いま 本を読んで いるところ。


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<   2012年 05月 ( 4 )   > この月の画像一覧

しらべもの。

▲一昨日は曇り空ながら暑くなく寒くなく。朝から洗濯物干したあと、塩おむすび二個とお茶のポットを持って万博記念公園に。五月の平日の万博は幼稚園から中学校まで遠足組でにぎやかなこと。この日わたしの横を長い行列つくって歩いてたのは幼稚園のたぶん「年少」さんたち。ぶかぶかのスモック着て、隣の子と手をつなぎながら、あっち見てこっち見て。とことこ、たかたか歩く。と、急に走り出したり。ひと組が列からはみ出し、それを追っかけた子がころんで大泣き。揃ってるのは、ブルーのスモックだけ。それぞれがみごとにバラバラに動いてるのを見ていると、なんかうれしくなる。

▲ しかし大変なのはセンセ。ここの幼稚園、職員一人に対して子どもが多いなあ。あれ?あの子ら大丈夫かな?とか。ついつい保護者的(祖母的)視線のわたし。でも若いセンセは何度もうしろ振り返り声かけて、前後左右移動しつつ、適度に注意し、怒りっぱなしということもなく。すごいなあ。
前のピンクのスモック組がどんどん先を行くけど。ええやん、ええやん、ゆっくりで。と、子どもらとおんなじくらいスローペースで歩くおばちゃん(あの子らから見たらおばあちゃんかも)は思う。
そんなわたしに「おはよう」と挨拶してくれる子。「あのねえ。◯ちゃんったらね、さっきねわたしの事、ぐいって押すんだよ」といきなり話しかけてくる子。皆ほんまに かいらしい。公園でお弁当とおかあさんやおとうさんが待ってるんやって。わあ、いいねえ。

▲これからもみんなそれぞれマイペースで行ってや~と心の中でメッセージ送って、途中でバイバイ~わたしは 「みんぱく」(国立民族学博物館)に向かう。待望の特別展『今和次郎(こん・わじろう)採集講義・・考現学の今』
を見に。考現学とは、考古学が遺物から過去を探る学問であるのに対し「いま」を対象に調査するということで、これは今(こん)やその仲間による造語らしい。英語では“Modernology”(モデルノロジー)というそうだが、今和次郎らは「モデルノギオ 」(byエスペラント語)とよぶ。モデルノギオかぁ、よい響きなり。

▲ 今和次郎の経歴などはみんぱくHPなどでみていただくとして。とにかく、この特別展。パンフレットからして楽しい。KONが(今、と書くとややこしいので以後ローマ字表記にします)が煙草を吸いながらかばん抱えて歩きながら何やら考えてはる(あとで説明をみたら銀座で「しらべもの」の最中らしい)写真の切り抜き。そこだけ白抜きのふきだしには「人のくらしの一切しらべ」と書かれてる。バックにはカフェの女給さんたちの店別ユニフォームの絵。前むき、後ろ向き、横向き。おもしろい。

▲KONはどんな時もジャンパー姿でポケットにはメモ帳を潜ませ、道ゆく人の服装、髪型、履物、持ち物に、歩き方・・・と、今だったらストーカーに間違えられるんちゃうか、と心配になるほど(苦笑)後をつけて観察、記録する。
こんなふうに大正の終わりから昭和のはじめにかけて、東京の街頭で通行人を「しらべて」はスケッチ。展覧会では、KONの膨大なノートに描かれたスケッチ、メモ書きを展示してあって、一点一点おもしろくて壁に張り付くようにして見てるもんやから、なかなか前に進めない。これ、写真(写真も少しあるけど)じゃないから余計に惹きつけられるんよね。

▲ おもしろいのはその眼のつけどころ。「主に美大出の面々によって編成された、いまでいうサブカル系の研究サークル」( 『今和次郎・吉田謙吉 東京考現学図鑑』泉麻人の言によると)ってことなんだけど。80年以上も前にそんな研究に励んでいた人たちがいたやなんて。
「公園で昼寝する人のスケッチ」寝姿から服装もじつに様々でたのしい。
「某食堂ノ器ノカケ方」ずらりと紙いっぱいに描かれた湯のみ茶碗の図は、さながら考古学の土器調査のようで可笑しい。どの部分にヒビが入って欠けてるか11パターンの紹介(1927年)→これを発表したあと件の食堂では器を新調したとか(笑)
「Collection of “Osime patterns”」と題したおしめの文様採集(1925年)
その頃のことやから、たぶん着古した浴衣を解いて縫ったんやろね。おしめの文様が並ぶさまが ほんまにきれい!

▲ 「ああ、このまま、今日はみんぱくに泊っていきたいなあ」(笑)ってほどだったので、ついついコーフン気味で書いたけれど、まだまだ書けてないことがいっぱい。(続きはぜひみんぱくに行って実物をみてほしいけど、行けない方は図録やネットでの紹介をご覧いただきたいです。)
わたしがいちばん心に残ったのは民家の調査に行ってるときのKONのスケッチで、田舎の家を描きながらそのそばで交わされる親子の様子や会話までメモしてるところ。まるで「そこ」に連れてってもらったみたいに、その家と家族と、吹く風や光まで浮かんでくるようで。
すべてを詳細に調査することを「悉皆調査(しっかいちょうさ)」というそうだけど、KONの温かな眼差しは「調査」というよりはやっぱり「しらべもの」やなあと思った。それに、最後にみたKON70歳のときに庭で撮った「とし子夫人と」という写真。これがすてき。お二人ともいい笑顔で、ほんまに仲のええご夫婦なんやなあと、ほかほかした気持ちになった。

▲ 途中、館内の照明が一瞬暗くなり、パチパチしたかと思うと同時にものすごい大きな雷鳴が何度も響き。その後 雨宿り?か、入ってきた中学生ご一行様がにぎやかすぎたけど(!)まあ、その前にゆっくり見たし、ね。センセが「ほかに見学の方もいてはるから、しずかにするように」って繰り返してはったけど。君ら、そんなんどこ吹く風~たのしそうに隣の子としゃべり続けてたなあ。

▲外に出たら雨あがり。大雨にうたれた公園の緑のきれいやったこと!樹の下、ビニール袋をぬれたベンチに敷いて、葉っぱから雨水が滴り落ちるので日傘さしながら、すっかり遅くなったけど 一人おむすびランチもおいしかったぁ。
帰りはこの前来た「武内晴二郎展」 (←その日のことは ここに書きました)民芸館の売店をのぞき絵葉書買って。
前のバラ園を名札を見ながらゆっくりと歩いた。ユーロピアナ、ゾリナ、天津乙女、パスカリ、ペーター・フランケンフェルトにマチルダ、ブラックティ・・・。この日はメモすることが一杯でわたしのノート(じつはメモずき、しらべものずき)は裏表紙まで ぐちゃぐちゃの字で埋まった。


* 追記
みんぱく チラシ PDF

工学院大学図書館
「今和次郎コレクション」

「今和次郎コレクション/ 欧州紳士淑女以外」
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by bacuminnote | 2012-05-31 14:21 | 本をよむ | Comments(0)

ここを渡るときに。

▲ 二週つづきで吉野に。
この日 沿線で事故があったとかで、なんとか定時通りに発車したはずの特急電車が、しかしダイヤは乱れに乱れ、何度も行き違い待ちの停車という展開となった。で、ようやくあと二駅で目的の駅というところで突然「この電車はこの駅止まりとなります」というアナウンスが流れた。 唖然、呆然とする乗客たち。それでも、ここから向こうには走らへんと言うのやから、仕方ない。皆ぞろぞろと下車した。

▲ 「ほんま、どないしましてんやろねえ」「お宅さんはどちらまで」あちこちで知らんモン同士話し始め、そして、ぼそぼそとぼやく。今のうちに、とトイレに行かはる方もいて。そもそも下車(させられた)駅にはタクシーもなく、いつ来るかわからない次の電車を待つしかないという、ほんまにこまった状況で。携帯で迎えをたのんでる人や、駅員さんに問い合わせの人(が、いつ来るかわかりません、の返答!)
わたしも母の病室で会うことになっている姉にメールしたり。緑・緑・緑に浸って夢心地やった先週とはまるっきり別世界と相なったのである。

▲やがて急行電車が到着して、みんな「待ってました」とばかりに車内へと乗り込んだ。(が、このあと、発車までまた少し待つことになる)
座席が向かい合った長いシートってこともあるかもしれないけれど、さっきまで乗ってた特急とはなんかちがう空気が流れてる。
特急から降ろされる前はまるで関係のなかった人らが、いっときホームで「遅いですねえ」「ほんまに電車来るんやろか」と声をかけあっただけやのに。窓から入る光が明るくやわらかに えんじ色のシートを照らすなか、土曜日の昼前 まちに向かうのではなく吉野にむかう電車やったからか。怒る声も聞こえてこず、ふしぎにのどかな電車は、例によってキィーキィーとブレーキ音たてながら一本道を走るのだった。

▲ いつもは吉野川を渡る手前の駅で降りるんだけど、この日はひとつむこうまで行くので、電車は待望の鉄橋を走るんよね。なんで「待望」かというと、ここを渡るときの窓からみる景色がわたしはだいすきなのだった。ドアのそばに立ち、吉野川の上(かみ)にも山、川下(しも)にも山。ああ、吉野に帰ってきたんや、とおもう風景。あっち見てこっち見て、きょろきょろしてるうちあっという間に駅に到着。
電車通学の高校生の頃、寝過ごして終点の「吉野駅」まで乗ってしもたこともたびたびあって。引き返すときにここを渡るのは、ちょっとどきどきするんよね。夕暮れ時がいちばんやけど、薄暗い中の吉野川とまわりの山々の深い緑も、ええ感じ。(・・てなことを同郷『三度笠書簡』のわこちゃんに言うと「そうそう!」と二人でローカルに盛り上がる)

▲ 病室には思いの外元気な母がベッドに横たわっていた。ああ、よかったぁ~と安堵のあと、ちょっと長居してるうちに癇に障ったりなんか腹たったりして、ね(苦笑)
一応にこやかに退場したものの、術後の老母相手にこの大人気のなさは何やねん、と自分にツッコミを入れては「こんなつもりやなかったのに」としょんぼりしたり。やれやれ。吉野線に乗ってくると、どーも調子がくるう。こころだけタイムマシンで思春期の頃に戻ってしまうんやろか。で、実年齢そのままのからだは、朝からバタバタして出て来たことや、行きの電車のアクシデントやら何やらで ぐったり。夕飯の支度の元気もなく百貨店で その昔亡き父によく買うて帰った某店のサンドイッチを。 きょうはこれに安ワインとチーズにしとこ。

▲ そういえば、バッグに入れていった本はとうとう一ページも読むことなく、帰ってきた。それどころか、ここ1週間は本もいっこもすすまんかったなあ~とか思いながら「せやせや!」と同行の姉(奈良在住)からのおみやげ『みむろ最中』を紙袋から取り出す。これもまた父の大好物やったっけ。香ばしい皮もおいしいけど、ここのあんこの甘さかげんが、ああ、たまらん。(愛読『あんこの本』にもちゃんと載ってます)そうして、ピリピリ思春期の少女はいつのまにか「もう一個食べよか」と迷ういつものおばちゃんに戻っているのだった。


*きょうのおんがく
Sufjan Stevens - Wolverine

バックに流れる画像は映画『永遠の僕たち』 (Restless)→よかった !
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by bacuminnote | 2012-05-21 19:46 | 本をよむ | Comments(0)

みどりみどりみどり。

▲明日は吉野に~と決めた前の晩は、着てゆく服かんがえて(って、迷うほど持ってへんのに)あれもこれもと母に持ってゆくものを準備しながら、ええ年したおばちゃんは遠足前の子どもにもどる。
ようやく床についたあとも眠りが浅くて。それに、翌朝は決まって目覚まし時計が鳴る前に起き出してしまうんよね。日頃めったに出かけへんから。たかだか電車二回乗り換えて2時間ほどで行ける距離やのに、自分のコーフンっぷりが可笑しい。

▲ そうして、ネットでちゃんと時間を調べてゆくくせに「一本早い」電車に乗ってしまうのも、いつものこと。そんなわけで昨日も予定より早く着いて、開店早々のデパートにかけこんだ。地下食品売場は、しかしすでにもう活気があって、人混みは苦手やけどこの賑わいには「ああ、大阪の百貨店の地下!」(←「デパ地下」じゃなく)と浮き足立つ。
きんつばにシュークリームに、揚げたての天ぷら(ごぼう天とか白上天とか)豚まんにシュウマイ辺りがおみやげ定番。「さあ、こう(買う)てや。こうたって~」「美味しおまっせ」「ちょっと味見てってや~」大阪弁の元気のええ掛け声の中を右見て、左見て。あ、えらいこっちゃ。こんなんしてたら電車に乗り遅れるとこや~と慌ててホームに駆け込むのも毎度のことナリ。

▲ 連休はおわったけれど、吉野行き近鉄特急の車内はハイキングの格好した中高年の二人連れやグループの方が多かった。これからどっかに出かけてゆく時って、みんなテンションが高ぅて、声も大きいなるんやろね。あっちで、こっちで笑いの渦。さながら行楽列車の雰囲気にわたしも便乗して、初めての人みたいに窓に顔くっつけて、見慣れた景色を眺める。乗客は橿原神宮と飛鳥で半分ほど降り、徐々にしずかになってゆく車内と、窓の外~新緑が塊みたいになって追いかけてくるさまが なんか映画でも見てるようでええかんじ。そのうち電車はキーキーとブレーキ音を響かせながら緑緑緑のなか カーブの多い一本道(線路)を走る。

▲五月の吉野川はこの間からの雨でたっぷり、ゆったり、ゆっくり流れており。水色の絵の具にすこし緑色をまぜたような色してる。いや、緑色は山の色を映してるからか。
吉野行きの話はいっつも同じことのくりかえしになるけど、山と川みたら、もうほぼ目的達成のきもちになる。(あ、もちろん母や姉に会うが一番、のはず・・)
それでも「吉野ってええとこやねえ」と言われると「うん。せやねん」と即答できないのは、わたしの中に、空の狭い世間の狭い古い小さなまちを 好きになれなかったその昔の少女が、いまだに口とがらせて居座ってるからやろか。(←しつこい)

▲ 母に会うのは1月以来だった。
とはいえ、毎日のように電話でぺちゃくちゃと話してるんだけど、先月末めずらしくけんかになった。
どういう流れでそうなったかよく覚えていないんだけど。とにかく。話してる途中に母のいうことがまちがってる、と思いちょっときつく返したら向こうが激昂。なんと、突然がちゃんと電話を切られて、こんどはわたしがゲキコウしたんよね。
ほんまに、もお、お母さんいうたら、と腹がたって、腹がたって。そのあと、いちばん年の近い姉に電話で愚痴を聞いてもろたり、相方に当たり散らしたり!してたんだけど。
翌朝はやくに電話のベルが鳴った。相方と寝床で「きっと吉野のおかあさんやで」と話したら、やっぱり母で。「昨日はどうかしてた。ごめんやで」と半泣きの声が受話器からもれて。前夜はろくに眠れぬまま朝になるの待ち構えて、電話をかけてきたらしい。

▲もうじき89とはいえ、まだまだ頭も手先もしっかりしていて、好奇心も向学心も時に若いモン以上やったりするのに。やっぱり気弱になってるんやなあ~と気になっての「里帰り」やったけど。会うたら会うたで、元気よく憎たらしいことも言うんよね。これがまた(笑)
それでも、まあ、家族の話、本の話、友だちの話と、あほなことも一杯言うて大きい口あけておもいっきり笑い、来週末からの母の入院準備をてつだって夕方帰途についた。
いつもは爆睡の帰り道なのに。
わかれる時に杖つきながら、あぶなっかしく手を振る母がえらくちいさく見えたのがわすれられず。まだ外が明るかったからか、眠れぬままいつまでもぼんやり外をながめてた。
夕方の川はいつもさみしい。


*追記
きょうのおんがく
Ketil Björnstad - Reticence
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by bacuminnote | 2012-05-11 14:00 | 出かける | Comments(0)
▲「衣替え」のあんまり必要のないような 寒いとこでの暮らしが長かったからか、ここに越して来てしばらくは 夏前まで冬物を出しっぱなしにしていたんだけど。さすがに大阪での暮らしも8年! にもなり、このところの夏みたいな暑さに、一昨日はセーター、昨日はこたつ布団、と順番に冬終いを始めている。とはいえ、相方もわたしも上等な服など一枚もないし、ほとんどは洗濯機でぱぱっと洗って干して、おわり。

▲ 子どものころ、ジッカは春~桜の繁忙期を終えるとじきにゴールデンウイークに入り、そのうち鮎のシーズンに入るので、絶え間なく忙しい母はその合間をぬって子どもたちのセーターやカーディガンを「ぱっぱと」洗っては、よく縮ませていた気がする。たぶん洗濯中に仕事で中断してそのままになってたり、ということもあったんやろけど。いつからか七歳上の長姉はだいじなセーターは自分でていねいに洗ってたことをおもいだす。

▲そんなわけで、ハンコで押したみたいに地味でおんなじ毎日でも、ふだんやらない家事が加わると、自分の中にふっと風がふいたような気分になる。
旧友じゅんが昔、わたしと相方のことを「日曜日なのにどこにも行かない夫婦」というタイトルでマンガを描いてくれたっけ。こたつで寝転んでる相方と向かいに座って「口さみしくて何か食べてるくみちゃん」の図 ! あれから今年で33年。相変わらず連休とはいえ、やっぱり買い物と散歩と図書館の他にはどこにも行かない夫婦は、家にはいるけれど、風はふいてるよ。ちょっとだけやけど。

▲ この間『ちいさな哲学者たち』という映画を観た。上映のころから気になってけど、例によって、ぐずぐずしてるうちにお終いになってDVDになるのを楽しみに待っていた。でもレンタル開始のその日、ショップの棚でジャケットを手にしたら《文部科学省選定 青年向き・成人向き》とか《厚労省社会保障審議会 児童福祉文化財選定》加えて《“白熱教室”ブームに湧く日本で、かわいく・おかしくロングラン大ヒット!! 》の文字が目に入り、いっぺんに観る気をなくしてしもた。(苦笑・・あまのじゃくですみません)

▲ それでも観る気になったのは、ここんとこずーっと考えている「教育」の起点はやっぱり「疑問をもつ」と「考える」やよなあ、と思ったから。
ただ、ドキュメンタリーいうても、現実を切り取る作り手の眼があるわけで、映画になったのはほんの一部分でしかないんやろし。子どもが主人公のこういう映画にありがちな周到すぎる「準備」はかなんなあ・・・と、あれやこれやと並べたてるわたしの御託も「ちいさな哲学者たち」が、笑い、泣き、ハナクソほじくり、群れ、けんかし、居眠りしながら、ああ、もうみごとに崩してくれた。

▲ 舞台はフランス、パリ近郊のzep(教育優先地区)にある幼稚園で三歳から二年間哲学の授業を試みる、という話。この映画、はじまりがとてもすてき。バックに流れる音楽もいい。(←追記にリンク)
受け持ちのセンセ、パスカリーヌは授業のはじめにろうそくに火を灯す。火の力って不思議やね。子どもらはセンセの擦るマッチの炎に早くもくぎづけだ。「火は疑問への答えを探し始める合図」ということで次からも授業の始まりはこのロウソクから。

▲ センセが問う。「私たちが頭で考えている事は目に見えるかしら?」うう~わたしはフランス語がちんぷんかんぷんやから、このことば字幕の訳の通り 特別子ども向きな話し方じゃないとしたら、三歳児にわかるのかなあ~とちらりと思うけど、心配無用。子どもはそれなりに「感じてる」ようで「考えを人に知らせるのにはどうする?」という問いかけには「口を開ける」と言い、口を手で開くようにして何かが出てくるというようなジェスチャーをしながら「外に出すため」と答えるんよね。

▲ あとで、パスカリーヌは同僚に授業の感想を聞かれ、興奮気味にこの場面のことを言う。『彼の頭から口へ通り道ができたみたいだった』
でも、そこはやっぱり子ども。天衣無縫。文字通り縫い目は見えない。話はあっちに飛び、こっちでひっくり返り、ことばのちょっとしたリズムに大笑いし、そして突然退屈する。
「死とは」「大人にできて子どもにできないことは」「友だちの好きと恋人の好きは同じ?」「自由とは」「頭がいいってどういうこと」「違いとは」センセの質問に子どもたちが、ふと気がつくと、どんどん深く応え始めてる。3~5歳の成長はめざましい。体格も顔つきも、表情もボキャブラリーも豊かに。そして話す内容も自分のことだけじゃなく、友だちの言動について、テレビのニュースでやってたこと、親の反応とひろがっていく。

▲ 最初はあまりしゃべらなかった子が 最後のほうになると活発に自分の意見を堂々と友だちとやり合う場面もあって。まさに「そのとき」が来て、ことばがあふれだした感じで、どきどきする。
肌の色もさまざま、ルーツとなる国も地域も皆それぞれにちがう子どもたちが、時に残酷ともおもえる発言をしたり、それに敢然と立ち向かう子。ことばで返せなくて叩いてしまう子。
大人の社会でも一緒やけど、ちがうのは子どもは身も心もやわらかなことかなあ。
だからこそ、大人はやわらかなものを踏みつけにしたり、型にはめようとしたり。まして強制したらアカンのよね。
そして、何より。
人が学び 育ってゆくのには いっぱいいっぱい時間がかかるものなのだ。

▲ちっちゃい子は「考える」より「感じる」ことが大切、と言う人もいるかもしれないけど。どちらも同じくらいにだいじなことだと思う。映画のなかでパスカリーヌが言う。
『疑問が増えるにつれ もっと考えるようになる』
つまり、疑問を持たないと「考える」機会をのがす、ということかもしれない。子どもも、そして大人だってね。


*追記

□ zep(教育優先地区)というのを知らなかったのですが、
映画の公式HPのなか「パスカリーヌ先生へ10の質問」にありました。→

□邦題は「ちいさな哲学者たち」ですが、原題は仏語で「Ce n'est qu'un début」英語で「just a beginning」
始まりにすぎない、というような意味だそうです。

□ このドキュメンタリーのバックに流れる音楽がずっと気になってたんだけど、あとでしらべたらチュニジアのミュージシャンによるものでした。
Anouar Brahem Trio "Astrakan café "
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by bacuminnote | 2012-05-01 16:27 | 映画 | Comments(0)