いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2012年 03月 ( 3 )   > この月の画像一覧

来る人ごとに。

▲ いつだったか電車の時間を気にしながらホームへ急ぐ途中、チラシの棚の器の写真と目が合った。吸い寄せられるように立ち止まり、そのチラシを手にちょっとの間 眺めてたんだけど。「あっ!電車が来る」と、あわてて二枚もらって、でもていねいにバッグの中に仕舞った。それは万博公園の中にある大阪日本民芸館 春季特別展 『武内晴二郎展』の案内。あまりにすてきだったので、一枚はおなじく器のすきな友人に送り、一枚は台所に貼って毎日ながめてた。まだかなあ、まだかなあ、と待ってようやく開館。

▲民芸館は万博記念公園の中にあって、ここにも時々書いている 「みんぱく」(国立民俗博物館)のすぐそばにある。出不精でくわえて方向オンチのわたしが迷うことなく(苦笑)ふらりと一人で出かけられる数少ない たのしいところ でもある。これで入館料(700円)が半分くらいだともっと気軽に行けるのになあ。そういえば、このあいだ国立国際美術館に行った相方が 特別展のチケットが1400円と受付で告げられ「『ええっ!?せんよんひゃくえんも!』と大きな声で言うてしもた」と言うので大笑いをしたんだけど。なんで日本の美術館や博物館は高いんやろか。

▲ まあ、そんなこんなを思いながらも万博記念公園に到着。
平日の午後の公園はいつものんびりとしている。ちょうど梅まつり、というのをやっていたこともあって、ほどほどに人はいて、でもゆったりとええ感じ。お年寄りのグループ、保育園の遠足、車椅子の方も多く、みなゆっくりゆっくり歩く。いつもはせかせか早足のわたしも、そのあとにつづく。
前をゆく車椅子の女性はわたしみたいに「ええ体格」で、椅子を押すおつれあいらしき人は痩せて小柄で。ふうふう言うて汗かきながら「ここ、もうちょっと行ったら梅林やで」とか「あそこの売店で帰りは休憩しよか。焼きそばもあるみたいやで」と話しかけてはる。若いカップルはともかく、年とった「ふたり」が、とりわけ男性が女性にやさしく、仲のよい様子は見ていて、じんわり、しんそこ うれしくなる。

▲ 久しぶりの民芸館は(冬季は休館)閑散としていて、ちょっとさびしい気もするけどうれしい気もして。
案の定 会場はしばらくの間わたし一人きりだった。
『武内晴二郎(1921~79)は大原美術館の初代館長、武内潔真(きよみ)の次男として岡山氏に生まれ、多くの美術品や工芸品に親しんで育ちました。中央大学経済学部に進学しますが、学徒動員で入隊。中国漢口にて戦傷を受け左腕を失います。復員後、倉敷市で作陶を開始。』(チラシより抜粋)
轆轤(ろくろ)は一人では回せないこともあり作品の多くは型物と呼ばれるもの。

▲ 会場に足をふみいれたとき、おもわず息をのむ。長らくこんなどきどきはなかった気がする。
黄釉流描角平鉢 おうゆうながしがきかくひらばち、呉須釉・飴釉押紋手 ごすゆう・あめゆうおしもんで、鉄砂櫛目蝋抜壺 てつしゃくしめろうぬきつぼ、灰釉縁柿釉押紋手鉢 はいゆうふちかきゆうおしもんでばち。
ひとつひとつの器や皿の前に立ち、ちいさく声にだして読んで(呼んで)みる。
先に進みがたく、前にしゃがみこんでみる。すこし離れて立ってみる。
そのうち、二人連れ、三、四人のグループの方が入ってこられて、感嘆の声と世間話が入り乱れはじめて がっかりしたけれど。
気になったのは初めのうちだけで、あとはやっぱりじっと見入ってた。

▲ どれくらいそうしていたのか。気がつくと展示室には再びわたし一人きりとなって。
次に行く前に「ちょっと」というような気持ちで、ガラスケースの中に展示されていた武内の書簡をのぞいた。
黄ばんだはがきが何枚か並んでいて、説明には 柳宗悦から武内へのはがきとある。
それはどれも作品を柳に見てもらうべく送ったあと、受け取ったという報告のものなんだけど。陶芸一本で歩んでいけるか、と悩む武内に柳がじつにあたたかく力強くはげましている。

▲ 『お便りに 濱田のやうな芦や笹の絵を持ち合わせぬので、踏切りがつきかねると書いておりますが、そんなものは一つも要らないでせう。 無地だってよいではありませんか。只の丸紋でもいい筈です。』(1958.1.13)
『君の近作、特に無釉の鉢は濱田も大変感心し芹沢君もかういうものを使いたいと話してゐました。来る人毎披露してゐます。』(1959.6.7)
『二箱到着。今解荷。惜しい事に一個(黒柿流し)は大破してつきました。併し、中々力のこもった作品に感心しました』(1960.11.16)
(以上、館内でのわたしのメモ書きをたよりに書いているので読み間違い、写し間違いがあったらすみません)

▲ 批評ではなく、あの器がよかった、好きでした。と、どれもやさしいことばが、昔のちょっと小ぶりのはがきに鉛筆で綴られて。
中には『◯を一番感心しました』と絵を描いて作品をほめ、ある時は『窯の経済に役立つ』と収入を助ける道について書かれていたり。いまみたいに宅配便で今日出して明日着く時代やないから。何日もかかってやっと来た荷物を解き、武内晴二郎の器や皿を「来る人ごとに披露している」柳宗悦がうかんでくるようで胸があつくなる。

▲ それにしても、人が少ないのをいいことに、ほんまゆっくりさせてもろて。
特別展ですっかり長居のあとは、併設展で英国の古陶スリップウェアやそば猪口をうっとりながめ、ようやく外に。空は灰色が濃くなってたけど、樹々のまにまにみえる紅やピンクや白の梅花がそんな空の色によく映える。
長いこと立ちっぱなしやったからか、ちょっと足がいたい。せやから、ゆっくりゆっくり歩いては、立ち止まる。
知らなかった木のなまえを確かめては(黄色のかわいい花はミズキ科 サンシュキ!)また歩き。モノレール駅に到着。おつかれさん。たのしかったなあ。また来よう。(以上ひとりごとナリ)


*追記
『武内晴二郎  ー眼で作った仕事ー 』は7月22日まで 大阪日本民芸館にて。
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by bacuminnote | 2012-03-21 21:46 | 出かける | Comments(0)

はるひとひ。

▲ 車のない生活になって久しい。
車を手放すことになった時「何かあったらタクシーに乗ったらええんやし」と相方と話したものの 実際にタクシーに乗るより、重たい物をふうふう言いながら歩いて持ち帰り「あああ、タクシーに乗ればよかったな」と思うことの方が圧倒的に多い。
残念なことにわたしは見かけほど健脚じゃなく、ゆえに行動範囲も狭くて「歩く愉しみ」の域にはとうてい届かないけれど。買い物や図書館へ、決まった道を毎日すこし歩くだけでも、それはそれでおもしろい。

▲ 同じ時間帯に出かけるとよく会う名も知らないあの方、この方。どちらともなく軽く会釈したりにっこりする人もあれば、「お、また会うたな」と内心思いながら、なんか気恥しくて伏し目がちに(苦笑)通りすぎたり。保育園のちっちゃい子たちの合同散歩や、こどもを幼稚園に送ったあと日向で立ち話の若いお母さんたち。
二~三日に一度は、よりによってこんな方向オンチ(とも知らず)に、道を聞いてきはる方たちに、それでもせいいっぱい説明したあと「だいじょうぶかなあ?ちゃんと目的地につけるかなあ」としばし後ろ姿を見送って。
『道問いてわからぬもよし春一日(ひとひ)』(小沢昭一『句集 変哲』)なぁんて相手にかわって?言い訳してみる。

▲ 昨日は某会社前で「就活スタイル」の若者の群れに遭遇。
透き通るような青空がひろがる午後だったけど、吹く風は肌を刺すように冷たくて。歩いててもちっとも身体が温まらず、寒かった。そんな中、ビルの入り口のオートロックの門扉が開くまで、若い人たちは三々五々その辺りで待っていて。
女の子も男の子も靴からバッグからスーツや上着まで皆見事におんなじ。まずはちょっとでも他人と「ちがう」ことを目指してた自分の若い頃も、今思えばそれなりに恥しいんやけどね。

▲ 彼らの首に巻いたスカーフやマフラーだけが唯一「その子らしさ」をあらわしてるようで、チェックや無地、花柄の巻きものになんかほっとするような感じがした。
そのうちロック解除となり、入り口向こうの方に案内役らしきスタッフが現れるや、絶妙のタイミングで最前列の女の子がさっとコートを脱いで腕にかけたんよね。そしたら、それを合図のように まだ後方で寒いなか立って待ってる人たちまで次々と、あわててマフラーを引っ張るように外し、コートを脱いで。

▲あらら、結局みな同じ格好となってビルの中に消えてった。格好からマナーに言葉遣い、なんでもかんでもマニュアル化されてて、つまらんけど。あほくさ、と思ったりもするけど。若いひとらの緊張や不安がじんじん伝わってきて、なんかせつなかった。で、やっぱり、せっかくここまで来てるんやし「どうかよい方向に話がすすみますように」とおばちゃんは、お母ちゃん視線でみおくる。しかし、寒いなかそんなとこで「見物」してるわたしもわたしである(←あきれる。)

▲まあ、そんなわけで毎日同じ道でもけっこうたのしいもので。
わたしはおしゃべりやから、さぞにぎやか好きなんだろう、と思われることが多いけど。
「ひとり」でいることも、ひとり街歩きしてきょろきょろしたり(苦笑)物思いする時間もすき。
そういえば。
東直子さんが 『耳うらの星』(幻戯書房2011刊)にこんなことを書いてはった。

『街をゆく人は、とくにひとりで歩いている人は、あまり表情がない。安心する。道ゆく人がだれもかれも、コマーシャルに出てくる人のように生き生きと輝いたりしていなくて。私のことを誰も知らなくて。』
『お茶を飲む。ひとりでお茶を飲むのが好きだ。少し甘くして、ミルクは入れない。店の中の空気がきれいで、大声で話す人がいなければ、安心する。たったひとりの人ばかりの中で、たったひとりだったら、安心する』(p79)

▲歌人 東直子さんの文章をまとめて読むのは初めてだったけど、みじかいことばのなかにも、気がつけば「その場」の空気はもちろん すみっこにあるものまで浮かんでくるようで。いっぺんでファンになった。
表題の「耳うらの星」のようにふしぎなことば遣いにもひかれた。ひとつのエッセイのあとに歌ひとつ。
沁みました。表紙 網中いづるさんの描く少女もすてき。
『ただ生きているだけでいい? こんなにも空があおくて水がしずかで』 (p77)


*追記

きょうはこんなのを聴きながら→Matana Roberts  How Much Would You Cost?


網中いづるさんのHPにあるデジタルきせかえ(というのか?)
Dress up today?も必見。時間をわすれて夢中になりますよ~
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by bacuminnote | 2012-03-14 15:20 | 本をよむ | Comments(0)
▲ 冬はつねに厚着で もこもこしてるわたしも昨日は、一枚薄着の午後となった。いつもの「猫の背」もぴんとのばして さっさか大股で歩いてみる。まだちょっと肌につめたい風もいいきもち。
ダウンジャケットを腕にかけて歩いてる人、ぴょんぴょん跳ねる幼稚園帰りの男の子は上着をママに預けて半袖! ベビーカーから飛び出すちっちゃな素足はバタバタ動き。ちょっと温うなっただけで、街ゆく人は、ああ みな春の顔や。

▲ 図書館に行くつもりで乗りこんだエレベーターだったものの、そんな陽気にさそわれて、そうや、ひとつ上階の屋上に行ってみよう~と思い立つ。図書館の階まで来てそのまま降りずにいたら、「下り」かと思ったのだろう(たぶん)本を持った女の人が乗って来はった。
「あのー、これ、上行きますけど」と声をかけたら、一瞬足が停まったけど「あ、いいわ。このまま乗っときます」ということで、二人で最上階へ。

▲ 屋上にはちょっとした花壇があって、よいお天気の日は小さな子連れの人たちで賑わってる、と聞いてたけど一度も行ったことがなかったんよね。
屋上に着いて「お先に」とエレベーターから出ると、背後で「わたしも降りてみようかな」の声!
かくして、見知らぬ人と思いもかけない屋上でのひととき。この日は先客もなくおばちゃん二人 ただただ空を見上げ、花をみる。

▲これが小説か映画やったら、おばちゃん同士やなくて「その本、もしかして」とか言うて本の話に花咲いて、カセ君みたいなおとこまえ(←ファンです)とベンチに座って話し込んで~とかなんとか。勝手にあれこれ「物語」思い描いて にやにやして。「ああ、あほらし」とひとり笑うた後は、まだ早い春の空気を深呼吸。
その女性とは なんてことのないみじかい会話とほんの数分のことだったけど、おもしろい時間やったな。そのうち、下りのエレベーターが上って来て、図書館でわたしが降り「それでは、また」と手をふった。

▲ 図書館に来るたびに、本のちかくに暮らすことができてよかったなあ、と思う。本がすきなのに、本屋さんもない(or少ない)図書館もない所で住むことが多かったからなんだけど。そうして、やっぱり図書館のない町に住む母をここに連れて来たら、きっとびっくりするやろなあ。わあ、手芸の本もある、書道の本も。それにいろんな新聞もあるねんなあ、と喜びの声をあげるにちがいない。わたしが子どもの頃から足しげく通った本屋さんも、もう何年も前に店を閉めはったらしいし。そんな町や村にこそ、図書館ができるといいのになと、何度も何度も思う。

▲ そう言えば『ぼくのブック・ウーマン』(ヘザー・ヘンソン文 デイビッド・スモール 絵 藤原宏之 訳 /さ・え・ら書房刊)という絵本を読んだことがある。
「ブック・ウーマン」というのは、家の近くに学校も書店も図書館もない地で暮らす子どもたちのために、馬に乗って図書館の本を運んでいた女性のことを言うらしい。今から80年前のアメリカの話だ。
物語の主人公の男の子カルの家は、人があまり来ないような高い山の上にあって、学校は遠すぎて通えないし、いつもお父さんの仕事を手伝っている。畑をたがやし、迷子の羊を探し、牛を納屋に戻すことだってできる。

▲ ある日、そんな山を一人の女性が馬に乗ってカルの家に本を携えてやってくる。カルの妹は大の本好きで一日中でも本を読んでいるんだけど、カルは「にわとりがひっかいたあとみたいな文字」に興味をもたないし、本なんて何の役にもたたないと思ってる。(けど、ちょっと気になってる様子が絵から伺えるんだけどね)それにそんな妹をほめる親も不満で。
それでもブック・ウーマンは晴れても降っても二週間ごとに本を交換しにやってくる。カルの両親はお礼に木苺やありったけの野菜を渡そうとするんだけど、『この本にお金はいりません。空気みたいにただなんです』と受け取らずに帰って行くのだった。

▲ あるとき、ものすごい吹雪の日にやってきたブック・ウーマン。お父さんの「泊っていけば」という誘いもことわり、雪の中を帰って行くその姿を見てカルは心をつよく動かされる。
カルは妹に読み方を習い始める。
その次に彼女が来たとき、お母さんはお礼のきもちをこめて木苺のパイのレシピをおくる。「本を読める子をひとりふやしていただきましたので」と言って。そうしてカルはブック・ウーマンのために本を朗読するんよね。

▲いくら読書がすばらしいことだとしても、人に押し付けられたり、まして「読書感想文」を書くように、なんて言われたら嫌になるやろけど。説教じみたことは何も言わず、地道に淡々と「読書」のきっかけを作っていく「ブック・ウーマン」や、いまの図書館員の仕事をあらためて尊いなあと思った。
というか「読書」をすすめる事ひとつとっても、本来、教育ってたっぷり時間のかかる(かける)ものなのだろう。早く、均一に、効率優先の教育を唱える人にも読んでもらいたい絵本だ。


*追記
本を読むのもすきですが「本を読む姿のうつくしい人」を見るのも同じくらいにすきです。
電車の中で、バスを待ちながら、たまに歩きながら、ええ感じに本を読んでる人見かけると、自分の顔がぱっと明るくなってるのをかんじます。
なかなか そんな『美しい人」にはめぐりあえませんが、そういうときはこの写真集『ON READING』(Andre Kertesz)を。

わたしの持っているのはリイシューされたアメリカの版ですが、以前マガジンハウスで出版された(いまは廃刊。こちらもとてもいいです。)この本の帯には『巨匠ケルテスが、ユーモアたっぷりのまなざしで「読む情景」をとらえた珠玉の掌編写真集』とありますが。一枚一枚の写真がまさに掌篇小説を読んでるような感じで、時々うっとり眺めます。
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by bacuminnote | 2012-03-03 10:17 | 本をよむ | Comments(0)