いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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しかられて。

▲めったに外食しない相方が、このあいだ出先でうどんを食べたというので「(味)どうやった?」と聞くと、厨房で店主が母親や従業員を怒り飛ばしてるのがまる聞こえだったらしくて、味がどうのこうのと言う前に「もう食べた気ぃせんかってん」と、こぼしてた。
怒ってたのは、たまたまなのか、いつもなのか。どんな事情があるのかは、「一見の客」にはわかりようもないけど。そういうときの気まずさって、たまらんなあと思う。

▲わたしも、いつのことやったか外出中、お昼を食べそこねて歩いてたときのこと。
おいしそうなにおいが外まで漂ってたから、吸い寄せられるようにある食堂に入った。
カウンターにも、テーブルの上にも丼鉢や割り箸やらコップが散らかってて、昼時の忙しさが想像できたから。「けっこう人気の店なんかもなあ」と、ほくほく店内みわたす。もう2時前で、客はわたしと先客のおっちゃんとふたりだけだった。
わたしはオムライスを注文したんだけど、そのとき威勢のいい店主の返事に被るように小さい女の子のぐずる声がカウンターの中から聞こえたんよね。

▲わたしも旅館とたべもの屋で大きいなったから、その状況はほぼ飲み込めた(気がする)
いっときになる昼のお客さんの波がようやく引いて「さあ、遅うなったけど、わたしらもお昼にしよか」というタイミングに、客が一人入り、娘が拗ねて。「もうちょっと待っときや」となだめられ、こんどこそ自分の番が来た、と思ったのに、またおばちゃん(わたし)が入って来たんやろなあ。たぶん。ごめんやで~

▲母親が「すんません。すぐ下げますんで」と、脇にお盆挟んで布巾片手にテーブルの食器を片付けに来て。女の子も母親のそばにくっついてる。そして「ねえ、ねえ、○○のオムライスは?」と、ぐずったあげく、エプロンの端を引っ張ったので、コップの水が床にこぼれてしもたんよね。
その瞬間「うるさい!二階に上がっとけ!」と店主がケチャップライスの入ったフライパン振りながら怒鳴ったのであった。

▲もぉ、うるさいのはあんたやろ~(と、心の中でいう)
先客のおっちゃんは、素知らぬ顔してスポーツ新聞読みながらラーメンすすってはる。わたしのんは後でええし、早うこの子の作ったげて~と(心の中でいう)
けど、ほんまに言うてみたとこで、そんな申し出を受けることはないやろしなあ、と思いながら、わたしは俯いて飲みたくない水をのんでオムライスが出てくるのを待った。

▲スーパーのお菓子売り場の前で、レジ前で並んでるときも、エレベーターの中でも、しょっちゅうこどもは親に怒られてる。いや、こどもだけやなく、妻が夫に怒られてるとこも、この間はパパがママにぼろくそに怒鳴られて、間でこどもがオロオロしてるとこも見たけど。
どんなときも、自分が怒られてるみたいにしょんぼりしたり、腹が立ったりする。かと思ったら「ちゃんと怒らなあかんやろ」とおもうこともあって。「叱る」というのは、ほんまむずかしくて、ややこしい。

▲「叱られて次の間に出る寒さかな」(各務支考『枯尾花』所収)というすきな俳句がある。
これは江戸期の「かがみ・しこう」という俳人の作なんだけど、こどもの頃親に叱られて、その場にいられず、となりの部屋に出たときのひんやり畳のつめたさが浮かぶようで。
せやから、ずっとこの句はこどもが怒られてる俳句とばっかり勝手に思いこんでたんだけど。

▲今回しらべてたら、この句は芭蕉死去の前日、元禄七年(1694年)10月11日大阪御堂筋の花屋の貸座敷、師の病床につめていた門弟たちが夜伽の句を詠んだ、その一句やそうで。ある方のブログにその時の様子がこんなふうに綴られていた。
【当時、三十歳の支考は、伊賀から芭蕉に随従しており、師が病床に臥してからもまめまめしく看護に尽くしていた。 が、時には芭蕉の機嫌をそこなって叱られることもあったのであろう。そうした折、師の枕元からすごすごと引き下がって次の間へ出てゆくと、夜の寒さがひとしお身に沁みる、という句である。】
(ブログ「壺中日月」→より抜粋)

▲そうか~支考さん、病床の師匠から叱られはったんか。
こどもが叱られるのもせつないけど、大のおとなが叱られるのも、つらいなあ。そういえば、わたしも父のさいごの入院中、見舞うたび、ようおこられたなあ。

▲そのころ病室を訪ねるのはパートの仕事が休みの土曜日で、朝ゆっくり目に大阪を出て着くのは、お昼すぎ、父が見るともなしにテレビつけてる頃で。
その日は好物の木村屋のあんぱんをおみやげに、エレベーターが来るのも待ちきれず、三階まで階段をかけあがり、はあはあ言いながら病室のドアを開けた。

▲ノブを持った手をぱっと離すと、思いもかけずバターンと大きな音が響いてドアが閉まるのと「だれやねん!」と父が怒鳴るのが同時だった。
まさか前夜不調であまり眠れず、やっと寝入ったとこ・・・やなんて、知らんかったしね。
水差しから水をのませるのも下手やったから、むせて真っ赤な顔してものすごく怒ってたし。初めて尿瓶をもっておしっこの手伝いしたときも、布団にちょっとこぼして怒られたなあ。

▲いまはもう目ぇ大きいして怒ったその顔さえ懐しく、父との思い出のだいじな時間になってしもたけれど。
当時は、わたしもまだまだ若く、傷つきやすく。
病室ではようしゃべってよう笑ったものの、そんな日は、父のわがままにがまんがならず、何よりじぶんの不器用さが腹立たしく。しんそこ悔しくて泣いたりもした。

▲この間『みまもることば~思春期・反抗期になっても いつまでもいつまでも』(石川憲彦著 ジャパンマシニスト社2013年刊)という本を読んだ。この本のなかにも何度も「叱る」ということばが出てくる。こどもを育てるなかで「叱る」は避けて通れないしね。まったく叱らない親も、叱りすぎの親も、かなんなあと思うけど。大事なことはこれ↓に尽きると思う。

【こどもを最低限かつ絶対的に、叱り教えていかなければならないことは、「自他の命を傷つけない」、「弱いものをいじめない」こと。これだけは、あらゆる手段を駆使して伝えていく必要があります】
(p143~144より抜粋)

▲そうそう、この本のなかに石川氏が小さいとき、どうしてもほしいものがあり、自分でお札作って(!)買いに行ったというエピソードが語られていて。
案の定、店のおじさんにものすごい勢いで怒られ「警察に連れて行く」とまでいわれて、ほんとうにこわい思いをして、結果「社会のルールを骨身にしみて理解することができた、とあったんだけど。
「警察に~」とまで言われるほど、自作のお札が精巧な出来やったんやろか?(苦笑)とか、思ったりしつつ。

▲以前ここ(2012.8.28)に書いた井上ひさし氏が中3のとき、本屋で万引きが見つかったときの話を思いだしていた。
本屋のおじさんが「警察に・・」というのを制して、おばさんが井上さんをどんなふうに叱ったか。
その深い知恵とやさしさを、ほんとうにすごいなあと思うし、あらためて「叱る」ことの意味を思うているところ。
(未読の方はぜひ、すでに読んだ方ももういっぺん読んでくださるとうれしいです。)


*追記
その1)
↑で書きそびれてしまったけど、『みまもることば』の中に「約束」について書かれた一文があります。ちょっと長くなるけど引用してみます。

【こういうと、「約束を守るのは最低限のしつけ」という人もいるかもしれません。でも、約束とは、対等な力関係のなかで成り立つもの。少なくみても七歳ぐらいまでは、親子関係は対等ではありえない。親は絶対的な権力をもっている。「約束」とはじつは、親の一方的な押しつけです。力ある者におとなしくしたがうか、たくましく反抗するかは、そのこどもの個性、性格によるもの。
さらにいえば、おとなしくいうことを聞いたとしても、それは、親が期待するような「約束を守る」という論理ではありません。「どうも、この雰囲気では要求しないほうがよさそうだ」という、いわば「生き物」としての、身を守る感覚で行動しているだけのことです。】(p86より抜粋)


その2)
しゃがめないので、先日迷ったすえ安くて、けっこうパワーのある草刈り機を買いました。うぃーんうぃーんと機嫌よく草刈りしてたら、あとでおもいっきり筋肉痛と膝痛になってしまい。
腕の筋肉痛はすぐ回復したものの、膝痛がぶり返して凹んで、こもっていましたが。
ちょっとましになってきたので、たまには出かけようと、この間ええお天気の日におもいきって映画(『この世界の片隅に』)を観に行ったり、べつの日には絵本作家のあべ弘士さんのお話を聴く会にも出かけてみました。

チェンバロの演奏(カッチーニのアヴェ・マリア)をバックにあべさんの朗読で聴く『旭川。より』(宮澤賢治の「旭川。」をモチーフにした絵本)が、じんとしみました。あべさんというと動物の絵本、の印象しかなかったのですが、この本にであえてうれしかった。


その3)
今読んでいる『現代思想』10月号(特集・相模原障害者殺傷事件)→のなかで熊谷晋一郎さん(以前、ここにも書きました→)が、この事件のあといただいたメッセージの中、カナダのライナスさんという方から寄せられたものを紹介してはりました。ライナスさんはご自身も慢性疼痛繊維筋痛症という慢性疼痛を持っているソーシャルワーカーをしてはる方だそうです。

そのなかでも【There was no others in this community】をあげて
【私たちが住むこの社会には他者は存在しない、全てが他者ではない、我々なんだっていうふうなことを述べているんですね。】(同書p68~p69より抜粋)とあり、心に残っています。

その4)
観たDVD『メニルモンタン2つの秋と3つの冬』~なんてことないけど、よかった。


その5)
きょうはこれを聴きながら。
スミ・ジョーって、最近どこかで聴いた(観た)気がしたなあ、と思ったら、映画『グランドフィナーレ』最後に"Simple Song #3"をうたいあげてた方でした。

Sumi Jo - Caccini (Vladimir Vavilov) - Ave Maria→

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by bacuminnote | 2016-11-27 20:43 | 本をよむ | Comments(0)