いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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右に左に、東に西に。

▲わたしと相方の風邪で、二月は大半が過ぎてしまった。閑人生活ながらも寝込んでいる間に用事は結構たまるもので。それをこなしきれない内に、ああ、もう二月も あと四日でお終いとなってしまった。あれもやめ、これもパス・・・と思いながらも、どうしても行きたいとこがひとつだけあって。先週末、朝からきもちよく晴れ渡る空に「よし、京都に行こう」と立ち上がった。

▲部屋から見ると、外はぽかぽかしてるようだったのに、実際にまちを歩くと風はやっぱりまちがいなく二月で、首をすくめて駅にむかう。京阪電車は学生時代もシンコン(漢字にするのは恥ずかしい)時代も 沿線に暮らしたのでその車体の色も内装もとてもなつかしい。
けど、その日ホームに入ったのは初めて乗る二階建て電車だった。高い窓から見る風景にちょっと遠足気分のわたし。うれしくなって さっそくこれから行く個展の主 うらたじゅんにメールする。

▲ソッコウで返って来たメールはなんと行き先ギャラリー周辺の詳細にしてココロ暖まるトイレ情報。
曰く「ギャラリーに行く途中にコンビニ有り、郵便局を過ぎた所にコンビニ有り」
さすがわが友、とその的を得た心遣いに感謝しつつ 笑いがこみあげる。昔から彼女と出かけるとまずトイレ確認。次にトイレなんよね。

▲終点「出町柳」まではしばし読書。わたしは電車の中で本を読むのも、本を読んでる人を見るのもすきだ。隣に座った若い女の子も何やら熱心に読んでいる。その服装から見ると就活の最中なのだろうか。
紙袋のお菓子をぽりぽり食べながら、試験対策か、難しい本なのか、時々うーんと唸りつつ、ぽりぽり食べつつ、また本を読んでいた。どうやらたのしい読書じゃなさそうだ。
それにしても。いつからあんな制服みたいな「就活スタイル」が定着したのだろう。スーツだけじゃなく、靴だって、バッグだって、皆お揃いみたいで。制服嫌いのわたしはどうも好きになれない。いや、本人も好きであんな格好(すまん)しているわけやないよね。きっと。

▲さて、駅に着いて 予習してきた通り「叡電」方面の出口から出た。が、その先が右だったか左だったか忘れてしまった。
そもそも「右」や「左」などと言うてるから 道に迷うんや、と怒られそうやけど。なんとなく景色に惹かれるように右に曲がると加茂川に出た。川べりの景色に心惹かれるのは川育ちやからか。風はつめたいけど、空は青く、川がひかってる。・・・が、どうもこのあたりじゃなさそうだ。駅に引き返しDMの小さな地図をひっくり返したりしながら、左の方に進むとようやく「予習通り」の建物があって、ほっとする。

▲そのまま行くと、メールで教えてくれた郵便局やコンビニがあって、ギャラリーのあるビルが見えて来た。手前にはオムライスの店が見える。お昼を過ぎたのでお腹が減っていたけど、がまんしてもうちょっと歩いてみる。こまったことに方向音痴のくせに寄り道はすきだ。知らない町をあてもなく歩くのは、何があるのだろう、というどきどきと、ちゃんと元来た道に戻れるか、というどきどきがあって(苦笑)なかなかエキサイティングだ。
結局すこし先のおうどん屋さんに入った。冷えたからだに熱いうどんでぬくもって、久しぶりに京都の「おおきに」を聞いて(大阪のそれとは少しちがう)うれしくなった。

▲ふと横を見ると雑貨屋さんがあって、ポストカードとリバティプリントのハンカチを買って、うきうきとギャラリーに。いい感じの音楽が小さく流れ、いい感じのひとがいて。(あとでそれはオーナーとわかる)たまたま中にはわたし一人。
友人や知った人がいるとしゃべりまくってしまうので(たぶん)こういうときの一人はありがたい。
友の描く漫画や絵を一(いち)artistの作品として観るようになったのは、いつの頃からだろう。すごいなあ。すごいぞ、と思いながら、うらたじゅんの世界にゆっくりもぐって、ただよって、ひたる。

▲そろそろ帰ろうかな、というタイミングでオーナーが話しかけてくれて、じゅんのこと、美術、家族のことからパンや畑の話まで・・・。旅先で思いがけずおもしろい人に出会ったみたいに、たのしいひとときを過ごさせてもらった。「また、いつか」とギャラリーをあとにして、駅にむかう。もう迷わない(←あたりまえか)
ホームで電車を待っていたら、見たことのないぴかぴかブルーの車両が入って来た。へえ、京阪、こんなのも走ってるんや~と思って行き先を見たら新しく開通の「中之島行き」だった。

▲ふっと、この電車でいいのかな?と思ったので、路線図を見る。改めて見ると京阪沿線はやたら「橋」のつく駅が多い。丹波橋、京橋、天満橋、淀屋橋、そこに中之島線のなにわ橋、大江橋、渡辺橋が加わり、それでなくてもちっちゃな字と赤や青の路線図が老眼には 何やごちゃごちゃしてよく見えない。ええい。淀屋橋は大きな駅なんやから停まるに決まってるわい、と判断して乗車。(注・淀屋橋には停車しません・・・)

▲ちょっと京都に行っただけやのに遠足のようなたのしい一日だった。ようやく!淀屋橋までたどり着いて、じゅんにメールしたら「大冒険やったなあ」と返事があった。たしかに。
家に着いて、もしや、とわるい予感がして彼女の ブログを見たら案の定『こういう初歩的な間違いをする人間もたまにいますので、くれぐれもお気をつけてくださいまし』とわたしの失敗例を挙げてあった。ふん。
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by bacuminnote | 2009-02-24 21:21 | 出かける

あーあ。

▲風邪をひいてしまった。
あとになってから思い返せば、三日前くらいから喉の具合が悪かった。そういえば、瞼も何だか重かったし、それから・・・と気づくんだけど。あ、あかんかも、と思った時にはもう遅かった。

▲幸いインフルエンザのように高熱が出るわけでもない、ただの喉風邪。でも、これが「ただ」とは言えない なかなかのツワモノで、思わず「まいりました」とわたしは布団に突っ伏したくらいだ(苦笑)

▲「ああ、しんど」とうるさい(らしい)わたしの傍ら 相方が「僕ら これからまだ死んでいかんならんのに。風邪ぐらいで そないたいそうに わあわあ言うてたら、お前、一体どないするつもりやねん」と呆れたように笑いながら言う。
「どないするつもり」と言われても「ほな、わたしは永遠に」というわけにはいかへんし、こまったなぁ。
相方の「死んでいかんならんのに」の一言の前に、わたしは布団の中で一人あれやこれやおもいながら、天野忠さんの『あーあ』という詩を思いだしていた。

「最後に あーあというて人は死ぬ 
 生れたときも あーあというた
 いろんなことを覚えて
 長いこと人はかけずりまわる
 それから死ぬ
 わたしも死ぬときは
 あーあというであろう
 あんまりなにもしなかったので
 はずかしそうに 
 あーあというであろう」(『天野忠詩集』現代詩文庫・思潮社)

▲さて、丸三日ひいひい言うて、やっと落ち着いたと思ったら、こんどは相方が「なんか、変や。きっとお前にうつされた」と言い出した。「うつった」ではなく「うつされた」というあたりに ツマはちょっとひっかかるのであるが。 寝込んだ間、分担外の家事もやってくれたので大人しく「悪かったなあ」と答えた。
「とにかく寝る」と寝室に消える相方。しかし電気も消して、ぴしっと襖を閉めて。静かだし様子がわからないので、しばらくして「どない?何かほしい?」と聞きに行ったら「ちょっとほっといてくれ」と怒られた。(←なんかわたし子どもみたいやなあ・・・)

▲相方はしんどいときに、構われるのが大嫌い派。わたしはというと、末っ子の甘えた だからか「どうや?何か冷たいもん要る?水枕は?」と構ってほしい派やから。「してほしいこと」がまるで反対のふたりは病気のときには決まってけんかになる。
そういえば、友人の相方もわたし同様「構われたい」組のようで(笑)
「微熱程度でも大げさで、桃の缶詰ほしがるし。面倒くそぅてかなわんわ」と友人はこぼす。彼女たちフウフのやりとりと、懐かしい桃の缶詰の、つるりとした食感やちょっと甘ったるいシロップを思いだして、頬がゆるむ。

▲この間から 『歩いても歩いても』 『かぞくのひけつ』という邦画をレンタルショップで借りてきて観た。『歩いても・・・』は15年前に亡くなった長男の命日に長女や次男がそれぞれの家族と共に、両親の住む実家に集まる一日半を。
『かぞくの・・・』は大阪は十三(じゅうそう)という町を舞台に女グセの悪いお父ちゃんと、怒りながらも最後は許してしまうお母ちゃん、それに思春期まっさかりの息子(これが 『ごめん』のセイ役の久野クン。とてもよかった)の三人家族とその周辺の人たちを描いて。笑うたり、じんときたり、そして考えこんだり。ふたつともいい映画だった。

▲そうそう二編の映画には夫の浮気の話が出てくる。
『歩いても・・・』では、まだ子どもも小さかった 若い頃の 夫の浮気を知っていたことを、何十年もたって妻は夫にさらりと告げる。
湯船に浸かってる夫(原田芳雄扮する引退した開業医)に、脱衣場へ着替えを置きながら、孤独も不満もじっと胸にしまいこんできた妻(樹木希林)は「シャツここにおきましたよ」の続きに、そのことを言うのだった。

▲大阪弁で派手な夫婦げんかを繰り広げる『かぞくの・・・』では、表現は直球だ。夫(桂 雀々)の度重なる浮気に「こんな家、出て行ったる」といさましく出てゆく妻(秋野 暢子)は、しかし実は(家出のふりをして)押し入れで丸くなってたりするんよね。
どちらにしても。
妻の「表現」が切ない。

▲夫婦にしろ、親子にしろ「ゆるす」「ゆるされる」ことのむずかしさを思う。
以前 ここに書いた『シズコさん』(佐野洋子著)について、角田光代さんが佐野さん母娘の愛憎にふれて『ゆるされること、ゆるすことがどんなにきれいごとでないか、どんなに長い道のりの先にあるのか、思い知らされる』と書いてはったけど。(『波』08.5月号 「ゆるされ、ゆるす」
家族とは一人一人の歪みを、時に責めたり、責められたりしながらも、互いに補い合っていくしかないんだろうな。そして、つまるところ、「かぞくのひけつ」は やっぱり「あい」やろか。(漢字にするのはちょっと気恥しい)

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by bacuminnote | 2009-02-11 11:29 | 本をよむ