いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2011年 04月 ( 2 )   > この月の画像一覧

あたりまえ。

▲街路樹のゆりの木が無残な姿に剪定されて(いや、本来「剪定」とはこんなものではないだろう)ふたつめの春。ごっそり切り落とされた枝からそれでも芽がでて、まだ若い葉っぱがふさふさし始めた。いちばんのお気に入りだった歩道橋橋詰のゆりの木を、ひさしぶりに立ち止まってじっと眺めた。風にひらひらと揺れるまだ淡いみどりは あかちゃんみたいに初々しく頼りなげで愛おしい。それだけに、やっぱり、いくらなんでも、この切り方はないやろ、と改めて怒っている。

▲先日森まゆみさんのブログ(4月12日)に経済学者・宇沢弘文氏の講演のようす(動画→)が貼ってあって見入った。先月、この宇沢氏と内橋克人氏の共著『始まっている未来 新しい経済学は可能か』を相方に「わかりやすいし、読んでみ~」と薦められたんだけど。わたしにはちっともわかりやすくはなくて(泣)途中で投げ出してしまった。経済学ばかりでなく数学、物理、生物、化学・・・(と、まだまだ続く)そういう話になると、わたしの好奇心も一気にしぼんでしまうんよね。いや、そもそも「そういう話」には最初から逃げ腰やから、本を読んでいても、話を聞いてもいっこも頭に入ってこないのかもしれない。

▲ けど「むずかしいことはわかりません」と目をそらしてばかりいたら、知らんまに「強いもの」「持てるもの」の思うツボだ、ということを今まさに痛感(ほんまに、ものすごく痛い話だ)してる。だから、よけい、宇沢氏のお話を聞いて、なんとなく自分の中でぼんやりとしていた像がぴしっと焦点合ったように、クリアになった気がした。

▲ この講演で何度もでてくるのが「社会的共通資本」ということば。これは次にあげる三つの大きな範疇にわけて考えるらしい。
1)自然環境(大気、水、森林、海、河川、湖沼、土壌など)
2)社会的資本(道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど)
3)制度資本(教育、医療、金融、司法、行政など)。
これらは私有が認められていても、私的管理ではなく社会的管理に従う。個人の意志より社会的共通資本に重要なかかわりを持つ人がコモンズとして共同体的なものを作って互いに協力しながら考えていこうというもの。

▲ところが、この社会的共通資源を根源から否定する考えがあって。それは、すべてのものを私有化してマーケットで取引する、そうすれば企業の能力も人間の能力も最大限に発揮できる、というのだ。そしてマーケットを成立させるためには私有制を貫徹しなければならない。つまり、大気や海の水まで私有制が導入されるというわけで。近代経済学では自然というのは「自由財」として勝手に使ってもいいとされるんだそうな。

▲ううむ。そういうことだったのか。
苦手意識がちょっとだけ緩和された勢いで(苦笑)引き続き宇沢センセイの 『社会的共通資本』(岩波新書刊)を読み始めたところだ。この本の序章には「ゆたかな社会とは何か」という定義のあと「それはまた、すべての人々の人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保できるという、本来的な意味でのリベラリズムの理想が実現される社会である」(p3序章「ゆたかな社会」より抜粋)とあって。改めてそんな社会の実現を阻むものの存在を思っている。

▲ そうそう、昨日パン屋おかみさん友だち(センパイ!)の楽童さんがお仲間と企画しはった『いのちの作法』というドキュメンタリーの上映会に友人と行ってきた。
舞台は岩手県西和賀町(旧沢内村)。ここは「昭和30年代に、豪雪・貧困・多病多死の三重苦を乗り越え、全国に先駆けて老人医療費の無償化と乳児死亡率ゼロを達成した」村で、「合併した現在も、いのちを大切にするという「生命尊重の理念」を町是に掲げる、日本では稀有の品格と哲学を持った町」(公式HP作品紹介より)だ。

▲ 「生命尊重」って、そんなん生き物にとって「あたりまえ」のことなんだけど。
その「あたりまえ」を横におしやって「経済」が大きな顔して居座ってる現代、あたりまえに大事にされることがどんなに尊いことであるのか。
映画のはじめに医療の無料化を実現した深沢晟雄(ふかざわまさお)村長のことばが紹介される。「地域格差や経済格差を言う前に、人間の命に格差があってはならない」。
そして村が町になった今もこの村長の精神は若いひとに受け継がれてる。
この間からずっと反復していた宇沢氏が語ってはったことに重なって、「ゆたかな社会」も夢物語ではないかもしれない、と思った。

▲そうして、西和賀町の風景にかつて暮らした信州開田高原を重ね、登場するお年寄りに開田村でお世話になったご近所さんのあの人この人の笑顔を重ね、泣いたりわらったりしながら、いっぱい考えた。
今、この時期にこの作品にであえたことに感謝。ありがとう。
帰り道、強風と雨をいいことに、おっきな声で イマジン@清志郎(←youtubeにリンク)を歌いながら歩いた。
♪ 夢かもしれない でも その夢を見てるのは 一人だけじゃない 世界中にいるのさ
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by bacuminnote | 2011-04-19 23:29 | 本をよむ | Comments(0)

信頼に足るもの。

▲ 入学式だったのだろう。
買い物に出たら、色とりどり華やかな入学式ルックのおかあさんたち、それにはちょっと不釣合いな通勤スタイルのおとうさんも(苦笑)ぽつぽつと、しかし笑顔で歩いてはるのに出会った。満開の桜。空は澄み切ってどこまでも青。ふわり白い雲。まるでなにごともなかったかのように、絵に描いたような春にどきんとする。
あの日以来 おまじないのようにハルヨコイ、ハヤクコイと願っていたくせに。当の春が姿を現してるのに。
そんなすぐ目の前のことにもうわの空だったのかもしれない。

▲ そういえば、と庭に出たら隅っこの木瓜の低い木には、真っ赤な花が重たいくらいにいっぱい咲いていて、はっと息をのむ。たんぽぽのイエローもかいらしいし、なまえの知らない白い花も群れるように咲いている。
いっつも、ほったらかしやのにね。季節がめぐれば、ちゃあんと花が咲き実をつけて。ほんま ありがとね、とおもう。

『家守奇譚』(梨木香歩著/新潮社刊)の主人公・綿貫征四郎が言うてはる。
『季節の営みのまことに律儀なことは、ときにこの世で唯一信頼に足るもののように思える』ってね。
「信頼」ということばが地に落ちた気のする今日この頃だから。よけい身に染みる一文だ。
でも、もしかしたらその「唯一信頼に足りる」「季節の営み」すらも狂わせてしまうのではないか、と次々に出てくる桁違いの大きな数値や繰り返される「ただちに影響はありません」に言葉をなくす。

▲昨日古いノートをぱらぱら見ていたら「原発・再処理工場の耐震性 見直しに多い課題」という新聞切り抜きが挟んであって手がとまった。(1995年2月8日・朝日新聞)
記事は『阪神大震災をきっかけに、原子力発電所や再処理工場などの地震対策があらためて注目されている。「関東大震災の地震にも耐えられる」と言われてきた高速道路や新幹線の高架橋脚が崩れたからだ。原子力施設で被害が出れば、放射能による影響は計り知れない。』と立地(活断層の特定)や施設(縦揺れ対策や老朽化)の問題を語っている。

▲ 老朽化については「稼働中の原発四十九基のうち、少なくとも二十基は耐震指針が初めて決まった1978年より前に設計されている」というところにボールペンで線が引いてあった。20基も、とおどろいて線を引いたのだろう。そして今記事を読み直して、そうか~このときからでさえ 5基も増えたのだと改めて。原発はいらない!とずっと思いながらも「思っているだけ」の自分の日常を省みて痛かった。
最後に紹介されていた原子力資料情報室の西尾漠氏のことば。
「阪神大震災で耐震工学の安全神話が崩れた。原発では想定を超える地震の対策が必要だ。採算がとれないというのなら操業をやめてほしい」


*追記*
□その1
西尾 漠 著 新版
『原発を考える50話』
(2006年 岩波ジュニア新書) リンク先のAmazonのレビューには今回の地震、事故後に読んだ方のレビューも載っていました。

asahi.com
「著者にあいたい」西尾漠さん
[掲載]2006年03月19日

□その2
これを書き終えた夜、東北にまた大きな地震が起きました。
3/11より一ヶ月近くたって、ようやく業務を再開された仙台のアレルギー対応食品の店・ ヘルシーハットさん。避難所で配られるおにぎりやパンをテレビで見るたびに、これが食べられない食物アレルギーの子どもたちはどうしてるのだろう、と胸がつまる思いでしたが、ここは、お店自体 地震の被害にあいながらも、被災地の食物アレルギーの子どもたちへの支援の拠点になって活動しておられます。
どうぞご無事でありますように。
そして、やっとやっと少しづつ「いつもの生活」に戻りつつあるとメールをもらった仙台に住む友人たちも。
どうかどうか、みなさんご無事でありますように。冷たい雨が降るなか体調をくずされませんように。
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by bacuminnote | 2011-04-08 10:50 | 本をよむ | Comments(0)