いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2010年 11月 ( 3 )   > この月の画像一覧

ピカピカの。

▲ 朝 雨戸の内側がほんのりと温かったから。
きっとよいお天気なのだろうと、力いっぱいに戸を引くと光の束が部屋に一気に舞い込んだ。この二、三日 足の具合がよくなかったりで、沈みがちだったけど「やっぱり行こう」と大急ぎで洗濯物を干した。この日はずいぶん前からカレンダーに◯をつけて楽しみにしていた詩人・伊藤比呂美さんの講演会のある日。いつもお世話になっている鍼灸院でお昼前に診てもらって、その足で会場に向うことにした。

▲ 足の痛みの原因は「老化」と言われてちょっとがっかりしながらも施術のあとはずいぶん楽になった。
交通の便にはまあまあ恵まれた所に住みながら、どこかに行くたび(しかも近場なのに)「いっつも大冒険やなあ」と友だちにからかわれてるけど、この日も鍼灸師のMさんにとんちんかんな質問をして「大丈夫かいな~」と笑われつつ、丁寧に教えてもらって電車に乗り、乗り換え、会場へとむかった。

▲ 降りた地下鉄の構内から出口までの道には何カ所にも「ドーンセンター」と矢印があって「今日は楽勝やな」とほくほくしてたのに。地上に出るや案内板がぷつり途絶えた。なんとなく勘で歩いてたけど不安になって駐輪場にいた60代くらいの女性にたずねたら「どーん?何?知らんわぁ」と言われてしまう。
すると、少し離れた所に自転車を止めてはったお仲間が間髪を入れず「あんた、ドーンセンターも知らんの。ほら、あそこにあるピカピカの・・・」と、いきなり始まるボケとツッコミ(笑)

▲ 「わたしはよーく知ってるし」という人が、歩道に出て指差して「信号渡って右に曲がって」と教えてくれた。お礼を言って信号の所で待ってたら「ちょっと、ちょっと。そこの信号やったらもう一回渡らんとあかんから、あっちの信号から行き」と言いに来てくれた。いろいろ笑いのネタにされることの多い「大阪のおばちゃん」やけど(そしてわたしもその一員やけど)この暖かさ、この愛すべき世話焼き。よろしなあ。

▲無事「ピカピカの」 ドーンセンター(苦笑)に着いてお昼食べて、時計みたらまだ開演まで2時間近くある。まずは5階に。ここのホールにある壁画は相方の写真の師 山沢栄子さん(1899-1995) の作品を陶板にしたもの、と聞いていたからいっぺん来たかった。陶板の隅にはなつかしいセンセの特徴のある字で『What I am doing   Eiko Yamazawa』とサインがあって。しばし壁画の前に立ってお元気な頃を思い出していた。(山沢栄子氏と装丁家・坂川栄治氏のことを以前 ここに書きました)

▲ 次は2階の情報ライブラリーへ。(←相変わらず前置き話ばかりが長くてなかなか「講演会」にたどりつかず)
ここは「女性関係情報の専門ライブラリー」で、図書・行政資料・雑誌・ビデオなど置いてある。何気なくDVDの棚を眺めてたら観たかった作品があった。こんなことならゆっくりご飯なんか食べてんと先にここに来ればよかった・・とか、ぶつぶつ、ぐずぐず言うてんと時間一杯まで観て行こう、とビデオーブースに。

▲それは 『女工哀歌(エレジー)』(原題はCHINA BLUE /ミカ・X・ペレド監督)というドキュメンタリーで、中国広東省のジーンズ工場で働く少女たちの日常をうつしだしている。彼女たちのほとんどは出稼ぎだ。従業員の平均年齢は15歳。(それ以下の年で偽の身分証をもって働く子もいる)一日平均18時間労働。時給はたったの0.5元(7.8円)。残業手当なし、遅刻は1分単位で罰金をとられ、12人一部屋、食事代は給料から差し引かれ、洗濯やシャンプーに使うお湯はバケツ一杯0.5元とられる。とにかくひどい労働条件なのに、まだまだ従業員がたるんでる、仕事の遅いだめなやつはクビだにしろ・・・と、社長は言う。

▲ 中心になって登場するのはジャスミンという17歳の女の子。四川省の農村から家計をささえるため出稼ぎにやって来る。彼女の仕事は糸切り係だ。ジーンズの縫製のときに出る糸の始末を延々としている。毎日朝早くから夜中までの激務。家族と離れて暮らす淋しさを忘れるために自分で物語を作ったり、日記をつけ、早く給料をもらって家族に仕送りする日を楽しみにしてる。それなのに給料はその日が過ぎてもなかなか支払われない。
来る日も来る日もジーンズの山。休み時間にその山に埋もれるようにしてひととき眠る従業員。しかし、これすらも見つかったら罰金だという。この他にも工場に出勤時にIDカードを忘れたら罰金。態度が悪いと最高200元の罰金。

▲ このジーンズ工場の様子を見ながら、わたしはかつてパートで働いた子ども服の会社のことを思い出していた。仕事は倉庫でのピッキング(店からの注文の品と数を揃える)と値札つけと検品。主に大手スーパー向けの比較的安価な商品で、倉庫に並ぶ大きな段ボール箱にはたいていMADE IN CHINAとかINDONESIAと書かれていたけど、当時('85~'87年)はそれでもまだ日本製の物も結構あったように思う。ちょうど子ども用のジーンズが流行り出した頃で、毎日のように主任が「今日は〇〇スーパーに1万枚出荷です。☓☓ストアには5千枚。できるだけ残業協力おねがいします」と朝礼で言ってた。

▲ ジーンズにつける値札はピストルと呼ばれる器具を使って、ベルト通しのところにピンを留めるんだけどデニムは針が通りにくくて大変だった。
ときどき検品もあって、ミシン目の縫いはずれがないか、布の引きつれや汚れをチェックして、不良品は伝票に書いて報告する。たまにまち針や針がささったものもあって、こういう時はすぐに主任を呼んで手渡すことになっていた。「あ、針!」と言うと同じテーブルで仕事している人たちから「わあ」と声が上がった。

▲はじめは何のことかよくわからなかったんだけど、針が残ってたり危険なものが入っているのを見つけたら、見つけた人に二千円だったか、三千円だったか、よく覚えていないけど報奨金?が出ることになっていたのだった。聞けば、会社がそれを縫製工場に報告してペナルティーを課す、というような話だった。
そうしてもらったお金は、同じ班のみんなで休憩時間に食べるお茶菓子か何か買う習わしだったと思う。わたしも何回か見つけたことがある。ペナルティーと言ってもどうせ工場が出すのだから、と無邪気にみんなと一緒に臨時収入をよろこびお茶菓子を頬張っていたけれど。

▲ 遅刻1分ですら罰金の工場だったら、こんなミスがあったらただじゃすまないんだろな、と映画をみて二十年以上前のことが重なって、胸がきりきり痛んだ。あの頃だって過酷な労働条件で女の子がミシンをかけていたにちがいないのに。若かったわたしは自分の目の前に山と積まれたジーンズと単調な仕事にため息をつくばかりで、そのジーンズがどんな所でどんな風に作られてるかなんて、思うこともなかった気がする。

▲こんなことばかり書くと暗いだけの映画に感じるかもしれないけれど、画面には思いのほかあかるい光がある。それは工場で働く少女たちの明るさ。過酷な労働とカーテンで間仕切りしただけのぎゅうぎゅう詰めのひどい寮だけど、夢を語り、踊って、恋もして。そして工場にも怒る。階段の踊り場に貼った紙に書かれた文句「今日仕事を怠ければ、明日の仕事がきつくなる」を見ては「また、スローガンよ、ぞっとする」と皆で笑い飛ばす。

▲あっというまに時間になって、つづきが気になりながらも講演会の会場に移動した。講演が始まる前に、と入ったトイレでふと自分の着ている服が気になってタグを調べてみる。セーターとジャケットは中国製。スカートはインドネシア製で、日本製はわずかに肌着だけだった。でも、日本製のものだって縫製工場では安い賃金で外国労働者が働いているのかもしれないな。
鏡の中、安くじょうずに買い物したつもりの服を身につけたわたしがむっつり顔で映ってた。


*追記*
講演会のことは今回やっぱり?書けなかったので(苦笑)次回。 
帰宅後 、映画について調べてたら、あの後あまりの給料の遅配についに工員がストライキを起こす、とあって思わず拍手。でも、その後はどうなったのだろう。ぜひ続きを見たいと思っています。

Photologue - 飯沢耕太郎の写真談話35 活躍する女性写真家たち(1) 記事中程に山沢栄子氏の紹介と 作品(4/17枚目 と 5/17枚目)
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by bacuminnote | 2010-11-29 23:41 | art | Comments(0)
▲ 家を出て駅に向かう途中の交差点で 信号がちょうど変わったところだったので、もう一方の道から行くことにした。別に急いでたわけじゃないけど、時々気まぐれで違う道を行く。まっすぐ行くか曲がるか、マンションの前かビルが立ち並ぶ前か、平坦な道か階段か・・ってくらいの事ながら、おんなじ毎日のちいさな変化。
今 むこうの道ではゆりの木の葉がまっ黄色になってふさふさしてるけど、こっちは紅や橙、黄色に茶色とにぎやかで。色づいた葉っぱを見上げ、かさこそ、しゃかしゃか、ちっちゃい子みたいに音立てて落ち葉の上をわざと踏んで歩くのも愉しい。(重量級が歩いて粉々にするとあとの掃除が大変だろな・・・もうしません)

▲ マンションの前で散歩中の子犬に、おもわず視線を落としてにっこりすると、飼い主の女性と目があった。するとその方が「待ってました」とばかりにに「あのー、ちょっとお尋ねします」と声をかけてきはった。
こまったなあ。
何回も書いてるように、わたしは人並外れての方向音痴なのに、行く先々でよく道を尋ねられるのだ。あ、でも、このあたりのことなら何とかわかるかも、と思いながら「はあ」と自信なげに返事すると「◯さんじゃないですか?」と聞かれた。

▲ 「はい。◯ですけど」と応えたものの、目の前の女性には覚えがない。もしかしたら義父母の知り合いかもしれないな、と思った。そしたらそのひとの顔がぱっと明るくなって「ああ、よかったあ。やっぱり~」と弾けるように笑わはった。
「わたしね、小学校一年のときお子さんと同級生だったAの母親です。覚えてはります?ここ数年の間に何回かお見かけしたので、こっちに帰省してはるのかな、と思ったりして。けど、この前もまた見かけたし・・・・あの時、パン屋さん始める、言うて、お引越しの前にパン焼いて届けてくれはったでしょ。うれしくてね。あの頃はまだ天然酵母とか聞いても、それ何?という感じだったけど。あれからすこしづつ増えて、今ではもうあちこちで売ってて。◯さんって、ススンデはったんやなあ・・って、そのつど思ってたんですよ」

▲ 高野豆腐みたいに固まった!わたしの記憶はAさんの人懐っこい笑顔とそのやさしいお話ぶりで、お湯に浸かったように少しづつやわらかくなってくる。わあ、思い出した!思い出した!Aクンのお母さんや。
「あの時」とは、相方のパン屋修行は終えたものの引越し先がみつからなくて、ずるずるとそのまま親の家に同居。夫婦でそれぞれアルバイトしながらあちこちの田舎をめぐり、店を始める場所探しをしていた時のこと。もう23年も前のことだ。

▲当時はご近所友だちもなく、子どもが途中入所できた保育園が校区外だったので、その小学校入学時には知り合いがだれもいなくて心細かったんよね。
そういえば、PTAのクラス役員の選出は出席簿の順番で、番号の近いAさんとわたしは一緒に広報係になったんだっけ。それでも7月には滋賀県・愛知川で家を貸してくださる話が決まって、結局その小学校に息子が通ったのは一年生の一学期だけとなった。

▲ たしか息子がお家に遊びに行かせてもらって、そのお礼もかねてのパンだったと思うのだけど。
そんなわずかな期間のおつきあいを、小さな電気オーブンで焼いた ただひとつのパンのことを、そして「背の高い大きい人やった~」(苦笑)と、わたしのことを覚えてくださってたやなんて。
「そうそう、お互い子どもは一人っ子だったんですよね~」
「あ、あの頃はそうやったんですけどね。信州に越してから13年も離れて下の子が生まれて・・」「わあ、そうですか。ウチの息子は子どもが二人できて、わたしはおばあちゃんになりましてん」
23年間のブランクも何のその。あはは~と笑ぅてしゃべってる間に「高野豆腐」はええ塩梅にふっくらもどる。

▲うれしいおどろきの再会のあと、スキップするように駅にむかった。
この日は心斎橋『ロカ』に。前に行ったのは、ロカの近くのギャラリーで開かれた旧友うらたじゅんの個展のおり。せっかくの人気食堂に寄りながら、この時はご飯を食べて出てきたので珈琲とカップケーキを。(珈琲もケーキもおいしいです)
「また、こんどお昼ごはん食べにゆっくり来るね」と言うて、店主のみどちゃん(緑さん)に手をふったのも一年以上前のことになる。ほんま「また、こんど」ほどいいかげんなものはない。(→反省)
で、ようやく訪ねることができたんだけど。今回も約束の時間が二時だったので、家を出る前に「ちょっと軽く」のつもりが「普通」に食べてしまい、カウンターに座って注文を聞かれて「珈琲とカップケーキ」という展開。あああ。それでも何でも、久しぶりにみどちゃんに会えてうれしい。

▲ 二時過ぎということもあって、店内はちょうどいいかんじに繁盛してた。一人席を立って、少しすると二人連れがやって来て、グループ席のお客さんたちが口々に「ごちそうさま」を言い、また一人やって来る、という具合。カウンター席はわたしの左隣も右端っこのひとも『日替わりごはん』。いいにおい。わあ、皆おいしそうに食べてはるなあ・・・ときょろきょろの末「ごめーん。やっぱりごはんにする!」(苦笑)
この日の献立は、豚バラ肉と大根の煮物・桜えびと青ねぎのだし巻き(大根おろし添え)・キャベツとビーフンのマスタードサラダ・季節の野菜の白和え・分つきご飯・おつけものにお味噌汁。うまい!これで750円也。

▲ いっぱいの食材を使って、ていねいに下ごしらえして作られたのがわかる、バランスのよいおいしいお昼ご飯。
きどってないけど、やぼったくない。かっこばかりのカフェランチとちがうのはたぶん「ここ」。来るたびに思うのはカウンター席から見えるスタッフの動きが、きびきび、てきぱき気持ちいいこと。決して広くない台所(厨房というよりこのほうがぴったり)で、だけどその様子が「せわしなく」見えないのもいいかんじ。

▲ すこしお客さんの波が引き始めると、明日の仕込みが始まった。高野豆腐をもどし、かぼちゃの皮を剥いて切って、ブロッコリーを小房に分け、なすびを切り、大根と蓮根と・・・。
カウンターの内と外、わたしとしゃべりながらも彼女の包丁は止まることがない。野菜で山盛りのボウルがいくつもできて。「いったいどれだけ切るつもりなん?」とおもわず聞いてしまう。ついでに「献立はどうやって決めるの?」とインタビュー(笑)
曰く、◯◯を作るために材料を買うのではなく、その日買った肉や魚をみて、野菜を洗ったり切ったりしながら明日の献立を考える。「わあ、けど、それ、ウチと一緒かも」と言うと「そうですよぉ。わたしの作る料理は素人料理」と言い切るみどちゃん。もちろんそんなはずはないんだけどね。かっこいい。
わたしの左隣の女性は「はじめて来ました。ここ落ち着きますねえ」と。いつのまにか右隣に座ってた女の子は一人もくもくご飯を食べて。お箸を置いて「あーおいしかった」とひとりごとを言ったのが聞こえた。
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by bacuminnote | 2010-11-21 21:37 | 出かける | Comments(0)
▲ 「明日は5℃以上気温が下がる」と前夜天気予報で言ってたけど「(今日は)こんなに暖かいのに」とあんまり信用してなかった。でも一夜明けて、温い寝床から起き出すとあたりは冷蔵庫の扉を開けたみたいに冷え切っていた。
とりあえず雨戸を開けるのは後回しにしてお湯を沸かし、やかんの湯気に思わず手をかざす。あ、この感じ、開田村の朝みたいやなあ、とたぶん今頃は頭の白くなってる御嶽山を思い浮かべながら、ネルの中の豆にお湯をほそく長く。ほわぁと湯気が立ち上ると台所は一気に珈琲の香りにつつまれた。

▲ いつも朝はのんびりしてるもんやから、たまに時間の決まった外出には「遅刻しないか」と緊張する。この服着て、あれ持って、これ入れて。お数珠にお花に、お供えはおばあちゃんのすきだったきんつば二つ。
むかうは吉野山 中千本。この日は母方の祖母の十七回忌。八十七歳の母が「山」に行って(ジッカの辺りでは吉野山のことを「山」と呼ぶ)お参りのできる最後の法事かもしれないし、と言うので姉たちと集まることに。
 
▲平日の朝の地下鉄は当たり前だけど通勤客で満杯で。バッグに大きな紙袋ふたつのわたしは身を縮こませて端っこに座る。たまたま乗り込んだのが女性専用車両だったんだけど、ぎゅうぎゅう詰めの中、お化粧に余念のない若い子、座るなり熟睡の中年女性、携帯を遠目に離して延々メール打ちのわたしと同世代と思われる人・・・家でゆっくりな朝を過ごしてたら見えない光景に、膝の上の大きな紙袋に顎をのせて車内ウォッチングしてるうちに、いつしかその袋の中に頭を突っ込むように爆睡していた。(苦笑)

▲ 近鉄あべの橋駅から特急で1時間20分。途中 橿原神宮で姉(その3)が乗ってくる。持ってきたもの、着てきた服、今日の晩ご飯の予定から、家族のことまで。相変わらず姉妹が寄ると二人でも「かしまし娘」だ。電車はがたごと揺れながらあっというまに単線となり、大和上市駅をすぎ吉野川を渡り(←ここがとてもいいのです)吉野神宮駅に着いた。

▲待っていてくれた姉(その1)の車に乗って「山」へと向う。くるくる曲がった道は自動車教習所のS字カーブのようだ。そういえば、その昔、仮免の時だったか、免許を取りたての頃だったか。一回だけ亡き父に同乗してもらってこの道を上ったことがあった。はじめは冗談を言ってた父がそのうちわたしのあまりの「どんくささ」に怒りだして「もうお前の横には乗らへん」と、結局それ一回きりになったっけ。

▲’94年の秋、信州から親子四人で祖母の告別式に帰ってきた。「山はいま桜の紅葉がほんまにきれいやから楽しみにして帰っておいで」と母が旅行に誘うみたいに電話してきたのは、祖母がもう九十五歳にもなっていたからだろう。
けれど当時のわたしたちはもっともっと山深い地で、すでに紅葉をたっぷり味わったあとだったので、「山」の紅葉にとくべつおどろくこともなく。「いやあ、開田の方がやっぱり標高が高いだけあってすごいよなあ。色が締まってるもん」とか、なんとか。さんざん相方とすき勝手な事を言い合いながら坂道を上ったんだけど。それでも、ほんま言うと、わたしはものすごく久しぶりだった「山」への道にちょっと泣きたいくらいにセンチメンタルなきもちになっていた事を 姉の車の窓に顔をくっつけながら思い出していた。

▲よしの生まれだというと、たいていの人から「ああ桜の」ということばが返って来るのだけど「桜の吉野」は 吉野山のことで。わたしはそのふもとの小さな町で生まれ育った。この町から見える「山」が春になるとピンクに染まるんよね。それはもう山ごとピンクに。でも何べんも書いてるように、その季節はジッカも超多忙で、まして「山」のおばあちゃんちはもう表現しがたいくらいに大変だから、春に行くことなどほとんどなかった気がする。でも、わたしが一番すきなのは秋仕舞う頃から冬の「山」。そして、この日の「山」もみごとだった。

▲ さて、法要の席。お坊さんが読経のあと法衣を着替えはって、たたみながらのお話の中「高野山で修行」ということばに、わたしは最近読んだ『ボクは坊さん』(白川密成著・ミシマ社刊)のことを思い切って話してみた。
この本は四国八十八ヶ所霊場のひとつのお寺の息子である著者が大学(高野山大学密教学科)卒業後 地元の書店員をしてたんだけど、お父さんが亡くならはって二十四歳にして住職に。その経緯と日常がおもしろく、時にせつなく描かれている。わたしたちにとってはお葬式や法事以外に身近でない住職の仕事、お寺の成り立ち、そして釈尊や空海のことば・・となかなかの一冊で、とりわけ学生時代の高野山での修行の話が印象深かったから。

▲ わたしの気まぐれな質問に、帰り支度のお坊さんはやがて座りなおして若き日の百日修行のこと、黴びた餅のぜんざいの話から、空海が吉野から高野山への道を歩いたという本の記述に触発されて、修行を終えて高野山から下りるとき吉野まで三日かけて歩いて帰ってきた、というお話まで。笑ったり、感心したり・・・思いがけずひととき仏教講座みたいになってたのしかった。遠いとこからおばあちゃんが「相変わらずあんたはおしゃべりやなあ」と笑ぅてたやろか。

▲ 祖母の家は尾根から谷に張りだして建ついわゆる「吉野建て」。玄関入ったところが三階で上にもう一階の四階建てだ。子どもの頃は二階、一階へとまるで地下に下りていくような感じがおもしろくて、親戚が集まると姉たちや従兄弟と廊下を走り階段をかけ降りて鬼ごっこをしたものだ。そのころの最大の関心事は あとで広間に集まって皆で食べるすき焼きと子ども一人に一本づついていたバヤリースオレンジだったけど(笑)大きくてきれいなガラス戸越しに谷を見下ろす景色のすばらしさは、子どもながらしっかり残っている。そうそう、何故かいつも誰かが「ほら、あそこに見えるのが 如意輪堂やで・・」とむこうを指さして教えてくれるんよね。

▲ この日は同じ部屋で鴨鍋や料理をごちそうになった。食事のあと誰ともなしに窓辺に立って吉野谷を見渡す。紅葉と枯れ木の色合いが、それはしみじみと胸にせまる。いっとき、しんと見ていたら「ほら、如意輪堂がみえる」と片手で杖つきながら母が指さして言った。
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by bacuminnote | 2010-11-12 14:51 | 本をよむ | Comments(0)