いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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子どもとゆく。

▲ 信州から大阪にもどってきて7年になるけど、こんなに寒く感じる冬は初めてだ。開田村に暮らしてる間にしっかり「寒冷地仕様」に変身したつもりやのに。また元の「寒さに弱い」関西人になってしもたのか。いや、年のせいかもしれんけど。タイツにレッグウォーマー、靴下の上にフリースの室内履き、加えてスリッパ、などというすごい足元なので「ピンポーン。宅配便でーす」に慌ててサンダル履こうとして、そのつどこけそうになる今日この頃。ふうう。ハルヨコイ。ハヤクコイ。

▲ この間、小児科医院に用事があって出かけた。外に並ぶベビーカーも、玄関口に散らばる掌に乗るほどのちっちゃな靴も、棚の絵本も育児書も。何もかもが、ああ、かいらしくて懐かしい。予防接種か、それともインフルエンザの検査でもしてるのか、診察室からは耳をつんざくような泣き声や「ねえ、もうかえろう。はやくおうちかえろうよ」と繰り返し哀願の男の子の声が延々ひびいて、わたしは終始落ち着かなかった。

▲ 乳児の頃から病院通いをした下の子のことを思うと、上の子は元気だったので、小さいときの伝染病の他は眼科へ視力検診に行くくらいだったか。風邪は何度もひいたけど、ゆっくり寝てたら治る、と受診することはなかった。そのかわり熱が出たら最低3日はガッコを休んだ。ガッコ帰りにプリントを届けてくれる近所の友だちが「◯ちゃん風邪ぐらいで三日も休んで~おばちゃん、子どもを甘やかしたらあかんで」と言うので相方と顔見合わせて大笑いしたっけ。たぶんおウチでお母さんらがウチのこと、そう言うてはったんやろね。

▲ そういえば、その昔フルタイムで働いてる友だちが「保育所は熱があったら預かってもらえないから、同僚の中には行く前に解熱剤でいったん熱下げてから(保育所に)預けて仕事に行く人もいるんよ~」と聞いておどろいた。「ええっ?そんなん又熱上がったらどうするん?」と言うと「案外そのまま熱下がってラッキーってこともあるし、もしまた上がっても、保育所からの呼び出しがあるまでの間に仕事の段取りができるから」とのことだった。子どもが発熱しても仕事を休めない親も、熱のある子を預かることのできない保育所も、その中にはいろんな問題が含まれており、簡単にどっちがいいとか悪いとか言う(言える)話じゃないんだけど。そうしてそのどちらにもノーといえない子どものことをおもうと胸がいたむ。

『レモネードを作ろう』(ヴァージニア・ユワー・ウルフ作/こだまともこ訳/徳間書店刊)という本を読んだ。あざやかなブルーに一本の木とレモンの表紙。見開きには「若いお母さんたちへ」とある。主人公のラヴォーンはまじめな高校生。幼い頃に父を亡くし母親とふたりで余裕のない暮らしだ。でも、いつか貧しさに埋もれたこの町を出て、いい職について、いい暮らしを、と願っていて、そのためにも大学に進みたいと思ってる。で、学費と足しにと思ってベビーシッターのバイトに行くことになる。

▲ ところがバイト先のふたりの子どもの母親は彼女とたった三歳しかちがわない十七歳のシングルマザーのジョリー。それにジョリーらが住んでるアパートは自分ちよりもっとぼろぼろで、おまけに部屋は汚れ放題。いつ「やめます」って言おうかと思いながらも、仕事に来てくれるんなら早いほうがいい。「明日かあさってには仕事にもどらないと、クビになるんだ」と言う言葉に機会を逃して。そのうちになんと上の子ジェレミーが彼女の手を握りにきて。

▲ とうとうラヴォーンはお母さんに内緒でこのバイトを始めるんよね。年下ながらしっかり将来のことを考えてるラヴォーンと、今日のことで精一杯で明日や将来のことまで考えが及ばないジョリー。読んでるおばちゃん(わたし)は、はらはらしつつ「子どもどうしであれこれ悩まんと、とりあえず誰かに相談したら?」とか。単純にあれこれ思うことを「現実」は次々に打ち砕く。そもそも「だれか」がいてたら、ベビーシッターを雇って夕方から工場に働きに行かなくてもいいかもしれないし。夫もいない、家族も、頼れる人もだれもいなくて。友だちが前にそういう目にあったというので「福祉」は子どもと引き離すから「福祉なんて、まっぴらだよ!」とジョリーは言い続けてる。

▲ 子どもって小さい間は、ほんまに思い通りにならないことだらけやから。この若い二人の女の子が育児に奮闘する姿に、胸が詰まる。そのうちラヴォーンもお母さんにバイトがばれたり、ジョリーは職場でセクハラされた上、クビになったり。で、ラヴォーンは「これからやるべきことのリスト」を作るんよね。もう一度職業安定所に行く、ジリー(下の子)に予防接種を受けさせる、弁護士を頼めるかどうか調べる、フードスタンプがどれくらい残ってるか調べる・・・などなど。そんな中でジョリーがほとんど字を書けないことがわかって。

▲タイトルの「レモネードをつくろう」の意味や、最後どきどきしながら追った場面も、ほんまはまだまだ書きたいことはいっぱいだけど、これはやっぱり本を手にとって読んでほしいなとおもう。
訳者のあとがきで紹介されてる作者のことば『若い人の悩みを理解してくれるようなふりをしながら、本当は嫌らしいほど無関心な世界、この本に登場するふたりの少女は、そういう世界に住んでいます。私自身は、経済的にはふたりのように貧しくなかったのですが、精神的には同じような苦しさを味わいました。いくら環境に恵まれていなくても、決してその犠牲になってはいけない、そういう思いが私にこの本を書かせたのだと思っています』(p298より抜粋)
もうなくなっちゃったんだけど、大すきだった 『子どもとゆく』誌が掲げてたことば『なにより大切なのは子どもが元気で楽しくいること』を思い、願いつつ、若いお母ちゃん(お父ちゃん)に、若くないお母ちゃん(お父ちゃん)にも、いっぱいいっぱいのエールをおくりたい。

*追記
この本を読んでいて、すぐに浮かんだのは去年観た『プレシャス』(←HPは音がでます)という映画(DVDになっています)。16才にして二人目の子どもを身ごもるプレシャス。その父親はプレシャスの父。子どもへの性的・肉体的な虐待、と大変に重い内容ですが、最後は主人公が一人の教師と出会うことで、前に踏み出して行く。若くして親になった子どもたちへのケア・教育など考えさせられます。
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by bacuminnote | 2011-01-25 19:05 | 本をよむ | Comments(0)

「おてしょ」

▲ きもちに余裕のあるときの夕方の台所がすきだ。ビールやワインをちょっとひっかけつつ、菜っ葉をゆがくのに大鍋で湯を沸かし、丸大根を煮る間(←「聖護院大根」は高いけど早く味が染んでおいしい)魚を焼きながら。湯気が立ちのぼる中で小さな丸椅子に腰掛けて本を読んだり、たぶん退屈な夕暮れ時をおくってるだろう母に電話して、あほなこと言うて笑って「ほな、またね」と受話器を置き、慌てて焦げそうになった魚をひっくり返す。

▲ きょうは暮れに亡くならはった高峰秀子さんの 『コットンが好き』(文春文庫)を読みながら。お茶碗や水差し。時計、風呂敷に文鎮、はんこ・・・と身の回りの小物についてのエッセイと写真の、どこからでも開ける、まさに台所読書にふさわしい楽しい本。最初に目を引いたのが藍の染付の小皿が十枚以上並んだ写真で、タイトルは「手塩皿」。

▲ はずかしながらこの年になるまで「手塩皿」というのが「おてしょ」のことだとは知らなかった。思わず「せやったんか~」と本読みながら一人声をあげた。子どもの頃から「おてしょ」と言う言葉があまりにも馴染み、染みこんでいたからか。語源を探るのがすきなわたしも疑問に思うこともなかった気がする。この本によると『昔、不浄を払うために、小皿に塩をひとつまみ盛ってめいめいのお膳に添えた「手塩皿」が、いつの間にか「お手塩に変化した名残だろう」(p28)とのことだ。

▲ わたしの生家は料理旅館だったので、それこそ「おてしょ」はいろんな種類がいっぱい棚に積んであった。まだ瞬間湯沸かし器もなく、給湯器もなく、まして食洗機なんてものもなかった頃。日曜日、泊まりのお客さんが「おたち」の後、洗い場のおばちゃんが大きなタライにおくどさん(へついさん)で沸いたお湯を入れ水でええ加減にすると、手際よくよごれた食器を洗い竹籠にふせてゆく。それを母や手の空いた仲居さんが手ぬぐいで次々拭いて別の竹籠に入れて。そばで小さなわたしは「おてしょ」がたまるのを待っては五枚、十枚と食器棚に置くんよね。一丁前にお手伝いした気分で調子にのって いっぺんに何枚も積み重ねると「ほらほら、割らんように気ぃつけなはれや」とたちまち母の声がとんできた。

▲ 田舎の旅館のことで、特別な器なんてなかった気がするけど、年に二回佐賀から有田焼の窯元の「エイギョーのおっちゃん」が来て、少しずつ新しいものが増える。革の茶色がこすれたように剥げた大きなトランク持っておっちゃんが来はると、座敷に赤い毛せん敷いて見本をいっぱい並べて。
いつも忙しくしてじっと座ってることのない母と、いつもどこからか来てどこかへと姿を消す(苦笑)父もその日は肩を寄せ合って器の品定めしてた。板場さんもぼんさんも仲居さんも洗い場のおばちゃんも皆集まって「よろしなあ」「これ、どないでっしゃろ」となごやかに言い合ってるようすが、子ども心にうれしかった。

▲ 当時ジッカ周辺には何軒も旅館があって、そこにも「エイギョーのおっちゃん」は回ってはったから、同業の友だちの家に遊びに行くとウチとおんなじお湯のみやお皿が出てきて、ふしぎな感じがしたものだ。今でも地方の食堂なんかに入ってよく似たお湯のみが出てくると、里帰りしたような懐かしいきもちになって、すっかり忘れてたお茶碗やおてしょの柄まで浮かんでくるのだった。

▲そういえば、その昔。
ケッコンの引出物に相方と選んだ藍染付のお皿はみな「仕舞い込まず」よく使ってくれてはるようで。友だちの家に行けば「ほら、あの時の」と、このお皿にケーキが出て、親戚の食器棚にもこのお皿。そのつどなんかどきどきし、三番目の姉の家では「おでんのお皿」と名前がついてるねんと聞き、ああ、うれしと頬がゆるむ。だけど、ウチの分は七度の引越しやそそっかしいわたしゆえ、五枚あったお皿も一枚割り、二枚割れて、とうとう全部なくなってしまった。

▲ そうして四年前、母が一番上の姉夫婦と暮らすことになって 引越しの日。「これ、あの子のとこにもあるから、わたしのんはあんたにあげるわ」と件のお皿を食器棚から出してくれたんよね。一枚はヒビが入ってたから四枚、何重にも新聞に包んでもらって持って帰って来た。
いつかはまた割れてしまうんやろけど。今年で32年目。だいじにします。
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by bacuminnote | 2011-01-15 11:58 | 本をよむ | Comments(0)

ふらここや。

▲ 新しい年がやってきた。
ちっちゃい頃は去年と今年の境目がどんなふうになってるのか不思議でならなかった。年が変わる瞬間を見届けようと、紅白歌合戦が終わった後もがんばって起きていようとしたけれど、いつも途中で寝入ってしまったっけ。
『ふらここや空の何処まで明日と言ふ』(つつみ眞乃『水の私語』2008 所収)というすきな俳句を見ると、いつもこの大晦日のうたた寝を思い出す。

▲ お正月が特別の日でなくなって久しい。暮れにはちょっと張りこんで海鼠や数の子を買い、黒豆煮て、玄関に千両ひと枝(←せやかて「迎春価格」で高いんやもん)生けたりはするけど、ほんとうにそれだけ。
それでも元旦の朝、とんとんと階段降りて郵便受けに年賀状の束を取りに行くとき、真新しいカレンダーや書き込みのない手帖を開くときは、ちょっとうきうきする。いつもタメ口で、冗談ばかり言うてるご近所さんと会うて、改まって「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」とふかく頭をさげるのも、なんだかいい感じ。

▲ それから、ハンコで押したみたいな平凡な日常に花まるがつくのは、上の子とガールフレンドの帰省。クリスマスの後に送ってくれたけど「ぼくらが帰るまで飲んだらあかんで」と釘をさされてた(苦笑)ワインを次々に開けて、紅一点(←わたし。念のため)は紅二点となり食卓がにぎわった。
そうして彼らが東京にもどった元旦の夕方、わが家の「休日」モードはあっけなく「平日」モードとなった。

▲二日、年末に買い忘れた乾物があって「初売り」のデパートに行った。用事は地下の食品売場だったんだけど、たまたま一階の入り口から入ってびっくり。ワゴンにずらり並ぶ福袋、福袋、福袋。わあ。すごい。テレビのニュースで見たことはあるけど、こんな風だとは。そういえばすれ違うひと皆大きな紙袋いくつも下げてはったなあ・・と思いながら、早々と地下に降りたら、なんとここでも福袋のオン・パレード。ワインや珈琲紅茶からパン、ハム、なんと鮮魚コーナーにまで福袋が並んで絶句。

▲「何がすごいか、って、福袋に対する信頼っていうのがすごいなあ、と思うねん。わたしなんかそんな中身のわからんもん、よう買わん」と家に帰ってコーフン気味に話したら家族に「それはおかんのサイズの問題やのうて?」と混ぜっ返されたけど。そりゃわたしの場合、服だったら確かにそれも外せないが・・(苦笑)いやあ、それにしても。いくら何でも鮮魚の福袋はないやろと思う。

▲ 初売りといえば、子どもの頃 お正月にお年玉をもらうと、店が開くのを待ちかねて近くの本屋さんに走った。もらったお年玉はポチ袋の中をのぞいて「かくにん」の後は全部母に預かってもらっていた。でも、そのうちいくらだったか 本一冊か二冊は自分で買っていいことになっていたのだろう。
その本屋さんはもうずいぶん前に店を閉めはったらしいけど、当時の店内は今もはっきり覚えている。入り口左は煙草で、右の窓際には「りぼん」や「なかよし」や雑誌類、文房具はその奥で、左の壁一面が小説や全集本、右の端っこには辞書。

▲ 行くとおばちゃんが満面の笑顔で「さっそく来てくれたんやなあ」と言うてくれるので、調子乗りのわたしは 明らかに当時の自分には難しそうな漢字いっぱいの本も開いてみたり。苦虫つぶしたみたいな顔で無口なおっちゃんも「これください」と渡すとにっこりしてくれるのもうれしかった。あれも読みたい。これも買いたい、と迷って、悩んで、迷った末に買った本を早く読みたくて、だいじに抱えて家に走って帰った日がなつかしい。

▲ 小学高学年になるとお正月の三が日が過ぎるのを待って、一人電車に乗って駅三つ先の まちの本屋さんまで行った。ここはわたしのまちの本屋さんに比べると、圧倒的に本の数が多くて、店に入るやその本たちが一斉にわたしに呼びかけてくるようで、わあ~って思わず声をあげそうになるんよね。いまの大型書店からすれば、何てことのない田舎まちの本屋なんだけど、その頃はこんな店の近くに住んでる人がうらやましくてならなかった。

▲ そんなこんなの「初売り」を思い出しながら、きょうも本を開く。
そうそう。去年最後に読んだ本(とってもよかった!) 『レーナ』 "I Hadn't Meant to Tell You This" (ジャクリーン・ウッドソン作/ さくまゆみこ訳 / '98年理論社刊 )にもふららこ(ブランコ)が出てきてたっけ。レーナとマリー、共に母親不在のおんなの子の物語。父親から性的虐待を受ける貧しい白人家庭のレーナ、大学の先生をしている父と暮らすアフリカ系の少女マリー。そんなふたりがブランコに乗りながら互いの「秘密」について語り合う場面。
『わたしたちは大きなブランコにすわって、ゆっくりとこいでいた。雲間から太陽のまぶしい光がのぞいていた。』(p162)
『わたしは手をのばして、レーナがつかむのを待った。それからふたりでブランコを高くこいだ。その気になって空にとび出せば、もしかしたら飛べるかもしれないほど高く。』(p164より抜粋)
新しい年の始まり、目標にむかってはりきっている子も、悩んでる子も、戸惑い、うずくまってる子にも、飛び出せる、一歩前にすすみだせる そんな2011年でありますように。
最後になりましたが、今年もどうぞよろしくおつきあいください。
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by bacuminnote | 2011-01-05 12:03 | 本をよむ | Comments(0)