いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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「わたしたちは種をまくのよ」

▲窓の外は、緑、緑、緑で。ああ、ほんまにええ季節。
洗濯物干す手休めては何度も木々を見上げる。
♪濃いも薄いも数ある中に~は紅葉のうたやけど、緑もまた。
「目がまはる青葉がまはる空まはる」(火箱ひろ)

▲その昔まだグーグルマップに航空写真しかなかった頃、以前暮らした開田高原や、ジッカの辺りをみたら、みごとに一面深い緑で。あまりに緑だけやったんで、思わず笑ってしもたんよね。
山があって川があって、自然がすぐそばにあって。
そんなこと、なんか当たり前のことのようにして大きくなって。さいわい、開田もよしのも、今も緑のなかに在るけれど。

▲いらんもん仰山建てて。地震もおかまいなしに「再稼働」企てて。経済優先の社会は相変わらず「だいじなもの」をどんどん壊してゆく。
日々、手を変え品を変えては 耳に入ってくるこの国の政治家の「とんでもなさ」には煮えくりかえる思いがする。どっちむいても税金を私物化して、表でも裏でも(!)好き放題使い放題って話ばっかり。

▲そういうたら、さっき何気なくみたウェブサイトで、茹で卵の輪切りの黄身と白身のバウンスがきれいに出るように、とかまぼこ状の茹で卵(←とは呼べないと思う)という商品の紹介記事を読んだ。
普通の茹で卵の輪切りのように無駄(!)がでてこない(という)この商品はコンビニのサラダや外食産業で使われてるらしいんだけど。(製造課程の動画→
もっとショックだったのは、こんなものが「便利」とか「業務用ではなく家庭用にもほしい」とかいう書き込みで。
この国もこの世界も、ほんまにどうなってゆくんやろなあ。

▲この間『シャーリー&ヒンダ ウォール街を出禁になった二人』(原題"Two Raging Grannies” ホーヴァルド・ブスネス監督)というドキュメンタリー映画(DVD)を観た。
アメリカはシアトルの小さなまちに住む二人はシャーリーが92歳、ヒンダが86歳の仲良し。二人とも電動車椅子ユーザーで、車椅子二台前後並んで出かけてゆく様子はなんともほほえましい。
が、二人を「ほのぼの」だとか「おばあちゃんが」なんて表現したら、しっぺ返しをくらうほど、二人とも好奇心も向上心も旺盛でその行動力といったら。

▲予告編の冒頭にもあるように、二人は経済成長に疑問をもつんよね。
「経済成長は必要なのか?」という問いに「どうすればいいか分からない」とシャーリーが言えば、間髪をいれずヒルダが「”分からない”としか言えないの?もう(“分からない”は)聞き飽きたわ」と、なかなか手きびしい。
そもそもは孫がラジオでホームレスのひとの話を聞いた、というので孫に家をなくした人の話をどんな風にすればよいか、ってところから始まるんだけど。

▲これが単なる茶飲み話で終わらないところが、この二人のすばらしい(おもしろい)ところで。
この疑問を解決すべく大学に聴講に行って、講義中の教授に質問しては怒られ、あげく「退出してください」と通告されて。
この映画、ドキュメンタリーながら、ちょっとドラマのようでもあり。場面によっては「あれ?」と思うところもあるんだけど。この講義場面では学生たちがシャーリーの質問や、それに対する教授の「退出せよ」にも、そもそも同じ教室の彼女たちの存在にもいっさい無関心なのが気になった。あんなものなんやろか。

▲その後、キャンパス内の大学生に意見を聞いてみたり、経済アナリストのもとに向かったり。
その合間に膝の手術を医師から勧められるヒルダのエピソードが挟まれ、まさに今膝痛を抱える者としては身につまされる。
ヒルダの死ぬ前に「もう一度NYに行ってみたい」っていうのと、二人の解決しない経済への疑問とが重なり。ついにはNYに、ウォール街へと話は発展するんよね。

▲シャーリーの息子(or義理の息子かも)に、NY行きを告げたとき、彼が「いいねえ。相棒とNYか?」って言う場面があって。ええなあ。ええよね。若いひとに羨ましがられるのって。
90歳近くなって友だちと飛行機に乗って遠出。しかも行き先がNY行きやなんて。かっこいい。
そして、やんちゃな二人はついにウォール街へと乗り込んでゆくんよね。ここからがドキドキするところだけど、これから観るひとのためにもがまん。とにかく、二人が行く道は多難だ。
でも、シャーリーが言う。
「わたしたちは種をまくのよ」

▲たまたまなんだけど。
この映画を観た翌々日に、旧友のj が久しぶりにウチに来て。
彼女にこのDVDを観てもろてる間に夕飯の仕度を~と思ってたんだけど。jの反応が気になって、何度も台所から移動して彼女の横で立ちながら鑑賞(苦笑)結局椅子運んできて、一緒に笑うたり茶々を入れたりしながら、わたしも最後まで観てしまった。

▲経済問題を考える二人、っていうより(いや、そのことはとても大事なんやけど)歳とってもなお「わからないこと」をそのままにしない、いい加減にしない二人。
「あなたといると時々疲れるわ。何度も同じことを言うんだもの」とか、結構キツイことを言い合ったりしながら(きれいごとだけのつきあいやないとこも共感)二人ともユーモアがあってチャーミング!
そんでね、老いてゆく体や気持ちに、掛ける言葉もお互いちょっと荒っぽくて。
だからこそほんまにお互いをだいじに思って寄り添ってる感じに、じんときた。

▲せやからね。
わたしらもまた(あの二人ほどの勇敢さは持ちあわせてないけど・・)好奇心と向上心をもち、時に(いつも?)あほなこと言うて、笑うて、これからも長くたのしくやってゆきたいと思った。
何より、この映画をいま彼女と観ることができてよかったな。

▲・・・てなことやってたせいで、案の定(というか、やっぱり)料理もちゃんと拵えることができなかったけど。
ええかっこしても始まらへん四十余年の仲やしね。
いつも通り あり合わせのおかずと持ってきてくれたワインで乾杯。
つもりにつもった話は、あっちにとび、こっちにとび。
思いきり笑うたり、郷愁と感慨にふけってるうちに、戻るべき「始点」もわからへんという、相変わらずのおおぼけぶりだったけど。
「おやすみ」と言う前までしゃべって。ええ夜でした。
冬の句やけど、冒頭とおなじく火箱ひろさんの一句を思い出しながら。

「歯が大事友だち大事冬林檎」 (火箱ひろ)


*追記
その1)
この映画公式HPには、アラナイ(アラウンド90歳)のおばあちゃん【シャーリーとヒンダは大金持ちでも、ビジネスマンでもない、ただのおばあちゃん。当初は「買い物に行くくらいしか思いつかない」といっていた2人が、好奇心の赴くまま質問を重ねるたびに、どんどん知識を吸収し成長していく】って風に書いてるけれど。
二人はそんな「ただのおばあちゃん」(というと語弊があるけど)ではないです。→プロフィール(HPのCAST&STAFFのところ)

もちろん、何かのきっかけで「突然」目覚めることはあると思うけれど。
やっぱり、若いころから「考える」あるいは考えたことを「話したり書いたり」のレッスンは必要、と改めて思う。
どんなことにも「何故?」と疑問を持つ。わからないことを自分で考える。誰かに話す。聞いてみる。考え続ける。そして、行き着くところは「教育」かなと思う。(やっぱり!)
とりわけいろんな環境下の子どもたちが集まる公教育で(もちろん、それが合わない子どももいるんだけど)こういうレッスンを積み重ねてほしい、と願います。

その2)
『シャーリー&ヒンダ』と一緒に借りてきたDVDが同じくドキュメンタリー映画の『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』→ シカゴで暮らす青年ジョン・マルーフが、オークションで大量の古い写真のネガを380ドルで落札。彼がその一部をブログで紹介するとたちまち評判になり。15万点以上もの優れた作品を撮りながらも、1枚も発表せずに亡くなった女性ヴィヴィアン・マイヤー。謎につつまれた彼女が歩んだ軌跡や、知られざる素顔を追っていくのですが。

ヴィヴィアン・マイヤーの持ってるカメラ~ローライフレックスは亡き父も持っていて、なつかしかった。
映画のなかで「ローライフレックスは一種の隠し撮りカメラだ」と言ってた人がいて。それは、普通のカメラとちがって、撮影者は被写体に真正面から向き合うのではなく「覗きこむ」から。
そういうたら、相方のカメラはハッセルブラッドでした。
わたしは(撮影者がローライとかハッセルとか)覗き込んでる時の姿~あの四角のなかの被写体をみている感じが好きでした。

その3)
このまえ図書館で『こどもたちはまだ遠くにいる』 (川本三郎編 筑摩書房1993年刊)→という写真集を借りてきました。(残念ながら絶版みたいです)

子どもを写した写真集だけど、たいていは(複数で写っていても)ひとりぼっちの写真ばかりです。白黒やし、笑ってる子の写真はほんのすこし。いわゆる子どもの幸せそうな写真はほとんどなくて。
編者の川本三郎が「家族のそとにいる子ども」と書いてはる、そんな子どもの、表情をとらえた写真集です。
以下、本の最後に収められた「純化する子どもたち」という川本氏のエッセイより抜粋。

【家族の外にいる子どもたちをとらえるということは、単に、不幸な子どもをドキュメンタリー的に記録することではない。それは、子どもを、家族、親といった帰属するところから解放することである。
大人ー子ども、親ー子ども、といった通常の対関係から子どもを帰属するところから解放することである。
強力な対関係をなくした子どもは、はかなげに、しかし、自由に風景のなかを浮遊しはじめる。】

【ここに紹介する子どもの写真は、そういう距離を自覚した、冷たい写真である。理解や愛情や同情よりも、むしろ、言葉ではもはや語りかけようとはしない子どもを、畏敬の念を持って凝視し続けた写真である。子どもたちが凝視の一瞬のあと、こちらに近づいてくるのか、向うへ去ってしまうのかは、おそらく誰にもわからない。】

その4)
jと十代の頃のこと話して、いろんなことおもったり思い出したり。若いっていたい。けど。イキテテヨカッタ。
きょうはこれを聴きながら。だいすきなworld's end girlfriendの演奏で。
world's end girlfriend - 深夜高速 feat.湯川潮音→
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by bacuminnote | 2016-05-14 18:13 | 映画 | Comments(0)