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いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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おべんとう。

▲前々回のブログは「十月の雨」という題にしたけど、台風も含めてなんだかずーっと「雨の十月」だったなあと思う。で、11月に入り今日は秋晴れのきもちのいいぽかぽか陽気の一日になって、しみじみとうれしい。

▲かつて亡き義母のホームの送迎バスに乗ると、道中必ず誰かが今日のお天気から明日の空模様を話し始めて。そのうち皆口々にお天気のことを言うので、車内は天気予報大会みたいになって。「ここはいっつも天気の話やなあ~」と下むいて笑ってたんだけど。天気は元気と隣同士みたいなもんやから。しんどいとこイタイとこあるひとにとってはとても大事なこと~と、いまならわかる。

▲今日は洗濯物も布団も毛布も枕もみな庭いっぱにに干した。雨続きで気がつかなかったけど、あちこちに石蕗(つわぶき)の花の黄色がみえる。窓を開け放しても寒くなくて。掃除機のガーガーうるさい音も、こんな日は「掃除してる感」があってやる気が出るというもの~(勝手なもんだ)家の中に溜まった埃も湿気も。住人の中に溜まったあれこれと湿気(!)も、この勢いで外に出す。かくして快晴にひっぱられ、にわか働き者になったせいか、それとも今朝は早起きしたからか、お昼前からおなかがぐうぐう鳴っている。

『アンソロジー お弁当』という本を、だいどこで読み始めた。タイトル通り41人の(虚子や百閒。吉川英治に向田邦子・・よしもとばなな、角田光代、華恵などなど)世代をこえてお弁当をめぐるエッセイと、合間合間にお弁当の写真(どれもおいしそう)も挟まっており。曲げわっぱから、タッパ、ラップでくるんだおにぎり。楕円形のアルミのお弁当箱には釘で削った名前が見えるようで、なつかしい。

▲今日みたいな陽気やと、おべんと持ってどこかに出かけたいなあ~とか思いながら、気の向くまま、目次を無視して読んでいる。これまで読んだところでは、お母さんが拵えてくれるお弁当の話が多いように思う。運動会のいなりずしや、給食のなかったころガッコに持ってゆくお弁当の話。

▲珍しいところでは池部良さんのお父さんが良さんに拵えたというお弁当。「子供にうまい弁当を食わせてはいけない」と、お父さんは料理上手なお母さんからその座を奪い、削り節に醤油をかけたものをごはんの間にはさんで、上に梅干し1個という「日の丸弁当」を二年間、ずっとおなじものを拵えたらしい。ただし、途中からは良さんが母親の財布の五十銭銀貨をこっそり盗み出しては、学食でカレーやハヤシライスを食べていたらしいけど。(「敗戦は日の丸弁当にあり」池部良)

▲一方「うまい弁当」どころか《ときどきお弁当を持ってこない子もいた。忘れた、とおなかが痛い、と、ふたつの理由を繰り返して、その時間は教室の外へ出ていた。》と向田邦子さんは綴る。
《小学校の頃、お弁当の時間というのは、嫌でも、自分の家の貧富、家庭の愛情というか、かまってもらっているかどうかを考えないわけにはいかない時間だった。豊かなうちの子は、豊かなお弁当を持ってきた。大きい家に住んでいても、母親がかまってくれない家の子は、子供にもそうとわかるおかずを持ってきた》(「お弁当」向田邦子)

▲お姉さんがおにぎりを拵えてくれた、という話もあった。(「姉のおにぎり」白石公子)
著者が小学一年生の秋にお母さんが長期入院をするんだけど、ある日学芸会があって、忙しいお父さんにかわり、当時小学五年生のお姉さんが初めてご飯を炊いておにぎりをもたせてくれる。苺の模様の洗いざらしのガーゼのハンカチに包まれた小さいおにぎり2個は、せんべいの硬いビニール袋に入っており。しかも、それはみたこともない奇妙な形やったそうで。

▲《ご飯粒のついた海苔がべろんと剥がれて、やわらかすぎる御飯をにちゃっと噛めば、冷たく歯にしみて、塩気のしない御飯は生臭く、思いっきり不機嫌になってしまうほどおいしくなかった。誰にぶつけたらいいのかわからない。やりきれなさがこみ上げてきた》(p151)

▲お母さんの病気で学芸会に来てもらえなかったさびしさと、そんな特別な日のお弁当がお姉さんのおいしくないおにぎりで、よけいに「お母さんだったら」と、思いをつのらせて泣きそうになってる女の子がうかぶようで。一方、母不在の家で父の手伝いをし、自分のさびしさを堪えてわがままな妹の世話をする健気なお姉さんの姿がせつなくて。そういえば、と『となりのトトロ』の姉妹が浮かんだ。

▲著者もずいぶん後になって『となりのトトロ』を見たとき、あの日のおにぎりの味といっしょに、妹のために見よう見まねでつくってくれたのであろうお姉さんのきもちを初めて思って《今ごろになって、ハラハラと涙がこぼれそうになってしまうのである》と綴る。
「食べる」ことは「生きる」こと。人の数だけ暮らし方はあって。お弁当箱の中にもいっぱい思いと物語がつまってる、とおもう。

▲家族や自身の手で拵えたお弁当の話が続くなかで、目次に「ほっかほっか弁当」の文字をみつけて、読んでみる。(「<ほっかほっか弁当>他 抄」洲之内徹 『さらば気まぐれ美術館』新潮社より )
あるとき氏は名古屋方面から長野へと車を走らせたらしい。《中央高速がまだ中津川から恵那あたりまでしか開通していなくて、そのどちらかのインターで高速を降り、十九号線に入ったはずだ。小雨が降っていて、そのうえ途中で夜になり、初めてその道路を走る者にとっては、国道十九号線は怖い道であった》(p108)

▲19号線といえば、信州に暮らしたわたしにとっても思い出深い国道だから、読みながらつい前のめりになる。
氏はそのときの怖かった体験を後で『気まぐれ美術館』に書いたら、幅さんという見知らぬ方から手紙が届く。曰く《自分の家は国道十九号線の傍で、藁葺きの屋根が国道から見える、老夫婦二人でそこで暮らしている、こんど十九号線を通ることがあったらぜひ寄ってくれ、というのであった》

▲氏はその後幾度となく19号線を通ることになるのだが、手紙の主の家を訪ねることはなかった。幅さんからは時々手紙をもらったり、氏が『気まぐれ美術館』の文中に「探している」と書いた古書を送ってきてくれたりする。ある日たまたま明科を通ったのが朝の内だったので、思い立って幅さん宅を訪ねようと思ったそうで。門の前に車をとめると、ちょうど門から鞄を抱えて出かけようとしている老人、そのひとが幅さんだった。

▲氏が名乗ると、出かけるのをやめにして「こんな用事いつでもいい、明日でいいんです、とにかく入ってください」と言われて上げてもらう。当時前年におつれあいを失くした幅さんのお家には、近くにいる妹さんがときどきお世話に寄ってるらしい。お茶を運んできた妹さんが氏に「泊まって行ってください」~と誘ってくれて、そんなつもりのなかった氏はあせるのだが。ちょっとのつもりが2時間ほど話して、帰ろうとしたら幅さんが明科の駅前を通るなら自分も乗せて行ってほしい、と言うのだった。

▲来たとき出かけようとしてはったのを思い出して、氏はてっきりそこに連れて行ってほしい、ということかも~と同乗して駅にむかう。ところが、駅につくと「ちょっとここで待っていてください」と幅さんは車を降りてどこかに消えたままなかなか戻ってこないのである。

▲しばらくして白い袋を下げて幅さんが姿を見せ「今日はせっかく来てもらったのに何もお構いもできなくて・・・、これ、昼食代わりに食ってください」と窓からその袋を差し出すのだった。中をのぞいたら、ほっかほっか弁当とビニール袋入りの一口シュークリームが入ってたそうで。《何ともいえない気が私はした。土地の名物か何かだったら、私はこんな気持ちにはならなかったろう。感動したのだ》と氏は窓越しに頭を下げるのだった。

《どうしても書いておきたかったのはこの〈ほっかほっか弁当〉のことである。なぜか分からないが、いうなればこれが私の信仰なのだ。幅さんが私に〈ほっかほっか弁当〉をくれた、こういう一瞬の中にだけ、何か、信じるに足る確かな世界がある。明科の駅前で買った〈ほっかほっか弁当〉で、いつまでも、私は幅さんを忘れることはないだろう。》(p116)

by bacuminnote | 2017-11-02 15:23 | 本をよむ