人気ブログランキング | 話題のタグを見る

いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

「とりわけ嫌ひは」

▲ とっくに気ぃついてはるかもしれんけど。
わたしは「おしゃべり」だ。(ちょっと上品ぶって「お」をつけてみたけど、なんか変。やっぱり大阪的感覚では「しゃべり」やな?)一方相方は寡黙に見えるようだけど、何かテーマがあると、わたし以上に饒舌。そんなフウフやから、朝 目がさめるや布団の中で どちらからともなく「そう言うたらなあ」と、昨夜から考えてたことを話し始めて、とまらなくなったりする。

▲だいたい彼は疑り深く(苦笑)わたしが感動したものをしょっちゅう「そら、そんな単純なもんちゃうで」と否定しにかかるのでムカッときて。しかし即座にきちんと反論できない口惜しさもあり「なんやのん。ひとの言うことに、いちいち反対ばっかりして」と、捨て台詞を残しバタバタと起きて部屋を出ることになるんだけど。

▲ 後で、冷静になって考えたら「そうかもしれない」と、自分の浅はかさに気づくこともあるし、なんぼ考えてもやっぱりむこうが間違ってる!と再度話し合いを挑むこと(←大げさ・・・)もある。
「そう言うたら」むかし ♪信じたいために疑いつづける~という歌があったなあ。当時は歌詞がまっすぐすぎて恥し~とか思ってたのに。何故かよく覚えていて、だれもいないのをええことに図書館への道々口ずさむ。
♪いつの間にか私が 私でないような ~(と、歌い始めてやっと「自由への長い旅」だと気づく・・)

▲ さて、図書館に着きカウンターで本を返し、予約本を受け取ったあとは「今日返却された本」という棚を見るのがお決まりのコースなんだけど、ときどきこの棚で本から呼ばれたような気がして手がのびることがあるんよね。
自分から選んで立つ書架じゃないし、まだ整理される前のいろんなジャンルの本がバラバラに並んでる棚で。だからこそ、ときどき思いもかけない出会いがあって愉しい。

▲ その日は早川義夫さんの『たましいの場所』(2002年晶文社刊)という本に呼ばれた(気がした)。この本は最近文庫化されて最終章を追加、かの七尾旅人さんが解説を書いてはる~とどこかで見て「文庫版も読んでみたいな」と思っていたところだったので、ちょっとびっくりした。
立ったままぱらぱら。前にも読んでるはずなのに忘れてしまって、一番はじめ「歌を作る」に金子光晴の『反対』という詩があって、どきんとして立ちすくむ。

▲もちろんこの本は借りたのだけど、引いてあった詩の一節《なにしに生まれてきたと問はるれば、躊躇なく答へよう。反対しにと。》をぐるぐる考えながら家に帰った。買い物袋もほっぽって、あったはずの詩集を探したけどなくて(こんなんばっかし)ネットで調べてみる。
(ちょっと長くなるけど全部書き写してみます)

 「反対」     金子光晴
僕は少年の頃
学校に反対だった。

僕は、いままた
 働くことに反対だ。

僕は第一、健康とか
 正義とかがきらひなのだ。

健康で正しいほど
 人間を無情にするものはない。
 
むろん、やまと魂は反対だ。
義理人情もへどが出る。

いつの政府にも反対であり、
 文壇画壇にも尻をむけてゐる。
 
なにしに生まれてきたと問はるれば、
 躊躇なく答へよう。反対しにと。

僕は、東にゐる時は、
 西にゆきたいと思ひ、

きものは左前、靴は右左、
 袴はうしろ前、馬は尻をむいて乗る。

人のいやがるものこそ、僕の好物。
 とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。

僕は信じる。反対こそ、人生で
 唯一つの立派なことだと。

反対こそ、生きてゐることだ。
 反対こそ、自分をつかむことだ。

 (『金子光晴詩集 岩波文庫』

▲ 金子光晴のこの詩を茨木のり子は
《あまのじゃくの精神が旺盛で、二十二歳の処女作のなかに、すでに後年の金子光晴の反骨を思わせるものがはっきりとあります。すぐれた芸術家は、若いころの処女作のなかに、一生かかって成しとげる仕事の核を、密度高く内包しているものだと言われますが、この詩はそのことを痛感させてくれます》(さ・え・ら伝記ライブラリー『うたの心に生きた人々』茨木のり子著 1967年刊 より抜粋)
と、言うてはるけど、ほんまに。
今「反骨」とかいうと「なに?それ?」とか言われそうな空気漂う中、ミーハーな金子ファンながら あらためて、かっこいい、と思う。

▲ ・・と、今回のブログはそれでおしまいにするはずだったんだけど。
昨日twitterで教えてもらった詩人アーサー・ビナードさんの講演の動画を観て、ビナードさんにもこの「反骨」精神を感じた。
2012年 東海村であったという講演会の演目は「這っても黒豆の原子力」。
「這っても黒豆」とは諺だそうで、なんか黒いものが這い出しても、虫であると認めず、黒豆であると言い張ること。間違っていても、現実を直視せず自説を曲げないことのたとえ~らしい。

▲ 知らんかった。で、「這っても黒豆」な御仁がエネルギー関係に多いとおっしゃる。
ビナードさんの日本語について書かはったエッセイは好きでよく読んでるけど、いつも「目のつけどころがビナードさん」。おもしろくて、そして鋭い。

▲この講演も「ジャックと豆の木」の話から大豆の話に、そして「這っては黒豆」から原子力の歴史、核開発の話に。順を追って丁寧に何故こんなことになったのか、という事をユーモアたっぷりに、しかし決して冗談や笑いでごまかしたりせず、とことん、きびしく問題の核心に切り込んでいく。さすが。
《原子力の歴史の中で原子力発電はひとつのカモフラージュ。本質から離れてる》と。
ぜひ。


*追記

その1)
『うたの心に生きた人々』(さ・え・ら伝記ライブラリー)は十代の子ども向けに書かれた本のようで。残念ながら絶版ですが、かわりに今はちくま文庫から出ています。
金子光晴のほか、山之口貘、与謝野晶子、高村光太郎、と四人の詩人を紹介しているのですが。

そこは書き手が茨木のり子さん
《全くタイプのちがう、それぞれの生きかたをした詩人を選んだのに、たくさんの共通点があることに、書きながら気がつきました。》
《いずれおとらぬ貧乏の経験者であること。
みんな、なんらかの世俗にたいする、もうれつな反逆者であったこと。 世わたりがへたで、さんざんへまをやらかしていること。 考えてみると、世の親たちが「わが子にだけはこんな一生は送ってもらいたくない」とおそれているような人生を歩いた人ばかりです(中略)》

《これらの詩人たちによって、人間そのものの純粋さが守られ、人間そのものの真実がきらりと光ってるところを、みなさんくらいの年になれば、知る権利があろうと思ったからです》

と、この詩人たちへの深い思いを感じる紹介です。
そして《あなたが詩を読むのが好きで、詩を書きたいと志しているのであったら、なおのこと、弾力のある心で読んでください》とメッセージを寄せてはります。
「弾力のある心」いいなあ。

その2)
講演の中 米国で1954年(日本の原発の予算が通った年)に売り出されたという Atomic Fireball アトミックファイヤーボール (原爆の火の玉)って名前の飴玉のこともはじめて知りました。
聴いてる時間がない、とおっしゃる方に この講演内容を箇条書きしてらっしゃる方のブログをみつけました。→「とある原発の溶融貫通(メルトスルー)」

前にもここで紹介したことある(たぶん)アーサー・ビナードさんのweb『日本語ハラゴナシ』「風下っ子」
も考えさせられます。
『日本語ハラゴナシ』バックナンバー
by bacuminnote | 2013-02-06 16:15 | 本をよむ