いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2011年 11月 ( 3 )   > この月の画像一覧

ほんま 妹いうたらね。

▲ 外はつめたい雨がずっと降っている。雨のなか薄灰色の空にまだ緑まじりの桜の紅葉と、街路樹ゆりの木の葉っぱのあざやかなイエローをじっと眺めてたけど、やっぱり「寒ぅ」と窓を閉めた。もう一枚上着を着込んで、珈琲。
いつもは軽め浅め少しぬるめだけど、こんな日には濃い深い熱い一杯がええなあ。いや待てよ~そんな珈琲はじぶんで淹れるんやのぅて、渋めの喫茶店のカウンター席で、白いシャツのにあう店主が(できたらおとこまえがよい)湯を高く細く置くように、ゆっくりていねいに淹れてくれるのがええなあ・・と、もうそうの世界(笑)

▲ そんなわけで、だれも起きてこない土曜の朝はゆっくりのんびり(←いつもやん!という声がしそうやなあ)ぎょうぎわるくひとりパン食べながら読みかけの本やら何やらテーブルいっぱいひろげて、そのうち始まった朝ドラ『カーネーション』みて。「糸ちゃん」と同じく四姉妹女系家族に育ったわたしは わがままでワンマンな「おとうちゃん」善作に亡き父をかさね「ほんまにもぉ」とか、やっぱり渡辺あやの脚本はうまいなあ、とか思いながら。もぐもぐ、ごくごく。たまにはたのし わたし一人のブレックファスト。

▲ そうそう。
姉妹といえば、このまえ『ぺろぺろキャンディー』(ルクサナ・カーン作 / ソフィー・ブラッコール絵 /もりうちすみこ訳/ さ・え・ら書房刊)という三姉妹のでてくる絵本を読んだ。主人公は長女のルビーナ。ある日ルビーナは学校で初めて友だちから誕生会に誘われた。うれしくてたまらないルビーナは家に帰るなりお母さんに「行ってもいいでしょ?」と聞くんだけど、そばにいたまだ小さい妹(次女)のサナが「あたしもいく!」と言い出す。どこにでもついて行きたがるのは「下の子」の性みたいなもんやろね。

▲ お母さんは聞く。
「お誕生会って、どういうもの?」
「なぜ、そんなことをするの?」
「(妹のサナが)よばれていないと、なぜ行っちゃいけないの?」
お母さんへのルビーナの答えは「ここじゃ、みんなそうなのよ!」だ。
ところがお母さん、その答えには「うん」と言わない。「でも、それはおかしいわ。そのお友だちに電話をかけてサナをつれていけるかどうか、聞いてごらんなさい。そうでないと行っちゃいけません」
ルビーナは「そんなことをしたら、笑われる!わたし、二度とお誕生会によんでもらえなくなるわ!」と言うんだけど、お母さんは聞き入れてくれず、結局友だちのサリーに電話して聞くんよね。サリーは「いいわよ」と言ってはくれたものの、歓迎してくれてるふうではない。
  
▲ それでも結局当日妹のサナをつれて誕生会に行くルビーナ。でもサナはわがまま言ったり泣いたりでさんざん。会がおわってサリーのお母さんはみんなにおみやげの袋を持たせてくれる。中身はおもちゃやお菓子、それに赤い大きなぺろぺろキャンディー。サナは帰りの車の中でさっそくキャンディーも食べて、おもちゃもすぐに飽きて壊してしまうんだけど、ルビーナは大事にとっておく。キャンディーも冷蔵庫の一番上の棚にしまっておく。(←このかんじわたしと姉を思い出すなぁ)
ところがたのしみにして起きた翌朝、ルビーナが冷蔵庫をあけたら大きなキャンデーが小さな三角のカケラになってるんよね。食べたのはサナ!追いかけ回してるとお母さんに怒られるルビーナ。「妹に分けてあげるくらいできないの?」

▲ 泣きたいけど、がまんして泣かなかったルビーナは腹立ちまぎれに、キャンディーを投げ捨てるんだけど、それをまたサラが拾って食べてしまうんよね。
ほんま、妹いうたら、ね(苦笑)
しかも、その後ルビーナを誰も誕生会によんでくれなくなる。
それからしばらくたって、こんどはサナがお誕生会の招待状を手に大喜びで帰ってくる。こんどは末っ子のマリヤムが「あたちもいく!」と主張して。お母さんはサナには妹と、それから前に連れて行ってもらった姉と一緒に行きなさい、と言い出して。

▲ このあとどうなったかは、ぜひぜひ絵本を手にしてほしい。お話だけじゃなくて絵もとてもいい感じ。姉妹それぞれの表情のゆたかさ、服装もかわいい。そして、お母さんは民族衣装(パキスタンのシャルワールカミーズとよばれるものらしい)を着て、頭からは赤いショール(ドゥパッター)をかけているから、「外国」に越して来たのかな?なぜお母さんは「お誕生日会ってどういうものなの?」って聞いたのか?とか。お母さんの動じない、きりっとした表情からも思うところもあり、読者にもうひとつ投げかけているものがあると気づく。

▲ カバーの後ろにあった著者の紹介を見たら、ルクサナ・カーンさんはパキスタンにうまれ、三歳のときカナダに移住したそうで、このおはなしは幼いころ姉が招待された誕生パーティーについて行った経験がもとになっている、とか。自分の家庭や地域や国で当たり前と思ってることでも、文化や風習のちがいで、さまざまな価値観があること。「ちがい」を知ったときどんなふうにわかりあっていくのか。

▲ それでなくても「学校」を背景に、親が子どもから言われる「みんなしてる」「ここじゃみんなそう」は悩ましいことばだ。
ウチにはウチの考えがある、と言いながらも、時としてそのせいで子どもが孤立するのではないか。いや「孤立」のどこがあかんのん?そのときに親や周囲がどんなふうにフォローできるのかが大事なんとちゃう? いや、いや、それは親の考えのおしつけかも?と唸ったみたり。あきらかに「おかしい」と思うことが「学校」(多数派)という場では「みんなそうだから」で通用することに憤ったり・・・と、息子たちが子どもだった頃のことを思い出したりしながら考えた。

▲ そして最後の展開とルビーナのせりふには、姉たちを困らせたり甘えてきたりの末っ子の妹としては(あ、もちろん、それと同じくらい泣かされたり怒られたりもしたけど)ちょっと泣きそうになる。
「そのときから、わたしとサナは だいのなかよしです」


*追記
絵本は全部ひらがなですが、読みやすいように引用の文は漢字まじりにかえました。

この本の作者のことがもっと知りたくて、つづいて
『ジャミーラの青いスカーフ』
(訳者と出版社も絵本と同じ)を読んでみました。これは絵本ではなくカブールで起こった本当の出来事を元に、タリバン政権崩壊後のアフガニスタンでの少女ジャミーラの物語。この本にはわたしの知らなかったイスラム社会のことが多く書かれていました。知らないこと(知るべきこと)は、ほんとうにまだまだいっぱいある、と改めて痛感。

それから、もうひとつ。
貧しく学校に行けなくて文字を知らない彼女が、母が亡くなり父から捨てられて入った孤児院で文字を覚えます。そのことがうれしくて友だちのソラヤに言うと鼻で笑われます。そのときのソラヤのことばが読後もずっと刺さっています。「それがなによ。あんたをよい人間にするわけ?あさましいやつは、たとえ字が読めるようになったところで、同じことだよ。字が読める大バカタレは、くさるほどいる」
~ああ、この本のこともまたいつか書きたいです。

この本の出版社 さ・え・ら書房のHPのトップページの本の一覧があります。クリックすると本の詳しい紹介ページにとんで『ぺろぺろキャンディー』の絵も見ることができます。
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by bacuminnote | 2011-11-19 21:03 | 本をよむ | Comments(0)

I miss you.

▲ この間の朝のこと。
庭から相方が「おーい。朝顔咲いてるぞ」と呼ぶので、何あほなこと言うてんの?今年は種蒔くの忘れてたやん~とか思いながら、外に出た。「ほら」と相方の指さす方みてびっくり。横っちょにはまだ小さな黄緑色の双葉があるのに。いきなり花。
どこからか種が飛んできたんやろか。冬が来る前にあわてて「ショートカット」で花咲かせたんやろか。相変わらず草まみれの庭の(怠け者の言い訳みたいで気が引けるけど、これはこれで気に入ってる)緑の中 地上10cm足らずのところで咲く清々しいうすいブルーの花。二人しゃがみこんで静かにながめてた。

▲ 不思議の花一輪をみて「生命」を感じたあと、佐野洋子さんの『死ぬ気まんまん』という本を読み終えて、いま「生」の向こう側にある「死」をおもっている。
これは去年のいまごろ72歳で亡くならはった佐野さんの最後の本。絵本もエッセイもこれまで何冊も、そして何度も、たのしんで読んできた佐野洋子本だけど。もう「新作」はないのだなと思うとさびしい。

▲ 本のタイトルはドクターから「あと二年」と宣告された佐野さんの言動をみて息子さんが「かあさん、なんだか死ぬ気まんまんだね・・」と言うてはったから、やそうな。ちょっと本を読んだくらいで著者のことをわかったみたいにこんなこと言うたらおこられるやろか。でも「死ぬ気まんまん」やなんて。ほんま「佐野洋子」らしいなあと、おかしいかなしい。
有名な話だけど、このときの告知のあと、というかその足で佐野さんはガイシャを買うんよね。なんとジャガー。しかもブリティッシュグリーン。あの深いグリーンにもうっとりするけど、佐野さんの大胆さ、おもいきりのよさには もっとくらくらする。

▲ 『私はそうは思わない』『友だちは無駄である』『がんばりません』『あれも嫌いこれも好き』『ふつうがえらい』『覚えていない』『役に立たない日々』『問題があります』・・・と、思いついたタイトルだけ並べても「佐野洋子」とおもう。いつもどきっとするくらいイタイところをつき毒舌をはきながら、純真でまじめ。ひねくれてるようでチャーミング。

▲ 『死ぬ気まんまん』の最後の章は関川夏央氏の『「旅先」の人 佐野洋子の思い出』という文章が寄せられているのだけど、その中にもチャーミングな佐野洋子を思わせるエピソードがある。久しぶりにあう関川氏にこんなことを言わはったとか。
『また遊びに来てよ。誰かいい男いない?鑑賞したいのよ』『最近、悪いおばあさんになっちゃってさ、男好き全開なの。でも、取って食うとか、そういうんじゃないの。鑑賞よ、鑑賞。』本気なのか、男子をおちょくってる(←大阪弁)のか、煙草吸いながら佐野さんのいたずらっ子みたいに、ふふと笑う顔が浮かぶような話で、ますますファンになった。

▲ そういえば、もうずいぶん前のこと。NHKの
「週刊ブックレビュー」
で司会者で作家の藤沢周が佐野家をたずねてインタビューする場面があって。佐野洋子の前で、藤沢周が たじたじだったのが ものすごくかいらしかったのをよく覚えている。
目の前の男性をいっぺんに少年にしてしまう、そんな魅力が佐野さんにはあるんやろね。
そのときに映ってたうしろの障子紙がちょっと破けてたのも なんかええなあと思った。(←うちといっしょや~)

▲ 『私も死ねば「いい人だったね」と皆思ってくれるのだろうか。
死んだらそれも自分にはわからないのだから、つまらない。 
死なない人はいない。そして死んでも許せない人など誰もいない。
そして世界はだんだん淋しくなる』(『死ぬ気まんまん』エッセイの最後に)
つらい、きびしい、さびしい話もいっぱいなのに、それでも読後ふしぎにかろやかな、ちょっと冷たいけどさわやかな風にふかれたみたいな、そんなきもちになった。 思ってることばんばん言うて、すきなこと書いてはるようで、その実 ほんとうにしんどいところは、誰にも語らず 独りじいとかみしめる人だったのかもしれない。 すごいなあ。
さて。
今日はぽかぽか陽気やから、お墓参りにゆこう。義父が亡くなって8年。パン屋やめてもうじき8年だ。


*追記
youtubeにこんな動画をみつけました。何かの番組でしょうか?「絵本作家 佐野洋子」
http://www.youtube.com/watch?v=MNvrB7vVzrQ
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by bacuminnote | 2011-11-14 11:12 | 本をよむ | Comments(0)

かっこ悪いんちゃうか。

▲ あらあら、もう11月。
そやのに、春みたいに温うてぽかぽか。空の青、雲の白、その中を かあかあと鳴いて飛ぶカラスの漆黒がうつくしい。(遠くにみるカラスはほんときれい。近寄られたら泣き出しそうなくらいのこわがりだけど)
この間からちょっと体調をくずして家でこもっていたので、外に出るのは五日ぶり。友だちが「若いときやったら一晩寝たら治ったのに」とか「子どもに追いかけ回されてるうちに」「知らんまに治ったのに」とかよく言うけど。ほんま、ちょっとした風邪やったのに、回復に時間のかかる年頃になったなあ。それでもまあ、だれにも気兼ねせず「時間かけられる」今がありがたい。

▲ そんなわけで家事の合間に寝る、という数日間。明るいうちにお布団の中でごろごろしてると、子ども時分の「びょうきの日」を思い出した。茶色のゴムの水枕、枕元にドロップの缶とサイダーの瓶と体温計。それから忘れたらイカンのがお布団の中に隠し持ったるマンガと本。
大病はしたことがないけど、頭いた、おなかいた、扁桃腺炎でしょっちゅう欠席したり、保健室ですごした。とはいえ、家の中ではともかく、さすがに小学生のときは保健室で本を読むなんてことはなかった(はず)。それが中・高生にもなると保健室のベッドでセンセに隠れて本を読んだり(←つまり本は読めるくらいのしんどさ)時に読み疲れてバクスイ!したり。わたしにとってガッコはすきな場所ではなかったけど、友だちと保健室は別格やったな、とあらためて思う。

▲そのころ、そんなにまでして読んでいた本ってどんな本だったのだろうか、と思い返してたら「すきで読む」と「読んでおかねば」(または読んでいることがかっこいい!?)」を行ったり来たりしていた気がする。ほんまはなーんもわかってへんくせに「自分はちがう」的意識まんまんやったのか。思い出すと足がつりそうになるくらい背伸び(苦笑)していた自分がひたすら恥しい。

▲ そういえば、前にも(ここここに)書いた徐京植(ソ・キョンシク)著『子どもの涙』で紹介したいなと思っていた思春期の読書のエピソードがある。
この本には十二章まであって、章ごとに一冊の本にまつわるいろんな話が語られるのだけれど、これは「読めなかった本」というタイトルでトーマス・マンの『魔の山』についての章だ。いま内容をたしかめるために手元の本を開いたら「子どもの頃わたしは、よく風邪を引いて、医者に診せるほどでもないときでもすぐに学校を休んだ」とか「好きな本を四、五冊、積み上げ」とあって。本がすきな子どもはからだが弱いのか、からだが弱いから自然にインドア派となり、本がすきになるのか。

▲ さて、いくつかのエピソードのあと『三十年経ったいまになっても、昨日のことのように顔が火照る思い出がある』と、著者が中学一年の頃 ちょうど東京オリンピックの年の話になる。どっちかというと家で本を読んでる方がすきな徐京植さんはしかし「体を鍛えろ」というお兄さんのすすめで嫌々ながらにもバレーボール部に入部する。
で、となりの女子コートには気になる人がいたんだけど口をきくきっかけがない。意を決して徐さんはある日彼女に一冊の本を渡した。それがなんと『おれについてこい!』東京オリンピックで「東洋の魔女」を率いたニチボー貝塚バレーボール部大松博文監督の著書である。

▲ 彼女が本好きであるということを何となく知っており、だからこそ彼女に関心をもったのだけど、どんな本がすきなのかは情報もなく。でも二人共バレーボール部なんだし『あまり難しい本よりも「おれについてこい!」くらいのところが、最初のキッカケにはちょうどよいだろう。そんなふうに考えたのだ。安易だった。わけもなく彼女を見下してもいた。結局わたしは、ひどく子どもっぽかったのだ。』(p122~p123)

▲ そして数日後、その本を返してくれたとき、彼女が代わりに持ってきてくれたのが新島襄の著書だったそうで。『はからずも自分の幼稚さをさらけ出してしまう結果になって、わたしはいたく傷ついた。それから、ときどき彼女と本を貸し借りするようになったが、出だしの失点を挽回するために、自分のなかのおとなを印象づけようと焦った』(p123)
あるとき彼女が徐さんにたずねる。「トーマス・マンの『魔の山』って知ってる?」たしかお兄さんが読んでいるのを見たことはあるが、自分では読んでいない。しかし・・と徐さんは複雑な思いで黙っていると『「わたしな・・」と彼女は無邪気そうに言葉を継いだ。「あの本だけは、読む気せえへんね」』(p126)
「自慢」するわけでもなく、ありのままの彼女の前で打ちひしがれる徐さんのこの場面に、「知らない」「わからない」「読んだことがない」という言葉がすっと出せなかったその昔の自分を重ねて なんだかせつなくなるのだった。ましてや気になる異性の前やもんね。

▲ 徐さんは家に帰ってさっそくお兄さんの本を読んでみた。君は面白くないって言うてたけど、かくかくしかじかで面白かったよ、って言ってやりたくて。しかしこれが死ぬほど退屈でたちまち投げ出すことになる。その後 機会あるごとに『魔の山』を手にするが、そのつど途中で挫折する。『わたしにとって「魔の山」は思春期のコンプレックスのシンボルであり、登頂できなかった永遠の未踏峰のようなものなのである。』(p129)

▲ほんま「若い」って、かっこよさを追うあまり、なんかどこかかっこ悪いんよね。あのころから、40年あまりたって、もうカッコを構わなくなったわたしは「知らない」も「わからない」も言えるようになった。
そのかわり。
「知る」努力を最初っから投げ出すことの多い、「知らない」にあぐらをかいてる今の自分はもっとかっこ悪いんちゃうか、とうなだれている。


*追記
この思春期の読書のことは 以前ここにも書きました。(2009/7/2 「さあ、図書館にゆこう。」
須賀敦子さん『遠い朝の本たち』と岡崎武志さんの『古本道場』(角田光代さんとの共著)から思ったことなど。
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by bacuminnote | 2011-11-03 10:18 | 本をよむ | Comments(0)