いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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線で描いてくれるようで。

▲ 朝、目が覚めると窓の外が明るかったから。
いちにのさんで飛び起きた。天気と元気は似たもの同士。洗濯機のピーピー合図にすぐ飛んで行って、広げてパタパタ皺をのばして、タオルやシャツをキレイに干す。きもちよく干した。
青い空にはまっすぐに長〜い飛行機雲。肌を刺すよな冷たい風は、ぼんやりした自分の存在を 細いけどしっかりした線で描いてくれるようで。ああ、あの飛行機雲の先に乗って遠く、行ったことのないところまで飛んでゆきたいなあ。

▲ お昼から買い物に出たら「よろしくおねがいしまぁーす」という声がどこからか聞こえてきた。選挙は(さんざんな結果で!)終わったのに、と辺りを見回すと、声を張り上げてるのは赤いジャンバー着た郵便局の女性だとわかった。
「年賀状はいかがですか〜」「お買い忘れはありませんか〜」「こちらで年賀状を販売しておりま〜す」と大きな声でくりかえしてる。

▲ すこし離れたブティックでは若い女の子がミニスカート姿で店の外に出て「sale」と書いたプラカードを持って「ただいま最大60%引きセールを開催中でぇ〜す」「どうぞ店内ご覧になってくださ〜い」と叫んでおり。
服屋サンでこんな呼び込みは、初めA店だけだったのに、最近はB店でもC店でも同じようなことをしてる。いや、(従業員が)させられており。そしてそのヤケ気味のカラ元気な絶叫には、こっちも気分がどーんとダウンする。

▲ もっとも、絶叫型商法(苦笑)は店の外だけでなく、店の中に入っても繰り広げられるんやけど。よく行くレンタルショップではスタッフが棚にDVDやCD戻しながら突然、ほんまどんなタイミングで言うてるのかは不明ながら「ただいま当店ではDVD5枚千円のキャンペーンを・・」とか、だれに言うでもなく急に声を上げ始める。
いつからこんなことが始まったんやろか。そういえば、長い田舎暮らしのあと大阪に戻ってきた頃、居酒屋で注文したときに大きな声で返ってきた「よろこんで〜」というのに家族皆びっくりした時のことを思いだす。

▲そんなこんなを思いながらの買い物帰りの道、下校中の中学生たちに会った。
横断歩道を渡ったところのちょっとした空き地があって、そこでよく女の子たち4〜5人がかたまって立ち話してて。こういうのわたしにも覚えがある。「バイバイ」って言いながらも何度でも話し込むんよね。
その日は二人の女の子が深刻な顔して話してた。「わたしらのこと陰でなんやかんやと言うてるんやから」というとこだけ大きく聞こえて、一瞬足と心が止まる。

▲この間『きみは知らないほうがいい』(岩瀬成子著/長谷川集平 絵/文研じゅべにーる)という本を読んだ。小学校5年のとき不登校だったけど、今はなんとか登校している米利(めり)って女の子と、同級生の昼間(ひるま)くんって男の子が主人公。
物語は米利が母親にたのまれて、肋骨にヒビが入って寝ているおばあちゃんちにおかずを届けに行く場面から始まる。自転車で行くつもりが雨になったのでバスに乗ることになるんだけど、その停留所で6年の春に転校してきた同じクラスの昼間くんに会う。

▲ 米利は昼間くんとはあまり話したことがない。だから、バスの中で二人並んで立って、他に言うことも思いつかなかったので、ふと「昼間くんはどこに行くの?」って聞くんよね。昼間くんは窓の方を見て、うーんと唸った後「それはね、きみは知らないほうがいいと思うよ」とナゾめいたことを答えるのだった。つまり、これがタイトルに重なるセリフってわけなんだけど。

▲ 昼間くんのこの大人びた物言いや、周囲の空気や気分に巻き込まれず、悪いと思ったことは悪い、ときっぱり発言するところが、同級生にはウザいと思われているようで。
米利は学校に行かなかった(行けなかった)5年生のときを思いだす。
あのとき、いつのまにか、気が付くと、わたしは一人だった。(中略)教室の海の中で、小さな島に一人取り残されている気がした。わたしはだんだんだれともしゃべれなくなった。だれもわたしに話しかけて来なかった》(p22)

▲自身のときも、子どものいわゆる学齢期にも、何度も何度も思ったけれど。
ほんま、学校って何なんやろね。米利の叔父さんは《狭い檻の中で飼育されているんだから、噛みあっちゃうんだよ》と言う。
米利と昼間くんはそれからも何度かバスで会って、やがて「わたしが知らないほうがいい場所」に米利も行くようになり、クニさんという路上生活者に会って。物語は思いもよらなかった方に展開してゆくんだけど。

▲ 米利の周囲の大人は、両親も母方のおばあちゃんも叔父さんも。米利を理解しようとしており、やさしくいろいろ言う。だけど、小さな島に取り残されている米利のところまで泳いでも行けなくて、浮き輪にもならなくて。大人の思いって、いつもなんかどこか 少しずれてるのかもしれない。
いまこれを書きながら「子の母」でもあるわたしは自分の「ずれ」について考える。そんでね、かつて息子らに言われた「自分だけはちがうと思ってるかもしれんけど。おかんもその辺のおばちゃんと同じやで〜」を思いだす。

▲岩瀬成子さんはそんな大人を子どもの眼でしっかり見据える。
おばあちゃんは戦争の話をするときは、いつもいばった声をだす。》とか、ね。ほんと、どきんとする。でも、それは否定というのでもない。うまくいえないけど、ごまかしがない、ということかなと思う。だからリアルに伝わってくる。おばあちゃんもクニさんも。そうして、もっともわかりにくい場所のことをわかりやすいことばで描ききってはる。すごいなあ。

▲《学校。考えてみれば、なんてことない場所だ。教科書を使って先生から勉強を教わるというのが基本で、あとは適当にみんなで仲よくしてればいいんだから、と思う。でも、クラスの一員になってしまうと、だれも「適当」になんて、できなくなってしまうのだ。小さな違いが表にあらわれるたびに、摩擦が起きる。摩擦はときには、だれかが血をながすまでつづく。》(p50)
そんな学校に最後のほうで米利はこう言う。

それはぐるぐると自然に起きる渦巻きのようなものだった。「いじめ」という言葉でいいあらわせない出来事があちこちで渦巻いている学校。それでも明るい光に照らされている学校。そして苦い汁でぬるぬるとしている学校。
学校よ、と思う。そんなに偉いのか、そんなに強いのか。そんなに正しいのか。
わたしは手でポケットの上をぽんぽんとたたいた。
》(p181)
この力強いことばに、胸がいっぱいになる。そうだ!と声をあげたくなる。

▲もうひとつ。
この本で、岩瀬成子さんの物語に、長谷川集平さんの絵はとてもだいじなはたらきをしている、と思う。暗くて愛おしい絵。子どもの眼がええんよね。最後の頁、夕闇のなか、米利が犬のベルと散歩してるところの絵がすきだ。
物語と絵のつよい力に引っ張られるようにして、この本 一気に読んでしまったけれど。こんどはゆっくりていねいに読もうと思う。もう一度。何度でも。

それから向きをかえて歩き出した。しゃかしゃか。ベルの足の爪がコンクリートにあたる音が聞こえる。しゃかしゃか。しゃかしゃか。
夕暮れの道を、ベルとわたしはいつもの散歩道へとむかった
。》(p182)

* 追記
その1)
この本を読み始めて主人公が米利(めり)と昼間(ひるま)って、ふしぎな名前付けてはるなあ、と。
読んでたら何かわかるかもしれへんと思ったけど、結局わからないまま最後の頁までいってしまいました。というか、途中からそんなことも忘れて一気に読了したのですが。そうそう、米利の叔父さんは以前は塾の講師しながら、いまはショットバーのバーテンダーをしながら小説を書いているのですが、彼の名前は義次郎。
ううむ〜この名前もまた何かあるのかな、と気になります。

その2)
きょうはこれを聴きながら〜surfaceof atlantic-Tea Garden →

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by bacuminnote | 2014-12-22 20:39 | 本をよむ | Comments(0)