いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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「なかったことにして。」

▲お昼すぎからぽつぽつ降り始めた雨は、しばらくしてすごい勢いの降りになって。その後、たったいま水のストック切れました~とでも言うようにぴたりと止んだ。
雨の間はひんやりして、足元がひえるからレグウォーマーまで履いてたのに。窓の外、たっぷりシャワー浴びた緑たちもまた涼し気やのに。
雨あがりのあとの蒸し暑いこというたら、雨よりもうっとうしい。

▲こんな天気の日は母がため息つきながらすごしてるかもなあ~と、炊飯器のスイッチをいれて、お湯をわかしつつ、電話をかけてみる。
案の定、開口一番「わたしな、もう、いよいよお呼びがかかりそうやねん」と来た。
「え?誰から?お父さん?(笑)」
「いや、あのひとはあっちに行ってから知らん顔や。夢にも出てけーへん。もお。ほんまになあ・・・」(と積年のうらみ、つらみから、何故か父をほめたたえる話まで)
「まあ、ええやん。そう急かんでも。まだゆっくりしていきぃや。早う行ったら寂しいやん」
「そやなあ。あんた一緒に連れて行くわけにいかんしなあ・・・」
「あかんあかん。わたしはあかんで。連れていかんといてや。まだ若いもん!」

▲・・・とかなんとか(自分でもこけそうになるようなことを)言うて、湿った風は、笑いで吹き飛ばす(飛ばせたつもり)
「ほな、今日の講話はこの辺で。ご静聴ありがとうございました」
「はい、はい。わかりました。ええお話おおきに」
と、いつも通りお決まりのせりふの後もう一回「あはは。あほらし」と笑うて受話器おく。

▲母が凹んでるときに、もりあがるのは昔話と「今(母が)若者やったら~」という話だ。自分のすきなこと、すきな勉強、すきなひと、何もかも「なかったことにして」生きてきた時代のひとやから。
「お医者さんかなあ、看護師さんかなあ、センセかなあ。あはは~言うだけやったらなんぼでも言えるなあ」と笑う母に「今からでもどうや?」と返しながら、いくらなんでも93では無理やけど、あのガッツと負けん気の強さやから。若かったら結構本気出したりして~と想像してひとり笑ったあと、母の「なかったことにして」きた時間をおもうのだった。(そして、それゆえに、わたしがいるわけなのだが・・・)

▲ちょっと前に『七十二歳の卒業制作』(田村せい子著・岡本よしろう画/ 福音館書店2016年刊)という本を読んだ。
副題は「学ぶこと、書くこと、生きること」。本を手にしたとき、カバーにあった【たったひと月しか通えなかった中学校、家計を支える働き手として、さまざなは職を転々とした日・・・】に、もしや母世代?と思って後ろの著者プロフィールをみておどろく。1942年生まれとあったから、計算したらわたしが生まれたころ(つまり敗戦後10年)中学入学の年令なわけで。
中1いうたらこの間まで小学生。そんな子どもが家計を助けるために住み込みで働いてたのか~とショックだった。どうりで表紙絵の女の子が両手でしっかり持つ出前の「おかもち」が大きく見えるはずである。

▲タイトルの「七十二歳」はそんな著者が68歳で入学した大学を卒業した歳。専攻したのが児童文学の創作ゼミだったので卒論が「卒業制作」というわけで。
第一部「君子・その時代」が卒業制作から、二部「青春の情景」は在学中の創作ファイルから短編が収録されている。

▲著者の田村さんが記憶にのこる幼いころ~戦争中の防空壕の話から初恋の思い出まで~本編は「そのころ」の風景やまちのにおい、近所のおばちゃん、おっちゃんの服装まで浮かぶようで、あっというまに読み終えた。胸のつまるような子どもには重い経験も、著者のもちまえの明るさと賢さで前むいて歩いていく様子に、読んでるわたしもいつのまにか笑顔になっており。しんどいことも笑いに転化しまう大阪弁のおもしろさと、それから切なさを改めて。

▲そうして『作者あとがきーー「私は、気がすんだのです」』(14頁の長い文章)には、かけ足の読書から、一気に減速。いろんなことを考え思いながらの深い時間となった。
ここには、田村さんが末娘さんの大学進学と夫の定年で「やっと自分の番が来た」と思ったこと。その後、夜間中学、定時制高校に。ここで教育実習に来たこの高校の出身の女子大生に話を聞いて、ついには(彼女と同じ女子大の)学生となる経緯が語られているんだけど。

▲68歳からの大学生活は心身ともに楽しいことばかりではなく(じっさい必修の体育で腰痛になったり、持病で毎週点滴を受けたり・・)

【私は何をしているのだろう?何のために、こんな大変な苦労をして勉強を続けているのだろう?この年齢で、この先就職するわけでもないのに大金をはたき、家族に不自由をかけ、若いクラスメートの足を引っぱり、周囲にさまざまな迷惑をかけてまでーーと、よく思ったものです。
その答えが、三年・四年のゼミで文章を書く経験を積み、その総仕上げとしての卒業制作をまとめていくうちに、ようやく見つかったような気がしました。――そうだ、私はこの「君子・その時代」を書くためにここまで来たのだ。】

▲それが、「あとがき」の副題「私は、気がすんだのです」に繋がるんやろね。
そういえば自分にとって「書く」ことの原点をおもうとき(とか、いうと大げさやけど)いつも思い出す小川洋子さんのだいすきな(そして、だいじにしている)一文があるんよね。それは彼女の初の長編小説『シュガータイム』のあとがきで。

【どんなことがあってもこれだけは、物語にして残しておきたいと願うような何かを、誰でも一つくらいは持っている。それはあまりにも奥深いものである場合が多いので、書き手は臆病になり、いざとなるとどこから手をつけていいのか分からなくなる。そして結局長い時間、それは心の隅に押しやられたままになっていたりする。】
(中略)
わたしがどうしても残したいおきたいと願う何かが、読んでくださった方々に少しでも伝わればありがたい。この小説はもしかしたら、満足に熟さないで落ちてしまった、固すぎる木の実のようなものかもしれない。それでも皮の手触りや、小さな丸い形や、青々しい色合いだけでも、味わってもらえたらと思う。いずれにしてもこの小説は、わたしがこれから書き進んでゆくうえで、大切な道しるべになるはずだ。】

▲この作品はいまの小川洋子的世界からおもうと、まだちょっとおとなしくて(苦笑)ものたりなさを感じる人もいるかもしれないけれど。
でも、この後「固すぎる木の実」は陽をあび雨にうたれ、やがて芽を出し木になり、たわわに実をつけて。
ていうか、すでにこの作品のなかにそういう気配はあり。わたしのすきな一冊だ。

▲そうそう、だいじなこと。
田村さんが「書いた」大きな意味はもうひとつあって。おなじく「あとがき」にこんな風に綴ってはる。

【私の年代で、中学校に通えなくなり、その後復学して卒業する機会に恵まれなかった人が、なんとまだ全国に百数十万人もおられるのです。その理由の多くは、成人の入学できる夜間中学校のある都道府県・市町村がごく限られていることです。地方に住む多くの未就学者が、通学できないまま断念せざるをえないのです。
(中略)
私の書いたものを、ひとりでも多くの方に読んでいただきたい。そしていまだ向学心がありながら、勉学への思いを果たせない人がたくさんおられることを知っていただきたい、と切に思っています】

▲こういう話をすると、いまの時代、学校に「行ける」環境にありながら「行かない」「行けない」子は「ぜいたくな悩み」~とか言う人がいるけど、それはちがうとはっきり応えたい。
田村さんも書いてはる。子どもにとって【義務教育とは「権利」で、その権利を侵害された多くの場合において、それは子ども自身のせいではありません】
大事なんは、子どもらが学校に行く権利(自由)、学校に行かない権利(自由)をだれからも侵害されない、ということやと思う。

▲ずいぶん前のことだけど、識字学級の話で『ひらがなにっき』(長野ヒデ子 作・絵/ 解放出版社)という、ええ本読んで、本の感想や学習権について調べたこと、ここにも書いたんだけど→)再掲してみます。
「学校」という場でも、べつの場所やとしても、いわゆる学齢期であれ、何歳であっても。そしてお金がなくても。
「学びたいひと」に「学びの場」がありますように、とつよく願います。

学習権とは
【読み書きの権利であり、
問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発揮させる権利である。】
ユネスコ学習権宣言  1985年3月29日採択
 (子どもの権利条約をすすめる会訳)


*追記

その1)
この本のあとがきのあとにある田村さんのゼミの先生、富安陽子さんが最後に寄せてはる解説も、とても温かくてよかったです。
2011年4月「児童文学作品制作」の最初の講義で「ずいぶんとお年を召したおばさんが、きちんと背をのばし、教室の最前列の席」にすわってはったこと。
最初は「作文」だったものが、しだいに「作品」に~「ひとに読ませる文章へとみるみる変わっていった」こと。

【苦しいことや、つらいことや、納得のいかないことを文章にするとき、人間は自分を取り巻く現実を客観視しようとします。そのときやっと人は、自分の過去や、そして自分自身と向き合えるのだなと思いました。】(p253「解説ーーせい子さん奮闘記」より抜粋)

その2)
この間から読んだ本~
上野英信氏のことを息子の朱さんが綴った『父を焼く 上野英信と筑豊』(岩波書店2010年刊) 『蕨の家 上野英信と晴子』(海鳥社2000年刊) それに今は妻・晴子さんが書いた『新装版 キジバトの記』(2012年刊)を読んでいるところです。
じつはさっき、このブログの下書きがすっかり消え(勝手に消えたわけやなく、わたしがうっかり消してしもたんですが・・泣)自分のそそっかしさには、ほんま、しんそこ意気消沈。
また、元気のあるときに書いてみます。

その3)
ここ数日は本読みの時間多くて、映画(DVD)は一本観ただけですが。『独裁者と小さな孫』→ (原題:The President 監督モフセン・マフマルバフ)
は、クーデターが起き大統領が幼い孫と逃亡の旅に。羊飼いや大道芸人に変装して、あちこちに逃げるんだけどね。
民衆から搾取したお金で贅沢三昧な暮らしをし、罪なき人を拷問にかけ、処刑して。「独裁者」にさんざん苦しめられてきた多くの民に、行く先々で遭遇することになって・・・。 孫の子役の子がよかったです。
いやあ、これ映画の話だけやなくて、自分のやってるあほうなこと、残酷なこと(政治)がわかってない政治家は、ここそこにいて。
せやから、よくよく考えて、選ばないとね。

その4)
今日はこれを聴きながら。
とおくちかくに、子どもたちの声。しずかに、しみいるピアノの音。

Bill Evans _ Children's Play Song→
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Commented by lapisland at 2016-07-12 05:50
昨日'Padre Padrone'というイタリア映画を見て、
bakuさんのこの記事を思い出していました。

サーディニアを舞台に、古いしきたりに縛られ貧しさの中で学校にも通えず
父親の暴力の元で育つ少年の話(実話)ですが、その貧しく悲惨な生活から
逃れて軍隊に入り初めて文字を覚えていくまでが、16mmフィルムで淡々と撮られていますが、
書かずにはいられなかったであろう原作者の思いを見終わった後も感じています。
サーディニアと言えば、こちらでは金持ちのリゾート地や美味な生産品で知られるところですが、
少し前までの貧しい羊飼いの生活はそれらとは何の関わりもないところあります。
見て楽しい映画ではありませんが、機会があれば・・・。
唯一の救いは少年(すでに青年に達している状況ですが)が言葉を、そして文字を吸い取り紙のように
吸い上げていくところでしょうか。

Commented by bacuminnote at 2016-07-12 13:22
■ lapislandさん
'Padre Padrone'さっそく調べてみたら邦題は『父  パードレ・パドローネ』でした。”イタリア語でパードレは父、パドローネは主人を意味する”とあるから「父、父・・」になってしまうやん~とか思いながら(苦笑)
さっそく今日レンタルショップに(お店には在庫なかったから)リクエストしてきました。取り寄せレンタルというのがあって、時間かかるんですけど、よく利用しています。
教えてくださっておおきにです。

サルデーニャというたら、内田洋子さんの本にもよく出てくる島ですよね。DVDたのしみです。

文字の話になると、相方といつも意見がわかれるのですが(かれは文字を得ることで失くすものの大きさを主張)いまのこの社会に在っては、自分の身を守るためにも考え識るためにも、文字を覚えることは大事やとわたしは思ってます。

P.S.メールしまーす。
by bacuminnote | 2016-06-30 15:37 | 本をよむ | Comments(2)