いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2007年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧

▲今日は朝からずっとだいどこ(台所)でした。
明日のこと、あさってのこと思いながら、おでんを大鍋に仕込んだり、煮豚を作ったり。数の子の塩抜きやらいろいろしていたら、夕ご飯の時間になったのに、かんじんの今夜食べるものが不明となり(苦笑)

▲そうこうしてるうちに相方が数の子(昨日塩抜きした分)、岩津ネギのオリーブオイル炒めで飲み始め。下の子はポークチャップとご飯を食べて「まだ足りない」と 年越しそばのかわりに作った煮麺を食べ始め、そこに出先から帰った上の子がおいしい醗酵バターを買ってきたから、とバゲットを切り、そういえば うまいサラミがあったし、と切って。なんだかぐちゃぐちゃの夕ご飯となったけど。ひさしぶりに親子フルメンバーの食卓はにぎやかで、あたたかい。
まどの外は頬をさすつめたい風。とてもとても強い風が吹き抜ける。彼の地では雪が降り積もっていることでしょう。ここに来てようやく「年の暮れ」を実感します。

▲さて、あと2時間で2007年もお仕舞い。今年もおつきあいくださって ありがとうございました。
『父祖の地に闇のしづまる大晦日』 (飯田蛇笏)
世の中はとんでもなく、サイテーなことばかりの一年だったけど。
それでも。
闇のむこうにある(はずの)灯りを信じたいです。
来年こそ、よき年でありますように。
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by bacuminnote | 2007-12-31 22:11
▲連休・クリスマスとすぎたら、こんどは「年末」でショッピングセンターの人出は相変わらず多い。
お正月も普段と大して変わらない我が家の食卓なのに(苦笑)スーパーやデパートの食品売り場で、紙にびっしり書き込まれたメモを握りしめて買い物してはる人がそばにいると、その熱気と勢いに乗せられてつい「あれも、これも」と買ってしまうのが、コワイ。

▲で、一昨日はひさしぶりに黒豆を買ってしまった。甘いお豆さんはちょっとあったら十分と、いつのまにか作らなくなって、たまに瓶詰めを買ったりしていたのだけど。乾物売り場で年輩の、いや、台所のセンパイの貫禄十分な女性二人の「お豆さん談義」を聞くともなしに聞いてたら、なんでか「わたしも」という気にさせられて、カゴに入れてしまったのだった。

▲お二人がしゃべってはった通りのやり方で(笑) 煮る豆の甘くていいにおいが家じゅうにひろがる。
「今日食べないもの」をこしらえているときは、なんとも豊かなきもちだ。
というか、時間ときもちに余裕のないときは、今日、いま、すぐに食べるものを作るのが精一杯。そうした方がおいしくなることはわかっていても、一晩おく、火を入れながら三日目に食す、なんてことできないから。そんなときは「作ってくれるだけでおおきに、と思ってほしいわ~」と件の二人組も互いの「相方」のことをぼやいてはったっけ(←同感!)
そんなことを思い出しつつ、ことこと とお豆さんが煮上がる 湯気のたつ台所で 小さな椅子に腰掛けて本を読んでいる間にも・・・年は暮れてゆく。

▲「ひさしぶり」といえば。
もうずいぶん長い間 年が明けてから一枚づつ書いていた年賀状を、今年はひさしぶりに早目に書いて、お正月の三が日には届くようにして、みなをびっくりさせよう(そんなことでだれも驚かないか?・・・苦笑)と思い、せっせと手書き。ちょっと書いては投函してたのだが、クリスマスの日のこと。義母のところに出かけ帰ってきたら友だちからメールが届いていた。件名は「早々の」である。ん?何やろ?と開けてみたら「年賀状ありがとうございます」と書いてあるではないか!

▲え~っ!? 何?なんで?この前投函した第一便のアレ、アレがもう着いてしもたん?
一瞬血の気がひくも、気をとりなおして友だちにソッコウ電話をする。
「年賀状って書いたポストに投函したのに、なんで今頃着いてしもたんやろ?」と言うと、郵便局でバイト経験のある友だちの相方が「あのポストカードには『年賀』って書いてへんかったやろ。なんぼ内容が「新年おめでとう」でも局員は書面を読んだらあかんからな、お年玉つき年賀状か、あるいは年賀って朱書きしてるか、年賀用の切手はってるか、でないと普通郵便の扱いするねん」

▲そ、そんなんこの年になるまで知らんかったよ~ 受話器のむこうで友人が大きな声で笑うてるのが聞こえる。
手紙やはがき好きのくせに、そんなことも知らんかったのである。
「せっかくサプライズねらいで選んだポストカードも台無しやんか~」と嘆いたら、
友曰く「いやあ、じゅうぶんにサプライズでした」
とまれ。この友人夫妻は身内も同然やから笑われても苦にならんが、第一便コースには敬愛する、あるいは師とあおぐ、あのお方、このお方 宛てに、ちょっと気取って書いたものも入っていたはず・・・ううう、かなしい。

▲もちろんお年玉つき年賀はがきで書いたのもあるし、中には気まぐれに 判読できないような字で「年賀」と(そこに赤があったほうがキレイかな・・・という「差し色」的文字として)書いたのもあるので、全部が全部 年内に着いてはいないと思うけど・・・。
手紙もはがきも、書いたことのないような相方にまで「オレでも知ってるのに~」とばかにされ「まあ、年末に着いたら目立ってええがな~」となぐさめにもならん事言われて しょんぼりしている。

▲別の友人にこの顛末をメールしたら「毎年クミちゃんの年賀状は三が日すぎて届くのが恒例で、けっこう楽しみやってん。それにお正月の様子やら思いやら書いてくれて、これが正に年賀状やってんな~って思っててん」と返事が来た。
そうかぁ。あんな走り書きのはがきをよろこんでくれる人もあったんや~とまたもや凹むのであった。・・・と、そんなわけでこんな 粗忽者のわたしですが
「今年もどうぞよろしくおねがいします」(笑)
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by bacuminnote | 2007-12-29 11:50
▲信州に住む友人が、前にわたしたちが住んでいた家の前を通ったから、とケイタイから写真を送ってくれた。メールの件名は「泣ける?」である。撮影時刻は16:35
すこし青みがかった画面、雪がしんしんと降り積もる中、家は静かにそこに在る。軒下には薪が積んであって、裏山には雪をかぶった真っ白の唐松が立ち並んで。
ナケル。
いや、開田高原の冬の写真にはいつ見ても、何回見ても、どんなのでも、泣きそうになる。それはなつかしいと いうような思いより、うまく言えないけど、もっと、ふかくてしずか。そしてうつくしいから、とおもう。

▲開田の家の前にはもみの木を植えていた。
上の子が4歳のときクリスマスに、と園芸店で買った鉢もの。奈良→大阪→滋賀→と引っ越しのたびに大事に運び、息子と共に大きくなって。信州に越したとき、引っ越しのトラックからそろりと降ろしてるのを見たお隣さんに「こんな大きなモンわざわざ持ってきたのかい?こんな木 このへんにごろごろあるぞぉ~」と笑われ、彼の指さす方をみたらそこらじゅうがクリスマスツリーで皆で大笑いしたっけ。

▲その頃から我が家にサンタクロースも来なくなったし、家の前 ちょうどパンの仕事場の窓からみえる所に思い出のもみの木は、鉢から出して地植え となった。
そう言えば、あのもみの木、友だちが送ってくれた写真に写ってなかったよな~と思って、相方に話したら「今頃何言うてるねん。あれは村の側溝の工事のとき、あの辺 削ってしもたやないか~」と言われてはっとする。
「せやった、せやった」開田から大阪に越して4度目の冬、いつのまにかわたしの中にある「開田の家」の思い出は「工事以前」のそれにすりかわってる事に気づいて苦笑。

▲側溝ができるまでは、家のすぐ前に溝川があった。きれいな水が流れて、夏にまちから友人が来るとそこでビールやワインを冷やし、子どもたちは水遊びをし、ご近所でもらった野菜の泥を洗って、冬になると雪かきの雪をそこに落として始末した。(雪かきをすると、その雪の山の持って行き場に困る。開田は寒さがハンパじゃないので、すぐにその雪の山もかちかちに凍ってしまうから)
でも、工事でその溝川がなくなり、向かいの牧草地にずらりと植わってた櫟(いちい)の木もぜんぶ切られたのだった。
いつのときも「便利」は人の暮らしを助け、楽にしてくれるけど、人から だいじなものも奪ってゆくんよね。

▲さて、高原の年の暮れとは対照的な クリスマス商戦のにぎやかなまちに出て、一番上の姉にスイスの古いオルゴールやストリートオルガンを聴くコンサートに連れて行ってもらった。大阪城の近くのビジネス街にあるその ホールに行くのは初めてだった。電車を降りるとすぐに橋があって。何回か来ている姉が「このあたりなんかええ感じやろ」と言う。「やっぱり水やろ」「川があるし、かなあ」と川育ち二人は頷きあうのであった。
会場には年輩の方が多かった。杖をついて、あるいは車いすで。年老いたお母さんとその娘、という風な二人連れや、仲むつまじく腕を組んで歩く白髪のカップルもいて、おだやかな空気がホールを埋める。

▲一部はオルゴールの成り立ちをスイスの歴史と重ねて司会者が話し、オルゴールを紹介してゆく。開演が3時ということもあってか、かわいらしくて、やさしいオルゴールの音に、前方を見たら、あちこちでゆらゆら居眠りしてはる人が目に入りおかしい。「なあ、なあ見てみ~」と姉に言おうと横を向いたら、朝早くから家を出てきた彼女も又、舟をこいでいるのであった(笑)

▲姉の話によると、イビキをかいて爆睡のおじさんは係員に注意されたあと、出て行かはったらしい(苦笑)
イビキは困るけど、オルゴールには眠りに誘うもの、リラックスできる何かがあるのだろな。
いろんなオルゴールを聴かせてもろたけど、いちばん印象深かったのはいちばん小さなオルゴールだった。それは舞台の真ん中の小さなテーブルの上に載せられ登場した。マイクもスピーカーも使わない音楽ホールに繊細な音が流れ始める。

▲曲はパッヘルベルのカノンだ。
暗闇の中で少しずつ目が慣れて 物のありかがわかってくるように、ホールの中で鳴る小さなその音のひとつひとつを、みんなじっと耳をそばだてて 聴いて(拾って)いるのがわかる。そうして小さな音がいつのまにか自分の中で大きくなっているのを感じた。3パーツ×3の長い演奏だったけど、なぜかその間は咳をする人もなくオルゴールの音だけが響いていた。

▲一~三部まで2時間余りの「演奏」の最後は ストリートオルガン(じつはこれが聴きたかった)で大好きなクリスマスソング『oh holy night』。うれしくて、つい前のめりになって聴き入った。オルガンのペーパー(ミュージックロール)の終わりが見え始めると「ああ、もう終わるんだ」と残念なくらいあたたかないい音だった。
ホールを出ると 空は濃く深いブルーで、ビルの灯りがきれいで。暮れゆく年、を感じる。
帰り道、その昔 やっぱりこの姉に連れてもらって通ってた田舎の小さな教会のクリスマスのことを二人で話した。すきま風のふく寒い教会。臭いばかりでちっとも暖かくならなかった石油ストーブ。そして質素でしずかなクリスマス。子どものわたしはぶーぶー言うてた気がするんだけど、その頃のことを何かあるたびに思い出す。そして、その日のことが今しがた聴いたオルゴールのカノンにかぶさるのだった。それはどちらもちいさいけれど 心にのこるひとすじの灯りのようなものだから、かもしれない。
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by bacuminnote | 2007-12-19 22:30 | 開田村のころ

うそ。

▲朝から散髪に行った。
いつもの美容師さんが開口一番「いいにおいしますねぇ」と言う。「いいにおい」などつけていないしなあ、とぽかんとしてたら「○○さん、おいしいにおいしますね~」とにっこり。なぁんだ。そういうことなのか、とわたしはセーターをくんくん。朝、息子のお弁当を作って来たからかな。

▲母がまだ仕事をしていた頃、出かけた先でよく「おくさんが入って来たらお寿司のええにおいするわ」と言われるねん、と言ってたっけ。いつだって出かける直前まで調理場にいてたから。それにいくら着替えても、からだに においが染みついてたのかもしれない。そうだ、わたしもパン屋のときは「わあ、麦麦(ばくばく)さんが来たらパンのにおいがする!」と言われてたこと、おもいだして。「おいしいにおいがする」と言うてもろて、なんか晴れやかなきもちの一日だった。

▲食べることや台所、食卓まわりの空気がすきなので(このごろ「作る」のはちょっと億劫になってきてるけど)本を読んでも映画を観ても、食事のシーンはベッドのシーンより(ん?)気になるし、わくわくする。というか、たいてい好きな本も映画も食事の場面がいいかんじに充実してる。
食べることは生きることやもんね。
だけど、その「食」にまつわる「嘘」は後を絶たない。

▲その昔『暮らしの手帖』で湯木貞一氏の連載『吉兆つれづればなし』をたのしみに読んでいた。一流の料理屋さんが語る料理のあの話この話は けれど決してエラソーでなく、語り口もやわらかで、ほんのりぬくぅて、薄味なのにしっかり味の染みこんだ高野豆腐みたいにええ味で。近づけそうで遠い。

▲けど高野豆腐戻すように、ゆっくりやったらよろし~と言うてくれてるみたいで。
あ、そういえば高野豆腐の戻し方についても言うてはったな~と(いま手元に本がないのでネットで調べてみたら、ある方のブログで紹介されていた)

▲『高野どうふをもどす ...こう書くと、なんだか、たいそうなようですが、なれてしまって、高野どうふをもどすのは、こういうものだ、とおぼえてしまった、じつはなんでないものです。
なんでも、はじめは、やったことがないから、大そうな気がするものです。それを、まあこんな事までしなくてはならないのか、と思ったら、もうあとは厭になるだけで、これでは損です。一ぺんやったら、二度目はずっとらくになります。三度目はもう手に入って、こんなことは、あたりまえのことになって、はじめ、どうしてあんなにたいそうに思ったのか、おかしくなります』(『吉兆味ばなし(一)』p38~40より抜粋)

▲いま改めて読むと、皮肉にも報じられた吉兆のあれこれが、つい重なってしまう。
さて「嘘」といえば、この間読んだ本はその名も『水曜日のうそ』というタイトルだった。けど、こっちのうそは愛のうそ。前に観た映画 『やさしい嘘』にも通じる 年老いた父や母に子どもや孫がつくうそ。そして、そんなうそ以上に年寄りの「やさしいうそ」の物語である。

▲82歳のコンスタンおじいちゃんは毎週水曜日の正午になると、自分ちでお昼ご飯を食べてから(おじいちゃんのランチは早くていつも11時すぎなのだ)近くに住む孫娘のイザベルの家にやって来て30分間すごす。

▲家に着くと、まず熱いお湯にスプン一杯のインスタントコーヒーだ。本物の珈琲をいれようか、というと「そんな、もったいない」と気分を害したみたいに答えるおじいちゃんなんだけど、彼は音楽には かなりこだわりがあって。
そんな好みをちゃんとわかっているイザベルは上等のプレーヤーにモーツァルトのCDをいれる。すると「これは・・・『幻想曲ニ短調K397』だな?ピアノは・・ウイルヘルム・ケンプ?」なぁんてね、おじいちゃん、それはうれしそうに答えるのだった。

▲おじいちゃんの息子、つまりイザベルのパパは忙しい中 いつも時間をやりくりして、その日を迎えるのに、いざやって来ると父親が繰り返し話す思い出話にも、腰痛の話と愚痴にもいらいらしている。だけどイザベルはおじいちゃんがだいすきなんよね。

▲ところが、パパにリヨンの大学助教授への誘いが来る。しかもママは15年ぶりに赤ちゃんが生まれる・・ということで、一家は引っ越ししなければならない事態になる。
けど、おじいちゃんは自分の家から離れたがらないだろうし、引っ越す事を知ったらどんなに動揺するだろうか・・・悩んだあげくパパは引っ越しても毎週水曜日の正午には、だれかがここに戻って30分間おじいちゃんとすごす事を考える。

▲そこで、パパはマンションの買い手に「週一回部屋を貸してくれること」を条件に値下げして、一家はおじいちゃんには何も告げずにリヨンへと引っ越すことになって・・・とまあ、この無謀な計画で、おじいちゃんについた「うそ」がゆえに、想像以上にいろんなことがあるんだけどね。

▲あるとき、イザベルがボーイフレンドのジョナタンとおじいちゃんちを訪ねて行って、芝居好きなジョナタンとその昔プロンプター(劇場で俳優に小声で台詞を教える仕事)をしていたおじいちゃんと芝居や俳優の話で盛り上がるんだけど、そのときのおじいちゃんのシアワセそうな顔といったら。

▲そして、庭でとれたカシスのお酒を若い訪問者たちに注ぎ「きみたちのために。きみたちふたりのために」と乾杯するところは映画のワンシーンのように、しずかにこころに残る。
そうしてイザベルは思うのだった。
「自分が思ってることをちゃんと話せるときには、愚痴など出てこないのかもしれない」ってね。

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by bacuminnote | 2007-12-09 12:34 | 本をよむ