ときどき子どもは。
2016年 10月 13日
布団から首だけ出して目覚まし時計を見たら、今朝もまたアラームが鳴る前で。これ、きっと「歳」のせいやろね。
この間友だちと夕方から会うたときも、6時すぎるとお腹が鳴り始め、「外が暗うなったら、目ぇがしょぼしょぼするよなあ」と笑った。
▲そのかわり。
もう誰に起こしてもらわなくても、ちゃあんと朝早く目が覚める!起こされても起こされても(「ええかげんにしぃや!」と怒られても)すぐまた眠りにおちた若い頃がうそのよう。
ほんま、歳とるって、なんかすごいなあ~とか思いながら、ベッドから相方を見下ろすと(かれは畳の上に布団)この前まで蹴飛ばして足元でぐちゃぐちゃになってた布団を細いからだにぴったり巻きつけて、ミイラみたいな格好で(!)寝てる。
▲夏じゅう、そしてついこの間まで大活躍だった扇風機二台(各自 強さ・角度・高さを好みに合わせて使用)が、部屋の隅に並んで立ってるその姿さえ寒そうに見える。
まだ薄物に薄物を重ねて、しのいでるけど。そろそろ「温いもの」を用意しないとなあ、とおもう「寒い朝」だった。
毎年この時季にはきまって書いてる「秋立ち、秋欄(た)て、秋仕舞う」~だいすきで、待ちに待った秋の訪れやのに、ぼやぼやしてたらお仕舞になるからね。さあ、重い腰あげて、秋をたのしもう。
▲このあいだ読みたい本があって。
「ないやろなあ」と思ってた近くの書店に、念のため問い合わせたら在庫があって(すまん!)取り置きしてもらって即買いに走る。いや、残念ながら「走る」のんは気分だけやけど。
本屋さんに行くときいつも『柔らかな犀の角 山崎努の読書日記』■の一節をおもいだす。
【一刻も早く手にしたい本があって書店に向かう。気が逸(はや)って急ぎ足になる。読書の快楽はもうその時から始まっている。歳甲斐もなく、というか歳のせいというか、息を弾ませて店に入る】
▲ふふふ~急ぎ足も、息弾ませるのもまた「歳のせい」と聞くと、ますます「歳をとる」って、なかなかのもんやなあと思うのだった。ていうか、ええよね。しびれます。山崎サンの「読書の快楽はもうその時から始まっている」というフレーズ。なんかウヰスキー(え?本やなくて?)のCMに使いたいような。もう絵が浮かんできますよね。
▲この「快楽」は”密林”で買うのでは得られないもの。帰途がまんできずに、木の下にて読み始める~なんてこともまた。
というわけで「ちょっとだけ」と木の下読書を始めたら、この本『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社刊)はまさに木の下の場面からはじまった。
【足がしびれてきたのでわたしは立ちあがった。そばの木の幹を手のひらでざりざりとなでた。】
「ざりざり」ということばだけでも、この子の感じがつたわるようで、わたしもそばの木肌をなでてみる。
▲木の下に隠れる前のこと。
母はブルーハーツの歌を口づさみながらお茶碗を洗ったあと、寝転がってた少女に「亜澄、やっぱり母さんと一緒に死んじゃおうか」と言うんよね。母に「死のうか」と言われたのは夏休みに入って三度目で。亜澄は「ちょっとマル(近所の猫)のところに行ってきまーす」と家をでて桜の木のところに行くのだった。
▲ふうう。
いきなり「死のうか」という話が出て、わたしは「ちょっとだけ」の時間をおしまいにして本をリュックに入れて歩きはじめた。
岩瀬成子さんの本に登場する子どもは(大人も)、いつもみな何か問題を抱えてる。でも考えてみれば「何も抱えてない」ひとなんか誰もいなくて。
それでも、大人はともかく、子どもだけは無邪気で明るくあってほしいと~自分が子どもだった頃、結構大人の世界のことも「わかってた」のも忘れて、つい大人が思う「子どもらしさ」を求めてしまうんよね。
前に読んだ『だれにもいえない』■(岩瀬成子著 網中いづる絵 毎日新聞社2011年刊)の中で主人公の女の子が言う。
【子どもはときどき石みたいにしてなきゃいけないときがある。大人同志が礼儀ただしいあいさつをしているときや、声をひそめて話しているときや、知らない家に連れていかれたとき。なにもきいていないような顔をしてなくちゃいけない。大人の話がわかるような顔をしちゃいけない。お行儀よく、ただじっとしてなくちゃいけない】
(同書p36より抜粋)
▲家に帰って、買ってきたものを冷蔵庫に入れて、洗濯物を大急ぎで取り入れて、ふたたび本を開く。本屋さんではすぐにカバーをかけてもらったので、表紙をきちんと見てなかったけど、表紙カバーの絵は酒井駒子さんだった。膝を抱えた女の子が白い猫をじっとみてる。裏は、赤い長靴を履いた弟を見守るお姉ちゃん。儚げな横顔も後ろ姿もせつない。
▲主人公の亜澄は小学三年生。
両親は離婚して、弟は父のもとに。亜澄は母と2人市営アパートで暮らしているんだけど。母は給食調理室のパートの仕事が夏休みの間なくなって、コンビニの仕事だけになってしまう。
そんなところに、家賃を滞納して二ヶ月以内にアパートを出るように知らせを受けて。電気も水道もガスも、食べるものも、切り詰めて切り詰めて暮らす母子だけど、家賃が払えない。
▲母の「死のうか」は、そういう背景のもとで出たことばなんだけど。
自分の親に「死のうか」と言われた子どもの胸のうちを思うと、やりきれない。
亜澄はそんな母のことばを「いやだよー」と軽く交わす。それでも心のなかでは大きく波立って・・・冒頭、木のそばにしゃがんでたのは、そんな母のことばから逃げて隠れるためだった。
▲あるとき、亜澄たちのアパートの近所で、子どもらが「ナゾの店」とよぶ駄菓子屋さんのおじさんが飼ってる猫のマルを、おじさんが帰省するあいだ亜澄が預かることになる。
この「ナゾの店」周辺のひとがおもしろい。
いつも棚の前の丸いすにすわって本ばかり読んでる店主の「ナゾのおじさん」や、店によく来る「一見若い身なりなのに顔はかなり年取った感じ」の(苦笑)絵描きのスドウさんと、その母親。教会の牧師さんと信者さんとか、あ、蝉の抜け殻集めてるシゲルくんとかね。
▲『オール・マイ・ラヴィング』のときにもおもしろい(ふしぎな魅力の)人たちが登場してたけど、親子というやっかいで濃い関係のほかに、こういうかかわりは、ええ風が吹くよね。みなちょっとクセがあって。子どもに対して愛情があるような、ないような。ないようで、あるような・・うまく言えないけど、愛情みたいなもんがあったとしても地味でそれが重くないかんじ。
▲そうして、いちばんの救いは猫のマルだ。それから、亜澄の弟を思うきもち。弟がこまったときにいう、かれだけに見えるらしい「ゾゾ」の存在。
そうそう、忘れたらあかんのんが、ナゾのおじさんから、マルをあずかったお礼にもらった駄菓子。ナゾの店先が浮かぶような、「亜澄ちゃん、よかったなあ!」って声かけたくなる、みごとなラインナップ!に頬が緩む。
生姜せんべい、チャイナマーブル、金平糖、ゼリービーンズ、うまい棒、ベビースターラーメン、チョコ大福、ペンシルカルパス、するめソーメンに、ねぎみそせんべい・・・。あと、コーンアイスにもなかに雪見だいふく、もね。
▲お菓子は亜澄が子どもでいられる時間。
それでも、独り占めせずちゃあんとお母さんにも残しておいてあげる。
ほんま子どもって親がすきなんやなあ。そんで自分のこともすきでいてほしいんよね。
本を読みながら、何度も「そう、そうやねん」と、むかし、子どもだったわたしが心のなかにあったきもちを、ことばにはできなかったそれを書いてもろてる気がして、鼻がつーんとした。
ずっとこらえてたけど、アイスクリームをたべる場面でとうとう落涙。
【わたしは台所に行き、冷凍庫を開けてコーンアイスを取り出した。流しの電気の下で、包み紙をはがして食べた。甘い塊が口の中で溶ける。こんなおいしいもん、ずっとずっと食べていたい。ぺろぺろなめて、ちょっとかじって、コーンもかじって、ちょっとずつ食べる。もなかはあ母さんにあげよう。雪見だいふくは半分こして食べよう。口の中が冷たくなって喉も冷たくなって、舌がしびれた感じがする。大事に食べたけれど、アイスクリームはなくなった】
(同書p151より抜粋)
追記
その1)
岩瀬成子さんの本のことはたびたびここでも書いています。
と言うても、例によって横道にそれっぱなしの短い感想ですが。
『きみは知らないほうがいい』■
『蝶々の木』■
『くもり ときどき 晴レル』■
『なみだひっこんでろ』■
『ピース・ヴィレッジ』■
『オール・マイ・ラヴィング』■
その2)
この間から観た映画(DVD)がたまたま2本とも高校生の女の子が主人公のものでした。
ひとつは『私たちのハァハァ』(松居大悟監督)■”クリープハイプ”というロックバンドが好きで、福岡でのライブに行って「出待ち」してたとき「東京のライブにもぜひ」と言われたので、よし東京に行こう!と女子4人自転車で北九州(監督自身、北九州出身らしい)を出発、東京にたどり着くまでの物語。前情報もなく、なんとなくショップの棚から手にとった作品でしたが、おもしろかった。
もう話し言葉に方言はなく(これは意識して、そうしたのかもですが)いまの若い子のテンポのいい言葉、そしてスマホ、LINE、動画。好きでたまらない音楽、ミュージシャン。友だち。
もうひとつは『無伴奏』~小池真理子原作(半自叙伝的作品やそうです)1969年~の高校生が主人公。「無伴奏」というクラシック喫茶(仙台に実在のお店らしい)での出会いから始まるのですが。管理教育に疑問をもち、かばんにはいつもノートとペン。珈琲と煙草。『アデン・アラビア』の冒頭句。クラシックとジャズ~自分の十代と重なるところもあるのに、登場人物の話し言葉が、どうも気取って聞こえてとうとう最後まで入ってゆけませんでしたが。(池松壮亮クンはどちらにも出てたけど、「ハァハァ」のほうがよかった)
というわけで、ふたつの映画にあらためて、若者の「話し言葉の変化」に興味をもちました。
その3)
『吉野葛』(谷崎潤一郎)再読。(青空文庫でも読めます→■
前に読んだのはいつの頃だったのかも忘れてしまってましたが、なつかしい地名に、もう長いこと行ってない吉野川の上(かみ)の方を訪ねてみたくなりました。この本の中 吉野・宮滝というところで「ずくし」(熟し柿)をよばれた「私」のことばにじんときました。
【私がもし誰かから吉野の秋の色を問われたら、この柿の実を大切に持ち帰って示すであろう】
(同書「初音の鼓」より抜粋)
その4)
きょうはこれを聴きながら。
Fávitar - Benni Hemm Hemm→■