「おてしょ」
2011年 01月 15日
▲ きょうは暮れに亡くならはった高峰秀子さんの 『コットンが好き』(文春文庫)を読みながら。お茶碗や水差し。時計、風呂敷に文鎮、はんこ・・・と身の回りの小物についてのエッセイと写真の、どこからでも開ける、まさに台所読書にふさわしい楽しい本。最初に目を引いたのが藍の染付の小皿が十枚以上並んだ写真で、タイトルは「手塩皿」。
▲ はずかしながらこの年になるまで「手塩皿」というのが「おてしょ」のことだとは知らなかった。思わず「せやったんか~」と本読みながら一人声をあげた。子どもの頃から「おてしょ」と言う言葉があまりにも馴染み、染みこんでいたからか。語源を探るのがすきなわたしも疑問に思うこともなかった気がする。この本によると『昔、不浄を払うために、小皿に塩をひとつまみ盛ってめいめいのお膳に添えた「手塩皿」が、いつの間にか「お手塩に変化した名残だろう」(p28)とのことだ。
▲ わたしの生家は料理旅館だったので、それこそ「おてしょ」はいろんな種類がいっぱい棚に積んであった。まだ瞬間湯沸かし器もなく、給湯器もなく、まして食洗機なんてものもなかった頃。日曜日、泊まりのお客さんが「おたち」の後、洗い場のおばちゃんが大きなタライにおくどさん(へついさん)で沸いたお湯を入れ水でええ加減にすると、手際よくよごれた食器を洗い竹籠にふせてゆく。それを母や手の空いた仲居さんが手ぬぐいで次々拭いて別の竹籠に入れて。そばで小さなわたしは「おてしょ」がたまるのを待っては五枚、十枚と食器棚に置くんよね。一丁前にお手伝いした気分で調子にのって いっぺんに何枚も積み重ねると「ほらほら、割らんように気ぃつけなはれや」とたちまち母の声がとんできた。
▲ 田舎の旅館のことで、特別な器なんてなかった気がするけど、年に二回佐賀から有田焼の窯元の「エイギョーのおっちゃん」が来て、少しずつ新しいものが増える。革の茶色がこすれたように剥げた大きなトランク持っておっちゃんが来はると、座敷に赤い毛せん敷いて見本をいっぱい並べて。
いつも忙しくしてじっと座ってることのない母と、いつもどこからか来てどこかへと姿を消す(苦笑)父もその日は肩を寄せ合って器の品定めしてた。板場さんもぼんさんも仲居さんも洗い場のおばちゃんも皆集まって「よろしなあ」「これ、どないでっしゃろ」となごやかに言い合ってるようすが、子ども心にうれしかった。
▲ 当時ジッカ周辺には何軒も旅館があって、そこにも「エイギョーのおっちゃん」は回ってはったから、同業の友だちの家に遊びに行くとウチとおんなじお湯のみやお皿が出てきて、ふしぎな感じがしたものだ。今でも地方の食堂なんかに入ってよく似たお湯のみが出てくると、里帰りしたような懐かしいきもちになって、すっかり忘れてたお茶碗やおてしょの柄まで浮かんでくるのだった。
▲そういえば、その昔。
ケッコンの引出物に相方と選んだ藍染付のお皿はみな「仕舞い込まず」よく使ってくれてはるようで。友だちの家に行けば「ほら、あの時の」と、このお皿にケーキが出て、親戚の食器棚にもこのお皿。そのつどなんかどきどきし、三番目の姉の家では「おでんのお皿」と名前がついてるねんと聞き、ああ、うれしと頬がゆるむ。だけど、ウチの分は七度の引越しやそそっかしいわたしゆえ、五枚あったお皿も一枚割り、二枚割れて、とうとう全部なくなってしまった。
▲ そうして四年前、母が一番上の姉夫婦と暮らすことになって 引越しの日。「これ、あの子のとこにもあるから、わたしのんはあんたにあげるわ」と件のお皿を食器棚から出してくれたんよね。一枚はヒビが入ってたから四枚、何重にも新聞に包んでもらって持って帰って来た。
いつかはまた割れてしまうんやろけど。今年で32年目。だいじにします。