いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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あらすじはいりません。

▲先日、関東在住の姉2の帰省で「いっぺん会おか」という話になった。
3人や2人というのはあっても四姉妹全員で顔を合わすのは、何年ぶりやろか。
当日はお昼前にみんなが出て来やすい大阪・天王寺にて集合。
炎天下おばさん四人「久しぶり」の挨拶もとばして「きょうも暑いなあ」と言いながら、姉3が予約しておいてくれたレストランにぞろぞろと歩く。

▲四姉妹と告げると、たいてい「わあ、若草物語やね」とか「細雪やなあ」とか言うてくれはるけど。そんなええもんと、ちゃいますがな。
7歳、5歳、3歳上の姉たちとわたしは、趣味も、考え方も、ガッコも、してきた仕事も、住んでる地域も、家族構成も、みごとにバラバラで。4人に共通点というたら、親がおなじで、川のはたで育ったこと、「食べる」のが大好き、ということくらいかもしれない。

▲せやからね。
「四姉妹って、ええねえ」と言われても、白けた顔して(たぶん)「べつにぃ」と言うてしまう。おいしいもんのことから本や音楽、映画のこと、何でも話せる友だちのほうが、ずっと楽しいで~とか返して、相手をちょっとがっかりさせるんやけど。

▲それなのに、いったん顔あわせると長いブランクも何のその。
勝ち気に内気。イカル者に取りなす者。話し役に聞き役。ボケとツッコミ・・・。
長女・次女・三女・四女~収まるべきとこへ、瞬時に収まって。
その日もしゃべる、食べる、笑う、のむ、しゃべる、食べるの6時間に、友だちとはどっかちがう、この感じはやっぱりきょうだいやなあ、と頬がゆるむ。

▲帰りは2:2に分かれて「ほな、また」と手を振った。
好きなとこも、ちょっと気にいらんとこも(!)多分お互いにいろいろあるんやろけど。こんどまた会うたら、からだの奥深いとこから湧き上がってくる「なつかしさ」と「アイ」(漢字にするのは気恥しい)によって、四姉妹のスイッチが入るんやろな。
姉たちよ、いつまでも”かしまし娘”でいよう。

▲さて、
この日の道中おともの本は『水つき学校』(加藤明治著 東都書房刊)~図書館で借りたこの本、七刷で1973年に出てるけど、初版は1965年刊。表紙の絵(by久米宏一氏)は横殴りの雨のなか合羽姿の主人公の少年・庄一が牛を引いているところ。中の挿絵もぜんぶなつかしい。これや、これ!と声をあげる。50年ぶりの再会だ。

▲なんで、この本を再読しようと思ったかというと。
前述の姉たちとの会食の際に、むかし姉の子どもら(わたしにとっては姪や甥)が幼い字でわたし宛てにくれた手紙を見せてやろうと探してたとき、思いがけずわたしが小学6年生のとき書いたこの本の読書感想文が見つかったのであった。

▲これ、感想文コンクールで入賞したとかね、選ばれて何かの文集に載ったとか、というのでもなく。センセの赤ペンも力のないただの二重丸で(苦笑)しかも、その下には「大事なところをくわしく。」とダメ出し・・・。
どう見ても「じまんの作文」ではなさそうやのに。なんでこんなものを残してたんやろか、と探しもののことも忘れて、座り込んで読む。

▲原稿用紙8枚の読書感想文は、母におこづかいをもらって近所の本屋さんで本を選ぶところから始まるんよね。
相方に言うたら「おまえは子どものときから話長かってんなあ。センセも、たまったもんやないよなあ。8枚も書いてきて。そのうえ前置き長うて~」と大笑いされたんやけど。

▲そんで、読んでみたら、これがなかなかに下手な作文やった(苦笑)
けど、自分がこころ動かされた本(話)をみんなに伝えたいという気持ちは、ちゃんと届く。(わたしがわたしに届けて、どないするねん?とつっこみつつ)
でもセンセからしたら「あらすじはいりません」と思わはったんやろなあ。(すこし残念)

▲6枚目になってようやっと「読書感想」らしい文章になって。センセの赤ペンはシビアに「感想」はここから始まってるぞ、と矢印が入る。
7枚目には「この場面があなたの作文のカギです」「ここをもっとくわしく」とあって、最後の三行には赤い斜線が無残にも入って「いりません」とある。いやあ、このセンセなかなか手厳しい。

▲こんなこと書かれたら読書感想文は嫌いや、ってことになるやん~と、自分の作文が下手なのを棚の上にあげて、ぶつぶつ。
けど、8枚目の空いたところには、返してもろてから書いたのか、青いペンで反省点を四点あげてたりして、小6のわたしはなかなか健気である。

▲子どものころの本は全く手元に残ってないんだけど、この本のことは覚えてたしね、自分の読書感想文に触発されて(苦笑)もう一度読んでみたくなったというわけだ。
そうしたら、この本すごい本で、夢中になって読了。
作文には薄い本と書いてあったけど(あとがき入れてp171)文字は小さいし、今では大人の本でもめったにみない二段組だった。

▲テンリュウ川(と、本では片仮名になってるけど天竜川のことだと思う)を挟んで2つの村の小学校があるんだけど。
主人公の庄一の通うサワンド小学校は、大雨が降るたびに校舎が水びたしになるので、川向うのノザサ小学校の子どもらから「水つき学校」とからかわれてるんよね。

▲この川「暴れ天竜」とよばれてはいるものの、昔はこんなに洪水が多くなかった、と大人たちが言う。これは下流にできたダムのせいで堆砂と水害が激化したのだ、と。
子どもたちも大雨のたびに、水が引いたあとの泥だらけになった校舎の掃除にかりだされる。雨が続けば机や椅子を二階に上げるのも庄一たち高学年の子どもの仕事だ。
もちろん田畑もそのつど、泥だらけでたいへんなことになる。

▲庄一の父親や村会議長でもある医者を中心に起こるダム撤去運動は、なかなか思うようには広がらない。
流された田畑への電力会社からの見舞金が「いま」必要な人、いや、わずかばかりの見舞金でこれまでも、ダム撤去という根本的な問題をうやむやにされてきたのだから、見舞金は一銭ももらわぬくらいの覚悟でないと、と主張する庄一の父親のような考えもあり。この補償金をめぐって村民を分断するような事も起きるんよね。

▲子どもらもじっとしておれず、庄一は修学旅行の積立金を全部使ってもいいから、もっと高台に学校を移転してくれ、と村長にかけあいに行く。
建設大臣と県知事が水害の視察に来たときに、子どもたちも役場に様子をみに行くんだけど、そのときの子どもらの話が興味深い。

「大臣に、なにをたのむんずらなあ」
「ダムをこわしてもらうのよ。高槻ダムのできるときに、もしダムのせいで大水の出るようなことがあれば、ダムをこわすという約束があるんだよ」

「それじゃ、約束をまもらんほうがいけねえじゃねえか。ダムなんかすぐこわさせろ」
「それだって、ダムのおかげで電気がおこるのだぞ。電気がつかなんでいいだか。ラジオがきこえなんでもいいだか」

「ダムは、ほうぼうに、いくつもあるだもん、一つばかり潰したって、心配あらずか」
「ダムを一つつぶせば、それだけ電気がたりなくなって、日本の工業がおとろえるぞ」
「工業ばかりよけりゃ、それでいいだか。おれたちは、毎年水びたしだぞ。それでもいいだか」
同書p46~48より抜粋)

▲そうこうしてる間におきた集中豪雨で、田畑だけでなく家も流され、死者もでる大惨事となる。庄一の父親も脚に大怪我を負うことになって。
ダムを残したままで砂漠のようになってしまった村は、急転直下みなが思いもかけなかった展開となる。
それは国や県、電力会社の補償のもとで、高い堤防を立て、小学校はノザサとサワンド二校統合して、高台に鉄筋の校舎建設が決まったこと。

▲それに耕地整理をし、一枚の田の広さを今の五倍くらいにする。
ヘリコプターで種まきをし、イネ狩りはコンバインで、刈り取りも脱穀もいちどにできるそうだ~と夢物語のように村人が語っているのをちょっと複雑な思いで読む。このころはアメリカのような大規模農業は、いいことづくめのように思われていたんやろなあ。
庄一は、新しくうまれかわる村を思い描きながらも、父親の「ダムがあるかぎりは水害はなくならぬ」~という口癖をわすれることはできない、と思うところで物語がおわる。

▲文中多くの場面で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の東電の対応と重なるところがあって、苦々しく思い出していた。
この物語のころはまだ火力・水力発電の時代で原発はまだ実験段階だったと思う。
そういえば冒頭、ノザサの子どもらが庄一たちの学校を「水つき学校」と呼んで、カッパが泳いでる~とはやしたてる場面があるんだけど。
それにたいして庄一が思うんよね。

【うそっぱちだ。この原子力の時代に、そんなものがほんとうにいると思っているのだから、どんなにひらけていないかということがわかる】
「原子力の時代」というのに、どきっとする。著者はこの物語を1960年から書き始め同人誌『とうげの旗』に連載。完結まで三年かかったそうだ。ちょうど鉄腕アトムが流行りだしたころかな。

▲『水つき学校』は1977年に講談社から再販されたあと、そのまま絶版。図書館でしか読むことができないのは、とても残念。いま、やからこそ、子どもにそして大人にも読まれるべき本やとおもう。
復刊されることを願います。
それにしても。
大昔の下手な読書感想文のおかげで、この本にもう一度であえてほんとうによかった。と同時に、自分が小学生のときから全然変わってない(いっこも成長してへんやん!)ということがわかって、うつむいてしまうのやけど。
ちなみに、うしろに書いてあった反省点四つの最後は「文章を短くまとめる」でした(笑)
そんなわけで、今回もだらだらと長くなりましたが。
いつも最後まで読んでくださって、ほんまおおきに!


*追記

その1)
著者は長野県伊那の南箕輪村というところで生まれ育ち、本が出たころは中学校の校長だったとか。「著者のあゆみ」にある写真には(テンリュウ川のほとりで)とありました。

本文中にでてくる地名は創作だということですが、サワンドというのは沢渡のことだと思います。
信州には「◯渡」と書いて「◯ド」と読む地名があちこちにあります。
わたしたちがパン屋だった頃に、くらした集落は「胡桃渡」(くるみど)というすてきな地名でした。

そうそう、この頁の下のほうにはこんな一文があって。もう今はない出版社宛てに手紙をかきたい気分です。
【⇒ おねがい この本の感想をおよせくだされば、しあわせです。
 あてな・・・東京都文京区音羽二丁目12 東都書房出版部】


その2)
今夜はもう秋みたいな風。
これを聴きながら。Goldmund - "Sometimes"→
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Commented by hasikkoami at 2016-09-09 19:52
四姉妹とは!
弟しかいない私にとっては何とも羨ましいです。

三姉妹だとかしまし(=姦し)娘なのに、
一人増えた途端、文学的な響きになるのが不思議ですよね(笑)
そう言えば『海街diary』でもすずちゃんが来た後の方が
しっとり感がありましたね。
Commented by bacuminnote at 2016-09-09 21:54
■amiさん。
文学的な響きも『海街diary』(映画版)みたいに美人姉妹からも、はるかーに遠いわが四姉妹であります(苦笑)
あ、4人中3人が長身、デカ足(その中でもわたしがどちらも一番大きい)。すずちゃんみたいにかわいくないけど(なまえ出すだけでもすまん!な気分ですがw)「四女」はみんなに結構だいじにしてもらってる気がします。

むしろ、わたしには姉弟のほうが「物語」をかんじる・・・ていうか、よそのお家の庭は~なのかもしれませんね。

by bacuminnote | 2016-08-27 21:57 | 本をよむ | Comments(2)