いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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ココニイマス。

▲今日は、珍しく一日ぽかぽか暖かかった。座布団カバーに、掘り炬燵の上掛けに、と次々洗濯しては干す。
やわらかな冬のひかりの中 庭いっぱいに干した洗濯物がゆらゆらしてる、そのうしろで梅の小さな蕾が見えて。ココニイマス、と春がつぶやいている。そっと近づいて、いつものごあいさつ。ようおこし。
『家守奇譚』(梨木香歩著)の主人公・綿貫征四郎は言う。
『季節の営みのまことに律儀なことは、ときにこの世で唯一信頼に足るもののように思える』まさに!

▲さて。
どういうわけか、わたしはよく人に道を聞かれる。よりによって。誰よりも方向オンチのこんなわたしに、である。が、わたしを知らない人なら仕方ない。
つい先日も買い物に行く途中「お不動さんに行きたいんですけど」とお年寄りに呼び止められた。
じつを言うと、わたしは道の説明が下手だ。(と、常々相方に言われてる)
方向オンチの我が身を思い「できるだけていねいに」と思うあまり、ついつい説明が過剰になる(らしい) というか、だからこそ「オンチ」なのであろう。
このときも、あとをついて行きたいくらい気がかりだったが「おおきに、またわからんようになったら途中で聞きますわ」と言うてくれはったので安堵する。

▲道の途中 立ち止まってきょろきょろ「迷ってる」風の人を見かけると(ウチの近くはよく似たマンションや住宅が多くて「目印」になるものがないからか、こういう人が多いのかもしれない)ああ、どうぞわたしに聞かないでね(苦笑)と思いながら、伏し目がちに通り過ぎようとするんだけど。そういうときに限って「あのぉ、ちょっとお尋ねしますが」という声がかかるんよね。

▲そういえば。
旧友のじゅんと初めて会ったのは某ヨビコーの初日、時間割表が張り出された事務所前だったんだけど。
初日ということで、あふれるほどの生徒がいる中「あのぉ、ちょっと」と、わたしに授業の事を聞いてきたのが彼女だった。
最近になって「なんで、あの時あんないっぱい人がいてたのに、わたしに聞いてきたん?」と尋ねてみた。すると「あはは~そら、人がよさそうやったから」とあっさり返された。なーんや。そうだったのか。かしこそう、とか、かっこよかった、とか、それとも目立ってた、とか言うかと思ったのに(笑)
ちょっとがっかり。

▲でも、まあ、彼女に「目をつけて」もらったおかげで、その時以来ずっと。三十数年のつきあいとなったんだから。
今日はそのじゅんがカバー絵と表紙、章ごとに扉絵を描いた本・・ 唐十郎著『朝顔男』を近くの書店に買いに行った。1/25の発売なので新刊コーナーを探すが、大きな書店であちこちにコーナーがあり見つけられず。仕方なく書店員さんに検索してもらう。その間も探していたら「これでしょうか」と本を持って来てくれた。そう!それ!その本です。それね、わたしの友だちがね・・・と言いたいのを我慢して「すみませんが、どのあたりにあるのでしょう?」と尋ね案内してもらった。

▲その書棚には背表紙ではなく、正面むけてディスプレイしてあって。しばらく、前に立ってうっとり眺める。
じゅんはこれまですでに何冊も漫画の作品集を出しているけれど。彼女から贈ってもらったり、ネットで買ったり。こんな風に書店で見るのは初めてのことで。広い店内のあちこちに散らばったお客に声あげて、その前に集めたいきもちになる。
本のもとになった新聞連載の始まった日のことを思いだして。その一年前の入院のことを思いだして。ひとり書棚の前で感動するわたしはちょっとあやしげな客だったかもしれないけれど(苦笑)
それからもう一回書棚を眺め、本を手にとり、やっとレジにむかうのだった。
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by bacuminnote | 2009-01-28 20:42 | 本をよむ
▲夕ご飯の支度をしていて、ふつふつ いう鍋や、しゅっしゅとまっすぐに立ち上がる炊飯器の湯気を見ていると、ふと母のことをおもう。夕暮れどき ちょっと所在なげにため息をつく姿をおもって、葱を刻みながら、煮こぼれたガス台拭きながら、肩で受話器をはさんで電話してみる。ここに何度も書いている「あんたとこ今日は何?」というお決まりの問いかけも「また鍋でっか」というツッコミも、そんな時間帯にかける電話ゆえの母のセリフだ。

▲今日もカレーを煮ながら「三番目の姉から来た写メールの話をしたろ~」と、勢いよくつかんだ受話器を「せや、せや」としょんぼり下ろした。母は先週から入院しているのだ。
離れて暮らしていると、いつまでもいろんなものに好奇心をもち、働き者で、何より元気な母の姿がわたしの中に在って。しかし現実の母はまちがいなく高齢であり。その年相応にからだは老い、あちこち ぎしぎし音を立て始めている。先日 病室をたずねたら思いの外、顔色もよく、口も達者だった(苦笑)けれど。
帰りぎわ握った手が細くつめたくて。「まだまだ元気でいててや」と甘えた(大阪弁で甘えん坊)の末っ子はちょっと泣きそうになるのだった。

▲そんな中、友だちが貸してくれた『潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ』(原題は『Wrestling Ernest Hemingway』/ 残念ながらDVD化されていないらしい)という老人が主人公の映画を観た。
フロリダの海岸沿いのちいさな町。主人公のフランク(リチャード・ハリス)はその昔は船乗りで、最年少の船長だったこと、ヘミングウエイとレスリングしたことが自慢だ。粗野でちょっと口汚いけど長身でかつてはもてただろうな、という彼は四度の結婚、四度の離婚の末、いまはシャーリー・マクレーンが演じる大家が貸しているアパートに一人暮らしをしている。

▲そんな彼の75歳の誕生日に、遠くに住む息子は前にも後ろにもツバのあるへんな帽子を送ってきてくれるけど、彼がずっと楽しみにしていた花火に一緒に行く約束は守ってくれない。ある日、彼はジョギングの途中公園のベンチで、一人静かにパズルをする老人ウォルター(デュヴァル)と出会い、二人はけんか友だちのようになってゆく。

▲キューバから来た元理髪師 ウォルターの傍らにはいつも大好きなベーコンサンド。これは毎朝行く小さな食堂で、気だてのいいきれいなウェイトレスのエレーン(サンドラ・ブロック)に頼んで作ってもらうもので。メニュウにはない6枚のベーコンをはさんだものだ。一口頬張るごとに、中をのぞいてベーコンを確かめるようすがウォルターのエレーンへの思いが滲み出るようで「かいらしい」。一方フランクとアパートの大家の中年女性とのやりとりも、一見荒っぽくて、そっけないようで、深い愛をかんじて、じんとくる。

▲饒舌なフランク、静かなウォルター。乱雑、几帳面。女性に積極的、控え目・・・。まるで腕白坊主と優等生のような正反対の二人だけど、共通しているのは二人とも今は「ひとり」で、偏屈、頑固なところ。
表面ではお互いに相手の孤独を小馬鹿にしているけれど、不器用ながらも 深いところではそのさびしさをいたわりあうんよね。
そんな二人が自転車に乗って遠出したり、まるはだかになって泳ぎ、打ち上げ花火を見ながら海にむかって並んでおしっこする場面が、おもしろくてたのしくて、そして哀しい。

▲やがてウエイトレスのエレーンは水兵と結婚するため、遠くに越してゆくことになり。
ダンス好きのウォーレンが誘って、フランクと二人で一緒に行こうと話していたダンスパーティーのその日にフランクも部屋で一人静かに この世を去って。
見送ったウォーレンは、その夜ひとりダンスパーティーに出かけるんだけど。
映画の最後の場面、このパーティーで踊る彼の姿のかっこいいこと。ああ、年をとるって、なんて孤独で、さびしく、そしてふかいのだろう。
『君の歳だと夏の日はゆっくり過ぎる。だが教えておこう。人生はあっという間だ』
(公園でであった 「秋から小学二年になる」という女の子にフランクが言うせりふ)


*追記 さきほど姉から「母、月曜に退院」の知らせがあった。
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by bacuminnote | 2009-01-18 16:03 | 映画
▲年明け早々「去年」の話なんだけど。
暮れに相方の旧友たちの集まりに親子で行って来た。年一回この日だけは皆集まる。お昼から延々何時間もかけて、たっぷり河豚鍋を食べ、一年分(以上?)しゃべって、食べて、また語り。わいわい言うてビールがうまい。

▲帰り、駅までの道・・商店街にはすでに人の通りはなくて。
灯りだけが煌々として店先を照らしている。
「正月用」と書かれた 昔ながらの紅い縁取りの白い紙に 墨の黒がきれいだ。
けど、その紙が風でゆれてぱたぱた鳴って、エンドレスで流れる音楽『お正月』がなんだかさびし。

▲「これ一日中鳴ってたら、かなわんなあ」と言いつつ、ついつい一緒に口ずさみ。歌詞を浮かべてみると、わたしがまだ子どもだった頃のお正月は「もういくつねると」「早くこいこい」と、心待ちにするものやったんよね、と改めておもう。
凧揚げも独楽回しや羽根つきも(歌中「おいばねついて」というのは「追羽根」二人向き合っての羽根つきのことらしい。この年になるまで「おいばね」は聞き流していた気がする)まりつきだって、お正月に限った遊びではなかったけれど。
朝からごちそうや、大人はお酒の、家中、町中が開放的な雰囲気の中、肌着から靴下まで新しいもの揃えてもろて、ちょっとよそゆきの服を着せてもろぅて、汚さないように気ぃつけながらの外遊びは、特別のものだったのだろう。

▲そう言えば、小学生の頃の友だちの年賀状はたいていお餅の絵が描いてあって。「おもちをたべすぎないようにしよう」とか「おもちはいくつたべましたか?」と書き添えられていた。お餅は今でいうケーキみたいなものやろか? いや、今じゃケーキだって珍しくもなんともないしなあ。
そんなこんなを思い出しながらも「指折り数えて待つ」ような年明けなど、もう長いこと味わってないから、それがどんなにわくわくした感じだったのか思い出せなくて。ずっとあとを追ってくる「お正月」のBGMの中 駅まで歩きながら、暮れの夜 肌を刺すような冷気に酔いはどんどんさめるのだった。

▲翌日には東京から上の息子が帰って来た。
大急ぎでクリスマスの飾りを片付け(苦笑) 庭の南天を片口に活けてみる。黒豆(ちょっと柔らかめだったけどおいしく炊けた)と数の子はふんぱつして買ったけど、あとはいつもの食卓。それでも、お茶碗、お湯のみ、お皿が増えるのもうれし。いつもは空いたその席に息子が座り。うれしい夜のビールがうまい。

▲元旦には息子の友だちがやって来た。
あったかほかほか訪問者に笑い声も一段と大きくなって。
あたらしい年にも、お客さんにも「ようおこし」。
4人の男たちに囲まれた紅一点(←わたし・・笑) ほてった頬にビールがうまい。一年の始まりの日をこんなにたのしく過ごせたことにカンパイだ。
夜は修学旅行みたいに部屋いっぱい布団を敷いて寝た。

▲それでも、あっというまにその日は来て。友だちも息子もそれぞれ帰り、またいつもの生活にもどった。パジャマを洗い、布団を片付けて。きょうは熱い番茶を啜っている。
『人去って三日の夕浪しづかなり』平井照敏編『新歳時記』所載


今年もどうぞよろしくおねがいします。
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by bacuminnote | 2009-01-07 10:00 | まち歩き