いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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カテゴリ:俳句( 6 )

なおもしおんの。

▲ 梅の花が散って地面が桃色に染まってる。木瓜(ぼけ)の花は紅い蕾を日ごとにふくらませ。紫陽花の枝には芽吹いたきみどり色がまぶしくて。まだやわらかな葉っぱを広げ始めてるタンポポ。ああ春やね。今年も春は忘れんと来てくれたんや。ほったらかしの庭に、それでも時がきたら咲いてくれる花や新芽に、おおきになぁ~とおもう朝。
この間からの晴天続きに調子にのっていっぱい洗濯したけど、どうやら今日は雨になりそうだ。

▲さっきネットで『数珠ひろふ人や彼岸の天王寺』という正岡子規の俳句に出会って、天王寺のちかくのお寺にご納骨されてる友だちのお母さんのことを思っている。
もう長いことホームに入ってはったし、お会いすることもなかったから、わたしの中ではいつまでも若々しいお母さんのまんまなんだけど。
下宿ではなく友だちと一緒にママ(と彼女が呼んでいた)のとこに直帰、という日が、ほんま幾日あったことか。そのつどママは山盛りのごちそうを拵えてくれはった。そんな日はパパも仕事帰りに「ハイデ」(彼女んち近くのケーキ屋さん)のケーキをいっぱい買ってきてくれはって。

▲ 今思ったら、あの当時ママはまだ40代だったんよね。
初めて話したときに高橋和巳やニッティ・グリッティの名前まででてきて、すごいなあ。都会の「ママ」はちがうなあ、っていっぺんでママのファンになってしもた。
田舎育ちには何もかもが目新しく。トイレの壁にはjazz喫茶みたく大きなポスターが貼ってあって、リビングの本棚には、件の高橋和巳やパパの読む法律関係の本が並んでた。団地もテラスハウスというのも初めてだったし。
ときどきママの若い友だちの高校生や大学生が麻雀しに来てたりして。「進歩的」。ウチの親とえらいちがいや~と羨ましかった。

▲だから。
彼女がわたしと同じように家や親への不信や愚痴をこぼすのも、「家を出たい」というのも、その頃はちょっと考えられへんかったけど。
思春期の子どもと親の関係って、いつもどこでも、くんずほぐれず(←「組んず解れず」と書くと今知りました)の格闘期かも。そうして、わたしも友もさんざん親とぶつかり、時にイタイ思いもして。いつしか母になり。
悪友はやがて祖母にもなりにけり~

▲そういえばママが俳句の会に入ってはったこと、ずいぶん後になって知ったんだけど。いまだったら、いっぱい教えてもらいたいことや、話したいことあるのになあ。
俳名は紫苑だったそうで、いまは友がその名「しおん」で渋いええ句をひねる。
『淋しさを猶も紫苑ののびるなり』(あ、この句も正岡子規だ!)
紫苑の花言葉は「君を忘れず」だとか。
J、きみのママのことわすれません。ママが遠いとこに行かはった日からもう一年たったね。


*追記
ママとの話にでてきた ニッティ・グリッテイ・ダート・バンド~なつかしい!
Nitty Gritty Dirt Band~Mr.Bojangles
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by bacuminnote | 2013-03-18 13:14 | 俳句 | Comments(0)

人として尊ばれる。

▲ 暑い暑いと唸ってる間(ま)に8月が過ぎてしまった。この間ニュースでこの辺りが38.1度と報じられて一瞬絶句の後、なんだかぐったり。ほんま言うと、その日は湿気がなくそれほどまでに暑く感じなかったんだけど。38度と聞いたとたん反応するわたしの正直な(単純ともいう)身体・・・。
それにしても。つめたいお茶に炭酸水。ビールにアイスクリームにかき氷。そして扇風機とエアコン。このあと、秋の体調を思うとちょっとこわいなあ。

▲そうして、こんなの中でも9月1日にはあちこちでガッコが始まって。
買い物帰り、前をゆく中学生たちが広告うちわをパタパタ仰ぎながら、だるそうに歩いてるのを見て、ふかく同情する。教室に2~3台の扇風機では、まだまだ学習できる気温やないよね。
久しぶりの友だちや、まだ終わっていない宿題、夏休みの間にあった 話したいことや、言いたくないこと。憂鬱となつかしさのうちに始まる二学期初日。

▲そのむかし、覚え始めた英語、12ヶ月の内いちばんすきだったのはSeptemberだったけど。考えてみたら、それは夏のおわりを感じることのできた遠い9月の話かもしれないな。今日もつよい光線は容赦なく、おばちゃんの肌も感傷もみごとにチリリと焦がしてゆく。

▲ 今朝 友人から仕事の休めない娘さんにかわって、熱のあとすっきりしない赤ちゃんのおせわに出かける、とメールがあった。これだけの暑さやから、体調をくずしたのだろう。仕事を持ちながら(いや、持たなくても)子どもを育てる中で、たすけてくれる人がそばにいてくれるのはうれしい。たとえ直接の手助けをしてもらえなくても、愚痴をこぼしたり、お茶のみながら話せるだけでも、ずいぶんきもちが楽になる。
友よ、暑いけどきばって「グランマ」してきてください。「お孫ちゃん」どうか早くよくなりますように。そして、こんなとき親が安心して休める(または働ける)社会を、と改めて思うのだった。

▲ そういえば、わたしは上の子が赤ちゃんのころ、しょっちゅう扁桃腺を腫らして医者通いをした。病院には子ども連れで行くこともあったけど、点滴となると時間がかかるので、そんな時は近くに住む友だちに頼んでウチに来てもらった。子どもは元気やのに母親であるわたしが病気ばっかりで、情けなくて、めそめそ、気弱になっていたから、友だちと息子のことを弟みたいに可愛がってくれる彼女の娘Mが来てくれると、ほんまうれしくて ありがたかった。わたしたちの親は近くにいなかったけど、恵まれていたなあとおもう。

▲ あれから30年近く。いつしかMも母となり、友はグランマになった。
『悪友が母となりたる秋真昼』(土肥あき子『鯨が海を選んだ日』(2002)所収)というすきな句がある。仲間内で一番早く「母となった」友に「ほおお~」と感慨深かかったものだけど。若いときからあほなこと一緒にしてきた「悪友」から 携帯の待ち受け画面の孫の写真を見せられる日が来ようとは。でも彼女の「ばばばか」ぶりを笑いつつ、そういうわたしだってエレベーターの中で乗り合わせたベビーカーの赤ちゃんから笑いかけられただけで、その日はハッピーな気分になる。子どもの笑みのもつ力はすごい。

▲けど、子どもは写真やないから、ずっと「いいおかお」してくれるわけもなく。時々スーパーで買い物の途中に全身でぐずるちっちゃい子のその泣き声の凄まじさに、しばらく忘れていた育児期のドタバタの日々を思い出す。
元気な子は元気ゆえに、からだに弱いところのある子はその弱さゆえに、親はそのつどふりまわされ、走りまわり、怒ったり、怒りすぎたと悔やんだり。そのうち子どもの笑顔にはっとして、つられて笑うて。親もまたすこしずつ育ってゆくのだけど。
いや、それはそれとして。その前にまず必要なことは生活の基盤だ。
くりかえされるつらいニュースに、やるせない思いで以前ここで(08.5.8 「すべてのこどもたちに」)書いた児童憲章を読み返しながら、いま、この環境を保証されている子どもたちがどれくらいいるのか、と再び考えこんでいる。


【児童憲章】
われわれは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。

児童は、人として尊ばれる。
児童は、社会の一員として重んじられる。
児童は、よい環境のなかで育てられる

一、すべての児童は、心身ともに、健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。
二、すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識と技術をもつて育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。
三、すべての児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、また、疾病と災害からまもられる。
四、すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果すように、みちびかれ る。
五、すべての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、また、道徳的心情がつちかわれる。
六、すべての児童は、就学のみちを確保され、また、十分に整つた教育の施設を用意される。
七、すべての児童は、職業指導を受ける機会が与えられる。
八、すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また児童としての生活がさまたげられないように、十分に保護される。
九、すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、わるい環境からまもられる。
十、すべての児童は、虐待、酷使、放任その他不当な取扱からまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。
十一、すべての児童は、身体が不自由な場合、または精神の機能が不十分な場合に、適切な治療と教育と保護が与えられる。
十二、すべての児童は、愛とまことによつて結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するように、みちびかれる。
             
 1951年(昭和26年)5月5日制定


*追記*

児童憲章について 
『この児童憲章とは、すべての児童の幸福をはかるために、児童の基本的人権を社会全体が自覚、確認し、その実現に努力する目的でつくられた12か条の文章です。1949(昭和24)年中央児童福祉審議会で制定しようという意見が出て、これをきっかけに直ちに児童憲章制定準備委員会が設立、1951( 昭和26)年には、55名で構成された児童憲章草案準備会の手で草案が練られました。この草案を、内閣総理大臣が、国民各層から選んだ協議員からなる児童憲章制定会議に提出し、その決議を経て、その年の5月5日、子どもの日に宣言されました。ただし、法律として国会において制定されたものではありません』 「大人のために児童憲章」求龍堂刊 より
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by bacuminnote | 2010-09-03 20:49 | 俳句 | Comments(0)

水まとう。

▲ 朝から雨が降った。窓を開けているとひんやり湿った風に裸足の足が冷えてゆくのがわかる。あれ?さっき脱いで丸めたソックスはどこに転がっていったんかなあ。
雨音を聞きながら、ここ数日の雨で水かさを増して「滔々(とうとう)と流れ」ているだろう故郷の川をおもっていた。たぶんこんな日にはふかい緑色の吉野川だ。勢いよく伸びる樹木に大きくなった山々が川面に写ってるみたいに。

▲ そんなことを思いつつ買い物に出たら、いつもは素通りするスーパーの焼き魚コーナーで足が止った。なつかしい「アイのやいた」香ばしいにおいがしたからだ。故郷では鮎のことを「アイ」という。「焼きたてですよ。いかがですか?」と店員さんが声をかけてくれたけど「いや、あの、どうも」とぼそぼそ言いながら売り場を離れた。やっぱり、なんか、ちがう気がして。
その昔 鮎舟で船頭さんが捕らはったのを川原で焼いてもらって食べた「アイの味」なんて、もう味わうことができないやろうに。いつまでも「あのとき」が「おいしい基準」として残ってるんやから。思い入れの深い食べ物っていうのは、ほんまに、ちょっと厄介なもんやね。

▲ クーラーのよくきいた地下の食品売場から地上にあがると、わたしは冷蔵庫から外にほおりだされた菜っ葉みたいに、たちまちへなへなと萎れる。なんべんも書いて申し訳ないけど、暑いのは苦手だ。
帰り道、前を歩くのは三つくらいの女の子とママ。ママの手提げのひとつは透明のプールバッグでカラフルなバスタオルとちっちゃなゴーグルが見える。そうか。プールの季節なんや・・・と微笑ましく眺めながら、後ろを歩いてたら女の子が突然泣き出した。

▲ 「いやだよぉ。プールなんていくの、やだよぉ。ぜったいにいや。いやだもん。プールはやだ!」
ママは終始しずか。でも、きっと、とりあえずは早いとこプールに連れてゆこう、と思ってるのだろう。だんだん早足になって、歩くたびにヒップがぷりぷりして。もう後ろ姿だけでカンペキに怒ってるのがわかる(苦笑)
が、女の子もなかなか泣き止まず「だって、いやだから。プールはいやなんだってばー」としつこい。最後は作戦変更?甘えた声で「ねえ、ママといっしょにはいりたいよぉ」と来たが「そんなのは赤ちゃんだけでしょ!」とぴしゃりと返され、プールのある建物へと引っ張られるようにして消えた。

▲ どっちにも同情しながら、そういえば、ウチの上の子も三つくらいのときはまだ水をこわがって、髪の毛を洗うたびに大騒ぎしてたなあ、と思い出した。困り果ててシャンプーハットなんていうのを買ったら、いやだ、いやだ、と泣いてるうちに脱いでしまって「ハット」に溜まった石鹸水がドバーッと一気に流れて再び大泣き。だから夏はいつも丸坊主にしてたんよね。

▲ ちょうどその頃、二年近くよしので暮らした。家の前が川で、台所の窓からも居間の窓からも真下に川が見えて、家が川に浮かぶ舟のように思ったりした。夏休みになると、川好きの小学生の姪が奈良から遊びに来た。この子、朝起きるとすぐに真っ黒に日焼けした顔でにっこり笑って「今日も川に行こうな」「ぜったいやで」とわたしのあとを追うのだった。

▲ なにせ息子があまり行きたがらないし、家の用事もあるし「洗濯してから」「ごはんの支度してから」と伸ばし伸ばしにしてたら、ちょっとでも早く川に行けるように、と健気にもわたしの手伝いを一生懸命してくれて。
川はすぐそこだし、水嫌いの息子も大好きなイトコのおねえちゃんが言うから仕方なく着いてきた。そうして毎日川辺で遊んでるうちに、ある日突然お風呂で「ぼくシャンプーハットはもういらない」宣言。湯桶の湯をばしゃりと頭からかぶってみせた。ひゃあ、びっくり!ほんま、子どもの成長っていつも「突然」やね。で、その日以来「川に行こう」コールには息子も加わって毎日おおさわぎ。夏のよきよき思い出だ。

▲かつては 水泳の得意な亡き父が、やがて娘のわたしたち四姉妹が泳ぎ、そしてその子どもたちも夏休みのたびに遊んで泳いだ川。「大水泳場」と看板があがり、地元だけでなく近隣の町からの家族連れで賑わった川だった。
でもいまはそれも もう昔話。
『泳ぐとはゆっくりと海纏(まと)ふこと』(大川ゆかり『炎帝』所収)
海で泳いだ経験は少ないけれど。ゆったり川の流れのなかで「水纏った」時間がこいしい。
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by bacuminnote | 2010-07-10 22:36 | 俳句 | Comments(0)

わたしのまんぞく。

▲ 梅雨だし、毎年のことなのだし、とわかってはいるけれど。
むしむし、じめじめに、気がつくと「あああ」とため息をついている。それでも朝昼夕とたっぷり汗をかき、夜ゆぶねにつかるとからだの底から「あああ」とマンゾクの声あげて一日はおわる。
だが、それも長くは続かず、むううと暑い寝室でまたもやため息をつくことになる。

▲毎年このころになると 開田高原の家の山寄りの部屋がしんそこ恋しい。ガラス戸を開けるとすぐ裏は山で、つめたいみどりの風がすぅーいと入ってくる。ササユリがひっそりとうつくしく咲いているのが見える。そうそう、村の古い家の多くは網戸がないから開けっ放しにしてると時々いろんな虫は入ってくるんだけど、気温が低いからゴキブリも蚊もいない。そんな部屋で寝転んで本を読みながら知らんまに寝入る、というのがわたしや相方の「満足」だったなと思う。

▲ この間さがしものをしていて、引越し以来そのままの段ボール箱をがさごそやっていたら古いノートの間から色褪せた紙が何枚か出てきた。それは学習雑誌の終わりのページにあった投稿欄を乱暴に破いたもの。よくもまあ、こんなのを残していたものだ、とわれながら呆れたり懐かしかったりで、しばし眺める。はるか昔 高校生だった頃、ラジオの深夜放送にこの雑誌に、とベンキョーそっちのけでよく投稿してた。深夜放送は小話みたいなものを、雑誌の作文教室は原稿用紙一枚が規定だったので、授業中の「内職」にはちょうどよい長さでもあり(苦笑)
はがきを番組で読み上げられた日や、雑誌に名前が出た時は友だちとわあわあ大騒ぎしたものだ。

▲なつかしの「学燈作文教室」一等は金ペン万年筆、二等は高級ボールペン、優秀作品は二百円の図書券と書いてあった。(この「金ペン」「高級」「二百円」というのが泣かせマス・・笑)成果のほどはよく覚えていなけど、ええとこ「二百円」やった気がするなあ。いま調べてみたらこの雑誌は去年休刊となったようだが、わたしが高校生だった1970年代にはこの他にも『高◯コース』『高◯時代』という学習誌があってどちらにも文芸コーナーみたいなのがあった。(これらもずいぶん前に廃刊となったらしい)

▲ なんでこんな恥しい話を書いたかというと、先日読んだ俳人・今井聖氏の 『ライク・ア・ローリングストーン(俳句少年漂流記)』(岩波書店刊)は今井さんが中学2年のとき『中二時代』(旺文社刊)に初めて出した俳句が第一席で入選したところから始まったから。わたしみたいにしょぼい投稿少女と天才俳句少年では、スケールも才能もちがうから話にならんのだけど、投稿して次の雑誌がでるまでの間どきどきしてたときのことを思い出して、ときめくような気持ちで読み進めた。
今井少年はこれがきっかけで俳句にのめりこんでゆくのだが、この時の選者は石田波郷だったそうだ。

▲ 今井氏は1950年生まれ、とあるから、この時代の「ちょっと先行く」男のコだったらエレキかアコースティック、どっちにしてもギターやロックに走るかと思うけど。中学生から俳句に、というあたりが渋いというかおもしろい。そうしてどんどん腕をあげた今井少年、高校生になっても雑誌に新聞に、と投句を続ける。学習雑誌の投句欄の選者は石田波郷のあと秋元不死男や楠本憲吉、そして寺山修司へと替わる。寺山が劇団「天井桟敷」を始めた頃のことだ。

▲ ところが今井少年、どうも寺山嫌いだったらしい。『寺山は前衛であり、反権力であり、インテリジェンスであり、異端であって、啓蒙的であった。それはその当時も感じていた。だからこそ、というべきか、ど田舎の十六歳はその挑発に乗るわけにはいかなかった』(p11)とある。で、寺山の俳句にたいする思い、批判、『あんたに俳句欄の選者になる資格があるのか(寺山修司の俳句は、当時ごく一部の寺山マニアにしか知られていなかったと思う)』なんてことを長々と書いて、選者寺山修司に書き送ったらしい。すごーい!

▲ そんな手紙を二、三通書いたある日(←わあ、一通だけやなかったんや・・・)投稿欄の誌面に寺山からの返信が載る。
自分はこれこれこういういきさつで俳句も書いている、という説明のあと
『今井君。細かいことをこせこせ言わずに、ホーマーの 「イリアッド」や「オデッセイア」でも読みなさい』と。
いやあ、わらった。わらった。未だ「イリアッド」や「オデッセイア」も知らんわたしが言うのもナンだけど、あの頃の寺山修司に噛み付く十六歳も、それに「細かいことをこせこせ言わず」本を読みなさい、と返す寺山もいいなあ。サイコー。(つまり 「書を捨てる」のはそれから、ってことやね~と今ならわかる)
若いというのはどこまでも恥しいけど、ほんますごいね。

▲ 今井少年、このあと京都で二年間の浪人生活の末、東京で大学入学。時代は70年代。学生運動に、俳句に。今井青年はこけたり駆けたり。やがて加藤楸邨主宰「寒雷」に。大きな口あけて笑いながらの読書だったけど、俳句への思いや「いつも新しい領域に挑戦している」師・加藤楸邨のきびしさには、背筋がのびるようだった。
それから、合間に語られる獣医のお父さんの話も、病弱なお母さんの口ぐせ「しずかにするだが」のエピソードも可笑しくて、哀しい。そんなお母さんが五十五で亡くならはったときの今井聖の句。
『朝焼へ微塵となりてゆきにけり』

*追記
その1
友部正人さん(今井さんと同じ1950年生まれ)がこの本の書評を book japan に書いてはります。

その2
わたしの作文への寸評で思ったこと。
「もっと若い女性らしく」とか「最後の二句はいただけません。いかになんでも女だてらにアラレもない」とかあって。(←評だけで、原稿は掲載されてないので内容は不明だけど。いったい何書いたんやろ?・・苦笑)
38年前はこんなとこにまで「女のコらしさ」を要求してたんやなあ、と・・「時代」を感じます。

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by bacuminnote | 2010-06-29 23:08 | 俳句 | Comments(0)

うどん にしとこか。

▲ いつの頃からか、お正月休みに「ただいま~」ではなく、「おかえり~」と子どもを迎えるようになった。
何日も前から何をこしらえようか、とこの頃では開くことも少なくなった料理本を出してみたり、食品売場であれこれ新しい食材を手に取っては「いやいや、いきなり冒険はやめておこう」(笑)と、また棚に戻したり。でも結局そうやって悩んだ時間はいったい何だったんだ?というほどに いつもと変わらない大晦日、いつも通りのお正月を迎えるんだけど。

▲ その昔、年末大阪に家族で帰省すると、朝食も済まない内にきまって義母が「クミコさんお昼はどうする?」と聞いてきはった。えっ!?さっき起きて来たとこやのに。それに相方も息子もお義父さんもまだ寝てるやん・・・と思いながらも「えーっと、おうどんでええんとちゃいますか?」なぁんて答える。すると、義母は「せやなあ、お昼はうどんにしとこか」と言うや取って来たばかりの朝刊を開き、メモ書きできそうな広告を取り出しペンを握って「で、夜は何する?」と言うのだった。

▲ ほんまにもう!とせっかちな義母にため息のまだ若いわたしだったけど。あらあら、いつのまにやらせっかちな「おかん」がここにもいる。今回も東京から帰省してきた息子に何べんも「まあ、ちょっと落ち着き」と言われてしもた。考えてみれば、母もまた義母以上にせっかちで。わたしもその母の子で、一年中ひとの出入りのはげしい旅館とたべもの屋の子やから、もともと「その気(け)」はあったのかもしれないけれど。これでも大昔は「あんた待ってたら日が暮れる」と、親のお墨付きの でんと落ち着いた娘(苦笑)やったんよね。

▲ まあ、そんなこんなの代わり映えしない食卓も、上の子とガールフレンドが加わり、彼らが買って来てくれる「新しい」たべものやワインが並び、グラスとお皿の数、それに何より笑い顔もふえ 賑やかに愉しくおいしくて。佳き時間はあっという間にすぎ、じきに「行ってらっしゃい」の朝は来た。
なんだか家の中が急に「がらん」として、しょんぼりおかんは庭いっぱい干した洗濯物がゆらゆら揺れるのをちょっとの間 眺めてた。けど、一日たち、二日すぎ。そんな思いも知らんまに忘れてる。
またいつもの生活が始まった。

『只の年またくるそれでよかりけり』 星野麥丘人「新日本大歳時記」講談社 所載

* あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくおねがいします。
あたらしい年に ちょっと古いけど(なつかしの"Exodus"にあった)すきなうたひとつ。『One love』 playing for change song / around the world 
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by bacuminnote | 2010-01-05 13:29 | 俳句 | Comments(0)

てぶくろひとつ。

▲買い物をすませて地上に出たら、いきなりからだが凍りつくようなつめたい風が待ちかまえていて、思わず荷物を置いてコートのボタンを上まで留めた。地下の食品売場はまだ終わっていないクリスマスを越え、早くも「迎春」モードに入っており。「まだ一週間もあるのに」と思いながらも数の子の値段にため息つき、黒豆の袋を手にとって、店の空いてる今の内に買うとこか、いや、まだ早いしな・・・とうろうろ。つい長居してしもて。けど、火照ったほっぺたもその風で一気に冷えた。

▲荷物をおろしたついでに 手袋、手袋とバッグの中をごそごそしたんだけど、片方しか見つからなかった。おかしいなあ、と思いながらも仕方なく片手だけ「履いて」(とわたしの故郷では言う)は みたものの 手袋のない右手がつめたく痛い。途中とうとうがまんできなくなって、再び荷物を下に置き またまたバッグをかきまわしてみるも、やっぱり手袋は出てこなかった。あれぇ、どこで落として来たのだろ。

▲ なくした右手の方は昨シーズンに親指のところを鍵で引っ掛けて小さな穴があいたまま 気になりながら繕いもせずに使ってた。ああ、ちゃんと繕っておけばよかった・・・となんだか手袋に「ごめん」のきもち。ふたつ揃って一組のものを、ひとつなくすと落ち着かない。お菓子の空き缶には片方だけのイヤリングがいくつか、長いこと待機中だ。もう出てくることはないだろうと思うのに、捨てられないでいるんよね。

▲家に帰って食材を冷蔵庫にしまうと、冷え切った台所の床にぺたんと座り込み、もう一度バッグをひっくり返し、コートのポケットもひっくり返してみたけど、出てくるのは要らないレシートや糸くずばかり。手袋ひとつで、その日はすっかりしょげかえってしまった。

▲穴のあいたくたびれた手袋なんて誰か拾ってくれるやろか。たとえ拾ってくれたとしても名前が書いてあるわけでもないし。
気をとりなおして次の日にスーパーやデパートの手袋売り場を見てみた。けれど、気に入ったものは高く、予算に合うものはつまらなくて、結局買えずに店をあとにした。

▲こんな日に限って外は「真冬」だ。
どんなに寒くても一度は立ち止まって空を仰ぎ、何車線もの道を走る車を見下ろすいつもの歩道橋も、どこで落としたのだろう?いや、そもそも、いつ片方だけ外したのか?となくした手袋のことばかり考えて、立ち止まることもなく下を向いて歩いてた。

▲子どもの頃はよく物をなくした。
当時は親も家業が忙しかったし四人姉妹の末っ子で甘やかされていたのか、しつこく泣いてねだれば、学校で要るものなら「代わり」を買ってもらうことができた気がする。

▲いつだったかジッカに帰ったとき、昔使っていた学習机の引き出しを開けたら、母があちこちから見つけたという三角定規と分度器のセットが幾組もあった。もちろんわたしの物だけでなく姉たちの物も混じっていたはずだけど、マジックで大きく名前の書いてある所を見たら
ほとんどがわたしの物だったのだろう。物を大事にしなかったかつての自分が恥しくて、傍で遊んでいた息子に見つからないようにそっと抽斗を押した。

▲そんなことを思い出してるうちに気がつけば橋を渡り終えていた。
ぼんやり歩道橋の階段を降りながら、ふと道脇のゆりの木を見上げたら、すっかり葉の落ちた木の枝が微かに揺れて、むこうにひろがる空の青はどきんとするような冬のそれで。
なくしものだけじゃなくあの事もこの事も。
いじいじくよくよしてる自分に活を入れられたみたいで。

▲そうだ。今夜は粕汁をこしらえよう、となぜかひらめいて(笑)そう思ったら、とたんにからだの奥がぽっと温く感じて、背筋のばして大股で帰り道を急いだ。信号を待つ間、荷物を置いて手をこすり合わせる。明日こそ手袋を買おうと思いながら横断歩道を渡り、ポストの前で はたと足がとまった。

▲ 赤いポストの上に白い毛糸の手袋がひとつ、たよりなげに のっかっている。
まさか、そんなことないよね。でも、見るだけ見てみようと、そろり手を伸ばしたら 真ん中に縄編み一本、右親指のところに小さな穴のあいた手袋だった。
早速バッグの中から「左手」を取り出して、ポストの上に並べてみる。まちがいなくわたしの手袋だ。
うれしいくせにちょっとバツが悪くてまわりに誰もいないのに「あらあら、こんなとこにあった。おおきに」とひとりごとみたいに言いながらあわてて仕舞った。

▲ あの日、手紙を投函するのに 手袋の手ではバッグから封筒を取り出せなくて、右手だけ外してポストの上に乗せたのかもしれない。
いや、外してそのまま落としたのをどなたか拾ってポストの上に置いてくださったのかもしれない。夜露にぬれたのか湿った手袋は家に帰ってからていねいに洗って干した。
で、その翌日か、翌々日だったか。
ポストの前を通ったらこんどは黒い男物の手袋の片方が上に のっけてあった。

だいすきな小沢昭一さんの句。
『床に児の片手袋や終電車』 (「新選俳句歳時記」所載1999・潮出版)

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by bacuminnote | 2009-12-23 15:05 | 俳句 | Comments(0)