いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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カテゴリ:yoshino( 23 )

今月三度目の遠出。
いつも家に篭ってるから、外出が続くと自分やないみたいで、なんだか落ち着かないんだけど。この季節の吉野方面への道中は車窓からの景色を見ているだけで、緑がからだの中に入ってゆくというか、自分がどんどん緑になってくようで、気分が昂揚してくるのがおかしくて。
窓に額くっつけてひとり、くくくと笑うてしまう。いま暮らしてる町もけっこう緑は多いんだけど。ここ通ったあとに見たら、きっと映画のセットみたいに感じるやろなあ。

今回はつれあいとふたり。彼もまたこの前の息子みたく久しぶりの近鉄南大阪線~吉野線の景色にじっと見入ってる。
窓の外、ぽつぽつ見える建て替えの新しい家がある他は、わたしの高校の電車通学のころ(1970年代)とほぼ変わらず。ただただ山と少しの畑がつづく景色が沁みる。

いや、走る電車の中から通り過ぎる景色に、余計なものが何もない、と感動してるのと、そこで留まり暮らすひとの思いが重なるか、というのは、幾度か経験した田舎暮らしで少しは想像できるから。ときに「余計なもの」も生活を潤わせてくれるから。単純に「田舎はいいなあ」「住んでみたい」とは言えないんだけど。それでも。やっぱり、ついつい、なんべんも。「ええなあ、ええなあ」とつぶやいてしまう。

見舞いに行った先の病院もまた緑緑緑のさなかにあり、病窓から山の稜線がそれはみごとで、きもちがしんとする。
携帯用の絵の具セットでそんな山々を描いてるらしいと聞いてうれしかった。
そのむかし辰巳浜子さんの料理本でおいしいもんを拵えてくれたひとに、その娘辰巳芳子さんのスウプの本をもって来た。「ほな、またね」と握手(おもいきりハグしたいとこやけど傷口に堪えるし)して。お見舞いのつもりが、山々と澄んだ空気に見舞ってもろぅたきぶんで病室をあとにする。

オンバサラダルマキリソワカ。
(まえに旧友jと行った京都三十三間堂でであった真言。「いのりましょう。大切な人のために。そして、生きとし生けるもののために。」

次はいま走ってきた電車で何駅かもどって母のホームに。

午後のホームも電車もがらーんとして。停車のたびに車内をええ風が通ってゆく。なつかしい駅名に、ここからはあの子、次の駅ではあの子、と電車通学のかつての同級生の名前が(もうすっかり忘れていたのに)自然に口をついて、おどろく。
さてようやく最寄り駅に到着するも、タクシーも出払って、バスも次の出発まで45分もある。困った。つれあい一人だったら歩いて行ける距離なんだけど、わたしにはちょっとキツイんよね。

しばらくの間、母に要るもの聞いてコンビニで買い物したり、その辺うろうろして待ってみたけどタクシーは戻ってくる気配がない。

結局、停車中の行き先のちがうバスの運転手さんのアドバイスで、ひと停留所分そのバスに乗って残りふたつ分を歩く、という方法をとることになった。

その日は夏みたいに暑くて、ふたつめの訪問ということもあって、がっくりきてたけど、バスに乗るや「あ、やっぱり歩かはりまっか?」と運転席からバックミラーをみて運転手さんが声をかけてくれて。「他所から来た人」と思わはったんやろね。続いて「◯◯☓☓カードは持ってはりますか?なかったら、190円まわりしといてくださいや」と。

その親切な応対もうれしかったけど、何よりわたしは「まわりする」に、じんとくる。「まわりする」とは奈良県(主に南部?)で「支度すること」なんよね。ここでこんななつかしい言葉聞くとは思わへんかったから。一気に疲れがとんでいくようで頬がゆるんだ。
バス停ひとつ分はあっという間にすぎたけど、坂道だったので助かった。降りる時も「この道、まーっすぐ、まーっすぐですさかいに」と教えてくれて「おおきに~」と下車した。

部屋でじっと待ってられへんかったのか、母は押し車を押して玄関ホールまで降りてきており、苦笑。そういうたら、つれあいのお母さんもわたしらが滋賀や信州の家から車で帰省のおり、何度も玄関の外まで出て(携帯電話のない頃やから何時に着くかもわからへんのに)待ってはったようで。
そんなお義母さんをみんなで笑うてたのに、今はわたしが息子らが帰ってくるとき、おなじようなことをして「いさこさん(義母のなまえ)現象」と家族にからかわれている。

長生きしてよかったことも、しんどいことも。母の喜怒哀楽も日替わりだけど、ここに来てもやっぱり好奇心旺盛で、若いスタッフに「ずっとこの仕事してはるの?」とか話を聞いたりしてるようで(苦笑)。
「なんか営業の仕事してたらしいけどやめて、僕には介護の仕事が合うてると思います~って、言うてたわ」とか「今日は100歳のひとが前に座らはった。100歳のひとなんて初めてや」とコーフン気味に話す母も、一ヶ月後には94歳になる。自室の壁には、わたしが出したポストカードと、習字教室で書いたというじまんの一枚(たぶん)が貼ってあって。「五月晴れ」と書かれてた半紙が風でゆれていた。

*追記(いつものことながら、長いです)

その1

この日のおともは『もういちど自閉症の世界と出会う 支援と関係性を考える』2016年刊)という本でした。この間読んだ『ち・お115号』「親になるまでの時間」前編(浜田寿美男著)がとてもよかったから、自分のなかで反復したり、書かれたことについてつれあいとご飯たべながら、のみながら、話したりして。いろいろ考えていたとこに、ツイッターでよくやりとりしてるkさんがこの本に言及されていて。ああ、その本つれあいが買うてウチにあったなあ~と思い出して、読み始めたのでした。

ツイッターのたのしいところは本や映画をきっかけに、それが広がり深まる「きっかけ」を得られるところ。あとは自分しだい。そのまま忘れてしまうこともあるし、本や雑誌なんかは知って、「おお!」とおもって即注文、ってこともある。自分では用意できなかった種をもらってる感じ。

『もういちど・・』は何人かのひとが書いてはるんだけど、とりあえず関心をもった浜田寿美男氏の頁(第三章 自閉症という現象に出会って「私たち」の不思議を思う~わかりあうことの奇跡と わかりあえないことの自然)から読み始めましたが、車中で何度も隣席に「ちょっと聞いて」と読み聞かせ(笑)をしました。このことは(さっき書きかけたけど、めちゃ長くなりそうやから)次回に書こうとおもいます(つもり・・)

そのまえに『ち・お115号』です。

いくつかこころに残ったところを書いてみますが、ぜひ読んでみてほしい一冊です。7月には116号がでます。たのしみ。

【あえていえば、人は発達のために生きているのではありません。どんなにささやかであれ、手持ちの力を使って生き、それぞれの生活世界を広げていく。新しい力が生まれてくるとすれば、それはその結果でしかありません】(p37

【実際、ことばが出てきてはじめて人同士のコミュニケーションができるかのように思われがちですが、ことばはむしろことば以前の身体でのコミュニケーションがあってはじめて出てくるもの、それを逆立ちして考えてはいけません。】(p46

【ことばを乗せるコミュニケーションツールが地球規模で蔓延するいま、ことばの空回りもまた蔓延しています。人類はどうしようもなくおしゃべりなのです。だけど、おしゃべりがほんとうに意味をもつためには、そのおしゃべりがテーマとする現実世界を、まずは身体で共有すること。そのためにはときとして沈黙して、互いの身体を見つめ、その表情を読みとることも大切ではないかと思います。】(p48

その2

引用文のなかの「そのためにはときとして沈黙して・・」は「どうしようもなくおしゃべりな」わたしに沁みることばでありました。

そういえば、そんなわたしがほんまにしゃべることができなくなった時があります。

時期的にいえば、下の子が小学校入学前だったことから、耳鼻咽喉科ではあっさり「ストレスかなあ」とドクターに言われたのですが。自分では保育園と小学校のちがい(たとえば食物アレルギーでお昼は別に作って持って行ってたことも、本人が入学前から「ぼくガッコに行かんとこかなあ」と登校に乗り気やなかった!ことも、保育園のときから「引き続き」という感じやったし)への不安も特別なかった気がするのですが。


何より、風邪でもない、扁桃炎でもないのに、なぜ声がでないんだろう。ていうか、ふつうはどうして声が出るんだろうと、生まれて初めて「しゃべる」ことへの疑問をもったことを思いだしました。

結局わたしの場合「声帯に隙間ができて震えない状態」やから声(音)にならないのだろう」ということで、一応なんか薬は出たけど、ドクター曰く「一番有効なのは沈黙です」とのことでありました。

これ、なかなか苦行やったんですが、黙ってると見える(感じる)こともあって、ええ経験でした。(しらんうちに治ったので、また忘れてしもてる・・)

その3

ここ二ヶ月ほどいろいろあって、容量のちいさい頭とこころがパンク寸前でしたが、ようやく山ひとつこえたかな、というとき。おもいきって映画館に行ってきました。たった2時間ほどだけど、暗闇で、ひとり、黙って(!)観て。
とてもとても佳い時間でした。映画館でたあとも、エンドクレジットのバックで流れ続ける海の音がずっと耳元で聴こえてた。ああ、海のそばに行きたくなりました。

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』


その4)

『図書』(岩波書店)前からの連載(梨木香歩「往復書簡」)も、新連載(ブレディみかこ「女たちのテロル」などなど)~おもしろいです。4月号は本屋さんで本買ったときもらって、5月号はもらいそこねて図書館で借りて、6月号からとうとう定期購読注文。はやく届かないかなあ


その5)

長くなりました。さいごまで読んでくださって、おおきにです。

もう、日々煮えくり返るようなことばっかりですが。知る、考える、怒る、は手放したらあかんと思う。
きょうはこれを聴きながら。

Max Richter - Dream 1 (Before the wind blows itall away)



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by bacuminnote | 2017-05-31 18:53 | yoshino | Comments(0)

電車は臙脂色で。

夕方、母に電話をかける。 デイサービスに行く日は、母が家に帰って一息ついてる頃。家にいる日は、所在なげにベッドにごろりと横になってるであろう頃。そして、わたしは夕飯を拵え始める頃。おどけて”Hello! ”と声をかけるときもあれば、「今日はどんな感じ?」で始めることもある。

その日のお天気、母の健康状態、家族やご飯の話・・・と、たいていは、とりとめのないことを、菜っ葉茹でながら、煮物しながら、ちょっと一杯ひっかけながら、聞いたり、しゃべったり、笑うたり。
ときには母が興味もつような記事や、本の中の一文を電話口で読み上げることもあるし、このブログを更新すると「朗読劇場」と称して(笑)読んでみたりもする。

最近は活字を読むことが苦になっているようす。でも、まだまだ好奇心旺盛な94歳(誕生日までは93や~と返される!)が受話器のむこうで、前のめりになって「聞いてる」のを感じると、うれしくて頬がゆるむ。
自分の母親ながら、いくつになっても、知らないこと、新しいことを吸収しようとするところは、ええなあ、すごいなあとおもう。

で、その朗読劇場の最初のうちは「はいはい」「ふーん、そういうことか」という相槌に「あんた、うまいこと言うなあ」と、褒めことばもあったりで、ちょっとええ気になってると、そのうち「ふううう~」と長いため息が漏れ聞こえてきたりして。やがてガサガサと何かやってる音が聞こえ始めたりするんよね(苦笑)
たった一人のリスナー(!)が、うわの空なのがまるわかりなんである。

そのあまりに正直な反応に、拗ねるというより笑いがこみ上げてきて。そういうときは早々に「ご清聴ありがとうございました」と朗読劇場をお終いにする。すると「なんや?今日はもう終わりでっか~?」と返ってくるけれど。
母よ、それ、本心やないよね(笑)

でもでも。
やっぱり、声だけではね~ってことで、きのうは顔を見に、息子2と二人でよしのにむかった。そんなふうにしょっちゅうしゃべってるから、久しぶりの気がしないんだけど、考えたら半年ぶりだった。(すまん)

いつもの時間の特急はいつのまにか「青のシンフォニー」 とかいう特別観光列車になっており。その名前も姿もちょっと気恥しくてまよったけど、ちょうどよい時間に着くのがなくて「これで」と窓口で告げる。が、即「満席です」と言われてびっくり。「この電車は一ヶ月前から予約が入ってますからね」自信たっぷりの返事がかえってきた。

しかたなく次発の急行に乗ることにして、分着、となんども時計を眺めながら待っている(はずの)母に変更をしらせる。
臙脂(えんじ)色の近鉄電車に乗るのは久しぶりだ。昔この駅で高校の制服のまま友だちと(よしのから高校のある駅までの定期券はあるので)一駅分の切符買って、改札入ったとこで駅員さんに「キミらどこまで行くの?」と呼び止められたのだった。

その後、構内を見渡せる高いとこにある部屋に案内され「キミらのその制服は高校のやね。これからどこに行くの?」と再び聞かれ、おろおろと、しかしとっさに券売機でみた一駅むこうの駅名思いだして応えたんだけど。

そうして生まれて初めての「きせる」は未然にあっけなく失敗し、たまたまジッカのこともよく知っていると言う駅長さんに「お父さんが泣かはるで~」とお説教されて。定期券のある駅までの乗車券を買い直した(乗る前やったし、罰金はなしってことで)。ガッコ帰りに(反対方向の)大阪に出て高揚してた気分も一気にダウン。友だちとふたり、しょんぼりと吉野行きの電車に乗ったんよね。

駅長さんと知り合いとわかったから、あとで怒られるより、と思って家に帰って父親に話したら、あんのじょう顔まっかにして「あほか!」と大声で怒鳴られた。その父が亡くなってもう30年になる。あの日の帰り道は半泣きやったのに。あとで思い出すたびに大笑いした友だちも去年かえらぬ人となってしまって。しみじみさみしい。
けど、臙脂色の電車は今もかわらず走ってる。


▲これまで吉野行き特急に乗るときは(「シーズン」以外は)空いてることが多いから、いつも息子とは各自別席に座り、目的の駅に着くまで、ゆったり座席で本読んだり寝たりするんだけど。
きのうは急行の長椅子に横並びに座って、ぽつりぽつりと映画の話や本の話をし始めた。お互いこの間観たところやった『オーバーフェンス』
での蒼井優の話から息子が「いちばん」という『そこのみて光輝く』、わたしが「やっぱりこれ」という『海炭市叙景』へ。ドキュメンタリーは『Fake や『はじまりはヒップホップ』 のことなど。

電車が停まるたびに駅名をたしかめた。
「尺土(しゃくど)」「葛(くず)」「薬水(くすりみず)」「大阿太(おおあだ)」・・と、改めて駅名(地名)の語感をたのしむ。わたしには馴染み深い駅名も彼には初めてのようで。
そういうたら「浮孔(うきあな)」って駅から乗ってくるクラスメイトもいたなあ~とおもいだす。

車内は中高年のハイキング客のグループが乗ってはる他は空いており。
そのうち緑濃いまちへと入って。家を出るときは青空やったのに、どんどん灰色のしずんだ空にかわってゆく。ときおり見える山のなかの桜のほんのりピンクとか、薄曇りの吉野川とか。ちょっと時間はかかったけど、わたしのすきな風景とともに思いの外たのしい道中となった。

母は会うたびに小さくなる。

電話でしゃべってるとき、わたしはもうちょっと若いころの母を思い描いてるんやな、と気づく。背中はまるく、歩幅もせまくなって、手がつめたくて。椅子にちょこんと俯きかげんに座ってるのをみると、なんだかせつなくなる。

部屋のベッド脇の壁にはわたしの旧友の描いた絵が掛けてあった。
そのむかし「あんたも、あんたの友だちも変わってる」と苦笑いしてたその友だち(
うらたじゅん)の作品「中之島図書館」だ。じぶんの娘のように母が彼女の画業や手紙のことを、誇らし気に話すのを聞いてうれしい。

70歳のとき、13年ぶりに10人目の孫(つまり息子2)が生まれて。世話をしに厳寒期の信州 開田高原に来てくれたときの話は、会うたびに登場する。
何回も何回も聞く「ほんま寒かったなあ」という思い出話は「あの廊下とトイレの冷えたこというたら」「この子ほんまにかいらしかったなあ」「大きいなったなあ」「元気にしっかりきばってや~」とつづくのであった。

▲やがて帰りの電車の時間になって、わたしも、息子も母とハグ。「送っていきたいけど、ここでごめんやで」と別れる。そういうたら、この家に越してきたころは橋を渡ったとこまで歩いて送ってくれたんよね。

玄関を出て、ふと上を見上げたら2階の窓から身を乗り出すように母が「気ぃつけて帰りや~」と手を振って。庭の桜古木はまだ蕾だった。

*追記

その1

今回のよしの行きでは、もうひとつ「ええ時間」がありました。
2
年前、中学校カンレキ同窓会で40数年ぶりに再会したクラスメイト~なんとその息子さんと、SNSを通じてつながって何度かメールのやりとりをしたのですが、ふと思いだして某所をたずねたら会うことができました!

共通項は音楽で。

初対面で243262歳が「話せる」んやから、音楽ってすごいね、ええねえ。うれしい。おおきに。よしの行きのたのしみが増えました。

その2

帰りの車中ではふたりとも爆睡。
途中駅で息子は京都に。わたしは何度目かの『トリエステの坂道』
(須賀敦子著 新潮文庫)を。読みながら坂のある街で育った遠くに住むふたりの友人のことを。それから、須賀敦子や内田洋子の本がすきやったイタリア好きの高校の友だち(前述の)を思っていました。

【丘から眺めた屋根の連なりにはまるで童話の世界のような美しさがあったが、坂を降りながら近くで見る家々は予想外に貧しげで古びていた。裏通りをえらんで歩いていたせいもあっただろう。(中略)
軽く目を閉じさえすれば、それはそのまま、むかし母の袖につかまって降りた神戸の坂道だった。母の下駄の音と、爪先に力を入れて歩いていた靴の感触。西洋館のかげから、はずむように視界にとびこんできた青い海の切れはし。】
(同書 表題作p1920より抜粋)

その3

↑にも書いた映画『はじまりはヒップホップ』~

「音楽」や「ダンス」で、自分を表現すること、それを観て(聴いて)もらうことで、若いひとたちとも同じ場所に立ってつながってゆける~まえに観た(よかった!)『ヤング@ハート』のようなドキュメンタリー。

印象にのこったのは、メンバーの中、最高齢(94)のメイニー。シングルマザーで5人のこどもを育てた彼女~若いころ核武装に反対のピースウォークにNZワイヘキ島から500人を連れてアメリカ・ワシントンDCに行ったというエピソード。頼もしい!
公式HPのなか「登場人物」を見るだけでも、ほんまにいろんなジンセイがあるなあと思う。おもしろいです。


その4)

地下鉄にのりかえた頃からぽつりぽつり雨で。この動画おもいだしてた。(前にもはったことあるけど再度)

Sparklehorse - Apple bed


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by bacuminnote | 2017-04-01 11:04 | yoshino | Comments(3)

会ひたき人に。

▲久しぶりに母の顔を見に。
母の体調、わたしの足調(苦笑)、温くうなってから、涼しいなってから、とか何とか。お互いにいろいろ言うてるうちにあっという間に半年(以上)経ってしまって。
しょっちゅう電話で長話してるしね、そんなに時間がたってるとは思いもしなかったんだけど。
今回はわたし以上に「おばあちゃん」に会うのんは、ひさしぶりの息子2も途中合流しての吉野行きとなった。

▲「秋晴れや会ひたき人に会ひに行く」(西村麒麟) ~なぁんて思ってたのに、この日もあいにくの雨。
しかも家を出るときはけっこう強い降りだったけど、ジッカのある駅近くになると、灰色の雲と雲のすきまから少ぅし青空が見え隠れし始めた。
近鉄特急は吉野に近づくと、カーブの多さもあってキューガタンガタンと、特徴のある電車の音が響くんよね。線路際にも、線路内にも、彼岸花の束がぽつぽつ~敷石の茶色や灰色に、彼岸花の赤が妙に映えて、そのうつくしさにどきっとする。
駅に着くと、迎えに来てくれた姉が車から降りて「こっち、こっちやで」と大きく手を振ってる。 Y姉ちゃん、ただいま~。

▲川沿いの道を走りながら、前回ここに台風のことを書くのに、ネットで見た伊勢湾台風の被害の写真を思い浮かべてた。
あのころ(というかわたしの子どものころ)から思えば、うんと水量の減った吉野川は、川原がどんどん広くなって。ああ、この橋もあの橋も崩壊したんやなあ~と改めて、しずかで寂れた感じの川に見入る。

▲お昼は息子とふたりで、焼き鮎ずしとおかいさん(茶粥)を食べた。
ふたりとも好物の焼き鮎ずしはもちろん、久しぶりのおかいさんがしみじみと旨かった。
ふだんは無愛想な息子やけど(!)このときは終始えがおで、何べんも「うまい」「おいしい」と言い合うては、おかわりした。

▲ウチにもかつて母が縫ってくれたサラシの「ちゃんぶくろ」(茶袋)がある。いま吉野に住んでる人たちだけやなくて、郷里が吉野の人はどのお家にもあるのとちゃうかなあ。
この袋に番茶(粉茶)を入れて炊き出すから、使うごとに深いええ茶色に染まるんよね。息子が小さかったころもよく拵えたっけ。
子どものころから食べてきたもんの記憶って、ふしぎやね。長いこと食べてなくて、すっかり忘れてても、口にすると一気にからだじゅうのスイッチ入るみたいな。
また、ちゃんぶくろ出してきて拵えよう。

▲家に入ると、母が立って迎えてくれた。きっと今か、今かと、待ってたんやろね。
息子2は母が70のときに誕生したラスト(!)10人目の孫で。お産のあと厳寒期の信州・開田高原に、しばらく手伝いに来てくれたときのことは、今でもよく母の話にでてくる。
曰く、えらい寒かったなぁ。-20℃越えた日もあったなあ。雪もすごかったし。薪ストーブのそばから離れられへんかったなあ・・・。(←思い出のほとんどが「寒かった」~よっぽど堪えたんやろね)
48で初めて「おばあちゃん」になってからも、母はつねに、ずっと、先頭に立って仕事して来たから。なかなかできなかった「孫の沐浴」もこの子のときには毎日してくれたのだった。

▲ふだん電話でしゃべってると、頭も口も冴えわたってるけど(苦笑)、じっさい会うてみると「会わなかった七ヶ月分」母は歳をとっていて。ちょっとせつなかった。(もっとも、わたしだってプラス七ヶ月分だが・・)
部屋に入ると、作ったもの書いたもの描いたものが一杯あって。
ふと、棚のところに貼った半紙が目に入る。書道のすきな母がいつも何か書きつけていて、たしか前に来たときは芭蕉の俳句だったんだけど。

▲今回は、また新しく書き直したみたいだ。
ん?あれ?これ、どっかで・・・ひゃあ!!そして、ごていねいにこの駄句の作者の名前まで最後に書いてあって。
前に電話で「わたし今日こんなんつくってん」てな感じで、調子にのって言うたんやろけど。まさかそれを書き残してたとは。まさか芭蕉大センセのあとに、こんなもんが登場するとは。びっくりしたなあもぉ。
なんちゅう親バカぶり(苦笑)。ほんで、もうほんまにあほらしすぎて、大笑い。

▲わたしが姉フウフとしゃべってる間、母は孫に漢字ドリルを見てもろて。(母の方が息子よりよう知ってると思うけど・・)それから息子のガッコの話をうんうん頷いて聞いている。若い子の話聞くのが好きやからね、母のうれしそうな顔をちらちら見て、わたしもうれしかった。

▲とはいえ、母に会うたら、あれしよう、これしたろ~と思ってたこと、いっこもできんまま電車の時間がきてしもた。帰りは義兄が駅まで送ってくれることになって、外に出たら雨がぱらぱら降り始めてた。
車窓からみえる川と辺りの山々が黒くさびしくて、わびしくて。そんで、きれいやった。
おおきに。また(帰って)来ます。つぎは晴れた日に。




*追記
その1)
息子とは会うなり、この間観た映画『怒り』の話に。そもそも、こわがりのわたしが殺人事件をもとに・・とかいうストーリーそのものが、ふだん観ない映画のジャンルなのですが。
パンフと原作本(上下二巻)持って来てくれたので借りて、帰り、息子が別の線に乗り換え、一人になってから読み始めました。

映画を観たあとに原作本読むのと、本読んでから映画観るのとでは、おもしろさがちがうよね。
監督がどの場面をカットしたのか、ふくらませたのか、とても興味深く。この上下巻の長編を一本の映画(それでも2時間20分と長いですけど)にまとめる力もセンスも。出演者の演技ももみなすごかったし。もちろん、すべての基になってる原作の(ことば)の力も。
何を今更と言われそうやけど、いろんな「表現」が詰まった「映画」の世界を、あらためて思いながら読んでいます。

『怒り』は東京、千葉、沖縄と三ヶ所でそれぞれのストーリーがあるのですが、どれもが一話でも作品として成り立つ深さがあり。そのどれもが底に怒りや痛みが在って。知らんふりができなくて。おまえはどうなんだ?と突きつけられてるようです。
とりわけ沖縄編のことは今もなお。

帰途バスの車窓から見える景色が、行きとちがって見えたのは、時間の経過だけやなくて、映画を観たあとやからやね。
長時間おなじ姿勢で座ってると膝と腰が堪えることもあって、いつもはDVDやけど。
映画館の帰り道のような時間は、映画館に行かないと得られへんよなあと思いながら。
また、行ってみよう。(ところがバス一本出いける映画館にはわたしが観たいのんが、なかなか掛からへんのです~無念じゃ)

その2)
『選んだ理由』(石井ゆかり著 ミシマ社刊)→
石井ゆかりさんによるインタビュー集。
【どういう仕事に就くか、誰と一緒に生きるか、どこに生きるか、どう生きるか、誰もが、人生で幾度も選択を重ねていく】(同書p3より抜粋)

一番印象に残ったのは写真家の「吉田さん」(Akihito Yoshida→)の巻。

【多くの人が、「やりたいこと」を探す。「何がやりたいか解らない」と悩んでいる。でも、本当に見つけていなければならないのは、「やりたくないこと」なのかもしれない。自分の中の「NO」を知っていることが、羅針盤となることもあるのだ。】(同書p132より抜粋)

番外編いれて8人の「選択」を、わがジンセイの幾度もあった(苦笑)選択期を思い出しつつ、おもしろく読みました。


その3)
今日はこれを聴きながら。
Gallo Rojo - Sílvia Pérez Cruz→
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by bacuminnote | 2016-09-30 23:42 | yoshino | Comments(4)
▲誕生日がきて、母はこのあいだ93歳になった。
あちこち痛いとこや、ツライとこもあるようだけど、なんとか元気に暮らしてる。
病院に行っては(「痛い」「しんどい」とお医者さんに訴えても)「まあ、けど◯◯さん、もう歳やからなあ」とソッコウ返されて「ちゃんと話聞いてくれはらへん」とぷりぷり怒ってる。(そのわりには、医師には遠慮して「怒る」なんてとてもできない世代でもある)

▲おもしろいもの見つけると「買う」のではなく、まずは、家にあるもんを使って自分で考えて「つくる」のがうれし、たのし~の工作好き。
最初はまねっこでも、そのうち、けっこうちゃんとしたものを作って「え?ほんまに自分で作ったん?」と娘にびっくりして(ほめて)もらうのがすきなひと(笑)

▲けど、いつやったかの工作~古いハタキの竹の棒を使った鉛筆接ぎ器には、さすがに辛口の娘(!)も唸った。短くなった鉛筆を捨てられないのも母らしいけど、竹の空洞部に鉛筆を差し込む、というありそうでなかったアイデア(笑)と、あの歳で竹の棒をノコギリで切るやなんてね(ノコギリなんて、わたし 何十年も持ったことないし・・)参りました。

▲そんな母の誕生日に、毎日一ページずつ、っていう漢字ドリルと、きれいな一筆箋やはがき(もう長い手紙は書けないというので)、ピンク色のファイルなど文房具セットを贈った。
ドリルが一日一ページでは物足りない(!)きれいなものかいらしいものに心ときめかせる母よ。オメデトウ。

▲そして、今日もまた夕ご飯拵えながら電話。
「暑いなあ」から始まって、お互いの痛いとこの話。それから、わたしがいま読んでる本のことや、今日は沖縄・高江で起こってることの話もした。以前は話の中にわからないことばが出てくると「ちょ、ちょっと待って。いまメモするし。もう一回言うて」と、即 書きつけてたようだけど。この頃は「そうかぁ。もうわたしには何が何か、ようわからんわ」と、ため息をついてる。(←それはわたしも一緒。ほんまむちゃくちゃやもん)
あ、そうそう。昨日旧友Jに会うたことも、もちろん報告する。

▲そのむかしは「あんたも、あんたの友だちも、みな変わってる」とつめたい母(苦笑)やったけど。わたしや「変わってる」と称された(すまん)友だちもみな歳とって、それなりに落ち着いたからか、この頃は「そら、まあ、ちょっと変わってるけど。みな、かいらしい、ええ子や」と評価が変わったんよね。
で、Jはその「かいらし、ええ子」の筆頭ってわけだ(笑)

▲友だちといえば、母にはいまも交流のある小学校と女学校時代の友だちが二人いて。
「あの子ら(←いつまでも少女!)かれこれ80年ほどのつきあいですわ」~なぁんてすまし顔で言うてるのを聞くと「おお80年 !! すごい~」と思う。
わたしも旧友たちとのつきあいをいつの日かすまして誰かに告げてみたい。
「わたしら、もうかれこれ80年ですねん」ってね。

▲いや、そうはいうても、80年になるにはまだ40年もあるのだった。すると母が笑いながら返してきた。
「そんなん~40年ぐらい じきでっせ」

▲さてさて。
このごろ朝早く目が覚めると、寝床でそのまま本を読んでいる。蝉の鳴き声はにぎやかやけど、小鳥の囀りも、涼しい風も心地いい。
今日はそんな寝床読書の『湯かげんいかが』(森崎和江著 東京書籍1982年刊) をようやく読み終えた。

▲著者が生まれた朝鮮でお風呂の思い出、まだお風呂に浸かるというのが贅沢だったころの話、炭鉱町や農村での共同風呂の話・・・。
とりわけ心に残ったのは著者がまだ炭鉱をよく知らなかった(昭和)三十年初期のころ。炭鉱住宅地の共同ぶろに知り合いに連れて行ってもらったときの話で。

▲お風呂の中で「女たちは誰も彼も恰幅がよく、よくしゃべる」大音響の湯けむりもあって、彼女は知り合いともろくに話もできず、落ち着かない。
そのうち、そのひとが湯を汲んできてくれたものの、どの辺でしゃがんだらいいものやら~それさえわからず、とりあえず湯桶のそばにしゃがんだとき。

▲【突然、ざぶりと背に湯がかけられた。
「洗うちゃろう。背中は自分ではよう洗えんもんね」
よくひびく声だった。肩に手をそえ、
「人にこすってもらうと気持ちよかもんね」
泡立つタオルでごしごしと洗われ出した。連れ立って来た女ではない。彼女は湯舟に入ったところだった。わたしはふりかえることもできずに、「すみません」と言った。
しっかり力をいれて、ていねいに洗ってくれる。脇腹も腰もお尻までごしごしとタオルは泡をとばした。
「洗うのも要領のあるもんね。撫でるごとそろそろ洗うたっちゃ音は出らんばい。音の出らにゃ気持ちようなかもんね」】(同書p36「わたしのふろ」より抜粋)

▲やがて、そのひとは石鹸の泡を流してくれて、やっと著者が首をまわし、こんどはわたしに洗わせて、と言ったら
【「よかよか、あたしゃもう洗うてもろうた、上がるとこたい」すたすたと上がり湯へ行った。】 (同書p35~37より抜粋)

▲【老いた人びとの話を聞いてわかってきたのは、大半の人びとが住み慣れた村を糧を求めて出て、各地の炭鉱を転々としていたということだった。(中略)
いわば、古い村と別れて。人びとのいやがる地底の苛酷な職につき、各地から集まった者で新しい村を作り出したわけだった。第二に村づくりには血縁地縁の論理とは別のものが軸になっていたのだ。その論理を越えて直接個人の人間性にふれることがここでは大事だった。湯に沈んでるわたしの心はいつまでも大きくゆれていた。あの人はわたしにたいへんなものを残して消えた。】(同書p39より抜粋)

▲読みながら、わたしも著者の横で、半ばおろおろ、半ばそわそわしながら共同風呂の隅っこにしゃがみこむ。わんわん響く女たちのおしゃべりの声も、湯気でくもった浴場も。脱衣場で裸で走り回る子どもらの姿も、すぐ目の前に浮かぶようだった。

▲そういえば。
信州で暮らしてた頃、大阪から相方の両親が訪ねてくると、きまって村営の温泉に皆で出かけたんだけど。
いつだったか女湯に義母とふたり入って、蛇口のまえで横に並んで顔を洗ったあと、からだを洗おうとタオルに石鹸をつけたとき、義母がとつぜんわたしの後ろにまわって「背中流したろ」と言わはった。

▲森崎さんやないけど、そういうときって、とっさにお礼のことばは出てこないもんで。何よりも、びっくりしたのと、恐縮する気持ちの方が先で。わたしも(森崎さんのように)「すみません」と言うのがやっとだった気がする。わたしはまだ三十代だった。
こういう場面では「おかあさん、背中ながしましょうか」とか、わたしが先に言うもんなんやろか?それって小津の映画の頃の話ちゃうん?(そもそもそんな場面が小津の映画にあるのか?)・・・と瞬時に頭の中が!?でいっぱいになったんだけど。

▲されるがままに、ごしごし大きな背中(!)を洗ってもろて、そんなことは、子どものとき以来かもしれなくて。とてもきもちよかったんよね。
「ひとに洗うてもろたらきもちええやろ」と義母が言うて。ほんまやなあと思った。
仕上げにざあざあとお湯をかけてもろて、
「ほな、こんどはわたしが」と、義母の後ろにまわったのだった。

▲去年誕生日の1週間前に遠いとこにいかはった義母もまた、7月は誕生月だった。
ケッコンしてから毎年7月になると、いちばんにカレンダーにふたりのおかあさんの誕生日◯印をいれてたんよね。
35年の間には(あたりまえのことながら)うれしいこともつらいことも、ほんまにいろんなことがあったけど。
あの日 背中流してくれはったことわすれません。おかあさん ありがとう。


*追記
その1)
森崎和江さんプロフィール~藤原書店HPでの紹介

その2)
この間図書館で借りてきた本。
母と子でみる『「白バラ」を忘れない 反戦ビラの過去と今と』(早乙女勝元 著・久保崎輯 絵 草の根出版会2009年刊)【「白バラ」とは、学生たちによるナチス・ドイツへの抵抗運動のビラの名で、その運動グループの呼称です】表紙の絵はゾフィー・ショル。

この本のシリーズ「愛と平和の図書館」は、とてもいい本揃いです。こういう本に会うと、いつも思うことは、出版の本来の目的である、子どもたちに読ませたい、読んでもらいたい~という思いは、どうやったら届くのかなあ~ということです。
子どもではないおばちゃんが借りてきてすんません~と思いながら。((←これは古書店のHP、目録です)

以前観た映画『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』を思いだしています。
予告編

その3)
『移動図書館 ひまわり号』(前川恒雄著)が夏葉社から復刊されましたこの本のことはまた次回書きたいと思います(つもり)

その4)
沖縄・高江~
琉球朝日放送・報道制作部(7.22 18:35)のこの記事(とくに一番下の動画)ぜひ→

その5)
きょうはこれを。
わたしも、このなかに入って風にふかれながら聴きたい。
Patrick Watson - Piano des villes, piano des champs→

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by bacuminnote | 2016-07-23 19:38 | yoshino | Comments(2)
▲母に電話しよか、とおもうのはたいてい夕暮れ時だ。
買い物にも行って、洗濯物とりいれて、お米もしかけて。ちょっと一杯(!)を始めたころ。
母の方は、デイサービスに行って来た日なら、帰って来てごろんと横になってひと息ついてるころ。どこにも行かない日は、あーあと退屈している時間帯。
せやからね。

▲その時分ねらって、だいどこでお湯沸かしながら煮物しながら「今日はええ天気やったなあ」「暑いなあ」「で、どない?」とか~そばにいるみたいに話しかけて。
返ってくる第一声がその日の母の調子を現している。
「まあまあでっけどな。なんとかやってますぅ」と明るい声のときも、「それがなあ、あかんねん」から始まって、あとは堰を切ったように体や足腰の不調や日々の愚痴のエンドレスな日もあって。「かけんといたらよかったなあ」とおもうこともあるんやけど。

▲そんなときにも話題が吉野の料理のことになると、このかた、とたんに声のトーンが上がるんよね。受話器のむこうで、“ごろーん”から“しゃきーん”に~きっと背筋まで伸びてるんやろなあ、と母のはりきりようが浮かんできて、わたしもうれしくなってくる。

▲そうして改めて、やっぱり長いこと厨房に立ってきたひとやなあと思うのだった。(→)この間はツイッターで思いもかけず「ゴリの甘露煮」の話が出たので、さっそくその話を。
わたしの生まれ育ったまちにも、昔は川の魚を専門にとる人が何人もいてはって、鮎やゴリキ(「ゴリ」のことを吉野ではこう呼んでいた)がとれると、ウチや他に当時は何軒もあった旅館に売りに来はった。

▲「ゴリキは死んでしまうと味もおちるし、炊いてもぺしゃんとして身が割れるし、活きている間に炊かなあかんから、忙(せわ)しないことやった」と母は懐かしそうに話し始める。
バケツから笊にあげたゴリキはぬめりをさっと水で流し、調味料がくつくつ煮立ったとこに一気に投入。これ書いてるだけでも、そこらじゅうに甘辛いええにおいが広がるようで、魚好きのわたしはごくんとつばをのむ。

▲ゴリキの甘露煮や山蕗の佃煮に、とよく使っていたこの古い大鍋(直径50cm~深さ30cm近くある。いまもゲンエキらしい)も、その前に立つ母の姿も、よく覚えている。
いつもあれもこれもしながらの作業やからね、たまに焦げ付いた大鍋が水はって流しに長いこと置いてあったりもして。
鮎料理では氷割るのにアイスピックで手ぇ突いたり・・。病気で寝込むことはなかったけど、そそっかしい母はケガもよくしていた気がする。

▲娘時分はろくに包丁も持ったことのない「オットリした性格やった」(自称)らしいけど。ほんまやろか。
ぴんぴん跳ね回る大きな鯉やうなぎまで料理してたのに、よく大怪我しなかったことやと思う。何より、母ひとりに忙しい思いさせて父(調理師やのに)は、いったい何しててんやろ?と、昔話に登場するたびブーイングの的は亡き父となるのであった。

▲さて、
その日は相方と夕飯食べながら、さきに電話で聞いた母のゴリキ話から、わたしの子ども時代、吉野川周辺が賑やかやった夏の話になって。
夕方から出る鮎舟も、(→)そうそう鵜飼もしてたことがあったんよ~というと、「鵜ってたいへんやのに誰が世話してはってん?」と相方。そういうたら、誰にでもできることやないよねえ~ということになって、再び母に質問の電話をかけた。

▲「わたしにわかるかなあ?」とか言いながら、どんどんパワーアップして頭もフル回転の母。
当時商工会が中心になって吉野川で鵜飼を始めようということに。最初は岐阜・長良川から鵜と共に鵜匠に夏の間滞在してもらっていたことなど話してくれた。
高度成長の波もあり、春だけでなく夏にも吉野を訪れる観光客も多くて。そのころは何か新しいことをやってみようという気概に町全体が満ちてたんやろね。
そうして亡き父もそんな人たちの中の一人で、アイデアを出してはいろんな交渉に走り回ってたらしいと知る。(せやったんか~おとうちゃん、ええとこもあったんや)

▲結局5年ほどで鵜飼はおわったみたいやけど、鮎舟はその後もしばらくの間続いていたと思う。ウチが旅館をやめたのは(→)もう少し後のことになるんだけど。そして、それからも厨房のひとであり続けたんだけどね。
「どっちにしても、みんな昔話になってしもたなあ」と母がさみしそうにわらう。
働いて働いて、座ってご飯食べてるところを見たことがないほど、忙しくしてきて、「昔はよかった」なんてことはない、と思うのに。

*追記
その1)
これを書く前にちょっと調べてたら「ゴリ」と各地で呼ばれている魚にも色んな種類があることを知りました。
広島市水産振興センターのサイト『ゴリと呼ばれる魚たち』→によると、吉野川(川底)にいたのは”カワヨシノボリ”という魚のようです。

「ゴリ」はその漁法(むしろやかごを仕掛けた方向にゴリを無理やり追い込む漁)から「ゴリ押し」の語源になったとも言われているらしい。
食べるばっかりで(!)こういうこと全然知らんかったなあ。
そして、
ひとつわかると、またひとつわからないことが出てきて。
おかあはん、せやからね。聞きたいこともいっぱいあるし、まだまだ元気でいて、夕方の電話の相手してください。

その2)
郷土の料理というと『聞き書き 奈良県の食事』という本を(そして、その本の中にジッカから資料提供していることも)三度笠書簡のわこちゃんに教えてもらいました。
吉野の鮎漁(あい、と地元では発音)のページに載ってるおっちゃんは、子どものときからよく知ってる方で、久しぶりになつかしく眺めました。

そういうたら、手元に『大阪府の郷土料理』→(上島幸子・東歌子・西千代子・山本友江 著 同文書院1988年)という本があります。
帯には【”まあ、おいしそうやこと”  先人の心と技と知恵が生んだ味を、多くの人から掘り起こし、科学して伝えたい! 】とあって。こういう感じの本に「科学して」とあるのに、びっくりしつつ、しびれます。

今回改めてゆっくり開いて、そのていねいな説明ときめ細やかな取材におどろいています。
大阪いうたら、たこ焼きとお好み焼きやと思われがちですが、なかなか、さすが食の大阪~知らんかったこともいっぱいで、上記の聞き書きの本と共に、とても興味深い一冊です。

実はこの本、著者のおひとりは、わたしが十代のおわりに京都で下宿していたお家の方です。そのころも大学に時々教えに行ってはる、と聞いていましたが。当時小学生だったお子さんやおじさんが寝てからも、夜おそくまで、おばさんの部屋に灯りがついていたのは、講義の準備や研究をしてはったんやなあ。

その頃、はねっ返り娘でわるいこと(ん?)ばっかりしては、おばさんを怒らせたり ひやひやさせてたわたしでしたが、いつも温かくだいじにしてもらいました。そしてその後も「忘れられへん子やった~」(!)と、この本が出たときも贈呈してくださったのでした。感謝。
長いこと連絡してないけど、おたよりしてみよう。

その3)
今回書けなかったけど読んだ本のメモ。
『村に火をつけ、白痴になれ  伊藤野枝伝』(栗原康著 岩波書店2016年刊)→
『群像6月号』群像新人賞「ジニのパズル」(崔 実(チェ・シル))
『ハイスクール1968』(四方田犬彦著 新潮社2004年刊)

その4)
この間みつけた絵本(だいすき!)『ぺろぺろキャンディー』(ルクサナ・カーン 著 ソフィー ブラッコール絵 もりうちすみこ訳 さえら書房刊)の原本の朗読。かわいい!
”Big Red Lollipop”→


その5)
いつものことながら、だらだら長くてすみません。
今日はこれを聴きながら。
Ry Cooder - How Can A Poor Man Stand Such Times And Live →

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by bacuminnote | 2016-05-26 16:08 | yoshino | Comments(6)

しっかりしなはれ。

▲目が覚めたら、外がぱあっと明るくてええお天気で、電話してみたら母も元気やったし(←体調は「日替わり定食」やそうで)それにデイサービスにも行かない在宅日。肝心のわたしの足もまずまず・・・と各種条件が整ったので(!)大急ぎで洗濯物干し終えて、ちょっとおしゃれもして出かけることにした。1月に友の個展を見に行って以来のドキドキ「遠出」である。

▲久しぶりの電車やから、地下鉄のなかで目をつむって乗り換え駅のエレベーターやエスカレーターの位置を思い起こす。
エレベーターはたいてい広い駅構内の端っこで、そこまで行くのにくたびれるし、降りてから目的のところまで歩くのがまた大変。一方エスカレーターは大きな駅だと設置場所がいくつかあるんやけど、上りと下り両方あるとは限らなくて。「上り」しかないところが多いんよね。

▲わたしは膝痛になる前は「上り」が堪えたけど、いまは「下り」がつらい。
ネットで検索してみたら、上りより下りが大変、エスカレーターの「下り」がないのは困る~という人がけっこう多くて、「そうそう!」とパソコン画面にむかって共感の声をあげている。

▲けれど、多いというても、足の弱いひと、障碍や病気をもつひと、それにお年寄りは「健常者」にくらべたら少数なわけで。
ネットに複数あがってた”エスカレーターというのはキホン健常者の「階段の上りはキツイから」という考えで設置されているのだろう”~という意見にも、なっとく。
もちろん「上り」がつらい人もいてはるんやから、両方必要です。

▲くわえて思うのは、その場所(表示)が とてもわかりにくいこと。
わたしが方向おんちというのもあるけど、それでなくても移動困難な人が右往左往して探すことになるんよね。そして、こういうところにも、駅が(会社が、この国が)どんな乗客(ひと)を一番に考えて動いているかというのがよく現れていると思う。

▲車いすで行動している知人の話、姉や友だちが孫のベビーカーを押すようになって、駅や施設のエレベーターの不便さに改めて気づいたと、言うてるのを耳にして。自分もまた杖ついて出かけて(はじめて)見えてきたことも多い。けど、どんなことも、自分の身に起こらないとわからへんというのでは、経験が追いつかへんから。
そこは想像力をはたらかせないと、と思う。そしてその想像力の元は何かひとつでも「深く」「知る」(知ろうとする)ことから始まる気がする。

▲さて、乗り換え駅に着いて、いつものようにシュークリームや天ぷらを買うて特急電車に乗り込んだ。
がらーんとした車内。この時期によしの方面に観光で行く人はいてはらへんのやろね。桜の季節より紅葉のころより、いま時分の山や川の方がええのになあ~と「元・地元民」は右側窓際(川が見える)の席につく。
よく効いた暖房のなか、さっき買ったごぼ天、白天、しょうが天に小海老寄せ・・揚げたて天ぷらのにおいがぷーんとする。

▲発車してすぐに、後ろの席からはリズミカルな鼾が聞こえ始め、斜め向こうのカップルは職場の話から芸能人の近況(苦笑)経済の話、と幅広くてたのしそうだ。
わたしはもってきた『ミラノの太陽、シチリアの月』(内田洋子著・小学館刊)を開く。再読やのになんか初めての気分で読み始める。
ていうか、この方の本は何故か読むたびに初めて「話を聞いている」感じ。もちろん聞いてる(読んでる)うちに、うすぼんやりとした絵がだんだんはっきりして、そうそう、そういう話やったな~と思い出すんやけど。しばらくすると又「お話」を聞いてみたくなるんよね。

▲途中停車駅で、はっと顔をあげると試験だったのか、平日の11時すぎなのにホームは制服姿の高校生であふれていた。
紺のブレザーに、ころころした金ボタン、ちょっと縦長の襟の白いブラウスにはエンジのリボンが結ばれて。ボックスプリーツのスカートがホームをぬける風でめくれて、女の子たちがさわいでる。

▲きゃっきゃっ笑う声が車窓のむこうから聞こえてくるようで。そんで、そんな中にかつての自分や友だちの姿が一瞬見えた気がして、どきんとする。
あんなにきらってた「ガッコ」や「制服」やのに。(そして、いまも「制服」はきらいやけど)なんだか胸がいっぱいになって。そんな自分にちょっと戸惑うてるうちに電車は又ガタンガタン揺れながら進み始めた。

▲そのうちカーブや揺れと軋む音がはげしくなって、トンネルをぬけて故郷の駅に着く。
暖かな車内から降りると、ホームは冷凍庫を開けたみたいにつめたくて、足元から一気に冷えがのぼって。ああ、よしのに帰ってきたなあと思うのもいつものこと。
改札を出ると、姉が車の中で身をよじってこっちに大きく手を振っているのが見えた。まえに贈った赤いカーディガンがよく似合ってる。

▲普段はあまりやりとりしてないのに、喋り出したらとまらないのはやっぱり姉妹ゆえ?母に聞かれて困るということもないんだけど、家に着いてもなお車の中で二人話し込んで。
「あ、早う降りんと、お母さんが遅いなあ~ってやきもきしてるで」と笑いながら、やっと車から出る。

▲夏がくると母は93になる。
ここ数年よしのに行くとき、母とはこれが最後かもしれへんしなあ~とか、ふと思ったりするんだけど。
実際会うと元気づけるつもりが、その好奇心と向上心にうちのめされ(苦笑)
「あんたら、まだ若いねんからしっかりしなはれ」と 負けん気のつよい女の子がそのまんま93になったみたいな母に ハッパかけられて帰ってくることになるんよね。

▲女三人話は途切れることなく・・・予定より2本遅らせたけど、あっというまに帰る時間になって。
「ほな、またな」と母とハグ。「また」「こんど」が長くつづきますように~と思いながら姉の車で駅に。
夕暮れどきの川がしみじみとうつくしい。
駅のホームの椅子は氷みたいに冷たかったけれど、母や姉がなんべんも言うてた「よう帰ってきてくれたなあ」という声が耳元に残ってて、「家」をおもう。
そして、そうか~電車が来るのを待ってるここもまた「ホーム」やなあと思う。

▲やがて単線の駅に似合わないぴかぴかの特急電車がきて。
しばらく、ぼーっと窓の外を眺めてまた本を開いた。
見開きにあったことばは、そのまま内田洋子のエッセイの、というかジンセイそのもので。電車の揺れも軋む音も本読みの背景のような気がした。

”Il sole le nuvole, la luna sul mare.”
「雲間からも日は差し込み、闇を照らす月もある」


*追記

その1)
じっさいは駅の「ホーム」はプラットフォーム (platform) で、ホーム(home)とは関係ないんですけどね。
電車が発車して帰ってくるのは、なんかhomeみたいやなとおもったのでした。
(「鉄道駅において旅客の列車への乗降、または貨物の積み下ろしを行うために線路に接して設けられた台である。日本では多くの場合、「プラットホーム」、略して「ホーム」と呼ばれる。古くは歩廊と呼んだ。」by wiki)

その2)
ふだん根が生えたみたいに出不精なのに、このよしの行きの後、長いこと観たかったイタリア映画『ポー川のひかり』(エルマンノ・オルミ監督・脚本)の上映会が近くの公民館であることを知って出かけ、翌日は翻訳者・宇野和美さんの講演「スペイン語圏の子どもの本へのいざない」を聴きに行く、という行動派に(笑)
もしかしたら、よしので母にハッパかけられたからやろか?
このふたつのことはぜひ書き留めておきたいので、次回かならず(と書いて忘れれんようにしよう)


その3)
それから映画(DVD)もいくつか観ました。このどれも伝えたいことだらけやから、近いうちに書きます(つもり)
『さよなら人類』
『ぼくらの家路』
『明日へ』

その4)
きょうはこれを聴きながら。
Laurent Petitgand - Parfums (Version gastronomique)→
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by bacuminnote | 2016-03-05 10:44 | yoshino | Comments(2)

みずのおと。

▲庭で洗濯物を干した後、何となくそのまましゃがみこんで足元の草抜きをする。
頭の中はこの間から考えてることがオートリバースのテープみたく(←古い? )ゆっくりsideAからsideBに。そしてまたBからAに~をくりかえし。抜いた草の小山が知らんまにいくつかできていた。お日ぃさんに照らされて背中がぬくい。

▲それから、膝と腰をかばいながら「よっこいしょ」と立ち上がる。見上げた秋の空はまぶしくて青くて、くらくらするようで。カラスが時々思い出したようにカアカアと間延びした声で鳴いてる。
ここだけ、
ここだけを切り取ったら、ヘイワでのどかな九月の、シルバーウイークとやらの休日の朝だ。

▲それにしても、国会での(いや国会内外での)「汚い手」はこれまでのやり口を見て十分予想はしてたけど。それ以上の暴挙だった。そして、彼らと一緒になって都合のいいところだけ報道するマスコミ〜とりわけNHKに(何ヶ月ぶりかでスイッチ入れたテレビで)改めてイカリ、絶望する。

【公共放送NHKは、“いつでも、どこでも、誰にでも、確かな情報や豊かな文化を分け隔てなく伝える”ことを基本的な役割として担っています。
そして、その運営財源が受信料です。NHKが、特定の勢力、団体の意向に左右されない公正で質の高い番組や、視聴率競争にとらわれずに社会的に不可欠な教育・福祉番組をお届けできるのも、テレビをお備えのすべての方に公平に負担していただく受信料によって財政面での自主性が保障されているからです。】
(NHKオンライン「よくある質問」なぜNHKは受信料を取るのか?より)

▲「公共」「公平」「公正」って連発してるけど、意味わかってるんやろか。あまりに現実離れしたこの返答は、看板だけ「自由・民主」を掲げる与党みたいやな。(ていうか、この「自由」って「何でも自分らの自由にできる」の「自由」やったのか・・)言葉を汚さんといてほしい。
中継を見てるだけでもすっかり消耗してしまったけれど。
これで終わったわけやなく(「暴挙」がそのまま「暴走」へと繋がらんように)知ることも考えることも怒ることもずっと続くんやし。忘れない。
しゃきっとしようと思う。

▲先週の日曜日のこと。
ひさしぶりに母の顔を見に出かけた〜考えてみたら年始以来のよしの行き。
前日、母と電話でしゃべってたら、きょうは玄関マットで足すべらせて、ずるーっと寝そべるみたいになってこけてん~と言うてたので、そのことも気になったし、足の調子もまあまあいけそうやし(←わたしの)例によって前夜「よし、行こう」と決めた。

▲今年は家族の病気や死。友人やその家族の、病気、死・・とほんまにいろんなことが続いて。
あ、そうだ。しんどいさびしいことばかりやなくて、新しい命の誕生の知らせもこの間から続けてふたつあったんよね。
「おばあちゃん」になった友人たちから届いた写真には新生児のあまいにおいが立ち上がってくるようで、その清らかさ、かいらしさに胸がいっぱいになった。
この子らのためにも、ほんま、大人はしっかりせなあかんよね。

▲さて、いつものようにデパート地下であれやこれや食べるモンを買って、電車にのりこむ。
秋晴れの日曜日やのに、乗客は思ったより少なくて。
うれしいような、がっかりするようなきもちは、わたしのきょうどあい(←気恥しくて漢字変換不可)ゆえか。荷物を空いた隣席に置く。
通路隔てて斜めむこうの席は女性二人の旅行のようでにぎやか。コーフン気味の空気が、こっちまでつたわってくる。

▲パソコンからプリントアウトしたという紙束をパラパラ見ながら、吉野山ではあそこに行って、ここでお茶して、お昼はどこそこに・・と盛り上がってはるんやけど、出てくるお店の名前がちっともわからず。全然知らんとこの話を聞いてるみたいで(って、勝手に聞いてるだけですが)ちょっとさびしい。
そういえば、長いあいだ山には(地元では吉野山のことは「山」という)行ってへんことに気づく。祖母の法事以来やから、もう5年になるんやなあ〜と吉野建の三階(ここが玄関)の部屋から見下ろした桜の紅葉がみごとやったことを思いだす。

▲家に着くと母が満面のえがおで「おかえり。よう帰って来てくれたなあ」と言う。
ジッカに「帰る」と、いつまで言えるんやろか〜と道中、川を眺めながらふと思ったんだけど。いつの日にか母不在となっても、やっぱりここは「帰る」場所のひとつやなと思いながら「ただいま」と答えた。すべってころんで〜は大したことなかったようで、ほっとする。
窓の外の景色はいつもかわらない。子どもの頃、しょっちゅう登っては駆け下りて遊んだ山があって、おなじく遊び呆けた川が流れてる。

▲最近ではグーグルマップでストリートビューも見れるようになったけど、以前は地図と航空写真だけで。この辺りは緑緑緑やったんよね。
とはいえ、ここはまだよしのの入り口。まだまだ「ええとこ」は奥に行けば行くほどなんぼでもあって。けど、いっつもこの窓から見える山と川と、それからだいすきな庭の桜の木と、何より母や姉の顔をみてまんぞくして帰って来るから、これ又長いこと行ってないなぁ。

▲今夏、母は92歳になった。
いっときは、あれもできんようになった、これもできんようになった〜と泣き虫になってて心配したけど、いつのまにか好奇心旺盛〜「知りたいこと」に突進してゆく母(!)にちゃんと戻ってる。
机の上にはいつだかわたしが送った『365日で味わう 美しい季語の花』(金子兜太監修)が開いてあった。前から母に一日一句を薦めてるんやけど(一日一句やて〜よう言うわ、と自分でつっこむ)なかなか「浮かばへん」という。
どうやらイメージする俳句が「稀代の俳人」のそれであるらしく。
「そんなすごい俳句つくろうと思ったら、おかあさん(生きてる間に)間に合えへんで」と娘は憎まれ口を叩きつつ、もっと気楽に。例えばこんな感じで、と先日わたしが某誌に投稿してみた句をよんでみたらソッコウ「えっ??そんなんでええの?」と返って来て絶句(苦笑!)
「そんなん」で、エラソーに俳句俳句いうてすんませんなあ。

▲まあこんな母なんやけどね。
電車の時間になって「もうええ」というてるのに、階下まで降りて来て、姉の車が出てもなおそこに立っていて。わたしは「ほな、また」とわざと素っ気なく手を振り返す。帰りはいつもせつない。
大阪にむかう電車は登山スタイルのグループがいっぱいで、車中撮ってきた写真をスマホで見せ合い、送り合い、お菓子の袋を回してはって。つい となりに手を伸ばしそうになる(笑)
いや、お昼が中途半端になったからおなかが空いてきたのであった。夕飯にでも、と姉がもたせてくれた巻きずしを早くもとり出してつまむ。

▲この日お伴の本は『岸辺のヤービ』(梨木香歩著 福音館刊)。
これ、近頃ではめずらしい函入りで。本が届いた日、そわそわと函から本を取り出した。本文も挿絵(小沢さかえ)や活字や装幀(名久井直子)も、なんだか昔の児童書風。それに文体も子どもの頃に読んだ翻訳児童書みたいで、なつかしい感じ。けれど、梨木香歩さんの本は読むたびに、いつも新しいなあと思う。
「永遠の子どもたちに。」という献辞にどきんとする。
で、読んでみて、ほんとうにそういう思いの詰まった本だった。

▲主人公は二足歩行のハリネズミみたいなふしぎな生き物、クーイ族のヤービ。そしてフリースクールの教師をしている〈わたし〉はマッドガイド・ウォーターに浮かべたボートの上でヤービと出会うんよね。

【クーイ族のなかには、一世代のに一人くらいの割合で、「異種間交流」の可能な特殊な個体が出てくるのだそうです。なんであれ、ヤービがその「特殊な個体」であったことはまちがいないようで、そのことはわたしにはかりしれない幸福をもたらしたのでした。】(「岸辺の出会い」p17)

【ヤービはそういう男の子なのでした。ちょっと落ち込んでも、しばらくたつとかならず、何か説明のつかない、いのちの力のようなものが、体の奥深くからわきあがってくるようなのです】
(「しゃべるカワアイサの古巣」p220)

壮大なファンタジーものはどっちかというとにがて。でも、小学生のころ自分がコロボックルになった気分で何度も読んだ『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる)や、このヤービの世界は読んでいると、前のめりになって、いつのまにか物語の中に入り込んでる。

▲とくに、この本はタイトルにあるように岸辺の物語で水がそばにあって、川育ちのわたしは「水」に惹かれるようにして読んだ。ゆっくりだいじに読もうと思ってたのに、帰途の電車の中で読了。
ふううっと、まんぞくのため息をついて車窓から夕暮れ時のうすぼんやりとした景色を眺める。吉野川はとうに見えなくなっていたけど、読んでいる間じゅうずっと水の音が耳元でちいさく流れてた気がする。

▲翌日だったか著者へのインタビューを読んで梨木さんが【どんな時も自分の中に絶えざる水の音がする。そんないのちの奏でる水音に耳を傾けるようにして、この物語は生まれた。】と書いてはったのを読んで、思わず声をあげる。そして、なっとく。なんだかその水が自分にも流れこんできたみたいで。うれしかった。
子どもの頃のわたしに読ませてやったら、どんな顔するやろ。


*追記
その1)
この間古い雑誌を整理してきて、そのまま座り込んで読書。(そんで、整理前よりひどい状況に・・というのもいつものパターンなり。苦笑)
富士ゼロックスの広報誌『GRAPHICATION No.156』(2008.5)「専門主義から総合知へ」池内了氏と赤木昭夫氏の対談で赤木氏が言うてはったこと。「ものごとを疑う」「筋道を立てて考える」ことの大切さをあらためて。

【ものごとを広く深く考えることが「知」であり、その結果も「知」であるとすると、その出発点の「考える」ことの中身は、つまるところ、ものごとを疑うことではないかと思うんですね。疑った上で筋道を立てて考えることが、「考える」ということではないかと。その結果が降り積もると「思想」というものになる】

この雑誌長いこと無料でたのしませてもらったけど、今回で「紙の雑誌」はおしまい。次回からは電子版になるそうだ。もうだいぶ前に林さかなさんが紹介してはったので知って、以来 友人知人に会うと薦めて、行く先々にこの雑誌がある〜みたいな感じやったけど。ほんま残念です。
*林さかなさん編集発行の「子どもの本だより」メールマガジン→

その2)
長くなりますがもうひとつ。
この前大阪大正区の『エイサー祭り』の冊子を読んだんだけど、中に山之口貘の見たことのない詩が掲載されていて、深く残ったので書いてみます。
あとで出典をしらべたら思潮社から2013年に出た『新編 山之口貘全集』第1巻(詩篇)→の中「既刊詩集未収録詩篇」に収められていることがとわかったので、図書館で借りてきました。(この本の発行は知ってたけど、高くてよう買わんかったのでした・・)
1918年(大正7)〜1921年(大正10)獏さんが15歳〜18歳の間に書かれた詩のようです。


「私は歌はねばならない唄を」     山之口貘

私(わし)は歌はねばならない唄をうたつてゐる
古沼からは淡い綠(みどり)色の光の音がきこえ
樹々の葉は彼等の金色の幽かな聲でうたひ
西(いり)の空は眞紅(まつか)な口紅を染めてうたひ
黄昏に
雲のうへで惡魔(たれ)かゞこそこそ笑ひ
水底からつめたい女の顏があらはれ
樹々の葉裏には美女の玉の小指が吊るされ

あゝ私(わし)がひそかに彼等を見るとき 悪魔(たれ)かゞ私(わし)の胸に耐え切れない寂しさをながしてゐる

だけどあゝ私(わし)は歌はねばならない唄をうたひ
私(わし)は是非訪ねゝばならぬ――私(わし)は私(わし)の歌ふてゐる唄を立ち聞きしたたつた一人の聽人(きゝて)を。


その3)
きょうはこれを聴きながら。さいごまで読んでくれはっておおきに。

このアルバム(よかった!)のタイトルは「わたしたちの欠点のなかにあるきらめき」Chantal Acda 〜"The Sparkle In Our Flaws"
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by bacuminnote | 2015-09-22 13:19 | yoshino | Comments(0)

象の小川。

▲寒い。
いったん春めくと、からだも気持ちも一気に緩んでしまうからか、ここ数日の寒さが堪える。一昨日は晴れたかと思うと急に曇り、その後いっときは歩くのもこわいほど吹雪き始めて。いつものことながらこの時季の気まぐれ天気にはほんま泣かされる。
できるだけ「洗濯物は外で乾かしたい」派(!)のわたしはそのつど洗濯物を外に出したり入れたりしており。
そうして、洗濯干し器を移動させるたびに障子戸にコツンコツン当て、ゆえに障子は穴ふさぎの「桜」が派手に舞っているのであった(苦笑)

▲少しづつ散り始めた白梅のそばの山茱萸(さんしゅゆ)の黄色いつぶつぶが一杯ついているのに、この間気づいた。よく見ると はぜた花火のように小さく開花してるのも混じって、かいらしい。一枝切って一輪挿しにいれたら、ぱっとそこだけ春になったようでうれしい。
黄色い花がすきになったのは、信州暮らしのころ、まだ雪の残る軒下にクロッカスの黄色い花が咲き始めたときの感激が忘れられないからかもしれない。
春が近いことをしらせてくれる黄色はとくべつやもんね。

▲ 昨日は京都に住む息子2と途中合流で吉野に行って来た。
昨日の朝も前日の寒さをそのまま持ち越しており、外に出るやその冷たい風にきゅうと音がでるくらい(笑)縮こまりながら駅まで歩く。母にはお菓子や食欲のないとき用のフリーズドライの軽食。それに頭の体操プリント(!)を数枚と、あとネットでみつけた母が読みそうなコラムをプリントしたものも入れた。
道中電車の乗り換えがわたしは1回、息子は3回もあるので、前日時間調整して合流する電車を決めたんやけど。「ちゃんと早起きできたんやろか〜」と地下鉄の中でふっと思ったちょうどそのとき「ごめん。寝過ごした!一本後の電車に乗ります」メール。がーん。

▲ この日バッグに入れてきた本は『丹生都比売(におつひめ) 梨木香歩作品集』(新潮社2014年刊)この本、表題作ふくめ9篇の短篇がおさめられている。最初に表題作が単行本で出たとき(1995年)梨木本ということや、舞台が吉野と知って気になりながらも、このタイトルにひっかかって長らく手が伸びなかったんよね。というか、吉野というと、この本の背景にある「壬申の乱」のように「皇位継承」にまつわる争いの話がよく出てくるのが、わたしは かなんのであった(苦笑)
と言いつつも、その辺りの歴史をよく知らないのも確かで(この本はフィクションなんだけど)何となく読みたくなったのは、今がわたしにとって"読み頃"だったのかもしれない。たぶん本にも旬みたいなもんがある。

▲でも、政争の渦中にいた主人公も”闘う人”ではなく、繊細で心やさしい小さな男の子、草壁皇子で。光をあてる人が梨木香歩さんらしいなあと思う。
初めて父・大海人皇子から弓矢の手ほどきを受けたときも、異母兄弟である大津皇子は《生まれてこのかたずっと扱ってきたといわんばかりに、一度で見事に的を射た》のに、草壁皇子というたら弓を持っただけで(弓が山櫨の木でできているせいか)手がまっかにかぶれてしまい《そのことを心中深く恥じて》いるような。伯母に《この世が、どうにも肌に合わぬのじゃなあ》と同情されるような子で。

▲ 大人の目には姿の見えない〜もの言わぬキサという女の子とも、そういうやさしい子やから、であえたのだろう。
皇子は言う。《キサといると、語ることより語らぬことの方が、ずっと貴いことのように思えてくる》キサという名前は(彼女は何も語らないので)草壁皇子が目の前にそびえていた《象山(きさやま)のキサ、喜佐谷のキサ》から名づける。

▲ わたしにとっては、なじみ深いこの山や地名を目にして、もう長いこと行ってない宮滝付近の風景や「象(きさ)の小川」の流れがそれでもすぅーっと浮かんできて。そのことにどきんとする。
この辺りは万葉集にもよく出てくるところ。古典は大が五つくらいつくほど苦手で無知なわたしだけど(せやからね、まちがってもわたしに万葉集のこととか聞かんとって下さい)大すきなところで。ひさしぶりに寄ってみたくなった。

▲ この草壁皇子の醸し出す空気は他の短編にでてくる子どもたちにも重なり、つながるものを感じる。いや、この本だけではなく梨木香歩というひとが描く子どもの周りにはいつもこんな風が吹いて《涼しい鈴の音が立つ》ようで。胸をつかれるんよね。そうそう、本文中、吉野の山にも春がきた〜という場面に《そこここに春を告げる山茱萸の木が目立つようになりました》とあって、頬がゆるむ。

▲ さて、いつものように途中から川の見える席に移動し外を見ると、ちょっと前まで晴れていたのに、空はいちめん灰色で吹雪き始めたんよね。雪が舞い舞いしながら電車を追いかけて、吹き飛んでゆくようすに見入る。そのうつくしさに吸い込まれそうになる。
「花の吉野」と言われるけれど、わたしのすきなんはこんな日の吉野やなあと思う。人の姿のない川原、薄緑色の川のさざなみ、枯れ草に枯木も。そうして材木屋の煙突から立ち上る煙が見え始めると「ああ帰って来た」と思う。

▲ 激しく雪の降るなかホームに降り立って、そう言うたらあの子、こんどこそ間に合うたんやろね?〜と気になってメールしてたら、一台とまってたタクシーがお客さん乗せてすいーっと走り去ってしまった。仕方なく強風に飛ばされそうになりながらタクシー乗り場に立ってたんやけど、人も車も見えず。
♪Tombe la neige あなたは来ない〜(←なーんて歌うてる場合やない・・泣)
こんなことは初めてなので、駅員さんに聞きに行ったら「たまたま出払っただけで、そのうち帰って来ますやろ」と間延びした声が 切符売り場のガラス戸越しに返ってきて。「そのうち」って、どのうちよ?・・・と、もぞもぞ言いながらも元の場所で震えつつ立っていたら、ようやく一台戻ってきて乗車。よかった!

▲家に着いたら玄関口に「寒かったやろ。ようお帰り」と母がいて、その後ろ〜大きな壷には姉が活けた山茱萸が小さな黄色い花火いっぱいつけて 枝を伸ばしてた。まさかここでも春の黄色にあえるとは。
やがて一本遅れで息子も到着して。にぎやかに話す間にも窓の外は吹雪続けていた。話の合間、大きく窓を開けてみる。とたんにぴゅうっと吉野川の冷気が入って来て。暖房でほてった頬にそのつめたさが心地良い。
「ええなあ。川の空気そのまんまやなあ」と悦に入ってたら、うしろから「わかったし早う閉めてくれへん?」と言われてしもた。


*追記
その1)
母に地元の造り酒屋さんの歴史を紹介した蔵元さんによるコラムをネットでみつけたのでプリントして持ってゆく。
その中に当時蔵元さんのご先祖が大塩平八郎たちを匿った旨の記述があり。「大塩平八郎の乱」(←《江戸時代の天保8年(1837年)に、大坂(現・大阪市)で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱》by wiki→)についてはガッコの歴史授業程度の知識しかなかったので、母にレクチャーのためにわか学習(苦笑)
飢饉は天災ではなく人災である》とは氏のことば。
上記wikiにも書いてありましたが、《奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていた》とか。もうちょっとくわしく知りたくなりました。

その2)
山茱萸 wiki→

その3)
この間から観たふたつの映画のローマ〜

ひとつめ『グレート・ビューティー 追憶のローマ』→
冒頭セリーヌの『夜の果ての旅』の一節が流れます。
《旅は有益だ。想像力を誘う。あとは幻滅と疲労のみ。(中略)すべて見せかけ、つまり小説、作り話。辞書にもそうある。しかも目を瞑れば誰にでもできる。そこは人生の彼岸》
セリーヌもプルーストも(いや、プルーストは出てきませんが・・)未読のわたしは、いきなりここで挫けそうになるのですが(泣) そうしてその後も「ああ、もうちょっとわかりやすい映画観たかったんだけどなあ」とか思ったりしてたんだけど(苦笑)エンディングまでたどり着いて(観て)ほんまよかった!

ふたつめ『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』→こちらはドキュメンタリーです。
ひとつめの映画が強烈だったので、その後に観たこちらは淡白な感じがしたけど。
救急隊員。アパートの老紳士とその娘、シュロの木に寄生した害虫の世界研究の植物学者〜よかったです。

その4)
きょうはニーナ・シモン。ボブ・ディランの曲のカバーです。
Nina Simone -''Just Like Tom Thumb's Blues''
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by bacuminnote | 2015-03-12 20:09 | yoshino | Comments(4)

川の見える席に。

▲朝起きたらぽかぽか陽気で気持ちよかったから。そや〜今日は吉野に行こうと思い立った。
年末年始と母が不調だったので、帰省中の息子たちと一緒に会いに行くのをやめて、そのままになってたんよね。この間から電話で話してる感じでは、ぼちぼち元気になってきてる様子だったし。姉にその旨つたえ、電車の時間を調べて、やりかけの家事を終え大急ぎで支度。
先に予定のたつ楽しみもあるけど、日々調子のかわる母には「ほな、今から帰るわ」のほうが気楽かもしれへんし。

▲ ところが家を出て少し歩くと、空が薄暗くなってみぞれが降り始めた。今日はまちがいなくええ天気やと(勝手に)思い込んで折り畳み傘も玄関先に置いてきたというのに。
通りの人もみな首をすくめ足早に駅へとむかう。みるみるうちに空は灰色に染め替えられて、裸ん坊の街路樹がよけいに寒々として見える。
連休で忙しい姉へのおみやげに駅で豚まん・焼売・肉団子の三点セットとおやつ、母にはにゅうめんやお粥のおともになるもの、あとわたしが車内で食べるお昼のパンを買って電車に乗りこんだ。
膝の上においた豚まんが温うてぷんぷんにおう。(すまん)

▲三連休の初日で、吉野行き特急は4号車まであったけど(ふだんは2車両)車内は貸し切りみたいにがらがら。うれしいけど残念。(←ふくざつな郷土愛だ)
おなじ吉野郡出身のWちゃんに、吉野にむかってること伝えたくなってメールする。出かける前に読んだ彼女のブログのコメント欄にも『半日だったけど電車で行って帰ってきて幸せな気もちでいっぱいでした』と吉野行きの話があったんよね。
途中までは車両左側の座席に〜遠い昔に通ったガッコのグラウンドをなつかしく通り過ぎる。昔はそらで言えた道中の駅名もどんどん忘れて。けど、とつぜん読み方の難しい名前を思い出したりして、ね。そのとき得意顔のわたしは襟元でエンジのリボンを結んだ制服姿の高校生だ。

▲ しばらくしてWちゃんから「行ってらっしゃい!」のメールが返ってきた。電車はちょうど川の見え始めるあたりまで来ており「いま川の見える席に移動したとこ」と書く。それだけで、もう電車の進み具合から「腰浮かし気味のわたし」まで伝わるひとだ。
車窓に擦れるような竹林、灰色の空、にぶく光る川。河原に白鷺が一羽佇んでる。山はものしずか。それはほんま夢のように儚げでうつくしい。
冬の吉野、吉野の冬、 ええなあ。ええよなあ〜と窓にほっぺたくっつけて、うっとりしてる自分を、そんな田舎が大嫌いな「リボンの少女」はかつて想像もしなかったけれど。

▲ 降りる人はあっても新たな乗客もないまま、とうとうほんまに貸し切り車両になって、電車は川を見下ろしながらカーブカーブの線路を走る。前にも書いた気ぃするけど、この電車の軋む音、ブレーキ、ガタンゴトンという音聞くと「鉄子」やないわたしでも胸がきゅんとなる。
いつやったか、まだ信州にいた頃youtubeで吉野線の電車の動画のその音を聞いたとき、これ、これ、この音や〜と泣いてしもたことあったっけ。

▲ そうそうWちゃんがこの間彼女のブログで、子どもの頃のお正月がつらかった〜というようなこと書いてはって。パソコン前に乗り出すようにして読んだ。わたしもお正月やゴールデンウイークにお盆・・・と、みんなが楽しそうにしてる休みの時間が嫌いやったから。
Wちゃんもやったんか〜と、よしのの少女ふたりお正月にそれぞれのまちでしょんぼり座り込んでるとこ浮んでくるようで、切なかったり愛おしかったり。

▲とはいえ、おなじ郡内でもウチのほうが奥(いなか)で、歳もわたしのほうがだいぶ上やし、育ってきた時代背景も家庭環境も違う。
でもなんていうか、うまく言えへんけど、Wちゃんには吉野という地がもつ暗さの部分でいつもつよく共感してる。
ただ、子どもの頃や若いときそれに引っ張られたり、引きずったりしてたのが、お互いに(たぶん)年々それはかくじつに姿を変えてきてる気がする。明るくなった、とかやなく。暗さは暗さのままで。少しずつ ものが見え始めた、とでもいうような。そんな感じ。

▲パンと缶コーヒーがなくなった頃、最後のトンネルを抜けて駅に着いた。
冬はなんてさびしい単線の駅。
でも、冷たい風に足元からさらわれるようなこの場所、ここがすき。ホームの端っこに下車のわたし一人を駅員さんが寒い中じっと立って待ってはる。「ご乗車ありがとうございました」と深々お辞儀されて「ありがとうございました」とお辞儀して、改札口を出る。駅前はぱーっと空の広がるええ場所。いつのまにかみぞれはやんで 雲の間から青空が見えた。




* 追記
その1)
Wちゃんのブログ(三度笠書簡)→コメント欄のやりとりもあわせて読んでみてください。

その2)
例によって前起き長うて駅に「着く」とこで時間切れ(苦笑) 出てきたのがが遅かったから滞在時間は短かったけど、ノンストップでしゃべり続け(←わたし)笑ってハグハグ。帰り 二階の窓から身のりだして手を振る母に「気ぃつけんと落ちるがな〜!」と大騒ぎしながらw出発。
母からは葛湯と葛菓子を、姉からは「戴きもんやけど」とワイン(何気なくもらったのに、よく見たらいつも飲んでるのよりうーーんと上等でびびりながら開栓w)持たせてもろて。帰途、窓の外はまっくらで川も見えず。本を膝の上に開いたまんま爆睡。

その3)
今回書くつもりだった本 『路上のストライカー』→原題”Now is the Time for Running”(マイケル・ウイリアム作 さくまゆみこ訳 岩波書店2013年刊) は、またこんど書きたいと思っています。

その4)
車窓からみた吉野の川と山をおもいだしながら、これを何度も聴いて。沁みます。
Ketil Bjørnstad : Svante Henryson – Visitor →
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by bacuminnote | 2015-01-12 14:39 | yoshino | Comments(4)

はやびき の午後に。

▲ 寒いから。雨降りやから。雪が舞ってきれいやから。肩が痛い。無理せんとこ。足元から冷える・・と、まあ、毎日毎日 日替わり定食みたく理由つけて掃除をさぼってたら、今朝、部屋のすみに大きな綿ぼこりが舞い舞いしてるのと目が合ってしまった。(苦笑)
というわけで、ようやく重い腰をあげて本日は掃除デイ。
掃除は先にがまんできんようになった方がする、と(←なんちゅうフウフやねん)暗黙のうちに了解し合ってるんやけど。敵はよっぽどがまん強いようで、たいていはわたしがすることになる。

▲ 昔は子どものアレルギーのこともあり、まめに掃除してたもんやけど。その子も成人し今は ほこりだらけのアパート(たぶん)でもなんとかやっていける体となったようで、ほんまありがたい。
こうしていろんなことが大変やった季節をこえ「ふりだしに戻り」わたしはまた元のナマケモノへと変貌中。
「なんやの?本やら何やら本やら。もう部屋ン中いっぱいでんがな。あんたは ほんまに どうらくやねんから」(※道楽=なまけ者が転じて、故郷では整理整頓のできない人をこう呼ぶ)~子どものころ飛んできた母の嘆き声が再び聞こえてくるような今日このごろ。はい。わかりました。わかりましたがな~

▲ 小学生時代しょっちゅう保健室のおせわになったことは前にも書いたけど。
授業中、具合が悪くなると手をあげてセンセに言うと、保健委員の子が保健室までつきそってくれた気がする。授業の途中、堂々と教室を出ていける保健委員とわたしに みんながちょっとうらやましそうな目でみる中、教室をぬける。広い廊下はいつも薄暗くてひんやりして静かやったから、ふたり黙ってそろりと保健室にむかった。

▲この学校、1904年(明治37年)に建てられた古くて、それはりっぱな木造二階建て校舎で、その大きな瓦屋根は子どもの目にもみごとだった。
そういうたら、校歌も寮歌風のメロディで(昔の校歌はどこもよく似ている)当時子どもらはみな、全く意味不明なまま歌っていたから、大きくなって改めて歌詞をみて(とりわけ二番)びっくりした。「世界の事物なにものか /日進月歩ならざらむ / 我ら優勝劣敗の /競争場裡にたたんもの / いかでおくれをとるべきか / いざやきたえん心身を」
作詞者がわからないんだけど、「われらゆうしょうれっぱいの きょうそうじょうりにたたんもの」って!

▲このころ「時代」が教育に求めていたことが何だったのかをおもわせるような歌詞で、「学校」の成り立ちを考えるうえでは興味深いけれど。わけもわからず大きな声で歌ってたことを思い出して複雑だ。
この校歌はわたしが六年生になったとき、町内の数校が統合されたことでお終いになって。あたらしい校歌は ♪おはようみんな はげもうみんな ~と一転してやさしい歌詞(作詞:竹中郁)にかわり、急に目の前がぱあっと明るく開いたようだった。

▲ さて、話は保健室にもどって。
磨き上げられた薄暗い廊下をそろそろ歩き職員室の前を通って、保健室に行くとセンセが、またあんたかという顔でベッドに寝かせてくれる。委員の子は「ほんなら」と教室に戻っていく。
狭い部屋にベッドがひとつ。薬品いれのガラス戸棚と先生の机ひとつ。保健室は、わたしの小中高の思い出に必ず登場するだいじな場所である。
けれど、当時の保健室には長居はできず、一時間ほど休んで様子みて、あかんかったら早引き、ときまっていて。低学年のときは親が迎えに来た。

▲なぜかそれはいつもお昼すぎのことで、それでなくても昼時は忙しい家業のなか、電話の呼び出しに仕方なしに母が駆けて来る。
保健室のセンセに「おかあさん、教室のもん持って来てあげてください」と言われて、母は教室のわたしの席に行く。ランドセルに教科書を入れようと机の中みたら教科書やらノートやら本やらごちゃごちゃ。ランドセルの中もぐちゃぐちゃで。保健室に戻ってくるや「ほんまに、クミちゃんはどうらくなんやから。はずかしわ」ときまって情けなそうな顔をするんよね。
まあ、そんな風におこられても、母と並んで歩いて家に帰るのは「びょうきではやびき」ということも忘れてうれしかった。それに家に帰ったら布団にもぐりこんで、本だって読めるしね。

▲ 件の木造校舎は、その後だいぶ経ってからこわされ公民館になった。
そのおりに記念の写真の冊子がつくられたとかで同級生が送ってくれた。なつかしい校舎や、広い大きな瓦屋根。教室の写真が続く中、一枚の写真に手がとまった。
写真が古くて、子どもたちの顔が不鮮明だったけど。校舎内にあった木のすべり台の裏側は、わたしのお気に入りの場所だった。
で、そこの棧におサルのようにぶら下がり、鉄棒みたく前転しようとしてパンツまる見えの女の子のはいてるスカートにはたしかに見覚えがあった。
とても保健室常連さんには思えない 元気いっぱいのお転婆娘がそこに写ってた。
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by bacuminnote | 2013-02-26 15:10 | yoshino | Comments(0)