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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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8月の空の青。

▲暑い。
毎年のことながら言うて涼しいなるわけないのに、ちょっと動くたびに「暑う〜」「暑いなあ」と、だれに言うともなく口にしてる。
加えて「こんな暑いのは初めてや〜」というセリフも毎年恒例なんだけど(苦笑)
いや、ほんまに今夏の暑さは堪えるよね。
そして、この暑さやからね~冷たい料理がしみじみと旨い。けど、そうめんでも、焼き茄子でも、蒸し鶏も、お浸しも。そうだ、麦茶だって。
こういうのを冷たくして食卓に並べるまでには、つくる時は熱気もわぁーんな台所でふうふう汗かくことになるのであって。
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▲そういえば、夏になると暑がりの義母が首にかけたタオルで汗拭いながら「ウチは“おさんどん”せんでええのんが夢やねん~」と言うて、義父好物のうどんを湯がいてはったんを思い出す。
けど、後年「夢」のように、台所に立たんでもようなってから 急に老けこまはった気がして。
暑い、暑いと言いながらも、その昔は息子の好きな鶏の唐揚げやら、わたしらの希望の小海老とお茄子の炊いたんやら、よう拵えてくれた。やっぱり料理のすきな人やったんやなあと思う。

▲この一か月ほどの間、そんな風にまだ元気やった頃の義母のことをいろいろ、いっぱい思い出していた。たのしいこともしんどかったことも。ひとつ思い出し始めると、すっかり忘れてたはずの記憶の箱は、まるで入れ子のそれ。次々思い出して。そしてそこには なんでか「ええかっこ」してない素の自分が現れて、どきんとする。
そっか~あのときは平気なふりしてただけやったんか・・と若い日の自分がいじらしかったり。一方では「ええかっこしい」にもほどがある、と自分に腹を立てたみたり。ひとり文句いうていうて、言い切った感すらあるのに〜(お義母さん、すんません!)そのあとで、思い浮かぶ義母は「ほれ、できましたで~」と、首にタオル、手には菜箸もって。いつも笑ぅてはるから。 せやから夏のだいどこでわたしはちょっとしょんぼりしてしまう。

▲先日『Wonder ワンダー』(R・J・パラシオ 作/中井はるの訳/ほるぷ出版)という本を読んだ。
この本〜読みながらも、本を閉じて他のことしてるときも、読み終えた今も、いろんなことを自分に問いかけ考えてる。
表紙の目のさめるようなブルーはまさに8月の空の青だ。
だからか、どうかはわからないけど主人公の「ぼく」の名前はオーガスト(August)っていうんよね。表紙の真ん中には男の子らしい顔が大きく描かれてるんだけど、両耳と片方の目が描き込まれてるだけ。目の上には書名のwonderが眉毛のかたちみたいに書かれて、ただそれだけ。目を引く装丁だ。(あ、けど、あちこちで目にする「全世界40カ国で300万部以上売れた感動作」という紹介は苦手。あれで本を読みそこねる人もいるんちゃうかなあ・・とあまのじゃくは思う)

▲物語はオーガストの語りから始まる。
自分がふつうの十歳の子じゃないって、わかってる。といっても、もちろんふつうのことをするよ。アイスクリームを食べる。自転車に乗る。ボール投げをする。ゲーム機を持ってる。そういう意味でいえば、ぼくはふつう。たぶん。そして、ふつうの感情がある。心のなかはね。だけど、ふつうの子なら、公園に行くたびに、じろじろ見られることはないよね。

魔法のランプを見つけて、ひとつだけ願いをかなえてもらえるなら、めだたないありきたりの顔になりたい。外を歩くとき、じっと見られてさっと目をそらされないようになりたい。思うんだけど、ぼくはふつうじゃないのは、だれからもふつうだって思われてないからじゃないかな。(中略)

ところで、ぼくの名前はオーガスト。オギーと呼ばれることもある。外見については説明しない。きみがどう想像したって、きっとそれよりひどいから。

(Part1 AUGUST「ふつうってこと」より抜粋)

▲この始まりだけでわかると思うけど、主人公のオギーは先天的に「頭蓋顔面異常」があって、小さいときから何度も手術をくりかえしてきて、学校には行かなかったんだけど。十歳になって、中等部の一年目ってこともあり両親は「そろそろ」と学校に行くことを勧めるんよね。
両親と姉の明るくユーモアと何より深い愛情に包まれた家庭から、初めて知らない人ばかりの学校という場に出ることになって。もちろん両親が考えに考えて選んだ学校だから、校長も先生もいい感じなんだけどね。

▲それにしても「学校に行く」ことはオギーにとってものすごく大きなことであり、それは「送り出す」親や姉にとっても、学校の子どもや教師たちにも大きな波紋をよぶことになるんだけど。本を読みながら終始おもったのは、冒頭のオギーの語りにもでてくる「ふつう」ってどういうことなんだろ?ってこと。そして「顔」という自分で直接見ることのできない身体の一部について。

▲読了後 作者へのインタビュー記事を読んだら、執筆のきっかけを問われて、こう答えている。ちょっと長いけど、抜粋もふくめて書いてみようと思う。
著者はあるとき二人の息子とアイスクリームを買いに行き、上の子がお店に行ってる間、ベビーカーに乗った当時3歳の下の子と著者が待っていて。ふと隣をみたら女の子ふたりと母親らしき人。女の子のひとりは「頭部に骨格の障害のある子」だったそうで、著者の下の子はその子を見るなり大きな声で泣き始め。著者は「息子のためというよりは、女の子を傷つけたくなかった」から急いでベビーカーごと遠ざけようとして。そしたらそばにいた上の子の持っていたミルクシェイクをこぼしてしまい、さんざんな状況になってしまったとか。

▲【ベビーカーを動かそうとするわたしを見て、女の子の母親は「それじゃあみんな、そろそろ行かなくちゃね」と優しく穏やかな声で言い、その場から立ち去りました。その言葉は、わたしの心にグサッと刺さりました。 その日一日中、わたしは自分がとった行動について考えました。

あの親子は、毎日、何度も、同じような場面に出くわすのでしょう。それこそ何度も何度も。彼女たちはいつも、どのように感じているのだろう? わたしは、子どもたちにどう教えれば、次に似たような状況になった時、より良い対応ができるのだろう? 「じろじろ見ちゃダメ」と教えるのははたして正しいのだろうか、あるいはそういう考え方自体、もっと根深いものではないだろうか? 

そうしたいくつもの考えが頭の中をめぐり、わたしは、息子たちに良い態度を示す機会を逸してしまったことを後悔したのです。わたしがあの時すべきだったのは、下の子を遠ざけることではなく、女の子と、女の子の母親に話しかけることだったのです。仮に下の子が泣いても、それはそれ。子どもは泣くものです。彼には、彼のために、怖がることなど何もないよと言ってやるべきだったのです。単純に、わたし自身、ああした状況で、取り乱す以外にどうすれば良いか知らなかったのです 。
】(ほるぷ社ホームページ→作者のQ&Aより抜粋)

▲すぐ目の前に映像が浮かんでくるようで、若い日の自分に著者が重なるようで 胸がいたい。
とっさに取った行動に「そんなつもりじゃなかったのに」と悔いることがある。こうすればよかった、ああすればよかった〜とひとしきり後悔したあとに、もしかして自分の中に潜んでいたかもしれない意識や感情にふと気づいて、はっとすることもある。

▲そういうときいつも思うのは、どんなに悔やんでも、巻き戻して、やり直すことはできないから。大事なのは考えること。この「次」からのこと。
物語はオギーから姉のヴィアに、学校の友だちのサマーにジャック、ヴィアのボーイフレンド、ヴィアの友だちに・・と視点を変えて語られて、ひとつの出来事をそれぞれどんなふうに受けとめていたのか知ることになり、読み手もまた、一方向からではなく、いろんな方向から問われ考えることになる。

▲ある日飼い犬のデイジーが老衰で亡くなっちゃうんだけど、そのときのオギーとママの会話が心にのこる。
「ママ、デイジーはおばあちゃんといっしょかな?」
「そうね」
「天国にいるんだよね?」
「ええ」
「天国に行っても、みんな同じ顔かな?」
「わからないわ。同じとは思わないけれど」
「じゃあ、どうやって、だれがだれだかわかるんだろう?」
ママは疲れ切った声で答える。
「知らないわ。ただ感じるのよ。だれかを好きになるのに、目で見る必要はないでしょ?ただ自分のなかで感じるだけ。きっと天国はそんなふうなのよ。愛ってそういうもの。だれも愛する相手を忘れない
」】(p305〜306「デイジーのおもちゃ」より抜粋)

▲そうそう、語りに親の章はないんよね。子どもたちだけ。
でも、子どもの語りからいろんな親の表情が見えてきて「親」として何度も立ち止まることになって。ああ、この本を読んだ人と早く話がしたいなあ。読んでみてください。

*追記
その1)
この間、ひょんなことから知り合った(というても実際に会うたことはない)息子1の友だちからポストカードをもらった。最後に【本を通してのつながりが広がっていくのはなんとも楽しいです】とあって。
彼女はたぶん「娘」のような年齢かなあ? 住んでるとこや、歳をこえて、何より「本」や「ことば」を通して「出会えた」ことがうれしくて、はがきを何度も読み返しました。
そしてそして今日は、イギリスの友(やっぱりまだ会ったことがない)からエドワード・リア『 The Owl and the Pussy-Cat 』のすてきなカードが届きました。彼女ともまた「本」や「ことば」つながり。youtubeで詩の朗読をみつけて(→)意味はあまりわかってへんのですが(汗)くりかえし聞きながら。とてもうれしい日となりました。

前にもここに書いたけど、再度。『偶然の装丁家』(矢作多聞著/晶文社刊)から一文を引いてみます。

本というのはふしぎなものだ。
近ごろは、本がきっかけで人と人がつながり、会話をしたりすることのほうが、本そのものよりおもしろいんじゃないか、と思うことさえある。人の奥にひそめられた物語は、何気ないようでいて、どれも多層的で豊かだ。
】(p265より抜粋)

その2)
暑いけど、なぜか本がすすみました。備忘録的に書いておきます。
『生きることのはじまり』(金満里著 /筑摩書房1996年刊)
『その時ぼくはパールハーバーにいた』(グレアム・ソールズベリー作/さくまゆみこ訳/徳間書店1998年刊)
『抵抗の証 私は人形じゃない』(三井絹子著/千書房2006年刊)

その3)
先日おもいたって幼なじみの住んでる町まで遠出。
おばちゃん二人は会えばソッコウ○ちゃん◎ちゃんの世界に。
しゃべって、手料理ごちそうになって、しゃべって笑うて。猛暑の中〜ちょっとくたびれたけど、
元気でました。
くたびれるのが嫌で出かけない、というわたしを、たまにはひっくり返そう!

きょうはこれを聴きながら。
Mogwai - Take Me Somewhere Nice→
by bacuminnote | 2015-08-04 14:30 | 本をよむ