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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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忘れない。

▲毎日ハンコで押したような暮らしやから、ときどき昨日と今日の違いもええかげんで。
「そろそろ雨戸閉めてや」
「おっ?さっき閉めたぞ」
「まだ開いたままやで」
「あ、そうか・・あれは昨日のことやったんかぁ」
~先行き不安なフウフなり。

▲そういうたら、前やっていたブログのサービスで「去年の今日あなたはこんなブログ書いてましたよ」的なメールが届く。
「ほんまおせっかいやな」とか思いながらもついつい読んでしまうんやけど(苦笑)
毎年おんなじようなこと思って(書いて)ることがわかって、しみじみと恥しい。
けど、ついでにそのまま続けて他の日のんも読んでみると、毎日は同じようでも、まちがいなく一日一日はちがっていて。
そのうち 書いてることに「時間」を感じて、びっくりしたりやるせなかったりうれしかったり。どきんとする。

▲去年 愉しいなつかしいひとときをすごした友が、今はもう遠いとこにいってしまっており。
前は平気で歩いて行った場所に、気軽に行けなくなって。
この前まで若い友人のおなかのなかにいた子は、すがたをあらわして、そのちっちゃな足で元気に宙を蹴る。
本を読んで、あるいは映画を観たり講演を聴いたりして、あのときはあんなに真剣に考えていたはずのことが、いつのまにか色褪せてることに気づいて、そんな自分にがっかりする。

▲忘れてしまいたいこと、忘れないこと、忘れたらあかんこと。
忘れることで、何とかやってゆけることも、つらくても忘れないで「次に」伝えていくべきこともあって。
それは先日から観た映画や読んでいる本の主題と重なり。
「忘れる」「忘れない」の間を行きつ戻りつ、蹲(つくば)って考えているところ。

▲最初に『顔のないヒトラーたち』という映画の題名を見たとき、不遜にも観なくても(内容の)想像つくなあ~とか思ってしまった。
だからとくに予備知識も入れずDVDを借りてきたら、予想外のことがいっぱいあって唸る。
時代背景は戦時中ではなく、敗戦後十数年たった西ドイツで。
今から考えるとちょっと信じがたいけれど、当時アウシュビッツの存在も、そこで何があったかも知らない人も多かったらしい。そして、知っている人でも、ホロコーストを直視するってことは、自分の家族や友人を糾弾することにもなりかねないと沈黙を選び・・・。

▲1958年フランクフルト~正義感と野心に燃えている若き判事のヨハンは、現実には交通違反の処理に明け暮れて、うんざりしているのだけれど。
あるときジャーナリストのグルニカから元ナチス親衛隊のSSだった人が現役教師をしているという話を聞いて、関心を持ち始めて調べるんよね。グルニカの言うとおりそのひとは教師をしており、明らかに規則違反と、ヨハンは文部省にその旨報告する。
そしてグニルカに、件の教師の罷免を伝えるんだけど、彼は相手にもしないんよね。つまり、そんなことは紙の上だけのことで現実は何にも変わらない、ってこと。実際、教師は今まで通り学校にいるのだった。

▲その後、ヨハンは上司の引き止めにも耳をかさず、グルニカ、それに彼の友人である元アウシュヴィッツ収容所にいたユダヤ人シモンと、検事総長バウアー(彼もまたユダヤ人で長い間収容された経験をもつ)の四人、ヨハンの同僚たち(この二人が地味ながらええ感じ)がフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判が行われるまで大奮闘するんだけど。

▲劇中で描かれる元SSは、どこにでもいるドイツの普通のひと。ごく普通の夫であり、父親であったわけで。
検事正フリードベルクは、ヨハンに「君のせいで若い世代が父親に犯罪者だったかと問い詰めるのか?」と迫るんよね。そしてヨハン自身も尊敬していた亡き父親の過去にむきあうことになる。

▲けれど「時代がそうだった」「仕方なかった」で納得したら、過ちは繰り返されるのだいつか。きっとまた。
やがて彼らの懸命な働きが実をむすび、1963年ついに西ドイツのフランクフルトでアウシュヴィッツ裁判が開かれることになって。
ドイツの歴史認識を変えたと言われているこの裁判はドイツ人の手で、当時アウシュヴィッツ収容所で働いていたドイツ人を裁いた初めての裁判で、その残虐な行為を初めて西ドイツ社会に広く知らしめたこと、と大きく評価されているそうだ。

▲くりかえし、くりかえし描かれるドイツの負の歴史。
一方でおなじ敗戦国でも「戦争中はだれもが、どこの国でもそうだった」とうそぶいてる国・・・一体この違いはどこから来るのだろう。

映画公式HPにあった2015年1月ナチス虐殺の被害者の追悼式典でのメルケル首相のスピーチのなか「過去を記憶していく責任」という言葉が突き刺さる。

【ナチスは、ユダヤ人への虐殺によって人間の文明を否定し、その象徴がアウシュヴィッツである。私たちドイツ人は、恥の気持ちでいっぱいです。何百万人もの人々を殺害した犯罪を見て見ぬふりをしたのはドイツ人自身だったからです。私たちドイツ人は過去を忘れてはならない。数百万人の犠牲者のために、過去を記憶していく責任があります。】

*追記
こっちのほうが長くなりましたが。

その1)
ずいぶん前読んだ『朗読者』で主人公の法学生のマイケルが傍聴する(ハンナと再会する)裁判もこのフランクフルト・アウシュビッツ裁判。映画もとてもよかった。ただ、(予告編→)ドイツ人なのに英語やったのが残念でした。(とはいえ、どっちにしてもわたしは日本語字幕頼りの鑑賞なのですが。この物語はやっぱり英語やなくドイツ語やろ、と思う)

その2)
いま読んでいるベラルーシの作家、スベトラーナ・アレクシエーヴィチの『チェルノブイリの祈りーー未来の物語』(岩波現代文庫)にもまた「忘れたい」「忘れてはいけない」ということばが何度も出てきます。

以前、神田香織さんの講談(DVD)でこの本の一部を聴いたんだけど。(→
チェルノブイリの原発の事故については当時から今まで、何度も読んだり聞いたことがあり、わかってるつもりのことも、神田香織さんの迫力ある講談での「語り」は当事者から話しかけられてるようで。終始息詰まる思いで聴きました。

この講談は本のはじめに収められた「孤独な人間の声」というタイトルの話で、原発の事故後すぐに火災現場にむかった若い消防士の妻が語っていて。
ふつうの火事だと呼び出され、警告もなくシャツ一枚で出動した彼のこと、おなかに赤ちゃんを宿してることを隠して夫の看護に通い詰める話・・・は、本で読んでも重くてつらかった。


【チェルノブイリ事故や戦争など大惨事はすべて、おぞましいもの、言葉で記録したくないもの、理解不能なものをはらむ。それらの記憶を言葉で浄化し、伝えることができるようになるまでには、どれくらいの月日がかかるのだろうか。言い換えれば、大惨事の持つ固有の深い意味が理解され、それが記録に残されるまでには、どれくらいの月日が必要とされるのだろうか。】 同書「解説 」(広河隆一) p306より抜粋

その3)
このほかに観た映画→『アクトレス』劇中、演劇のセリフの稽古する場面が(現実とないまぜになって)でてくるのですが、これがけっこう観ている(聴く)側にとって緊張を強いられるんやけど。その緊張感もよかったです。
ジュリエット・ビノシュのマネージャー役クリステン・スチュワートが魅力的。

『岸辺の旅』(黒沢清監督。原作はだいすきな湯本香樹実さん)→
この映画もまた「忘れる」「記憶」が底辺に流れる作品です。三年も失踪していた夫(すでに亡くなってる)が
ある夜とつぜん妻のもとに帰ってきて、三年の間すごしたあちこちを二人で旅する物語です。

上映時観てきた友人に見せてもらったパンフレットの湯本香樹実さんの文章は、ご自身が原作者でありながら(いや、原作者ゆえに)映画という「表現」をとても冷静にそして何より愛情を持って観てはることを感じる一文でした。しみます。

【映画『岸辺の旅』は、そんな見送る者と見送られる者の間の、特別な、やさしくも不穏な時間を、このうえなく親密なものとして描いています。隔たった者どうしがどれほど互いに互いを委ねられるかーーそれが親密さというものならば、生者と死者、あるいはこれから旅立とうとしている人と、それを見送る人・看取る人のあいだには、抜き差しならない親密な、「もうひとつの旅の時間」が生まれるにちがいありません。】
(パンフレット/湯本香樹実「死んだ人のいない家なはない」より抜粋)

映画とは関係ないんだけど。
このまえ詩人の伊藤比呂美さんのおつれあい(Harold Cohen氏)が亡くならはった旨ご自身のツイッターに書いてありました。
自分のなまえを呼ぶ声はとくべつと思う。せつない。

【Thank you you so much to every one!! He had a wonderful life. I can still hear his voice calling, Hiromi--Hiromi--- from his studio.】
4.28 (原文ママ)

その4)
きょうはこれを聴きながら。egil olsen - she and him (and i)→
by bacuminnote | 2016-05-05 20:10 | 映画