いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

<   2012年 04月 ( 3 )   > この月の画像一覧

▲ そのマンションの管理人さんは、前を通るたびに玄関と前の道を竹箒でしゃかしゃか掃いてはる。道端のゴミ袋の中にはピンクの花びらがぎゅうぎゅう詰め。わたしは散って 踏まれて 掃き 集められたビニル袋の桜になったみたいに、ちょっと息苦しくて、せわしなく動く竹箒を横目で見ながら、足早に前へといそぐ。

▲このへんの街路樹はゆりの木だ。
季節ごとに表情変えるだいすきな木。だけど今年もまた「落ち葉がたいへん」と枝はチェンソーで大胆に無残に切り落とされ、残った短い枝に、でも新芽がぽつりぽつりと見え始めた。
のっぽの木を見上げ、小さく瑞々しい「きみどりいろ」をひとつふたつと数えてみる。

▲日毎に暖かくなってきたので夜更かしすることがふえた。一昨夜は『雨あがりのメデジン』(アルフレッド・ゴメス=セルダ著・宇野和美 訳・すずき出版)という本を読んだ。ちょっと読んでから寝ようと、いつもの「寝床読書」やったのに。とうとう最後まで読んでしまって(←文字もけっこう大きくp177のみじかいお話です)。ふうう~と まんぞくの吐息のあと本をしずかに閉じたら、裏表紙に「鈴木出版の海外児童文学」という文字の下「この地球を生きる子どもたち」とあって、登場人物が浮かんでくるようで胸があつくなった。

▲ 物語の舞台はコロンビアのメデジン市。その中心部を取り囲む山の中腹バリオ 迷路のように入り組んだ路地、小屋のような家がびっしり建つ貧しい地区に暮らす主人公のカミーロと親友のアンドレス。ふたりともいつからか学校には行っていない。カミーロのお父さんは酒浸りの毎日で、酔うとお母さんに暴力をふるい、息子にお金も渡さずなんとかして酒を持ち帰って来いと怒鳴る。

▲そういうなかで十歳の少年は盗みをおぼえ「おれは、どろぼうだからな。一生こうしていくのさ」とアンドレスに言うんだけど。彼は自分の一番の友だちがそんなことを言いだすのが嫌いで「ぼくは、どろうぼうにはならない」をくりかえす。
でも、ふたりはここがすき。バリオから谷に広がるメデジンの町を見るのがすき。舗装していない道が連日降るにわか雨でどろどろになっても、水道の水が出ない日があっても。たびたびの停電だってへっちゃらだ。

▲ そんな町に何ヶ月か前 大きな図書館が建設される。だけどカミーロはここに近づきたがらない。
それは、雨のたびにどろどろになる自分ちの壁に使うのに、工事現場のりっぱなレンガを何度となく盗んだから。その時の警備員にみつかったらこまるから。それでもある日、図書館に入ることになったふたりは 子ども用の閲覧室で図書館員のおねえさんマールに出会う。写真を二枚もってきたら貸出カードが作れることや、カードがなくてもここで自由に本が読めることを、彼女にやさしく教えてもらって。

▲ ああ、これでカミーロたちは「本」に出会うのか~と思ったわたしは甘く(!)やっぱりカミーロはお父さんにお酒を持って帰らないと家に入れてもらえないから、図書館の本を盗むのだった。当然アンドレスはおこるんだけど、でも友だちの事情も痛いくらいにわかってるから、強く反対もできないんよね。結局二度にわたって盗った本は酒屋の親父に「本を置いてたら客に売れるよ」と言って酒と交換する。

▲ ところが図書館で会った学校のクラスメートに「盗った」ことがばれたとき、その子が「だけど、どうしてセンサーにひっかからなかったの?」と言い出して。ふたりは初めて図書館の出入口に盗難防止用のセンサーがあって、手続きしないで本を持ち帰ろうとしたらブザーが鳴って赤ランプがつくことを知って。

▲何故ふたりは何事もなく通り抜けられたのか、は想像通りマールの計らいがあってのことなんだけど。
三度目になってマールはカミーロが「売れる本」と盗った本をTシャツの下から手を入れてそっと出して「これは、すごくつまらないわよ」とべつの本をさがして来て、もう一回Tシャツの下に入れてくれる。
この日 カミーロはもうこの本を酒屋には持って行かない。だから、つまり、家には帰れないんよね。結局空き地で夜をすごすことになったふたり。でも、この日カミーロは本を読みはじめる。

▲いやあ、こんな形でこの子らが「本」に出会うことになるとは思いもよらなかったけれど。
子どもたちを取り囲むきびしい現実は何ひとつ変わってないけれど。
それでも、本の中の少年たちに、ええ人とええ本に会えてよかったなあ~と声かけたくなる。心からそうおもう。
そうして、最後の著者のあとがきにあるこのことばを「文化」が収益を生むかどうかで考えている「あの人たち」 に読ませたい、と思った。

【図書館は未来への希望です。文化のないところに人間らしい未来はありません。危険にさらされているちっぽけな希望ですが、それはひと筋の光であり、荒れ狂う海に投げ込まれた命綱です】



* 追記(いつもけっこう長くなってしまう追記ナリ)

著者はスペイン・マドリード生まれ。コロンビアのメデジンに旅したことがきっかけでこの作品がうまれたそうです。

訳者・宇野和美さんのあとがきにはコロンビアという国が抱える問題についても言及されています。そして宇野さん自身スペイン、バルセロナの図書館で経験したこと。館内のコピー機が壊れていたので、図書館員が「外でコピーしてきたらいい」と初対面の彼女にメモもなしに本を持ち出させてくれた、というエピソードも。

【日本や欧米の多くの国の価値観からすれば、マールさんの行いはとんでもないことかもしれませんが、こういうことがありうるのも、広い世界のひとつの現実なのだと思います。マールさんをつらぬいていたのは、カミーロと本の力への信頼だったのではないでしょうか】


本のいちばん最後のページにこのシリーズ「鈴木出版の海外児童文学」刊行のことばがあります。
タイトルが前述の「この地球を生きる子どもたちのために」
これにもまたじんときました。


♪きょうはこれを聴きながら
Gianmaria Testa & Erri de Luca - Chisciotte e gli invincibili(6'29"から歌が始まります)

[PR]
by bacuminnote | 2012-04-20 11:57 | 音楽 | Comments(2)

春荒や。

▲みずいろの空と咲き始めた桜に気をよくして(だまされて?)春っぽい格好で、出かけてみた。ちょっと寒い気もしたけど。いや、おしゃれには多少のがまんも必要~と、「そういうこと」から年々遠ざかってる自分に言い聞かせつつ歩いてたら、そのうち温もってちょうどええかげんになった。
たまにはこうやってちょっと気張って「かっこ」構ったら、それなりに身も心も付いてくるもんやなあ、と鼻歌なんぞうたってエエ気になってたところ、とつぜん舞台(!)は暗転。

▲ なんかパラパラ来たな、と思うまもなく暴風雨なんやもん。まいった。文字通り「叩きつける」かのような強い雨。寒い!ああ、こんなんやったらエエかっこせんとダウン着てきたらよかったなあ、と にわかオシャレ気取りを後悔。結局その日のあとはいつもの格好に戻ってしまったけれど。上着を脱ぎたくなる陽気はもうすぐそこまできている(はず)

▲ この前のこと。twitterをのぞいたら歌人で小説家の 東直子さんが『A4の紙3枚、B6の手紙2枚、定形内封筒一通。総量25グラム未満かどうか、てのひらで分かれば、助かるのだが。』とつぶやいてはるのが目に入った。
そうそう、定形25gまでが切手一枚(80円)なんよね。
わたしはこのブログをパソコンを持たない友人や母に、時々プリントして送ってるんだけど、それがちょうどA4の紙2~3枚プラス手紙。それで東さんに『ちょっと重くなったかな、とおもう郵便を出すときいつも思い出す句です。「春荒や封書は二十四グラム」(櫂 未知子)』とリプライした。

▲この俳句はだいすきな句で、封書が25gでなく24gであること。それに、そもそも手紙だけで24gというと便箋はかなりの枚数で。しかも投函しようとする日は「春荒(はるあれ)」なんやもん。たった17文字なのに。すごいなあ。いろんな物語が次々うかんでひろがってきて。ああ いいなあ、とおもうのだった。
そうそう、東直子さんが件のツイートにさっそくお返事をくださって。
『いい句ですね。短歌では「秋風の角封筒にのせてくる25グラム未満のこころ 杉崎恒夫」があります。』
31文字がみせてくれる世界。コイの予感も深まって。「春荒」と「秋風」、「封書」と「角封筒」、「24g」と「25g未満」おもしろい。

▲ さて。
「コイ」など漢字にするのも気後れするけど(笑)なにかにどきどきするような気持ちとアンテナは、いくつになっても持っていたいなと思う。
先日『幸せパズル』というアルゼンチンの映画を観た。平凡な主婦マリアがジグソーパズルに出会ったことで、彼女が久しぶりに味わう「どきどき」の話。邦題から受けるイメージとはちがって、ふくまれているものはほんと深くて、今もいろんなことを思ったり考えたりしている。原題はスペイン語で「パズル」の他にも「難問」の意味もあるそうで・・・うう~む、納得。

▲ 映画は食いしん坊にはたまらないおいしそうな映像から始まる。マリアは粉をこね、(←粉を扱ってる場面はいつ見てもぐっときます)オーブンからこんがり焼けたチキンを出して切り分け、お客さんを迎える料理を拵えている。「できたわよ~」の声で集まる家族や親戚に友人。どうやらマリアは料理上手らしい。みな彼女の手料理を食べながらお酒をのみ、にぎやかに歓談している。一方 エプロン姿で忙しくテキパキお客をもてなすマリア。やがて冷蔵庫から自作のケーキをとり出し、50という数字のローソクに火をともして、皆に見守られる中ふーっと消すのは・・・なんと、マリアなのだった。

▲ このホームパーティーの場面だけで、じつにいろんなことが見えてくる。料理をつくり、お客にサーヴするマリアは「主婦」というより「シェフ」の貫禄さえみえる。けっして嫌々やってる感じはしないけど、やっぱりひっかかるのはパーティーの目的は自分の誕生祝い、ってことやよね~ その昔の日本の家庭みたい。いや、日本なら主婦の誕生祝いの会など開いてもくれないか。とにかく、集まってるメンバーもマリアが忙しく台所とリビングを行き来してることを全然不自然と思ってない風で。

▲ たった一人、息子のガールフレンドが「お皿を片付けましょうか」と声をかけるんだけど。マリアは「息子と一緒にいてあげて」と言う。いや、だけど、それは嫌味な感じじゃなくて、彼女自身も「皆が楽しんでくれたら、わたしもうれしい」と思ってる(もしかしたら、思い込もうとしてる)気がする。

▲ ところが、パーティーの途中、手がすべってマリアはお皿を割ってしまうんよね。それを片付けたあと、台所で椅子の上にふとカケラを並べて置いてみるとお皿の形に。これが彼女の中に眠っていた才能に火をつけたのか。その夜、プレゼントの中にジグソーパズルを見つけたマリアはパズルの魅力にはまってしまう。パズルが仕上がる達成感と、けっこう早く「できる」自分を発見したのだ。
そのうち、家族に内緒でパズルの専門店を訪れ、店内にあった「ジグソーパズル選手権のパートナー募集」の告知に思わず申し込みをすることになって。このころからマリアの化粧気のない顔がぴーんと張ってみえる。「どきどき」は人をきれいにするんよね。

▲ パートナーを募集してた人っていうのが、大邸宅に暮らす初老の独身男性ロベルト。彼はジグソーパズルの世界選手権に出場経験もあるベテランなんだけど、マリアのその独特な組み立て方を気に入り、ふたりはパートナーとして練習を始める。だけど。何かにのめり込むってことは、そのぶん何かができなくなるってことで。マリアも家事がこれまで通りできず、夫は「お前はパズル漬けで家族は迷惑している」と機嫌が悪い。

▲ ある日、マリアが「ジグソーパズルの選手権に出たい」と思い切って話すと夫は「パズル?」とバカにして鼻で笑う。そもそも、前にも買い物先でパズルを買おうとするマリアに「パズルなんて時間の無駄だ」と言うた夫やから、想像のつく反応だけど。うう~ムカツク!
そのときのマリアのとった態度は、しずか。だけど、きっぱりと怒りを表し席を立つ。(←かっこいい)
とはいえ、夫はけっして悪い人じゃなく、マリアのことを愛しているのがわかる。わかるんだけど、自分の狭い価値観でしか妻を見ることができない。息子二人も母親を大事には思ってるようだけど、とりあえずは自分やガールフレンドのことしか頭になくて。

▲このあと、ロベルトとの関係やジグソーパズルの選手権のことなど、ぜんぶしゃべってしまいたいけど。続きはぜひ映画(DVD)で。
わたしにはジグソーパズルって「枠に収める絵」というイメージしかなかったんだけど。
最後の場面、マリアの清々しいえがおに、彼女の心の枠を取っ払ってマリア自身の絵を描き始めた気がして、うれしかった。

監督・脚本はナタリア・スミルノフという女性(やっぱり!)本作がデビュー作だそうで。
公式ホームページにあった監督のことばに、拍手。

『母親たちが幸せならば、世界はもっと良い場所になる  
「幸せパズル」は、ある母親、そして全ての母親についての映画です。子供たちや家族、他人への無条件の愛にあふれた奇跡的で大きな“母の愛”について。そして一方では、全てをコントロールせずにはいられない、“母性”というものについて。マリアは時に、道に迷って見えるかもしれませんが、それでも彼女は進むのです。』
[PR]
by bacuminnote | 2012-04-09 21:10 | 映画 | Comments(0)
▲ このところ近くのマンションの前には 毎日引越しトラックが何台も連なり停まっている。入居する人、出て行く人。運び出された荷物がずらり通路脇にならぶ。古毛布でぐるぐる巻きの家具、ゴルフバッグに健康器具。雑貨類がごちゃごちゃ入ったダンボール箱はふたが開いてる。なんだかよその家をのぞいたような気分になって足早に歩き始めたら、子どもの赤い自転車が目に入って一瞬足がとまる。ウチの子の赤い自転車も三ヶ所を移動したんよね。
こんどのお家でもたのしいこといっぱいありますように。

▲この時期には、友だちの子どもや親戚の子の入学や就職の話題も続々と耳に入ってくる。
デパートにも、ショッピングセンターでも「新学期」「新生活応援」の文字がおどって。ようやく寒い冬がすぎ、厚ぼったい上着も脱いで、空もあたりもぱーっと明るくなって、桜の花もぼちぼち咲き始めたし。
けど、今日みたいにぽかぽか陽気の中、皆いっせいに「新」に向かってるかのような空気は、足踏みしてたり、動きがとれないでいるひとに しんどい季節やろなぁ。遠い昔、わたしにもあったそんな春をおもいながら歩く。

▲ そういえば、桂米朝の俳句に『ランドセルこれが苦労のはじめかも』(『桂米朝句集』)というのがあって、師匠がランドセル姿の子どもに目を細めつつも「あんさんも、まあごくろーさんやなあ」とか、言うてはるような気がして可笑しい。
岡井隆は『幼年期。学校つていつもなんだらうつておもつてていつも行つてた』(青磁社通信vol.16より。*「つ」はすべて大きい「つ」)とうたっていて。共感。
いや4月早々「入学おめでとう」な空気に水をさすようこと言うて、ごめんなさい。
だけど。社会が「学校」中心にうごいてることに、それで当たり前のように思ってるひとが多いことに、ときどきたまらなくなって唸る。学校以外にも学びの場も方法もいくつもあるし、学校に行く子も行かない子もいて。教育は自由なもので強制されるものじゃないと思うから。

▲平日に子どもの姿をみかけたらまず「あれ?ガッコは?」
初めて会うた子どもにも「何才?」より「何年生?」と聞いて。
とはいえ、「学校」にはクエスチョンマークだらけのわたしも、10歳と聞くと、頭の中で「ええっと、つまり・・・小学4年生か」と頭の中で「置き換え」てたりして。
それは元号に疑問もちつつ西暦を「~それは昭和で言うたらやねえ・・・」とマイナス25で計算してるみたいなもんやんか、と、刷り込まれたものの大きさにため息つきつつ、そのつど自分にツッコミをいれてるのだけど。

▲ この間『日本という国』(小熊英二著:かの理論社の「よりみちパン!セ」シリーズがイースト・プレスへと「引越し」してから出た増補改訂版)を読んだ。第1章は『なんで学校に行かなくちゃいけないの?』で、まずは福沢諭吉の『学問のすすめ』(青空文庫でも読めるので、最初の20行あたりまででも、ぜひ)の有名な冒頭『天は人の上に人を作らず・・』の続きの文章をあげ、当時日本という国が国や国民をどういう方向に持っていこうとしたかを探るんだけど。この辺りだけ読んでも、自分のこれまでの知識がいかにいい加減だったか。そしてそれを「うすうす気づきながらも」放置してたか知ることになる。

▲ 義務教育が昔は脅迫教育と呼ばれたことや、当時「教育」というものが親や子にどういうものとして捉えられていたか。東洋と西洋。植民地とそれを支配する側・・・と日本の近代史の興味深い内容がつづく。
それにしても、こういうことを「長い」学校生活の中でいっぺんでも授業でやったことあったかなあ。そもそも歴史の授業で「議論する」とか「考える」ということがあったかなあ。その時間、居眠りか本を読むかですごしてたわたしが聞き逃してたんやろか。
当時わたしや同級生たちにとっても(たぶん)、学校の「日本史」も「世界史」も暗記科目という認識しかなかったし、先生もまた「重要ポイントのプリント」作りに力が入ってた気がする。

▲ 一つの事柄について、当たり前のように思ってたことが実はそうでなかったと知ると、他のことについても「知る」努力もしないで簡単に信じたらあかんのやな、と気づく。それが左から見える景色や、と言われたら、右からも下からも上からも視点をかえて見る。「そんなことやってる時間がない」という現場の声(悲鳴)が聞こえてきそうだけど。「そんなこと」こそ「学び」や「知る」への意欲をかきたてるんとちがうかなあ。

▲「学ぶ」といえば、今年はじめに読んだ 『GRAPHICATION』2012年1月号「特集3.11以後の知を考える」の中で教育学者 里見実氏の「知— 私たちがともに耕す大地としての」が深く残っている。

『「学ぶ」ということは、労働の一つの形だと私は考えています。学びの疎外の根は労働の疎外にあり、「働く」ことの豊かさをとり戻していくというパースペクティブなしには、学びの再生はありえないと考えています。』(p14)
『「総合的な学習」が削減されて「学力」が呼号される日本の学校にとっても、「拾い屋」的な知性は「余計なもの」にすぎないのかもしれませんが、その「余計なもの」の中に学びの再生の根基が横たわっているのではないでしょうか』(p16)
 



*追記
おなじく最近読んだ本『僕は僕でよかったんだ  学校に行かなかった32人との再会』(奥地圭子・矢倉久泰 著 / 東京シューレ出版)はフリースクール「東京シューレ」が1985年に誕生してからこれまでに、シューレに来た子どもたちのその後を本人へのインタビューで綴っています。同時にその頃子どもと教育をめぐってどんな事があったかも記されていて、我が子の成長と共に忘れそうになっていたことなど思い出しながら読了。そういえば、と古いノート(1991年)を繰ったら 奥地圭子さんのこんなことばがメモしてありました。
『教育とは自由を拓くもの。管理とは、もともと相容れない』 だれかさんに聞かせたいことばです。
[PR]
by bacuminnote | 2012-04-01 17:08 | 本をよむ | Comments(0)