアップ。そのさわがしさと、やっぱりの暑さ(そりゃ、開田みたいなわけにはイカンよね)にがまんできず起きる、というパターン。ああ、ねむた。

▲ そんなわけで、朝から昼までぼぉーっとしてどうも調子がでない。外が暗くなり始めて、地の熱が下がる頃になってようやくわたしの頭も冷え始め、動き始めるのだった。
それでも、昨日は息子2が近くに用事で来てごはん食べていくというので、夕方からちょっとはりきる。五ヶ月ぶりの親子でごはん。一人より二人、二人より三人、三人より大勢。にぎやかな食事はたのしい。

▲ 「何食べたい?お肉か?」と聞くと「ふつうのごはん」という返事。
カマスの塩焼き、かぼちゃのそぼろ煮、小松菜のお浸し、昨夜作って漬け込んだ煮豚。ふだん足りてないのか菜っ葉を山盛り食べ、梅干しと熱い番茶で〆「腹いっぱいになった」と、また「帰って」行った。
ふつうのごはん。ふつうの暮らし。
当たり前と思ってたものがそうでなくなったとき「ふつう」はとくべつなものになる。

▲この間『八月の光』という本を読んだ。著者の朽木祥さんの本のことは以前から何度も目にしながらも、なぜか「またこんど」と思ってたのに、この本は内容もよく知らなかったが「読みたい」とおもった。
本でも音楽でも映画でもいろんな出会い方がある。「やっぱり」よかったという時や、「思いもかけず」すばらしいものに出会えるときも。このタイミングはほんとうに不思議。自分にその支度ができてないときは、目の前を通っても、何度通っても、ぜんぜん気付かないこともあるもんね。

▲ 『八月の光』の表紙の背景は白。背に羽根の天使はうつくしくわかい女性の彫刻像(伊津野雄二氏)だ。その表情はやわらかだけど、力強いものをも感じて引き込まれる。
タイトル「八月の光」の横にはちいさく”Flash in August”と。lightではなくflashだ。ここで初めてわたしは「もしかしたら原爆の話?」と気づく。
目次のあとの頁に一行これもちいさな字でこう書いてあった。
「生き残った人びとのために」

▲ 正直なところ、この一行で ちょっと打ちのめされたような感じがあって「最後まで読めるかなあ」と思ったりしたんだけど。八月のあの朝 ヒロシマで(本文では片仮名表記)生き残った三人の十代の子の三つの物語~「雛の顔」「石の記憶」「水の緘黙(かんもく)」が綴られる。
「一発の爆弾のすさまじい暴力」が描かれているのに、語り口はとてもしずか。

▲ だから、ことばが自分の思いを越えた深いところまで沁む。沁みておろおろする。
あとがきを入れても145頁の薄い本ですぐに読み終えたのに。それでお終いというのではなく。机の上に置いたその本を何度も開いた。開いたところから又読み始めては閉じることをくりかえす、そういう本だった。

▲ ふたつめのお話「石の記憶」は、亡き父の思い出から始まる。
因島出身で泳ぎが得意だったお父さんは「小柄でおとなしい人だったのに、水に入るとまるで人が変わったようにはしゃいだ」。わたしは海のないとこ生まれだけど、川育ちやからね、水を纏った(まとった)ときの、なんともいえないきもちよさや開放感がわかるから「水に入ったら河童みたいになっとった」というお父さんが、目の前に浮かんでくるようだ。

▲ お父さんは町工場のたまの休みにお母さんのテルノと光子をつれて海に泳ぎに行く。ひとしきり遊んだあと、お父さんは二人を浜辺に置き、自分だけ遠くの沖まで泳いでいくんよね。そんなとき、ふっと光子はお父さんがもう帰ってこないのでは、と不安になり母の日傘からでて「伸びあがっては海をみつめる」。と、思いもよらない方角から父は水から飛び出し光子がびっくりするのを声をあげて笑う。

▲ そのお父さんの乗った船は南方に向かう途中撃沈され、お父さんは死んでしまう。送られてきた白木の箱は軽くて、石ころがころがるような音がした。
光子と母テルノと二人きりの生活。夜、仕立て物で生計をたてるお母さんが縫い物をし、そのそばで光子は仕立直しの着物の糸をほどきながら、お父さんの話をする。「お父ちゃんは、ひょおっとしたら泳いで逃げとらんかねえ、船から。わしはいつでも、どこまででも泳げるって、いっつも、言いよったよ」と。
母子が疎開しなかったのは、頼る身寄りがなかったからだけど、どこか、いつか、もしかしたらお父さんがが戻ってくるのではないか、と二人とも思っていたから。

▲ ところが、これまで空襲がほとんどなかったこの市の上空にもぽつぽつ飛行機が飛来するようになる。七月の終わりになると、近くこの市にも恐ろしい攻撃が仕掛けられるのでは、と噂を耳にするようになった。近所の男の子が拾ったというビラには背中に火のついた人の絵に、下手な字で「にげなさい、にげなさい」と書かれていた。
お母さんがいよいよ疎開の決心をするのはこのビラさわぎのあった夜。
山をこえた先の村にいる友だちを頼って行くことを光子に告げる。お父ちゃんが帰って来たらどうするん?と心配する娘にお母さんは、ちゃんと近所の人に連絡先渡しておくから、それに「わたしらの命が切れたら、お父ちゃんが迎えられんじゃろ」と説得する。

▲ その日。前夜、空襲警報がたびたび鳴って朝寝してる光子を起こして、お母さんは翌日の疎開に備え街の銀行に出かけてゆく。「涼しいうちに行って帰ってくるね。きょうも暑うなりそうじゃけえ」と。
そして、角を曲がって振り返り、光子に手を振ったのが、最後になる。
銀行の前の階段で、開店を待っていたテルノはそこで被曝する。帰ってこない母をさがして光子は焼け野原を走り抜け、近所のおばあさんが石段に腰掛けてたテルノを見たという銀行の前まで行く。

石段は、まるで洗われたみたいに白かった。正面の、ひさしがかぶっていたらしいところだけが、わずかに黒い。さえぎるものがあったところだけ、もとのまま黒く残ったのだ。そう思いあたった次の刹那、光子の目をとらえたものがあった。光子は石段を駆けあがっった。
—黒い、小さな影。やせて小柄な、母のかたちの影だった。母の影が、石段に腰掛けている。
』(p78~79)

▲ヒロシマ生まれで被曝二世の著者はあとがきに書く。
二十万の死があれば二十万の物語があり、残された人びとにはそれ以上の物語がある。この本に書いたのは、そのうちのたった三つの物語にすぎない。
だが、物語の中の少年少女たちは過去の亡霊ではない。未来のあなたでもあり、私でもある。だからこそ、私たちにできることは、”記憶“すること―あの人びとが確かにこの世にいて笑ったり泣いたりしていたこと、無惨にその生を奪われたこと、残された人びとが理不尽な罪責感に苦しみながらそれでも生きて、やがて信じられないような力で前を向いていこうとしたこと―そんなことをみな、決して忘れないでいて語り継いでいくことなのだと私は信じている。


▲ ヒロシマもナガサキのことも、知っていると~知っているつもりでいたけど。読んでよかった。知ることから逃げだしそうになっていた自分を恥じる。実在のモデルがあるという物語に登場する人たちのこと、「一発の爆弾のすさまじい暴力」を改めて思う。
そしてそれはそのまま福島第一原発事故への思いにも繋がってゆく。原発反対。こどもを守れ。命を守れ。



*追記

過去のものですが伊津野雄二氏の個展案内がすばらしかったのでリンクします。
ギャラリー島田2010年11月伊津野雄二展 -Angels we have heard on high-


読んでる間じゅうグレゴリオ聖歌が耳の奥で小さく低く流れてるようだった。Gregorian Chant:Advocatam Llibre Vermell de Montserrat~youtube


朽木祥さんの本、さかのぼって『かはたれ―散在ガ池の河童猫』 福音館書店 (2005/10)から読み始めています。
by bacuminnote | 2012-07-30 17:04 | 本をよむ