十月の雨。
2017年 10月 09日
▲さあ、これから今年のおわりまで、だれかに背中押されてるみたいに忙しなく過ぎるんだけど。今年(こそ)は、その「だれか」のナンバーワン~せっかちなコマーシャルに惑わされて(モノを買い)急がず、バタバタせずに、いつも通りのちいさな暮らしをだいじにしようと思う。
▲前日から雨がつづいて薄暗い午後だったけど、雨音と雨にぬれた緑、それに雨の日のこどもを見るのもすきやから、出かけることにした。
ちいさいひとは自分の傘を初めて持つようになると、みな「いちにんまえ」の顔つきだ。柄を短めにぎゅうっと持つちいさな手も、ぱしゃぱしゃ水たまりを挑むように歩く姿も。自分ちのこどもらの雨の日の思い出は、もう遠くなってしまったけれど。こどもの傘もかっぱ姿も、みな、ほんまにかいらしく、いとおしい。
▲今日会った男の子は傘をくるくる回しては何度も上を見上げてた。その透明のビニール傘には鉄腕アトムの絵がいっぱい描かれており。傘を回すと頭の上でアトムがびゅんびゅん飛んでるみたいに見えるのか、立ちどまっては回し~をなんべんも繰り返し。先を歩くママがふりかえっては呆れたように「もぉ~◯ちゃんったら、早くおいでよ」と呼んでいて。おばちゃんは「あとちょっと。もうちょっとだけ」と代わりに返事したくなる。
▲少し行くと、こんどの衆院選の候補者の掲示板が設置してあって、たちどまって眺める。(さっきのこどもみたく、なかなか先に進めないw)公示前やからポスターは貼ってなくてベニヤ板に黒い枠だけ。この枠の中が嘘や排除や選別、ご都合主義と好戦的な人たちで埋まりませんように。まっとうな人がいてくれることを。そして有権者もあの手この手の「マジック」にまどわされず「偽モノ」を見分ける眼をもたなければ~だまされへんからね!ああ、それにしても。すっかり汚されてしまったことばの数々が頭のなかで舞っている。
▲さて、いま住んでるところはけっこう大きな街ながら、毎日ほぼ同じ時間帯に同じコースで動いていると「顔見知り」何人かに出会う。いや、声をかけ合うこともなく、もちろん名前も住んでるところも知らなくて、ただお互いに(たぶん)顔を知ってるだけの「通りすがりの人」なんだけど。
▲まっ白な髪の女性のいつもセンスのいい服装や、杖つきながらゆっくりゆっくり、みるたびにちがう帽子のかっこいいひと。押し車押してるおじいさんの笑顔は見たことがなくて。スマホ見ながら歩いてる青年はいつ見ても笑ってて、決まってコンビニのお弁当とスナック菓子とペットボトルの三点セットの入った袋をぶらぶらさせて職場にむかう先のとがった靴のお兄さんとか。わたしは「ハットさん」「スマイル」「ふきげんさん」「コンビニさん」とか、勝手なネーミングをたのしませてもろてる。(すまん)
▲「名前をつける」といえば、以前作家の絲山秋子さんが大学のクラスの授業で話したことをツイートしてはって、とても興味深く読んだことを思い出す。曰く《私自身、名前の在庫をいつでも取り出せるように、トレーニングをしています。駅の改札で、待ち合わせしているふうな顔をして、改札から出てくる人全員にどんどん名前をつけていくのです。100人くらいやります。》(2015.9.23)
▲さすが絲山秋子さん。《職人が道具を使いやすく管理したり、刃物をきちんと研ぐように》トレーニングをしている、とのこと。すごいなあ。
それでこのツイート読んでから、まねしてわたしも歩きながら時々やってみるけど、せいぜい十数人くらいで、品切れならぬ名前切れしてしまう。
▲そういうたら、ケッコンしたての頃つれあいのおばあちゃんが彼のことをちがう名前で呼んでいて「それ誰ですか?」とびっくりしたんだけど。どうも彼が若いとき、ある日名前を変える宣言。家族に「これからは◯◯と呼ばへんかったら返事せぇへんから」と言うたそうで(笑)
当時、義父母がそれに応えたかどうかは知らないけど、おばあちゃんだけは(彼がもとの名前にもどしてからもw)いつまでも従ってたというわけで。
▲一方、ウチの母は父と結婚して「信子」という名前に変えられたらしく、父を始めみんな「のぶこ」「のぶこさん」と呼んでいた。それなのに書類や手紙には母が「尚子」と書くのを見てふしぎに思って聞いたら「尚子ではウチの苗字に合わへんのやて~」と不満気に言うてたんを思い出す。母は「ヨメ」になって、姓も名も変わってしもたわけで。祖父母の死後は「本名」で通してるけれど、父は亡くなるまで「のぶこ」と呼んでたなあ。
▲自分で名前を考えたり変えたりできるのはええことやと思うけど、だれかに(「家」にしろ「国」にしろ、権力をもつ側に)変えることを強要されるのはゆるせない。
たまたま今日読んだ本『ともに明日を見る窓』(きどのりこ著 本の泉社)にも名前の話がふたつ出てきた。この本は副題 「児童文学の中の子どもと大人」にあるように、7つの章に各4~6編の児童文学を紹介している。
▲ひとつは「人の優しさを発見していく~高史明(コサミョン)『生きることの意味』■を中心に」の中に出てくる日本の植民地支配の中「創氏改名」により奪われた名前。もうひとつは「今度、お家が二つになります~ひこ・田中『お引越し』■を中心に」で両親の離婚の話。母親が「旧姓」に戻り、主人公のレンコが、父親か母親の姓を選ぶことで話し合い、揺れる。
*追記。
ひさしぶりに?長い長い追記 になりましたが、どうか最後までおつきあいくださいませ。
その1)先日『ぼくは満員電車で原爆を浴びた 11歳の少年が生きぬいたヒロシマ』(米澤鐵志 語り 由井りょう子 文)を読みました。タイトルにあるように米澤さんは11歳のとき爆心から750mの電車内で母親と共に被爆します。翌月母親が、乳飲み子の一歳の妹は翌々月に亡くなって。少年の目でみたその日のこと、その後のことが語られます。
なかでも深く残ったのは米澤さんが中学校に入学して、国民学校でいっしょだった友だちと再会したとき(彼ともう一人は事情があって市内にいたけど、友だちは疎開していたので無事だった)仲良しの朝鮮人の友だちの姿がなかったこと。
ほかの町内で集団疎開した友だちに聞いても、みな知らないと言う。だれともなく「戦争が終わったから朝鮮に帰ったんじゃろう」と言うて、いつのまにかそう信じてたんだけど。しばらくして「ぼく」は集団疎開の中に朝鮮人の友だちがだれもいなかったことに気づきます。
その後、朝鮮人の被爆者と知り合って聞くと、こんな答えが返ってくる。《朝鮮人がどうだったか、だって。朝鮮人は疎開なんかできなかったんですよ。”おそれおおくも半島人も天皇陛下の赤子にしていただいたんだから、子どもといえども銃後の守りをせなあかん、疎開などはもってのほかだ”ということで疎開させてもらえなかったんです》(p103)
「あとがき」にあるように、米澤さんは被爆体験「語り部」は続けてきたものの、本にすることは断ってこられたそうです。
けれど《東日本大震災、それにともなう東京電力福島第一原子力発電所の事故により、ふるさとを追われた福島の人々を見て、考えが変わってきました》《形は変わっても、どちらも「核」でありることに変わりはないからです。》《人類と核は共存できないことを、あらためて強く感じ、広島でのぼくの体験を本にして残すことで、少しでも多くの人々に「核」と戦争」について考えていただければと考えるようになりました。》と。
ほんとうによく語ってくださり、よく文章化してくださり、本になったこと、と思います。
今年7月に国連で採択された「核兵器禁止条約」に被爆国の日本は国として不参加(!)だったけれど、核兵器廃絶を訴えるNGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」ICANには、日本からは発足当時からの運営団体ピースボートや日本被団協などが参加。そのICANが先日ノーベル平和賞を受賞しました。
その前に発表のあったカズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞は早々に首相からお祝いメッセージを発表、テレビでも繰り返し取り上げられたそうですが、平和賞はテレビ以前に、首相、政府からのコメントもなく、やっと(10月8日付け)外務省から談話が発表されました→■ただし《ICANの行ってきた活動は,日本政府のアプローチとは異なりますが》という「前置き」から始まるものでしたが。
以下はピースボート共同代表でICAN国際運営委員・川崎哲さんのツイート@kawasaki_akira (2017.10.07)より抜粋。
《今回のノーベル平和賞受賞は、核兵器の禁止と廃絶のために勇気をもって声を上げ行動をしてきたすべての人たち、とりわけ、広島・長崎の被爆者、また、世界中の核実験の被害者らに対して向けられたものだと思います。被爆者の皆さまと共に今回の受賞を喜びたいと思います。》
《生きているうちに核兵器のない世界を実現したいと願いながら、その夢が叶わぬうちにこの世を去った多くの被爆者のお顔を思い出します。改めて、心より哀悼の誠を捧げます。それでも、核兵器が国際法で全面禁止されるところまで来ました。さらに歩みを進めれば、核兵器廃絶は必ずや達成できます。》
《日本は選挙一色かもしれません。しかしこの機会に、日本の核兵器政策とは?日本は核兵器禁止条約に署名・批准するのか?この条約にどう関わるのか?といった点について、各党の方針を聞いてみたいところです。核兵器の禁止と廃絶をめぐる日本国内の論議が深まることを期待します。》
その2)長くなるから追記はやめにしようと思ってたのですが、これはやっぱり書かないと、と書き加えました。
きょうはこれを聴きながら。
パブロ・カザルス「鳥の歌」(1971年国連スピーチ)■ 「鳥の歌」■