いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

<   2008年 11月 ( 3 )   > この月の画像一覧

▲あとちょっとで11月も終わるというのに。
今日もぽかぽか陽気。冬の格好で買い物に出たら暑いくらいだった。
もこもこした体つき(苦笑)のくせに、冬のスタイルがすき。コートにマフラー、ショール。手袋やニットの帽子。あ、それからタイツにレグウォーマー。だから冬場 銭湯や温泉に行ったりすると、着替えのカゴが山盛りになって、ちょっとはずかしい。

▲一昨日も整骨院に行って、診てもらいやすい格好に着替えていたら、カーテン越しに
お年寄りとセンセのかけ合いが聞こえてきた。「センセ、もうちょっと待ってや。まだ脱いでるねん」「なんぼほど、ぎょうさん着てるねん」
いずこも同じと、笑いをこらえながら足許 山盛りのカゴを見るのだった。

▲そんなわけで、厚着で汗をかきながら家に帰って来て。郵便受けをのぞいたら、今日もまた一枚「年賀欠礼」のはがきが届いていた。
ねずみ色の縁取りの中、父が、母が、の文字を見て。ああ、親を送る そんな年頃なのだな、としみじみ。
そしたら、なんだか急に母が気になり電話をいれる。

▲肩が痛い、足が痛い、と弱気になっているな、と思って励ましてるうちに、なんや知らんまに向こうは強気になっており(苦笑)
いつのまにやら娘の方が活を入れられている。いや、「小言を言われる」「おこられてる」くらいがちょうどええ。そのほうが褒められるより、落ち着く年頃になった娘なのだ。

▲「あんたとこ今日は何?」と母の決まり文句のあと(ちなみにこの日は鰆の塩焼き・かぼちゃの炊いたん・椎茸のオリーブオイル焼き・小松菜のお浸し。相変わらず母には「また鍋でっか?」と言われるけど……)受話器を置いて。
夕ご飯をこしらえながら、ふと、うすっぺらになったカレンダーを眺める。今年もあとすこし。世の中はどこに向かって走ってるのか、まったく行き先のわからない列車に乗っている気分で、ああ 年が暮れてゆく。

▲さて、今年最後の 『GRAPHICATION』特集は『新しい学びを考える』で。いろんなことを考えていると、やっぱり一番大事なのは教育かな といつも思うので、興味深く何度も読み直している。
ちょっと長くなるが冒頭のことばを引用すると
『国のおえら方や切れ者がほめそやし、追随してきたアメリカ型新自由主義経済の砦、グローバル金融システムがもろくも崩れ始めた。一見、合理的で、もっともらしく見える世界の危うさを今さらながら思い知らされた気がする。このような事象を見抜く力はどうしたら身につくのだろうか。すべてを疑うしかない。私たちの日々の学びもそこにつながる。疑い深い人間はとかく世間で疎まれるが、「可愛がられて死ぬよりはまし」と嘯きながら、見かけ倒しに終わらぬための「学び」を続けていきたいものである』

▲「最後の『「可愛がられて死ぬよりはまし」と嘯きながら、見かけ倒しに終わらぬための「学び」を続けていきたい』は、すごい、と頷く。
(あ、恥ずかしながらわたしはこの「嘯」が読めず。うなずき?つぶやき?いや、うめき、やろか?ささやき、いや、それもちがう、と唸りつつ。ようやく相方が傍らで「せや!うそぶきながら、や」と気づくのであった)
かと思ったら、どこぞのお方は「教育 日本一をめざして」なんて言うてはる。ほんま「教育」本来の意味をわかってるんやろか、としんそこ心配になる。

▲上述誌の対談(赤木昭夫氏:池内了氏『学びとは何かーやり直しの出来る社会に向けて』)の中に中学の数学で出てくる マイナス×マイナスはなぜプラスになるか という問題を、池内氏があげている。
『教師はそれはそういうものだと教えるだけで、なぜ反対の反対はプラスになるかを教えない。これは、確かに教えるのはものすごく難しい問題です。でも「なぜそうなるのか」という、「なぜ」の部分をわからぬままにストーリーとして全体を覚えても本当の理解には遠いので、そこでとことんひっかかった方がいい。それが、本当は学び方の一歩だと思うんです。しかし、いまの世の中では、とにかく早くわかる方が価値があるんですよね。そこで、ひっかかっていると、頭が悪いことにされてしまう。だから、みんな急いで丸暗記してわかったことにして、先へ行く。そういう意味では、みんな本来的には学んでいないのではないかと思うときがあります』

▲子どもでも大人でも、わからなさの中にいるときは落ち着かないから、ちょっとでも早くわかりたい、手っ取り早く「答え」が知りたい、と思うけど。
そうやって、楽な方に、近道ばかり考えて「本来的に学んで」こなかった気のするわたしの(これは学校教育の場を離れてからも)今のテーマは「じっと こらえて 考える」だ。
[PR]
by bacuminnote | 2008-11-27 15:49 | 本をよむ

あっというまの。

▲最後のパン焼きになったのは、五年前の11月18日。
「あの日」久しぶりの大阪で、信州ではすでに見終えた紅葉を、義父の眠る病院に向かう車窓からながめた事をおもいだす。
この間(かん)、とりわけ最初の一年はきびしくて、かなしくて、混乱して、たいへんな時間だったはずなのに。
今うかんでくることばは「あっというまの」に、尽きる。

▲田舎暮らしの間、こっち(関西)の友人のほとんど 長いこと会わないままだったので。この四、五年はあの人、この人と、十数年ぶりの旧友たちと再会をたのしんでいる。
開田村に越してからは、ほんまにどこにも行かず、家の中、村の中で過ごした。「行けなかった」こともあるけど、どっちかというと「行かなくても」満足していたからかもしれない。

▲何度思い返しても、しんどい事もふくめてそれは「かけがえのない時間」だったから。旧友や母や姉に会えなくて「さびしい」とおもったことはない。それでも、大阪に戻ってきて、長いブランクのあと実際に久しぶりの顔に会うと「会えてよかった」と、想像以上にきもちが昂ぶる。目のまえに昔のまんまの笑顔があるのは、やっぱりうれしい。こころの中でその人(たち)のことを思っていた時間もええもんやったけどね。

▲そんなわけで「いつか、そのうちに」と言いながら、もう二十年も会っていないなつかしの顔 Kちゃんに会いに、昨日は奈良に行って来た。
ひさしぶりの近鉄奈良駅に降り立つ。
信州にいた頃はどこの出身か、と聞かれたら「奈良」と答えていたけれど、関西だと迷うことなく「吉野」と答えるほど、おなじ奈良県下でも「奈良」と「吉野」は遠く(むしろ大阪に出る方が便利で早いこともあり)「盆地」と「山」で、その佇まいも異なる地だ。だからというわけでもないけど、ちょっと恥ずかしいくらいに「奈良」を知らない。

▲高校生の頃 Kちゃんともよく行った映画館に本屋。もう少し大人になってからはジャズ喫茶や、甘いもん屋に のみ屋!とか。奈良と言うても、とっさにそういう所しか浮かばないのは、我がセイシュンのまち・京都も同じ。
たしか奈良生まれだったよね~とか、学生時代は京都だったんでしょ~とか 言って お寺のことなど聞かれると、とたんに無口になるわたし。

▲同じように「奈良は不案内」と笑うKちゃんの車に乗りこむ。二十年なんて時間は一瞬のうちに越え、「おばちゃん」二人は突然高校生になる。よくレコードの貸し借りをしたニール・ヤングの話から、長いこと忘れてたジェスロ・タルなんて名前もKちゃんの口から出てきて「聴いた、聴いた」と盛り上がる。

▲そういえば名盤 『ラジオのように』は発売後すぐに、一年先輩の彼女にたのんで京都で買って来てもらったのだった。
「これ、二階のジャズのとこに売ってたで。緊張したわ」と渡してもらった日が鮮やかによみがえる。少女たちにとって、ジャズの売り場はまだちょっとだけ敷居が高かったのである。

▲当時(いまも尚?)『ラジオのように』にノックアウトされた人は多かったと思う。わたしもまた、ほんとに何回も繰り返し聴いた。そうしてブリジッド・フォンテーヌのかっこよさに、まいったわたしは、あるとき美容院にジャケットを持って行って同じ髪型に、と大胆にも言ったのであった。まったく。ころころに太っていたわたしが髪型だけをまねてみても、果たして仕上がりは「アンニュイ」からは ほど遠く(泣)
黒い帽子も被ってみたけど、じつに健康的、不二家のポコちゃんみたいで かなしかったんよね。

▲さて、Kちゃんに会ったのは10時半。それからノンストップでしゃべって、食べて、笑って、またしゃべって。あっというまに4時すぎになって。
高校生は又おばちゃんに戻り(苦笑)晩ご飯のことを考えながら 帰途につくのであった。
[PR]
by bacuminnote | 2008-11-19 00:02 | 音楽
▲文房具屋さんに寄ったら、年賀状印刷受付のポスター、クリスマスカード、来年の手帖にカレンダー・・・とすっかり年末モードで。
2009年の手帖を手にしながら、去年も今時分 この店で赤い手帖を買ったことを思いだした。それまではいつも黒い手帖だったから、なんだかうれしくて、家に帰る道すがら かばんから何度も赤いそれを取り出しては眺めてた。
ええっ~?もうあれから一年?
年をとると共に、一年が早い。すごく早い。とっても早い。ほんまに早い。一日は、のろのろ、ゆったり、ぼちぼちの日々なのに。ふしぎだ。

▲わたしがケッコンした当時の親の年になって、時々その頃の親がどうしていたか、ふと思う。
相方のおかあさんは気むずかしいおばあちゃんに「仕え」、今のわたしがふうふう言って歩く買い物帰りの道、その上り坂を自転車で軽快に「立ちこぎ」してはった。母に至っては、もうばりばりの現役で病気がちの父に代わって、朝早くから夜遅くまで調理場に立っていたっけ。
そんなことを思うにつけ、50代の我が身の「へなちょこぶり」に凹み、いやいや、このゆるさも又だいじ、と居直る秋の昼下がりだ。

▲この間 『ここに幸あり』という映画(DVD)を観た。原題はフランス語で『Jardins en Automne』ちなみに英語題は『Gardens in Autumn』(わたしは原題の「秋の庭」のほうがすきだ)。
主人公の大臣・ヴァンサンは、あることがきっかけで突然大臣の職を追われる。そんなヴァンサンに愛人も!妻もつめたく、家も追い出されてしまうんだけど。大臣じゃなくなって「人間」に戻ったヴァンサンは、たっぷりの時間と自由を得て。旧友に会い、通りすがりの女性に助けられ、飲み、歌い、ピアノを弾き、ギターをつま弾く。

▲こう書くと、なんだかありきたりな人生の休暇ものがたりのようだが、ありきたりでないのが、この監督イオセリアーニのチカラで。意味がないようで深いセリフや、意味ありげに見えて、じつは何の関係もない人が登場したり。
「あれっ?」と立ち止まったり「ま、いいか~」と通り過ぎてるうちに映画は終わる。
なかなか一筋縄ではいかなくて、おもしろいのはジンセイとおなじかもしれない。タイトルの「秋」は、お察しのとおり「人生の秋」。実りの秋にひとはこれまでの季節を思うんよね。

▲そう言えば、いつも忙しくしていた義母や母にくらべると、義父も父も自分だけの愉しみの時間をたっぷりと持っていた気がする。そうしてふたりとも思う存分(たぶん)すきなことをして早々と旅立った。のこされた妻たちはようやっと自由を得たのに、いっぱいある自分の時間の前で ため息をついているのが、ちょっとさびしい。
[PR]
by bacuminnote | 2008-11-07 11:20 | 映画