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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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「そらのみぢんに」

▲ 窓の外、いまにも降り出しそうな薄灰色の空に梅の紅がきれいな朝。
珈琲を飲みながら、相方とウチの梅は白いのと紅いの いつもどっちが先に花咲き始めるか、でモメる。(あほらしくてすみません)お互い自説を曲げないので話がおさまらず「それでは」と、このブログの過去記事を検索してみた。(←便利)

▲あった!2011.2.19の冒頭に「庭の梅も白いのは ほぼ満開で、紅いのは蕾が細い枝いっぱいについて、空の水色をバックにほんまにかいらしい。」と書いてある。
ん?つまり白いのが先(陽当たりがこっちの場所の方がいいらしい)ってことで、相方の説が正解とわかった。「いつも咲き始めたら、すぐに一輪挿しに生けてるからよう覚えてます!」なんてエラソーに言うてたひとは、ちょっとだけ声が小さくなる。

▲ ひょんなことから読み返した自分のブログだったけれど、そこには息子2の入試がぶじ終わったこと、義母のホームをたずねたこと、春を待ちながら日々のあれこれをよろこんだり、ふうとちっちゃなため息をついたり。なんてことのない日常が在って。

▲まさかあの大きな地震と原発事故が一ヶ月もたたない内に起きるなんて、思いもしていなかったし。あたりまえのように思っていたのどかな空気が、遠い日のことのようで、胸がつまるようだった。自然は人間の力の及ばないものだけど、原発はその人間が作ったものやから。再稼働なんて、輸出なんて。とんでもない。

▲ この間『死を想う われらも終には仏なり』(平凡社新書)という石牟礼道子:伊藤比呂美の対談集を読んだ。
2007年刊で、まだ伊藤比呂美さんには入院中で寝たきりのお母さん、自宅でひとり暮らしとなったお父さんがいてはって、カリフォルニア~熊本を行き来していた頃の対談だ。あとがきで伊藤さんはこんなふうに語る。

【親を見ていると、ふたりとも、格別死ぬということを考えているようには見えず、いつか死ぬだろうが、まあ今ではないというふうで、生きているのもつまらないが、死にたいわけではなく、死ぬに死ねず、死に方もわからない。】

【宙にぽっかり浮いているみたいに、日々をほそぼそ生きながらえて、どうもやはり、お迎えを待っているとしか思えないような生き方をしている。】

【自分のときは、ぜひもっと前向きに、死に取り組みたい。楽しく(というわけにはいかないだろうが)いそいそと死ねたらいい。それには、死というものについてもっと知らないといけない。死とはどういうものか。】

それで
【半生をかけて、死者を、病者を、書いてこられた石牟礼さんなら、ご自身の死えを見据えて、あけすけに語ってくださるのではないか】と対談の話をもちかけたらしい。

▲本書のさいしょの頁に対談中のお二人の写真があるんだけど、石牟礼さんのご病気(パーキンソン症候群)もあってか、声が届きやすいようにか、卓を挟んで向かい合うのでなく、すぐ真横に母娘みたいに 並んではるのがええなあと思った。
そしてつぎの頁~石牟礼さんはまえがきで「比呂美ちゃん」のことを

【彼女は家族たちを小脇にひっ抱え、デリケートな陽気さで、変容ただならぬ俗世に詩的なぐりこみをかけ、陣中突破をして来たかに見える】(p9)とあって。その「デリケートな陽気さ」という表現にじんとくる。

▲ 対談は老いと介護。病や家族、親しいひとの死、自死を考えたときのこと、戦時中のこと、『正信偈』(しょうしんげ)から『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)の歌の話へと繋がってゆく。
『梁塵秘抄』はかの「遊びをせんとや生まれけむ・・」がよく知られている平安末期の歌謡集。若いころそのリズムがすきでよく読んだけど、また読みたくなって物置から出してきた。

▲お経の「正信偈」の「偈(げ)」というのは歌(詩)だと石牟礼さん。むかし滋賀県で暮らしたころ、ご近所のお通夜の席にはいつも百軒近い字(あざ)の人等が集まって正信偈を読経したんだけど、そのとき長い詩をみんなで合唱してるような感じがしてたことを思い出した。

▲お経といえば、対談中 伊藤さんが『あやとりの記』(石牟礼道子著 福音館)を持参して、ここにおさめられているという石牟礼さんが創作したお経のような詩の話になるんよね。

【十方無量 じっぽうむーりょ
百千万億 ひゃくせんまんのく
世々塁刧 せーせーるいごう
深甚微妙 じんじんみーみょう
無明闇中 むーみょうあんちゅう

 流々草花 るーるーそーげ
 遠離一輪 おんりーいちりん
 莫明無明 ばくめいむーみょう
 未生億海 みーしょうおくかーいー】
 (『死を想う』p205第四章 いつかは浄土へ参るべき~より)

▲おもわず、くりかえし音読してしまう。「流々草花 」がきれいで哀し。
対談の最後のほうで伊藤さんに請われ 正信偈のようにこの詩を石牟礼さんが詠むところがあって。氏のやわらかな熊本弁まじりの声が聞こえてくるようで、しんとしたきもちになった。

▲二人とも「表現」においては激しく熱いものを持ってはるけど、やりとりは終始穏やかで。かと言うて交わされる話は、ときにどきんとするほど冷徹で深いんよね。お互いを思うしずかなやさしさを感じる。

▲そうして石牟礼さんから話を聞き出す伊藤比呂美(←突然よびすて・・苦笑)の「デリケートな陽気」にしみじみ。以前、講演を聴いたとき()にも思ったけど、「へんこ」のにおいはするものの(←ほめことば)ほんま やさしい人なんやろなあ。
なんかね、お茶碗もって隣に座ってお話を聞かせてもろてる気分で、話題はずっと「死」なんだけど。ふしぎにあかるい光のなか、途中いっしょに声もあげて「 るーるーそーげ」と言うたりしながら読み終えた。


*追記

その1)↑に書けなかったけど、心に残ってる一節。(p147より抜粋)

石牟礼 【生命って草木も含めて、あなたがよくおっしゃるけど、風土に満ち満ちている生命、カニの子供のようなものから、微生物のようなものから、潮が引いていくと遠浅の海岸に立てば、もうそういう小さな者たちの声が、ミシミシミシミシ遍満している気配がするでしょう。そういう生命ですね】

伊藤 【それに対して感じる気持ちは、畏れ?】

石牟礼 【畏れというか、融和しているというか、自分もその小さな生命の中の一つで……。宮沢賢治にありますね、「このからだそらのみぢんにちらばれ」(詩「春と修羅」)というのが。それと「宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」(「農民芸術概論綱要」)というのにもありましたし。(以下略)】


その2)
この本が出てから、伊藤比呂美さんのお母さんもお父さんも亡くならはったそうで。
新刊『父の生きる』(未読です)帯のことば~

【父の悪いところばかり見えてくる。 しかしそれは父の本質ではなく本質は老いの裏に隠れているのだ。
父の本質は私を可愛がってくれて自分よりも大切に思ってくれて 私がたよりにしてきたおとうさんだ。】

その3)
60年前の今日は(これを書いてる3.1)アメリカがマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験をした日。
遠洋マグロ漁船 第五福竜丸は多量の放射性降下物(死の灰)を浴びて、無線長の久保山愛吉さんはその半年後に亡くなる。
【「久保山さんのことを わすれない」と人々は いった。
 けれど わすれるのを じっとまっている ひとたちもいる。】

絵本『ここが家だ  ベン・シャーンの第五福竜丸』より(アーサー・ビナード文/ ベン・シャーン絵/集英社2006年刊)

その4)
ピアニスト、アリス・ソマーさん(先日110歳で亡くなられたそうです)のドキュメンタリー の予告編。
インタビューにあった言葉が忘れられません。
【学んで知るということは、誰にも奪われない財産を蓄えること】
Alice Herz Sommer - The Lady In Number 6

by bacuminnote | 2014-03-02 17:10 | 音楽