大きな石。
2014年 07月 03日
そのはじまりの日、首相記者会見を煮えくり返る思いで観る。
「命」も「平和」も「幸せ」も、あの人の口に乗ると なんと軽くて、安っぽく、嘘で汚れたものになってしまうことか。質疑への応答ですらモニターやプロンプターに映ってるのを読んでるんやから、聴衆に届くはずもないし。そもそも「届ける」気など端からないのかもしれない。何をしゃべっても空疎。
そうして、長年洪水をせきとめていた大きな石は、とんでもない人らの手でいとも簡単に横に追いやられてしまった。許せん!許しません!
▲ 先月末、いつものように10日にいっぺんのこのブログ書き始めてたんだけど、いろいろ考えこんで悶々としてるうちに7月1日になり。言葉が出なくなってしまった。
考えあぐねるときほど、書いても書いても言葉のほうから「これでええんか?」「こんなんでええつもりなんか?」と問われてる気がして。その場に蹲ってしまうのはいつものことだけど。今回は唸り声しか出んかった。
これはこれで、またしても無口になってしまい・・・(苦笑)でも、でも。やっぱり伝えたいから「こんなんでええんか」と問いながら、書いてみようと思う。
▲その本とは『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史著/北海道新聞社2003年刊)〜表紙にはバナナが一本描かれている。だいすきなヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムのバナナ■(byアンディ・ウォーホール)みたいなインパクトはないものの、そのタイトルのおもしろさと白一色のバックに黄色いバナナの絵には心惹かれるものがあり、もし出版のころ本屋さんで出会ってたら迷わず手を伸ばしてたなと思う。
▲でも今回わたしがこの本を読んだのは、ひょんなきっかけから。
以前からタイトルだけは何回か目にしてたんだけど、その後読んだ『カキフライが無いなら来なかった』■(せきしろ・又吉)という自由律俳句の本と、タイトルの面白さという共通項でわたしの記憶の箱では「俳句」と勝手にジャンル分けしてしまって・・(苦笑)。
しかも、恥しながら(俳句の本はとりあえず)読んだからもうええか〜とスルーしていたのであった。
▲ ところが、先日またしても某所でこの書名を目にして、初めて副題が「筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」と知り、自分のあまりの思い違いと北海道新聞社刊というのにも惹かれて、予備知識もなく読み始めた。
▲ 現場のリアルな空気に、時々わたしは「そんな話まで聞かせてもろてええんですか」という気持ちになって落ち着かなかったり。けど、だからこそ見えてくるものもあって。介助する人、される人。障碍をもつひと、もたないひと。男と女。強いひと、弱いひと。親と子。その関係性や、人間の醜いところ、小さいところ、愛おしいいところがじんじん伝わってくる。ふっ〜と自然に頬が緩む場面もまた。
そして読者のこの戸惑いはそのまま(いや、それ以上に)書き手の渡辺さんの苦しい自問でもあり、じっさい何度も筆を置き、立ちすくんでは その苦悩や疑問も綴ってはる。
▲この本の主人公である鹿野靖明さんがどんな人かというと
《できないといえば、この人には、すべてのことができない。かゆいところをかくこともできない。自分のお尻を自分で拭くことができない。眠っていても寝返りがうてない。すべてのことに、人の手を借りなければ生きていけない。》(p5)
▲35歳のとき、呼吸筋の衰えによって自発呼吸が難しくなった鹿野さんは気管切開をして人工呼吸器を装着することになり。以来、1日24時間、誰かが付き添って、呼吸器や気管内にたまる痰(たん)を吸引しなければならない状況になる。
▲ 「自立」といえば、鹿野さんがまだひとり暮らしする前〜施設にいた頃、アメリカで世界的に知られる「自立生活センター」でカウンセラーをしていたエド・ロングさんの来日に伴って、仲間で講演会を企画するんだけど。ある日、鹿野さんが、同じく筋ジス患者であるロングさんに「自立」について尋ねる。「エドさんにとって、自立とはどういうことなんですか」すると、こんな答えが返ってきたんよね。
▲ とはいえ、重い障碍を持つ人にとっての「自立生活」は簡単ではない。24時間の介助者を探し、スケジュールを組む大変さに加え、痰の吸引もふくめ在宅で介助する人にはある程度 専門的な知識や技術も求められるわけで。
鹿野さんはボランティアも「広い意味での家族」と定義付けることで、ボランティアに痰吸引を指導するんよね。(なにか事故があっても責任を問わない、という但し書きつきで)でも、すぐにうまく出来る人も、中には下手な若い子もいて。指導して慣れてくれても、学生は長期休みには帰省したり、いずれ卒業してゆき。多くの人たちが鹿野さんちで介助経験をし、またどこかに行く。
▲そうそう、最初に印象深かったタイトルのバナナの話はこういうことがあったから。
《ある日の深夜、病院の簡易ベッドで眠っていた国吉は、鹿野の振る鈴の音で起こされた。「なに?」と聞くと、「腹が減ったからバナナ食う」と鹿野がいう。
「こんな夜中にバナナかよ」と国吉は内心ひどく腹を立てた。しかし、口には出さない。バナナの皮をむき、無言で鹿野の口に押し込んだ。二人の間には、言いしれぬ緊張感が漂っていた。
もういいだろう。寝かせてくれ。そんな態度を全身にみなぎらせてベッドにもぐり込もうとする国吉に向って、鹿野がいった。
「国ちゃん、もう一本」
なにィ!! という驚きとともに、そこで鹿野に対する怒りは急速に冷えていったという。
「あの気持ちの変化は、今でも不思議なんですよね。もうこの人の言うことは、なんでも聞いてやろう。あそこまでワガママがいえるっていうのは、ある意味、立派。そう思ったんでしょうか」》(p32第一章”ワガママなのも私の生き方”)
▲ そういえば、この本の中になんべんも「ワガママ」ってことばが出てくるんよね。つまり、それは鹿野さんはワガママな人だ〜ってことで(笑)。
でも、考えてみれば誰でもキホン、ワガママなんである。生きてゆくために必要な痰の吸引や、体位交換、食事介助、ガーゼ交換などは当然のことで、でも健常者なら簡単にできる《気分しだいでテレビのチャンネルをパチパチ換えたり、CDを入れ換えたり、ファミコンに熱を上げたり、夜中に突然腹を減らして何か食べたり、ということも当然のことながら介助者がサポートしなければならない》(P315 第六章”介助する女性たち”)
▲著者はいう。
《まずは、自立したいという障害者の「ワガママ」をワガママでなくするための、基本的な社会の保障制度をしっかりと確立する必要があるのだと思う。第三章でも述べたように、「障害者の自立とそれを支える地域のケアシステムづくりは、障害者のためだけでなく、社会のために必要」なのだ。》(p350 第六章)
▲ 本の出版を楽しみにしていたという鹿野さんは、本の完成を間近に控えた2002年8月12日42歳で逝ってしまう。
本文の間にはさまれた写真がとてもよかった。鹿野さんちで怒ったり、笑ったり、やっぱりに根っこのとこには愛とユーモアがあったんやなあ〜とおもえる写真ばかりだった。これもボランティアだった高橋雅之氏によるもの。
以前に読んだ長谷川摂子さんの『とんぼの目玉』(未來社刊)■の中にこんな一節があった。
《言葉自体として「美しい言葉」とか「正しい言葉」は存在しないのだ。すべてその言葉を使う人間と人間の関係のありようで美しくも醜くもなる。》(p134)
そうだ。会見のあの人のことばが醜かったのは、人と人の関係のないところで借り物のことばをただ並べてたからだろな。
*追記
その1)
やっぱり「心あまりて言葉足りず」でしたが、いろんな考える種のある本でした。ぜひ。
そうそう、知らなかったけれど、この本 第25回講談社ノンフィクション賞、第35回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作らしい。著者のサイト→■本書にあった写真も掲載されています。
山田太一さんはこの本を別の角度(尊厳死)から語ってはり、考えさせられます→■
その2)
自分の行動力のなさや無力さに しおれてますが、ついさっきのこと。古いノートに高村薫さんのこのことばをみつけ、背筋がぴんとのびた気分です。
『私にとっての体力は深く考え、考えて、考え続けられるか、という忍耐力』
その3)
前にも書いたことのあるボブ・ディランのうたによる絵本『はじまりの日』"Forever Young"はアーサー・ビナードさんの訳でこんなフレーズがあります。すきです。
"May you have a strong foundation
流されることなく
When the winds of changes shift
流れをつくりますように"
これはPete Seeger がうたう "Forever Young ■