いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2009年 10月 ( 4 )   > この月の画像一覧

店のなまえは柑林堂

▲この間の日曜日、買い物途中に通るマンションの前に引っ越しトラックが停まっていた。秋と引っ越しはよく似合うなあ、と つい足がとまる。青空ながらふく風は冷たく肌寒い午後だったけど、引っ越し屋のお兄さんたちはみな半袖シャツ。きびきびと動いて、濃く深く日焼けした腕がまぶしい。
トラックから降ろした、三人乗り!自転車と補助輪のついた赤い自転車を見ながら、この町でも楽しいこといっぱいありますように、とおもう。

▲これまでなんべんも引っ越してもうこりごりのはずなのに。そして この町にとくべつ不満もないのに。
こんな風に引っ越しのトラックを見るとふわり心が動くのは 根っからの根無し草(?)なのか。
そんなんやから「もし、こんど引っ越しするならどこがええ?」と、たまに相方と話すことがある。お魚の、米の、野菜の、水のおいしいところ。図書館に歩いて行けるところ。手紙好きのわたしは郵便局が近く、っていうのも外せない・・・なんてね。夢とも本気ともつかないような、おもいおもいの事をひとしきり話したあとは、「こんなん言いながら、ずっとここから動けんかったりして」と それ以上に発展することなく話はお終いになるんやけど。

▲そういえば。
パン屋を始める前に家探しのため、遠くでは九州(友人のいた大分・佐伯)や、四国は四万十川近く。関西では丹波篠山(兵庫)、美山(京都)、清水町(和歌山)等々、休みのたびに軽自動車バンにて親子三人 大したあてもなく回ったことがあった。わたしたちにしたら「まじめに考えて」の事だったんだけど、親には「何を夢みたいな事言うてるねん」「何を暢気な事やってるねん」と呆れられていた。

▲いくら田舎で始めるとはいえ、店を開業するなら、しかるべき不動産屋に出向き予算と希望を提示し、それに見合った場所を検討するのが「世間の常識」というものだろう。第一、住むだけじゃなく、そこで開業するのだから普通に貸し家を探すのとはわけが違う。何度か懇々と諭されて、一度は不動産屋の斡旋で貸し家を見に三重県まで出かけたこともあったっけ。

▲その町は○○ホーム、△△住宅、の色鮮やかなノボリが並ぶ「ニュータウン」で、たしかに元は田畑だった所にはちがいなかったけれど。不動産屋さんの提示する数字は「借金」なしに用意できるものではなく。何よりわたしたちが思い描く場所からは遠く。
「そんなお金ないし・・・」と口ごもるわたしに「商売するんだったら、これくらいのお金は最低要りますやろ」ときっぱり言われて、わかってはいたものの「現実」に打ちのめされ。帰り道しょんぼりしながらも「そうや。やっぱり自分たちのやり方で探すしかない」という思いを強くした。

▲そんなことがあった後のある土曜日。
図書館に行くと前のショッピングセンター広場で和歌山県フェアというのが開かれ、物産展のテントが町村別にずらりと並んでいた。何ということはなしに回ってるうちに、こういう所に来てはる人に聞けば何か情報が得られるかも、とふっと思ったんよね。

▲で、最初にのぞいたのが「清水町」(現・有田川町)のテント。なぜ清水町だったのか、何かこころ惹かれるものがあったのか、今となっては思い出すことができないんだけど。とにかくそのテントにいてはった気のよさそうなスタッフに「じつは田舎でパン屋を始めたくて貸してくれるお家を探してるんですけど」と思い切って声をかけたのだった。

▲その人は清水町役場の○さんという方で。「あかんで もともと」と思って声をかけたのに「空いてる家ありますよ」と笑顔が返ってきてちょっと泣きそうになった。後日連絡します、とのことで名刺をいただいて帰って来て。次の週か、その次だったか。日曜日さっそく親子で和歌山に向かった。休日だというのに○さんが出て来て空き家に案内して下さる。
みごとな棚田を横に見ながら細い山道をあがったてっぺんにその家は建っていた。休みのたびにクッションの悪い軽のバンに乗せられ、時に車酔いしながらひたすら山道を走る田舎の家探しに「うんざりしていた」(←当時 小学一年の息子、後に語る)息子も、その「絶景」に「わああ、すごいなあ」とおおきな声を上げた。

▲山のてっぺん、昔ばなしに出てきそうなわらぶき屋根の家には さんさんとお日ぃさんがふりそそいで、眼下にはパズルのような棚田が広がっていた。家の持ち主は年をとって来てしんどくなったから、と下に新居を建ててお住まいだった。○さんと共に伺うと、やさしそうなご夫婦が息子を見て「若い人らが住んでくれて、ほんで、こんな元気でかわいらしい子がそばに引っ越してくれたらうれしいなあ」と目を細めて言ってくださった。

▲○さんも「よかった、よかった」とよろこんでくれた。その家からの帰り、いっしょにお昼ご飯を食べながら「じつは、あのお家、茅葺きもすばらしいので、なんとか維持できるように、とあかんつもりで助成申請出したところですねん。けど、まず通る事はあらへんと思います」と聞かされた。
帰途、いくつもの蜜柑山を越え「ああ、申請が通りませんように」と願いながら(苦笑)ここで開業できるんやったら、店の名前は「柑林堂」(かんりんどう)に決まりやなあ、と話してた。 桃林堂(とうりんどう)という大阪は八尾にあるお店のお菓子(最中も羊羹もおいしい)も意匠も好きだったので、字体もあれやなあ・・・と盛り上がった。

▲「絶対あかんと思ってたのに。あの申請が通りましてん」と○さんから電話があったのは どれくらいあとだっただろう。お家の持ち主の方も「あの人たちに入ってもらえたらうれしいのに」と言うてはったそうやけど。町の施設になる事が決まったのだから仕方ない。
何度も何度も「申し訳ない」と、それこそ申し訳ないくらいに謝ってくださる○さんに「残念ですけど、しょうがないです」と答えながらも 内心「もうパン屋なんか一生できないのかもしれない」というほど落ち込んでしまった。

▲けど。
その何ヶ月かあとに滋賀・愛知川(えちがわ)でのご縁があって(この話もまたいつか・・)めでたくパン工房 麦麦(ばくばく)は開業した。1987年10月8日のことだ。やっぱり いろんなひとたちにあれもこれもいっぱい助けてもらってのスタートだった。
あらあら、引っ越しトラックの話からえらい長話になってしもたけど。
記憶は日々とおくなるから、又ときどき思い出してパン屋話 語らせてください。
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by bacuminnote | 2009-10-26 12:03 | パン・麦麦のころ | Comments(0)

つねに酢っぱい。

▲歩くうしろからすぅーと追いかけてきて「あれっ?」と振り返るような、金木犀のにおいがすきだ。あまりにストレートに届く強いにおいは、いつからかトイレの芳香剤のイメージがインプットされてしまって(このツミは大きいぞ、と言いたい)ちょっと気持ち悪くなる。

▲小さいけれどウチにもこの木があって、今日はひと枝切って玄関先にかざってみた。ウチのは栄養が足りないのか、枝ごと鼻にぴったりさせ くんくんしてやっと「それ」と感じる「微香性」だ。(苦笑)
それでも、玄関のすり硝子を通して入る秋の白いひかりの中、濃いみどりの葉っぱとオレンジ色の小さな☆印がいいかんじ、と一人悦に入る。

▲生まれ育った家は旅館と郷土すしの店をしていたので、思い出すウチのにおいはつねに酢っぱい。
前にもここに書いたことがあるけど、おくどさん(へついさん)で炊きあがった五升釜のご飯は大きな飯切りに移すとすぐに、合わせ酢をかける。湯気の太い柱がもおもお立つ中 甘酸っぱいにおいが一気に厨房にひろがる。そうして次々にご飯が炊きあがるたびに家中 酸っぱくなってゆく。
アイスをねだって裾を引っ張った祖母の灰色の割烹着にも、父の白衣も、母の割烹着のポケットに入ってた「ちり紙」まで、みんな酢のにおいがしていやだった。

▲大人になって、生家が天ぷらの料理やさん、という人と知り合った。彼女に「酢」のにおいの話をしたら「ウチはね、お母ちゃんのそばに寄っただけで、天ぷらのにおいぷんぷんして嫌やった」とからからと笑った。なんで笑うかというと、彼女はその料理やさんを継いで天ぷらを揚げてはるから。そうしてウチも母のにおいは、そのまま姉が引き継いでいる。
外の集まりに出るのに「よそゆき」に着替えて行っても「おくさん、おいしそうなにおいしますなあ」と言われたという母も、今はもうあのにおいが消えてしまった。

▲だけど、わたしが母をおもう時はいつも「におい付き」で、あんなに嫌やったお寿司や酢の物も知らんまに好物となってしもて。
思えば、子どもの頃はウチだけでなく友だちの家に遊びに行くと それぞれの家のにおいがあった。煮物やお芋を蒸かしたようなにおい。乾物をもどしてるにおい、煙草やお線香のにおい。それに、おばあちゃんのいてはる家には膏薬やお灸のにおいがした。部屋のにおいを消すスプレーなんてものが何十年後かに「一般家庭」に現れるなんて、みな思いもよらなかった時代だ。

▲さてさて、これを書いている間に少し肌寒くなってきた。細く開けていた窓を閉めに立ったら、どこかで切り干し大根を炊いてはるのか、あの日向くさい懐かしいにおいが微かにした。(ご近所には年輩の方が多いからか、風に乗ってやってくるにおいは たいがい「和風」だ。)
ああ、もうすっかり煮物のにおいがにあう季節やね。さあ、今夜は鯖のみそ煮と里芋の煮っころがしでも こしらえよか。
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by bacuminnote | 2009-10-19 12:32 | たべる
▲この間 ようやく扇風機を仕舞った。今夏はエアコンを使わなかったかわりに扇風機は長い間大活躍で。開田高原では出番の少なかった一台も、大阪に越してきて6回の夏の間に買い足し、買い足してついに四台になった。昔にくらべたらびっくりするほど安くなったから買えたのだけど。この値段で利益を考えたら一体 原価はいくら位?そして遠い地の工場で働く人々の賃金は?と頭の中で数字を浮かべつつ複雑な思いで羽根をはずして洗った。

▲「しまう」といえば、先日ついに「車のある生活」をおしまいにした。
田舎暮らしの間には なくてはならない車だったけど、ここは交通の便も結構よい。それに、もともと相方は車がそんなに好きじゃなくて可能な限り「徒歩」というひと。わたしに至ってはいつも書いてるように方向音痴で、駐車(運転も)下手だし、こわがりだし・・・で、開田からここに引っ越しの日以来一回も運転していなかった。

▲母にはよく「そんな『あかんたれ』やのに、何で免許なんか取ったん?」と呆れられる。ほんま。なんで取ったんやろ?けど、若い日のいっときの気まぐれにしろ、この免許があったおかげで パン屋も田舎暮らしもできたようなものだ、と思っている。(「どんくさい」わたしが 年をとってからの免許取得は まず不可能だったにちがいない)
まあそんなわけで、乗る機会も少なくてもったいないし車を手放そうか・・・と言いながら一年経ち二年経ち。案の定 5~6年で走行距離は8000kmほど。これは田舎暮らしの頃の一年分にもならない距離だ。

▲「車のない生活」はシンコン(←漢字にするのは恥ずかしい)の頃 相方が独身時代に買った車をお金がなくて処分(苦笑)して以来だから、かれこれ30年ぶりだ。当時住んでいた「文化住宅」のお隣はウチと同じような年頃のカップルと赤ちゃんの三人家族で。福岡出身の素朴でとても優しい お二人はわたしのお産の前に「車が要るときはいつでも貸しますけん。どうぞ遠慮無く言うてくださいね」と言ってくれはった。住んでいた文化住宅周辺にはタクシーが全然通らなかったので、ほんまにうれしく、ありがたかった。

▲そして、予定日近いある晩 とつぜん破水。病院に電話したら「すぐに来てください」と言われ、お隣に車を借りることになった。
そもそも薄い壁一枚の住まいだから、破水さわぎで、わあわあ言うてるわたしや相方の声は お隣にも筒抜けのはずである。それでも落語の世界のように、壁越しに話すわけにもいかずお隣に電話をかけた。りーんという音が間近に聞こえるや、即「もしもし」という声。

▲「はい、わかりました。すぐに出ます」というお隣の返事が 受話器の向こうからと 壁のすぐ裏(お互いに壁際に電話を設置していた)から同時に聞こえ、なんだか可笑しくて。一気に張りつめた気持ちが緩むのがわかった。そうして車を出してもらい、お二人に「がんばって!」と見送られて病院にむかったんよね。
結局、その夜に赤ちゃんは出てきてくれず、相方は一人 借りた車で家に帰り、翌日の昼過ぎにバスで来て。少しして息子がうまれた。もう29年も前のことだ。

▲さて、その日は午後から車やさんが来ることになっていた。
車に積んであったCDやひざ掛けや地図を段ボール箱に放りこんで、最後に写真を撮った。横から一枚。前から一枚。
ちょっと気になったけど、相方に任せて買い物に出て。帰ってきてガレージをみたら、がらーんとした中に自転車が二台と、もう使うことのないタイヤチェーンが残ってた。
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by bacuminnote | 2009-10-15 20:01 | 開田村のころ
▲仕舞いそびれている扇風機の羽根を見たら うっすら埃が積もってた。かき氷用に作った氷は千切りキャベツを冷やすのに使って容器を洗う。開けっ放しだったトイレの小窓も閉めて、玄関先の麻の敷物も取り替えて。そろそろ次の季節の準備やね。今日こそは扇風機のそうじして、タオルケットも洗って仕舞おう。と思っていたら台風がやってきているらしい。いつもこんな風に「やる気」と天気がうまく合わなくて、掃除に整理整頓の機会をのがす。でも、今はそんなことより、どうぞ台風の被害が出ませんように。

▲昨日は相方のおかあさんを訪ねた。頼まれたお漬け物に白天、レトルトのごはんは130gのちっちゃいの。それから甘いもん少々と・・・。大急ぎでデパートの地下で買ってバスに乗り込む。ちょっと前まではわたしが行く日は いつも上階の窓からバスが着くのを見て、降りるのを見届けて、部屋に戻っていたらしい義母も、この頃は部屋の中でじっと待ってはる。立っていると足が痛むらしい。

▲部屋に入って、テーブルいっぱい買って来たもの並べて、これは○○、あれは○○・・・と「食品説明会」は、そのまま「ほな、これ、食べてみよか」と「試食会」へと移行する。
ノンストップで2時間ほどしゃべってると、義母は置き時計をちらちらと見始める。「そろそろ支度して帰らんと・・・」と促すのは義母もジッカの母でもおなじ。せっかく来てるのに「ほらほら、早う帰り。早う家に帰ってご飯ごしらえ せんといかんやろ」「××さんも、○○ちゃんもあんた待ってるやろ」と帰りを急かす。そのくせ「ほな、また」と言うとちょっとさびしそうに笑うのもおなじ。

▲帰りのバスの中、同じホームの方たちのおしゃべりが耳にはいる。「いつまでも暑いなあ、と思ってましたのに、なんだか急に冷え込んでまいりましたねえ」「ほんま、ほんま。夏モンに夏モン重ねて着てたけど、もうそれでは肌寒うおますなあ」東言葉に大阪弁、いろんなことばが混じり合う。たいていは何ということのないお天気の話なんだけど、その方の個性や、ちょっと大袈裟かもしれないけど 人生の片りんのようなものが言葉の端々にうかがえるようで興味深い。

▲義母のところに通い出してもう6年になるから最近は顔見知りの方もふえてきて。ひとことふたこと言葉を交わすだけの日もあるし、バスに乗り合わせたひとがわたしたちの他にだれもいない時に、そっと昔話を聞かせてくださったりするのもうれしい。話のあとにはいつも「あなたは若いんだから、どうかそのまま自由にお歩きなさいよ」「毎日をだいじに。そして、すきなことをだいじにね」とはげましてもらう。「若い」と言われて思わず首をすくめながらも、思うにままならない時代を越え 生きてきた大先輩の女性たちのことばをたいせつに受けとめたいと思う。

▲そういえば、こういうとき・・・つまりそんなに長くはない時間だけど、バスや電車で移動するときにバッグに入れてくる本(たいていは再読)の一冊に湯本香樹実さんの文庫版『ポプラの秋』がある。そのあとがきに著者がおばあちゃんを語るところを思い出して、膝の上で開いてみた。
ある日祖母が著者に言う。「あのね、あたしなんか後で考えて、『ああ、あの時は、あんなに若かったのに』って思ったことが山ほどある。一日一日をだーいじに、好きなように、生きなさいよ」(p216)
あらあら、わたしが先輩から言うてもらってる言葉とおんなじではないか。

▲「曾祖母の決めた相手と素直に結婚し、四人の子供たちを育て上げた祖母だったが、やはり祖母には祖母の『生きられなかった自分』への思いがあったのかもしれない。茫漠とひろがるばかりで、いつの間にか食い潰されてしまう時間がおそろしくてたまらないのは、ほんとうにしたいことから逃げているからなのだ、と私はもう自分に対して認めざるを得なくなってしまった」(p216~217)

▲おばあちゃんの言葉を確認したくて開いた本の、この一節の前でわたしは息をのむ。いまの自分のどこにも着地しようのない「茫漠」とした思いを言い当てられた気がして。長いこと足踏みばかりしてたけど、何か目の前がちょっと開け あかるくなったようで、胸がどきどきした。
「○○でーす」運転手さんの声に はっとしてバス停に着いたことに気付く。あわてて本を閉じ「ありがとうございました」と挨拶してバスを降りたものの、自分でもびっくりするほど大きな声だったので、あとで一人赤面するのだった。
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by bacuminnote | 2009-10-07 16:05 | 本をよむ