いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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カテゴリ:パン・麦麦のころ( 5 )

▲ 暮れからお正月にかけての「いつもとちがう」時間があるせいか、休み明けのしゃんとしない感じがずーっと続いてるせいか、いや歳のせいか。なんだか1月は長い。
この間は買い物に行く気もしなくて、お葱だけはたっぷり刻んで買い置きの豆腐で湯豆腐にしたら、相方が一口食べて「うまいなあ」としみじみ。二口食べては又「やっぱりうまいなあ。豆腐は」と言う。「たまに褒めたと思ったら、豆腐のことやんか〜豆腐作ったんはわたしとちゃうし」と言い返しながらも、じつ言うとわたしも同じことを思っていたんよね。

▲ 以前読んだ本に《嗜好とかいて「老人の口に旨い」》とあって。(上野千鶴子『ひとりの時間に』)「嗜」という字のみごとな読みにそのときは「うまいこと言わはるなあ」くらいに思ってたけど、今はもう心から納得。ってことは、つまりウチの食卓もだんだん「老人の口に旨い」ものに変わってきてる証拠やろか。

▲ この間ツイッターで「グルテンフリー・エキスポ」というイベントがカナダで開催されていることを知った。グルテンフリーとはグルテン(小麦に含まれるたんぱく質の一種)を含まない食品のことで。すごいなあ。そんなものが開かれてるんや、と驚いた。で、調べてみたら、以前は小麦アレルギーの人などを対象につくられたものだったのが、最近は健康や体質改善のためにグルテンフリーのパンやお菓子が欧米でも、日本でもちょっとしたブームらしい。

▲ そう言うたら、ここにも何度か書いている(→)1990年 親子三人でカナダ横断旅行の目的のひとつは(主に天然酵母の)「パン屋訪問」だった。事前に在日カナダ大使館にその旨手紙を出したら、各地のパン屋紹介の記事コピーとはげましのお手紙を送って下さって。その記事の中で一番気になったのがこの「グルテンフリー」のパンだったんよね。
そもそもパンに適してるのが強力粉といわれるのはその含有グルテンが多いからで、グルテンのないパンってどんなんやろう?と思ったのだった。

グルテン (gluten) は、小麦、大麦、ライ麦などの穀物の胚乳から生成されるタンパク質の一種。胚乳内の貯蔵タンパク質であるグリアジンとグルテニンを、水分の介在下で反応させると結びついてグルテンとなる。弾性を示すため、グルテン前駆体の2種のタンパク質を含む小麦粉を水でこねるとグルテンが生成され生地に粘りがでる。パン生地などが発酵した時に気泡が残るのも、生地がグルテンによって粘りをもっているためである。(中略)
小麦粉はタンパク質の含有量の多寡により強力粉、中力粉、薄力粉に分けられる。製パンなど粘りを必要とする用途ではタンパク質を多く含む強力粉が使われる
》(wikiより抜粋)

▲ 当時日本では乳製品・卵の入っていないパンを焼く店さえ少なかったので、ウチにもアレルギーをもつひとやその家族の方たちからよく問い合わせがあったけど、まったく小麦を使わないパンというのは知らなかった。
さて、あちこちのパン屋を訪ねたり、ときにその目的もすっかり忘れての(苦笑)長旅の終盤、バンクーバーでようやく資料にあったグルテンフリー、イーストフリー(←化学イーストを使ってないという意味)のパンを作ってる店を訪ねる。

▲やっとのことでみつけたと喜んで「自己紹介文のカード」(英語がおもうように話せないので、前もって友人に"日本の田舎で小さな天然酵母パンやをしています〜”というようなことを英文で書いてもらってた)をみせたら、なんと経営者が変わってしまっており。目的のパンには出会えなかったんよね。心底がっかりして店を出ようとすると、従業員さんが「あなたたちのいう、そういうパン売ってる店があるよ」と近所の自然食品の店まで案内してくれた。サンキュー!(←わたしらが自信をもって言えた言葉)

▲ 件のパンは玄米粉100%で焼いていて、パウンド型の小ぶりのパンながらずっしりと重く(←グルテンがないので膨らまないから重くなる)1kgの表示におどろく。
すごいパンやなあ。どんな人が焼いてはるんやろなあ。と言うてたら、連れて行ってくれたひとが「その店、海のそばのいい所にあるから一度行ってみたら?」とすすめてくれはって。
さっそく店の前の公衆電話から電話をする。わたしの英語が通じたんかどうかわからんかったけど(苦笑)「来てもOK」と言うてくれてはるみたいやったので、バスでかの地にむかった。(←1時間半もかかった・・・)

▲店主さんの話ではそのパンは、増えてきている小麦アレルギーの子どものために焼いているそうで。カナダでもナチュラルイースト(天然酵母)でパンを焼いている店はごく少数で、グルテンフリーのパンとなるとほとんどなくて、各地に発送しているとのことだった。
そのときは、アレルギー事情というのもよく知らなかったし、小麦の国カナダで小麦のアレルギーか〜たいへんやなあと単純に思ってた。(今ならもっとつっこんだ質問ができたのになあ、と詮ないことを思ったりするが)

▲さて、カナダの旅から帰り(移住を目論むも無理かも〜と悟り・・苦笑)わたしたちは翌年滋賀から信州に転居。
そしてその次の年には思いがけず二人目の子が生まれた。上の子のときから13年後の出産。ずっと親子3人と思ってたから「新人」の登場はうれしかった。
思いがけないといえば、二ヶ月過ぎた頃からこの子に皮膚炎が始まって、それは日に日にひどくなってゆく。
ある日、おもいきって大きなまち(松本)まで出て病院で受診したら「この月齢の子だと牛乳や卵が引き金になることが多いけど、この子はたぶん小麦だね」と言われたのだった。
まいった。なんせパン屋なのである。というか、ドクターによれば「だから、こそ」のアレルゲンというわけだった。

▲ 母乳だったので、まずは赤ちゃんもわたしもパン焼きの仕事場に入らないこと(つまり、わたしはベイキングの現場の仕事をしない)小麦を一切食べないことに。
それだけのことをしてもなお、職住一緒の環境だから(粉が舞っているので鼻から入る)母子とも小麦の摂取ゼロというわけにはいかない、らしい。
いやあ、もうこの頃のことは山盛り話すこと思うことがあって、今でも思い出すと胸がいっぱいになる。たぶん一番しんどい思いをした子どもも、ほかの家族もみんな、それぞれにほんまに大変な時間だったと思う。
でも、それゆえに知り得たことも、出会えた人たちとの深い温かなつながりもあって。それは今のわたし(たち)の芯のところに在りつづけてる。

▲ 小麦ってね、パンだけでなく、スパゲッティにうどん、ケーキに和菓子、ちょっと想像のつかないところでは醤油にまで使われており。小麦除去の食事は(ほかにも除去していたものも多かったから)なかなかきびしかったんだけど。その話はまたべつの機会に書くとして、きょうは本の話を。
田舎暮らしで近くに小さい子もいないし、冬の長いところだったから、外遊びの期間がほんとに短くて。何より痒いのをちょっとでも紛らわせてやりたくて、時間があると上の子も(かれは親のように弟の世話をよくしてくれた)わたしも絵本を読んでやった。

▲たくさんあった絵本も息子1が大きくなって殆ど人にあげてしまって手元になくて。友だちやパンのお客さんたちがお子さんの絵本(産着に布おむつも!)を送ってくれはった。
松本への病院通いの帰りには必ず市立図書館に寄って(村には図書館も本屋もなかったので)段ボールいっぱい借りて帰った。
ところが、それまで気にもとめなかったけど、絵本ってパンやお菓子の登場率がものすごく高いんよね。
今ざっと思い出せすだけでも『しろくまちゃんのほっとけーき』『からすのパンやさん』『おだんごパン』『ぼくのパンわたしのパン』『はんぶんあげてね』・・・そうそう『ぐりとぐら』の「かすてら」から、かの『アンパンマン』にいたるまで。そして、どの本も絵から文から、おいしそうなパンの焼けるにおいがぷーんと漂ってくる。

▲ けど、パンを食べたことなくても、ケーキの味を知らなくても、息子は「よんで、よんで」とこれらの本を繰り返し持って来てたから。
もしかしたら読みながら、辛かったのはわたしだったのかもしれない。ドクターのいう「小麦粉の舞う中で」妊娠中の仕事や、生まれてからも仕事するそばで寝かしてたせいやろか?妊娠中にパン食べ過ぎたんやろか?という思いもつねにあったし。
でも、根が食いしん坊やし、子どものためだけやなく、自分も食べたかったから(苦笑)小麦のかわりに雑穀粉や米粉、さつまいもやかぼちゃを使って、いろいろ工夫してパンもどきや、お菓子を焼いたんよね。

▲そのころ息子のお気に入りは雑穀粉+米粉のパンケーキ。
『しろくまちゃんのほっとけーき』を開きながら「ぽたあん どろどろ ぴちぴちぴち ぷつぷつ」「やけたかな」「まあだまだ」と一緒に声出して、フライパンで何枚も焼いたっけ。絵本にあるような小麦粉も卵も牛乳も使ってないから、ぺたんこのパンケーキだったけどね。焼きたてに 少しはちみつやメイプルシロップをとろーりかけて「おいしいなあ」「おいしいねえ」と食べた日がなつかしい。大人になった息子にその味の記憶はもうないかもしれないけど。今日これ書いてて、久しぶりにかれの小さいときのアルバムをみてたら、食べてるとこの写真が多くて笑ってしまった。って、わたしが写してるんだけど。たぶん何か食べてるときの顔がかわいくて、いとおしかったんやろなあ、と思う。

▲アレルギーいうてもね、ほんとうにさまざまで。皮膚炎として出る場合からアナフィラキシーみたいに皮膚から粘膜、呼吸器へと次々症状が広がってゆくものまで。
カナダで訪ねたパン屋さんみたいにグルテンフリーのパン焼いてはっても、同じ工房内で小麦使ったふつーのパン焼いてたら、それだけで反応起こす子もいるし、パンケーキの甘いシロップもだめな子もいてるしね。大人になった息子は今はパンもパスタもOKだけれど、食物アレルギーで食べたら「絶対あかん」ものは依然としてあるし。気を抜けないのは変わらない。

▲でも、でも。それでも言いたいです。
食べられるものが限られている子どもたちも、外食できない子どもたちも、せめてお家ではゆっくりたのしんで食べる時間をすごせますように。限られた食材でご飯つくったり、おやつ拵えたりするのは大変やけど、お母さんやお父さんも「おいしいもん」をたのしんで作って食べてほしい。そして何より、親が子どもとそんな時間をゆっくりもてる仕事や社会を、と願います。



*追記
その1)
食物アレルギーとは
「食物アレルギー」という言葉は、多くの場合は食べてからすぐに症状がおきる「即時型アレルギー」の意味で使われます。症状は、食べた直後から1時間後、遅くとも4時間以内に見られます。じんましんや紅斑(皮膚が赤くなること)、浮腫(むくみ)が一番多い症状ですが、咳・喘息発作、嘔吐・腹痛・下痢などが見られることもあります。血圧が下がって意識が遠のいてしまうアナフィラキシーショックが、一番重い症状です。》(アレルギー支援ネットワークHP→より抜粋)



その2)
「アトピー性皮膚炎と食物アレルギーはちがうの?」と、時々周囲の人から聞かれるのですが。
ここに小児科の医師がこたえた記事がありました《Q :アトピー性皮膚炎と食物アレルギーとは違うのですか?A:木村彰宏(いたやどクリニック 小児科部長)〜もぐもぐ共和国HP〜》→


その3)
カナダといえばこの方です。
Neil Young - Mother Earth (Live)→
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by bacuminnote | 2015-01-23 23:28 | パン・麦麦のころ | Comments(5)

よう来てくれて。

▲ この前まで野菜みたいに薄緑色だったアジサイがじょじょに色づき始め「紫陽花」に。朝いちばん雨戸を開けてその「七変化」ぶりを見るのが楽しみだ。
根っからの不精者だからここに越してきて植えたものと言うたら、食べたあとおもしろ半分で植えたアボガドの種と、ポスティングのチラシに添付してあった朝顔の種くらいで。
「花より団子、花より緑」派だけど、毎年その時期がくれば花咲く庭木や紫陽花は 忘れかけた頃にきまって顔をみせてくれる友だちみたいで、心がはずむ。今年も忘れないで、よう来て(咲いて)くれて。おおきに、と思う。

▲ 先日、散歩から戻った相方が「これ、郵便受けに入ってた」と一枚の紙きれを渡してくれた。
「何時かはお声かけて頂きましてありがとうございます」と流れるようなきれいな字で書かれたそれは、同じ町内にお住まいのMさんという義父母の友だちからの手紙だった。
かつて相方がパン屋修行のあいだ、二年近く今のこの家で義父母や祖母と同居していたから、義父母が親しくしていた方たちに買い物の途中たまに会うことがある。けれどみなさんもうかなりの高齢で、しかもあの頃からもう二十数年。わたしの事など覚えてはらへんかも と、あえて挨拶もせず通り過ぎるのだけど。

▲ ワインレッドのシニアカーに乗って颯爽と街ゆくMさんを見かけたときは思わず声をかけた。ちょうどその数日前に「ウチの前をシニアカーに乗ったMさんが通らはって、ちょっと話してん」と相方から聞いたところだったから。
この方、当時は短歌の会に入っておられタウン紙を開くと短歌のコーナーにはいつもお名前があったのでよく覚えていた。その頃,一人句作に励んでいた義父を「短歌もいかがですか」と誘ってくださった方でもあり。ジッカの母と同じ年(87歳)と聞いていたので親近感もあって、義父母の友人というだけでゆっくり話したこともないのに「Mさん!」と呼び止めたのだった。

▲ 「わあ、なつかしい。あなたがパンの箱に入れてくれてた手紙をお義母さんから見せてもらって、いつもたのしみに読んでいたのよ」と、手をとって懐かしがってくださった。(その昔、義母がご近所の方と麦麦のパンを「共同購入」してくれていて、Mさんもお客さんの一人だったのだ)
「長いこと足が痛くてね、どこにも出かけられなくて、悶々として。することもなく友だちに電話ばかりかけていたんよ。でもそんなこともだんだん虚しくなって。けど、コレに乗って外を自分ひとりで自由に走れるようになって、視界がひろがったよう」とMさんは少女のように笑う。

▲短歌は?と聞くと、ちょっと表情がくもり「家の中でばかり居たから。長い間なーんも浮かばなくて。でも、この頃こうやって外に出ると、やっと何か『感じる』ことができるようになってきた気がする」と仰るので「それやったら、ぜひまた短歌を!」と言ってその日は別れた。
帰ってから義母と母にさっそくこの日のことを報告。とりわけ同じ年の母には,足が痛くてもあきらめないで、と伝えたかった。

▲ さてさて、Mさんの手紙のつづきにはこう書かれていた。
「先日は短歌のことを言って戴きまして、ながく休んで居りましたが、久しぶりに一首出しましたので、お忙しいと思ひますが◯◯(掲載紙)を見て頂きます様よろしくお願ひ申し上げます」
わあ、また始めはってんや~と相方とよろこぶ。
このことを伝えるためにウチまでシニアカーに乗って手紙を届けに来てくださったのだ。
はげましたつもりだったけど。
力づけられたのはわたしのほうだ。
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by bacuminnote | 2010-06-10 21:03 | パン・麦麦のころ | Comments(0)

店のなまえは柑林堂

▲この間の日曜日、買い物途中に通るマンションの前に引っ越しトラックが停まっていた。秋と引っ越しはよく似合うなあ、と つい足がとまる。青空ながらふく風は冷たく肌寒い午後だったけど、引っ越し屋のお兄さんたちはみな半袖シャツ。きびきびと動いて、濃く深く日焼けした腕がまぶしい。
トラックから降ろした、三人乗り!自転車と補助輪のついた赤い自転車を見ながら、この町でも楽しいこといっぱいありますように、とおもう。

▲これまでなんべんも引っ越してもうこりごりのはずなのに。そして この町にとくべつ不満もないのに。
こんな風に引っ越しのトラックを見るとふわり心が動くのは 根っからの根無し草(?)なのか。
そんなんやから「もし、こんど引っ越しするならどこがええ?」と、たまに相方と話すことがある。お魚の、米の、野菜の、水のおいしいところ。図書館に歩いて行けるところ。手紙好きのわたしは郵便局が近く、っていうのも外せない・・・なんてね。夢とも本気ともつかないような、おもいおもいの事をひとしきり話したあとは、「こんなん言いながら、ずっとここから動けんかったりして」と それ以上に発展することなく話はお終いになるんやけど。

▲そういえば。
パン屋を始める前に家探しのため、遠くでは九州(友人のいた大分・佐伯)や、四国は四万十川近く。関西では丹波篠山(兵庫)、美山(京都)、清水町(和歌山)等々、休みのたびに軽自動車バンにて親子三人 大したあてもなく回ったことがあった。わたしたちにしたら「まじめに考えて」の事だったんだけど、親には「何を夢みたいな事言うてるねん」「何を暢気な事やってるねん」と呆れられていた。

▲いくら田舎で始めるとはいえ、店を開業するなら、しかるべき不動産屋に出向き予算と希望を提示し、それに見合った場所を検討するのが「世間の常識」というものだろう。第一、住むだけじゃなく、そこで開業するのだから普通に貸し家を探すのとはわけが違う。何度か懇々と諭されて、一度は不動産屋の斡旋で貸し家を見に三重県まで出かけたこともあったっけ。

▲その町は○○ホーム、△△住宅、の色鮮やかなノボリが並ぶ「ニュータウン」で、たしかに元は田畑だった所にはちがいなかったけれど。不動産屋さんの提示する数字は「借金」なしに用意できるものではなく。何よりわたしたちが思い描く場所からは遠く。
「そんなお金ないし・・・」と口ごもるわたしに「商売するんだったら、これくらいのお金は最低要りますやろ」ときっぱり言われて、わかってはいたものの「現実」に打ちのめされ。帰り道しょんぼりしながらも「そうや。やっぱり自分たちのやり方で探すしかない」という思いを強くした。

▲そんなことがあった後のある土曜日。
図書館に行くと前のショッピングセンター広場で和歌山県フェアというのが開かれ、物産展のテントが町村別にずらりと並んでいた。何ということはなしに回ってるうちに、こういう所に来てはる人に聞けば何か情報が得られるかも、とふっと思ったんよね。

▲で、最初にのぞいたのが「清水町」(現・有田川町)のテント。なぜ清水町だったのか、何かこころ惹かれるものがあったのか、今となっては思い出すことができないんだけど。とにかくそのテントにいてはった気のよさそうなスタッフに「じつは田舎でパン屋を始めたくて貸してくれるお家を探してるんですけど」と思い切って声をかけたのだった。

▲その人は清水町役場の○さんという方で。「あかんで もともと」と思って声をかけたのに「空いてる家ありますよ」と笑顔が返ってきてちょっと泣きそうになった。後日連絡します、とのことで名刺をいただいて帰って来て。次の週か、その次だったか。日曜日さっそく親子で和歌山に向かった。休日だというのに○さんが出て来て空き家に案内して下さる。
みごとな棚田を横に見ながら細い山道をあがったてっぺんにその家は建っていた。休みのたびにクッションの悪い軽のバンに乗せられ、時に車酔いしながらひたすら山道を走る田舎の家探しに「うんざりしていた」(←当時 小学一年の息子、後に語る)息子も、その「絶景」に「わああ、すごいなあ」とおおきな声を上げた。

▲山のてっぺん、昔ばなしに出てきそうなわらぶき屋根の家には さんさんとお日ぃさんがふりそそいで、眼下にはパズルのような棚田が広がっていた。家の持ち主は年をとって来てしんどくなったから、と下に新居を建ててお住まいだった。○さんと共に伺うと、やさしそうなご夫婦が息子を見て「若い人らが住んでくれて、ほんで、こんな元気でかわいらしい子がそばに引っ越してくれたらうれしいなあ」と目を細めて言ってくださった。

▲○さんも「よかった、よかった」とよろこんでくれた。その家からの帰り、いっしょにお昼ご飯を食べながら「じつは、あのお家、茅葺きもすばらしいので、なんとか維持できるように、とあかんつもりで助成申請出したところですねん。けど、まず通る事はあらへんと思います」と聞かされた。
帰途、いくつもの蜜柑山を越え「ああ、申請が通りませんように」と願いながら(苦笑)ここで開業できるんやったら、店の名前は「柑林堂」(かんりんどう)に決まりやなあ、と話してた。 桃林堂(とうりんどう)という大阪は八尾にあるお店のお菓子(最中も羊羹もおいしい)も意匠も好きだったので、字体もあれやなあ・・・と盛り上がった。

▲「絶対あかんと思ってたのに。あの申請が通りましてん」と○さんから電話があったのは どれくらいあとだっただろう。お家の持ち主の方も「あの人たちに入ってもらえたらうれしいのに」と言うてはったそうやけど。町の施設になる事が決まったのだから仕方ない。
何度も何度も「申し訳ない」と、それこそ申し訳ないくらいに謝ってくださる○さんに「残念ですけど、しょうがないです」と答えながらも 内心「もうパン屋なんか一生できないのかもしれない」というほど落ち込んでしまった。

▲けど。
その何ヶ月かあとに滋賀・愛知川(えちがわ)でのご縁があって(この話もまたいつか・・)めでたくパン工房 麦麦(ばくばく)は開業した。1987年10月8日のことだ。やっぱり いろんなひとたちにあれもこれもいっぱい助けてもらってのスタートだった。
あらあら、引っ越しトラックの話からえらい長話になってしもたけど。
記憶は日々とおくなるから、又ときどき思い出してパン屋話 語らせてください。
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by bacuminnote | 2009-10-26 12:03 | パン・麦麦のころ | Comments(0)
▲雨戸を開けたら、まぶしい光とはっとするような青い空が目にとびこんできた。なんだか秋みたいな空色だ。
けど、お向かいの新築工事の、トントンと懐かしい金槌の音や「はいよ~上げ。もうちょい。もうちょい下げ~。はーいストップ」と材木を動かす音が、なんだか今朝のこの空色に似合っている。
それにしても、今日も風がつめたくて肌寒い朝だ。もう五月も半ばを過ぎたのにね。

▲昨日は久しぶりにまちに出かけた。大阪に戻って一番の変化はこうして一人外出の時間が増えたこと。相変わらずの方向音痴で無駄に歩き回ることも多いけど、一人歩きの身軽さは、たとえ道に迷う不安があってもおもしろい。
行き先はミナミの本屋さん。わたしたちのパン屋の先輩であり、家族ぐるみのおつきあいの『パン工房 楽童』さんの開店23周年!バースデイライヴ(山村誠一Live in std.)に。

▲23~24年前といえば、それが後に仕事になるなんて思いもせず、わたしは家でパンを焼いていた。(このころまでは『星野天然酵母』という酵母を使って)これがうまく窯伸びするときと、アカンときがあって。けど、まだその頃は天然酵母のパン自体手に入りにくく、資料も本もなかったので何をどう学んでいいのかもわからなかった。

▲わからんかったものの、雑でええかんげん、加えてめんどうくさがりの このわたしがパンを、家で、しかも天然酵母で、って事に、自分自身けっこう満足しており・・(苦笑) 今思えば、発酵不足で目のつまった ちょっと白っぽい焼き上がりのパンでも(なかなかやん、とそのときは思ってた)気取って?白い紙に包んで麻紐かけたりなんかして、友だちに贈ってたなあ。(ほんま、はずかしいです)

▲それでも、こころやさしい友だちや周囲のひとたちは珍しさと、そんなわたしへの「はげまし」もあってか「おいしい」と言うてくれた。ただ一人「なんで同じように焼けへんねん」と言うひとがいて。
「パンのこともなーんも知らんとエラソーに言わんといて!」と返しながら、内心わたしも安定しないベイキングをなんとかしたいと思い始めてたから。
その「ただ一人」(←相方)の指摘には、よけいに腹が立ったんよね。

▲ちょうどそんなとき、いつも読んでいた『自然食通信』という雑誌に『楽健寺』という所で天然酵母パンの講習会があると書いてあって。「これ、これ」とすぐに電話したら、ちょうど三日後に開かれるけど、もう定員一杯になったとのこと。がっかりしてたら「あ、でも当分もう開く予定がないのでいらっしゃい」と言っていただいた。

▲そしてその日、まだ小さかった上の子を大阪の義母に預かってもらって、久しぶりのわたし一人の外出。
バスや電車を乗り継ぐ中、息子と手を繋がない左手がなんだかすーすーと頼りなく、何度も後ろを振り返ってしまって「あっ、きょうは一人なんや」と苦笑した。
東大阪の小さな工場が並ぶ中に楽健寺はあって、十人ほどのその日の受講者と教えて貰いながらプチパンを焼いた。りんごやにんじん、山芋を使って自分で酵母をおこして増やす「自家培養酵母」を使ったパン焼き。楽健寺のパンは自然食品の店で買って何度か食べていたけど、この日のパンはカンゲキのうまさだった。

▲そしてこの講習でわたしはパン屋志望の一人の若い女の子と知り合い、講習後も居残って「センセに聞きたいことあるし」という彼女につきあうことになった。彼女のおかげで「パン屋になるには?」の話や、ちょうど天然酵母のパン屋を開業しはったばかりの楽童さんの話をセンセから聞くことになったのだった。
けど、そのときは、ただのつきあいで話を聞いていたわたしだったのに。

▲それから、しばらくしていつのまにかわたしにかわり、ウチのパン焼き係となった相方が、ついにはパン屋修行に、ということになり。話を聞かせてもらいに「パン工房 楽童」を訪ねた。
穏やかな雰囲気のアキラさん、おもしろいセツさん、そしてにぎやかな男の子三人。気取らず、明るく暖かくて、そしておいしいパン。「わたしたちも」という思い一杯で帰って来た。「麦麦」が滋賀県愛知川で開業したのは、その二年後だ。

▲さて、スティール・パンの名手 山村誠一さんのライヴは楽童さんの空気そのまんまで、たのしく、暖かく、おもしろくて、そしてしみじみと旨かった。手が痛くなるほどの拍手も手拍子も久しぶり。
帰途、ふと楽童さんが23才ということは、ウチも続けてたら今年ハタチやったんやなあ、と思ってちょっと感傷的になるも、道を間違わないように緊張してるうちにそれも忘れて、夕暮れの御堂筋をすたすた歩くのだった。
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by bacuminnote | 2007-05-21 19:29 | パン・麦麦のころ | Comments(0)
▲その日、いつものように相方は夜中二時半すぎに起きて、パンを焼き、わたしはあちこちに発送準備をし、お送りするお客さんに便りを書いて。それから、袋詰めするまでの間にホームページの「麦麦通信」に この日一段ときれいやった朝のことを書いてアップした。

▲『パン焼きの日のスタート時はまだ星空ですが、朝6時頃になるとようやくあたりが少うし明るくなってきて。それでもまだ空は深いブルー。そんな空をバックに黒い山々の稜線がシャープです。こんなすばらしい光景を 相方と二人だけで見てるのがほんともったいないと思う。そのうち山々も眠りから覚めるように色を帯びてきて。
こういう景色を 当たり前に見ることのできる 日常に、心からありがとう!と思う朝なのでした』(2003.11.18/麦麦通信)

▲まさかこの日が最後のパン焼きになり、最後のパンの発送になるなんて、思いもしなかったのに。さっき改めてこれを読んでたら、なんか どこか「当たり前」じゃなくなる日を予感してるみたいで、どきんとした。

▲このあと、すこしして病院から義父危篤の知らせを受けて、わたしたちは大急ぎで大阪に向かう支度をしたのだった。主治医のことばから、最悪の事態を覚悟しながらの帰省となったので、道中 初めての携帯電話を契約して車内で説明書を読みながら、親戚や親しい人に連絡をして。そして、大阪まで まだ2~3時間はかかろうかという所で「たったいま」と知らせを受けた。

▲それからあとのことはよく思い出せないくらい、いろんなことがあって、胸の中も頭の中もぐじゃぐじゃだった気がする。
麦麦通信に「パン屋やめます」と書いたその一文があまりにそっけない、と上の息子に怒られたんだけど。
「決心」したくせに未整理のきもちがいっぱいで、書き直せば書き直すほどに事務的になって。というか、こぼれる何かをひとつでも書き始めたら終始がつかなかったのかもしれへん。

▲相方は義父の死の後、大阪でしなければならないことが山盛りで、信州と大阪を忙しなく往復していた。それでなくても大変なことの多い冬の暮らしに、このころ「店」じまいに、引っ越し準備に、と開田村の友たちには ほんまに言い尽くせないほど支えてもらい、助けてもらい、忘れられない冬となった。

▲ああ、もうあれから3年。
きょう 義母のところにむかうバスの窓から紅葉した街路樹をぼんやり眺めながら、あれやこれやと思い出していた。
「あっという間やったねえ」と、義母とサンドイッチをつまみ、ぽつぽつ話す。しんみり 始まった義父の話が、いつのまにか脱線、脱線で、そのうち大笑いして。
「おとうさんが、おい、ちょっと静かにせんかい~って ぼやいてはるやろか」とまた笑って。お供えした珈琲をあたためて飲んで、帰って来た。

▲「パン屋のおばちゃん」やめて「次はどんなおばちゃんになるの?」とは、友だちやお客さんにその頃よく聞かれた質問だけど、あいにく未だに「これ」と差し出せるものがないまま、でいる 。(これは正直ちょっと、くやしい)
この間は 姉に「けど、あんたはどこで住んでも楽しそうやなあ」としみじみと 言われた。
せやろか。

*追記
開田にも来てくださったことのある お客さん・・山口県のUさんからいただいたおたより。
「開田のすばらしさは、
思い出の中だけでなく、子どもも大人も、おとづれた人たちにも
きっといい肥やしになっていることでしょう。
前進なさい」

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by bacuminnote | 2006-11-18 16:49 | パン・麦麦のころ | Comments(0)