すこし背中はまるい。
2016年 01月 22日
今回の目的地は途中一回乗り換えがあるものの、構内のエスカレーターもすぐ近くにあるし、そこには前にも行ったことがあるし。何より「改札出てすぐ」という場所やから、さすがのわたしも迷いようがないし、ね。
▲さて、乗り換えの時間をいれても30分ほどの電車の時間ながら、久しぶりの「おでかけ」レッスンワンに、そわそわ。少しのあいだ見慣れた景色を、初めて出会うたみたいに車窓からじいっと眺めて。が、そのうち勘をとりもどして(!)持ってきた本を開く。ああ、これ、これ。この感じ~とひとりにやにやする。
電車の中で本を読むのも、本を読んでるひとを見るのもすきだ。
▲その日は何回目かの須賀敦子の『遠い朝の本たち』を読む。帰りは荷物重くなりそうだから、文庫本にしたんだけど。
右脇で杖を挟みながら、両手で本を持つと、ページを繰るのがけっこうムズカシイ。杖もつ手を左右交替してみたり、本や杖を落としたり(!)ドタバタしてるうちに乗り換え駅に着いてしまった。ふうう。
▲その日むかったのは大阪・水無瀬(みなせ)というところにある長谷川書店さん。
じつは昨年末に旧友うらたじゅんが以前『くぬぎ丘雑記』(川崎彰彦著 宇多出版企画2002年刊)に描いた挿絵の原画展開催にともなって、この本の出版者でもある宇多滋樹さんとうらたじゅんが 「川崎彰彦さんの思い出を語る」というたのしみな企画もあって。
▲「駅改札出てすぐ」という、わたしみたいな方向音痴には願ったり かなったりの会場(が、しかも、ええ本いっぱいのお店であることも)うれしく、早々と予約を入れた。
ところがその後すぐあとに、足の不調。いや、けど、その日までにはだいぶ時間もあるし、きっと治るやろうから、と思ってたのであるが。今日もあかんかったなあ、明日はどうやろ・・と思いつつ、とうとうキャンセルすることになった。
▲当日参加したひとたちが、たのしそうな様子をアップしてるのをネットでみて、友人も、それに会ってみたかった人も集まってはったことを知り、盛況ぶりがうれしかったものの、行けなかったことがよけいに悔しかった。
ふだんから「チョ~」がつくほどの出不精だけど。
「行かない」と「行けない」はやっぱりちがうよなあ~と、膝さすりながらちょっとすねたり凹んだり。
ただ、うれしいことに”川崎彰彦『くぬぎ丘雑記』の挿絵と思い出鉛筆画展" は1月15日までやっていたので、なんとか最終日までには行きたかったんよね。
▲長谷川書店に来たのはその日で三度目。
ここは外から見たら、ごくごくふつーの駅前の本屋さん。週刊誌に月刊誌、ベストセラーに実用書などがところ狭しと並ぶ。ところが店入って左端に、その前に、レジ台の横の下、そして奥に進むと、また左に、そのまわりに、と「たからもの」が、ふつーの顔して並んでるのであった。
▲そして、その「たからもの」の近くに、うらたじゅんの絵がとても自然なかんじで飾ってあって。
展覧会というよそゆき風ではなく、本の森のなかで、じゅんの描くどんぐりも小鳥も猫もフクロウも~前からずっとそこに住んでたみたいになじんでおり。
ああ、間に合ってよかった。思い切って出て来てよかったなあと、そばにあった木の椅子に腰かけて、もう一度もう一度と眺めた。
(おとこまえのお店の方が、「どうぞ椅子に座ってゆっくりごらんくださいね」と、やさしく声かけてくれはって。おばちゃんまいあがるの巻~笑)
▲そのあと「棚」から呼ばれたように二冊の本を手にとる。一冊は『マローンおばさん』(エリナ・ファージョン作 エドワード・アーディゾーニ絵 阿部公子・茨木啓子訳 こぐま社1996年刊)という小さな絵本。おもわず「わあ」と声がでた。かつて友だちに贈ったときは初版だったけど、以来19年ぶり。18刷りになっててびっくりしたり、うれしかったり。
▲森のそばでひとり貧しく暮らしていたマローンおばさんのもとに、すずめや、ねこや、きつねたちが訪れる。マローンおばさんの口癖がええんよね。
「あんたの居場所くらい、ここにはあるよ。」
ここで、じゅんの絵をみている時間にこの本に再会できたことにじんとくる。
▲もう一冊は『背中の記憶』(長島有里枝著 講談社文庫2015年刊)有名な若い写真家らしいけれど、恥しながら写真もこの本(文庫化される前は2009年に講談社から出版)のことも知らなかったのに。なんで手が伸びたのかなあ。
本屋さんや図書館ではたまにこんなふうにことがあるから、おもしろい。
▲そうそう「背中」「記憶」というタイトルに、そのときぱっと浮かんだのは母の背中だった。
厨房での母。鮎に金串をさして焼き、大鍋で山吹を煮て、ごま豆腐を練り、炊きあがった5升釜のご飯を飯台に移し、鮎の腹出しをして塩漬けする母。思い出す現役時代の母の後ろすがたは、いつも下を向いて仕事してきたせいか、すこし背中がまるい。
▲・・・と、母のことを思いながら、何の予備知識もなく手にしたんだけど、なんかしら「予感」があって、まよわず『マローンおばさん』と、それからずっとほしかった川崎彰彦さんの『夜がらすの記』(編集工房ノア1984年刊)といっしょに買った。まだまだ他にもほしい本がいっぱいあったけれど、重い荷物をもって杖ついて歩くのは自信なくて断念。だれかが「棚ごと持って帰りたかった」とツイッターに書いてはったけど、わかる。
▲そうそう『おひさまゆうびん舎』■という古書店の小さなコーナーもあって、ここにすきな絵本~ナバホ・インディアンの少女アニーと、死を間近にした祖母との物語~『アニーとおばあちゃん』があったことも、とてもとてもうれしかった!
▲用意してきたリュックに本を入れて帰途に。
電車の中で読み始めた『背中の記憶』は、なんと著者が古書店で思いもかけずアンドリュー・ワイエスの本に出会うところから始まるのだった。
【はじめて訪れる古書店で、ワイエスのような作家の本に出会うことは、知らない土地をあてどなくぶらぶらしていて、ばったりと幼馴染みに出会うようなものだ。】(p11)
つい、さっきまでいた本屋の空気を身にまとったまま、こんな文章に会えるやなんて。
そこからはもうノンストップ。おじいさんのように股のあいだに杖をはさんで(笑)夢中で読んでたら、もうちょっとで乗り換え駅を通りすぎてしまうとこだった。
▲そうそう。
この本は「講談社エッセイ賞」を受賞したエッセイなんだけど、あとがきで彼女がきっぱりと(←たぶん)「エッセイと呼ぶことに抵抗がある」「記憶は事実たりえない」と書いてはって、共感。
【写真と同じように身近な人々を題材としているが、わたしの撮ったセルフ・ポートレートや家族写真が、本人や本人の生活の真実を語ることがないように、ここにあるのも、わたしが実際に経験したはずの出来事とはまた別の物語である。】(p248)
▲この作品を著者は、子どもがまだ小さいころに、子どもが寝たあと珈琲をのみながら執筆して、翌朝は保育園に遅刻して先生を困らせた~というエピソードがあって。そんな夜更けのダイニングテーブルが浮かんでくるようで。
今回 本の内容は著者と祖母をめぐる家族の物語、というほかは書かないでおこうとおもう。もしすでに読んだひとがいてはったらその人と。ここを読んで、読もうと思った人と、いつかこの「物語」のことや、みんなそれぞれが持ってる「物語」について、話がしたいです。
▲長島有里枝さんの文章には写真家ゆえの「眼」の精巧さがあって。(そういうたら相方と話してるときにも、その「眼」に、はっとすることがある。カメラマンだった時間はすでに遠く、昔のことなのに。ものを観る「眼」はそのまま残ってるんやなあと思う)
それは決して甘くなく、せつないとかなつかしいとか暖かいとか、ありきたりなことばを拒否するきびしさのようなものがあって。改行の少ない文章に、その記憶の束に、時に息苦しく、おぼれそうになったけれど。
会えてほんまよかったです。
【パッケージに小さな金色の星で7と書かれたマイルドセブンを右手でふかしながら、左手の指先に軽く体重をかけ、たまに右や左に足を崩す。腰のあたりで、疲れたように首をかしげるエプロンの蝶々結びを、その下のくるぶしの、畳で生活する人特有の赤黒くてかさかさした座りだこを、張りを失って柔らかくなった二の腕と肘の皺を、眺めては触りたい気持ちに駆られた。子どものわたしには存在しないそれらは美しかった。伸びた背筋、吸い殻につくほのかな赤い口紅の色と、きちんとセットされた髪は、母とは違う女の人を連想させた。そこには遠回しに人を寄せつけまいとするよそよそしさと、誰かに声をかけてもらうのを心待ちにしている子どものような、おくてな人恋しさが同時に同居していた。】
(『背中の記憶』表題作p25~26より抜粋)
*追記
その1)
『くぬぎ丘雑記』も 『夜がらすの記』も残念ながら絶版です。図書館などでさがしてみて下さい。
『夜がらすの記』については画家・林哲夫氏が以前ブログ”daily-sumus2”に書いてはりました。→■
その2)
いやあ、それにしても。
写真家の文章、絵描きの文章、音楽家の文章、映画監督の文章~うっとりです。
その3)
このひとのうたう”Across The Universe”がすきでした。
かなしい。
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