いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2008年 07月 ( 3 )   > この月の画像一覧

こどもの顔で。

▲「暑いねえ」「今年のは また特別でっせ」「たまりまへんなあ」・・・このまえ整骨院に行ったら待合室の話題はみごとに「暑さ」一色だった。見ず知らずの人と一瞬目が合っただけで「暑いですねえ」と、どちらからともなく言うては、ためいき。ああ、暑い。まさに『人間に火星近づく暑さかな』(萩原朔太郎)の毎日だ。

▲わたしの幼なじみの小学生のときの夏休み絵日記に『今日はたいへん暑くて32度もありました』って書いてあったそうで。彼女やわたしが小学生低学年というと1960年代前半のことだから、もはやこれは「むかしばなし」やろか。都会に比べたら格段涼しい吉野でも、今はもうその程度ですむはずもなく。おそらく日中は連日30度を越えているはずだ。

▲そうそう、ケッコンしたての頃は 夏でも長袖シャツの袖をまくって着ていた相方も(それがかっこいいとわたしもおもっていた)いまでは半ズボンにランニングシャツ、と 昔の夏休みの子どもスタイルである。年々暑くなっているのか、年をとるにつれ我慢ができんようになっているのか。かく言うわたしも、いまだったら、エアコンのきいていない部屋で長袖シャツの人みたら、かっこいいどころか「暑苦しいなあ」と思うにちがいない。

▲そんなこんなで、ためいきついてばかりだけど、楽しみは一日一回かき氷。
がりがり、家庭用のかき氷器をまわす。すきなのは宇治金時。以前はみつもあんこも自家製だったけど、おいしいものを見つけてからは買っている。でも「宇治」だけは抹茶を濃茶みたいにちょっと丁寧に練って白みつの上にとろりとかける。うまい。黒みつだけ、というのもまたうまい。

▲子どもの頃、家の三軒むこうにかき氷屋さんがあった。
モナカでできた容器に入れてもらうのは子どもでも買えるねだんで。ガラスの器に入ったかき氷のお客さんはお店の中で座って食べるんだけど「安物」のお客は、店の窓口から手渡されると、外で食べる。
空き地をはさんだ隣りは古い佇まいのお家で。そこの黒い格子戸の下 ずらり子どもが座り込んでかき氷を食べてる姿はなかなかのもんやったやろな。

▲たまにウチの仲居さんが「中で食べる」かき氷をごちそうしてくれることがあって。「つめたいもんは一日一回やで」って母に言われてたんだけど、そういうときは二回目でも黙ってた。どんどんからだが冷えていくのがわかったけど、うすいブルーのガラスの器に入った山盛りのかき氷、中で座って食べるそれは格別おいしい気がした。

▲いまでも かき氷食べてるときのわたしは、ものすごくうれしそうな顔しているらしい。それに、相方と息子が黙々と食べてる中、ひとりはしゃいで饒舌だ(そうだ。でも、一番に食べ終わる)
かき氷もアイスクリームもチョコレートも。
すきなものを食べてると、ひとは(わたしは)きっとこどもの顔になるんよね。
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by bacuminnote | 2008-07-27 00:39 | たべる

C'est si bon.

▲このところ ご飯を食べていると、ときおりピアノの音がどこからか聞こえてくる。たぶんまだ習い始めのように思えるそのピアノは 片手で弾いているんやろね・・・ポロン、ポロンとゆっくり鍵盤の上を歩くちいさな手を想像して、無意識のうちにわたしは耳をすましている。いや、もしかしたらその手はお年寄りのものかもしれないけれど。
そういえば、母も60すぎてから何年か(どの娘も続かなかった)ピアノを習っていたっけ。季節はちがうけれど「五月晴れピアノの横の母の杖」(吉野のぶ子『新版・俳句歳時記』2001雄山閣出版 所載)という句を思い出しながら、今日は母の85回目の誕生日だ。

▲若い頃のあこがれは何か「楽器ができる」と「外国語ができる」だった。早々とそのどちらも挫折したわたしは(いや、努力もせずに「挫折」はない、よね)せめてパートナーはピアノが、チェロが、英語と仏語とそれにスワヒリ語も・・・なんて人だったら かっこええなあ~と思ったりもしたが、あいにくコイした相手もわたしと同じようなもんやったから、このふたつは永遠のあこがれでもある。

▲昨日読み終えた本『セ・シ・ボン』(平 安寿子たいら・あすこ著)は著者が26のとき、つまり30年ほど前にパリに3ヶ月語学留学したときのことを綴ったエッセイだ。
はじめは何故今ごろ、30年もたって当時のことを語ろうとしたのだろう と思いながら読み始めたのだけれど。
「したいことがない。できそうなことも、ない。でも、フランス語はちょっとだけ、できた。パリで3か月勉強するくらいの貯金もあった。それに、パリで暮らすなんて、かっこいいじゃない。友達に言ったら「わーすごい」と感心してもらえる」
・・と、どちらかというと意気揚々と留学、というより「パリに留学する」ことにあこがれて、会社勤めで貯めた貯金をはたいて渡仏した26歳の女の子が、だけど、そこで何も見つけられなかった。だから日本に帰ってからも、この経験をひとに話せなかったのだという。

▲この本を読んで、わたしはもう長い間 忘れていた事を思い出した。
あれは’75年か、もう少し後だったか、とにかく二十歳過ぎの頃の事。夏休みにアメリカの大学のドミトリーなどに泊まって一ヶ月くらい滞在する小さなツアーがあった。(もしかしたら、どこかに載ってるかも、とネットで調べてみたらそのときのコピーを発見。『観光より生活を!通過ではなく滞在を!パックではなくフリーを!ルックではなくプレイを!自由気ままなアメリカ一ヶ月の旅』というものだった。いかにも’70年代のあの頃。「時代」を感じるコピーだ)

▲行きたい→こわそう→おもしろそう→不安→とまあ、迷って、考えて、また迷い。でも、ああ、やっぱり行きたいと、お金の算段や親のOKもろたり、に又時間かかって、ようやっと大阪の某事務所まで申し込みに行ったのだった。その道中からして、わたしの頭の中はアメリカ一色で(苦笑)BGMはGratetful Deadかナンかで。文字通り浮き足だっていたのだが。某事務所の若い女性にあっさり、愛想もなく「あ、それ、もう定員いっぱいになって締め切りました」と言われ、返すことばもなくすごすごと帰って来た。

▲失意のわたしは、しかしそのとき「何が何でも行くぞ」という熱意も勇気も、他の方法で行く、何より「ひとりで行く」ということを考えなかった気がする。「ひとり行く」より だれかにおもしろいところに「連れてってもらえる」と甘ったれたことを思っていたんだろな。だから、たとえ件の「自由気ままな旅」に参加していたとしても、大きな変化などなかった気もする。けど、どこかに行くことで何かが変わるかもしれないと思ってた。「ここ」ではないどこか。何かが変わる、そのきっかけがほしかったんよね。

▲さて、「本」題にもどって。
タイコは(ほんとうはタエコ。フランスの発音でタイコとなるそうな)パリ6区にある語学学校ユーロセンターに通うんだけど、この学校のいろんな国からの留学生の面々、このごちゃまぜの感じはいつか観た留学生の映画『スパニッシュ・アパートメント』(前に ここにも書きました)のようで。何もなかった、と繰り返すタイコだけど、さすがに平さん的人物ウォッチングと切り込みようを読んでいると、こんなわたしでも「ああ、パリに留学してみたい」と思うのだった。

▲タイコは帰国後、彼らとの関係や自分の思い出も「感熱転写印字が時と共に薄れるように、順調にわたしの過去から消えていった」とまでいう。
けど、55歳になって「なんにもならなかった、なにもできなかったと涙にくれたパリでの日々が今のわたしを支える土台になっている」「生きるとは思い出すこと。人は思い出すために生きる」と気づくタイコ。そう、ジンセイに「なにもなかった」はないもん。
そして、それでも、パリは「セ・シ・ボン。そりゃもう、素敵」と本は終わる。
ああ、わたしもパリに行きたい!
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by bacuminnote | 2008-07-15 20:35 | 本をよむ

森のなかに眠る。

▲暑い。めまいのするような暑い日がまた始まるのかと思うとめまいがするようだ。
ああ、開田高原の涼風がしみじみと恋しい。この間の夜 いっときはげしく降った雨があがって。お風呂の順番待ちの間 ごろんと寝ころんで本を読んでいたら、開け放った窓から草のにおいを含んだつめたい風が すうーっと入ってきた。あ、開田の風や~とおもったその時、横で同様に寝ころんで読書 の相方も「(開田の)あの部屋で寝てるみたいやなあ」とぽつり。しばし本も眼も閉じてみどりの風をかんじていた。

▲開田高原はとっても涼しいところだけれど、パンを焼いた日は窯の予熱で周辺の部屋はいつまでもけっこう暑かった。それでも家はとても広かったし「その部屋」は仕事場から離れていて、何より窓を開ければ そこはもうみどり深い山で。
そうそう、開田の古いお家には網戸というものがなくて。虫は自由に出入りするが(苦笑)寒すぎるのか蚊はほとんどいないし。(滋賀から開田への引っ越し時に荷物と一緒にやってきたゴキブリもていつのまにか絶えた・・・)
だから戸をあけたら さえぎるものがなにもなく、ダイレクトに外!なのだ。
網戸に慣れた暮らしをしているとこういう事にも最初はおっ、と思うんよね。

▲で、その部屋に寝ころんでいると、山からじつにここちよい風がすべりこむように入ってくる。そうだ。今時分はささゆりが楚々と咲いていて。緑、緑の中に淡いピンクの花が首をもたげて、それはもうほんまあやしげで夢のようにうつくしい。そうして、しばらくすると寒くて布団(年中冬布団だった)を被るか、窓をしめることになる。
街から来た友だちには「森の中で眠ってるみたいやなあ」「家の中でアウトドアライフやなあ」(←これは夏限定じゃないので冬の寒いのはハンパじゃなかったけど・・)と好評だった。
大阪に戻って来て最初の夏のこと。新しく買ったエアコンの「高原の風」や「森林の風」モードに、もしかして、とちょっと期待してつけてみたんだけど。哀しいくらいにあの風からは遠かったなあ。やっぱり自然の再現はマシンではできんのやね。

▲それにしても。
めまいがするのはこの暑さばかりではない。どっちむいてもケイキの悪い話ばかり。重い話ばかり。それでもこの長く暗いトンネルの行く手には光さすのが見える・・と思いたいのだが。
昨日 『GRAPHICATION 』が届き『農に寄せる若者たちの思い』という(結城登美雄氏の連載『列島を歩く』第12回)文章を読んだ。「農的な生活への道を模索する若者たちが増えている」と何人かの若者を紹介しているのだけれど、その中で強烈に残ったのは、北海道で農業法人を立ち上げた若者三人の話だった。

▲結城氏は二年前に彼らからメッセージを受け取る。「世間ではお気軽な田舎暮らしの情報や団塊世代の定年帰農論があふれていた。そんな中で受けとった農に寄せる若者たちの真っ直ぐなメッセージ」とは「私達の目的は『本当の豊かさ』を取り戻すことです」で始まる(以下、中略)
「金銭は社会生活を円滑にするツールであって、それ以上のものではありません。しかし『他人よりも多く』と欲張るために、この世の中は、相も変わらず弱肉強食です。最近の言葉で言うなら『勝ち組・負け組』ですが、そういう原始的な価値観に突つき回されるのはご免です」(後略。このメッセージについては 農文協の主張にも紹介されています)

▲だけど、久しぶりに彼らに連絡をとった結城氏は三人のうち二人が昨年末に出て行ったことを知らされる。
三人で開拓した拾っても拾っても石ころだらけの畑で、残った一人がいまも農業を続けているそうだ。結城氏は、何があったのか、なぜふたりがやめたのか、思いをめぐらせるが「解釈をせず、若者の声に耳を傾けよう」と当地を訪ねるのだけれど。
写真にうつる畑の脇に「小さな万里の長城」のように長く積み上げられた石ころと 一人の青年の満面の笑顔がめちゃええ顔で。「ふたりが去った」というより「一人、その地にいる」という思いがわたしには強く、元気づけられた。農文協(上記)の紹介では「希望の種まき大作戦」とあったけど、どうか蒔いた種が実をむすび、ひろがってゆきますように。
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by bacuminnote | 2008-07-06 14:55 | 開田村のころ