いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

<   2012年 06月 ( 3 )   > この月の画像一覧

ことばの海。

▲ 目が覚めたら、障子のむこうが白く明るかったから。
大きく伸びをしてぱっと起きる。目覚ましが鳴る前の起床も、梅雨の合間の晴天も。それだけで、なんかうれしい朝だったから。今日は特に用事もないし、ええ天気やし、この間から大雨や台風で行きそびれてるうちに、退院したという 母の様子をちょっと見に行く事にして、大急ぎで支度する。
というても、お化粧するわけでなく髪をとかすわけでもなくおしゃれするわけでもなくて。結局のところどんな本を持っていくか決める、ってくらいのもんなんだけど。うまい具合に前日ご近所さんが貸してくれはった 『舟を編む』(三浦しをん著)と、母にはバウムクーヘンと水ようかんをバッグに入れてしゅっぱつ。

▲ 『舟を編む』は何年もかけて辞書編纂する編集者たちの物語だ。
たまたま先月下旬から朝日新聞の夕刊に『日本語の海へ』という連載が始まり。この本を貸してくれた方が「くみこさん好きそうやから」と新聞を届けてくれはったんだけど、その第一回がこの本『舟を編む』の著者、三浦しをん氏と三浦氏が取材したという広辞苑(岩波書店辞典編集部)の平木靖成氏の紹介記事だった。この平木さん、ご趣味はありますか?と聞かれて「駅のホームにあふれた人がエスカレーターに整列して吸い込まれていくのを見るのが好きです」と答えてはるんよね。(←サイコー!)

▲二回目は『舟を編む』からは離れ、普通の辞書に載らない漢字を集めた『当て字・当て読み漢字表現辞典』を出した笹原宏之氏のエピソード。いわく「小学4年のころ、兄の漢和辞典をのぞいて不思議な文字に魅入られた。貯金をはたいて中学1年で諸橋轍次(もろはしてつじ)の大漢和辞典全13巻を買う。せっけんで手を洗い、正座して読んだ」(朝日新聞夕刊5.23より抜粋)
いやあ、もう、こういう愛にあふれた「オタク」な話だいすきデス。

▲ 辞書といえば、忘れられないことがある。
わたしが生まれ育った家は人が出たり入ったり、年中ばたばた、がさがさとせわしないウチで、「大人が本を読む」という環境ではまるでなかった。
家には父の愛読書の『会社四季報』(苦笑)がごろごろしてる他は、母の大昔の(文学少女やった頃?)本と、姉たちの本くらいしかなかった気がする。
けれど、わたしが小学三年か四年のころのこと。大阪に住む従姉妹の子どもが(わたしはいとこの中で最年少だったので、すでに結婚して子どものいるようなうんと年上のいとこも多かった)喘息でお医者さんに転地療養をすすめられれた、とかで、ウチに夏の間滞在することになって。

▲ 末っ子のわたしは自分より小さい子がそばにいてうれしくて、一緒に遊んだり、いとこが「ちょっと牛乳買ってきてくれる?」とか言うと、ほいほい喜んで買いに行ったりしてた。
そのかん一ヶ月だったか二ヶ月近くだったか、そしてかんじんの療養の成果があったかどうかは覚えてないけど、いとこと子どもはやがて大阪の家に帰って行った。
その後、お世話になったお礼に、と当時出たばかりの「平凡社 世界大百科事典全巻」と「広辞苑」それに、「本がすきなくみちゃんに」と講談社の少年少女世界文学全集から何冊か送ってくれはったんよね。いとこの夫君は大阪で書店をしてはる、ということだった。

▲しかし、なんてエエ親戚なんやろ。家に本が売るほどあるって(というか本屋なんやけど・・笑)どんなんやろ、と、うらやましかったし、何より、ほんまに最高にうれしい贈り物で。もうそのどれもが手元にはないんだけど、応接間に並んだ百科事典と広辞苑は、その手触りまでわたしの中にしっかり焼き付いている。
そうしてわたしの「しらべもの」好きはいっぺんに拍車がかかった気がする。以後、はじめてのこと、わからないこと、親に聞けないこと、何でもかんでも「百科事典と広辞苑」やった。

▲ さて、地下鉄乗るなり開いたこの本、案の定「ここはどこ?わたしはだれ?」状態になってしまった(苦笑)。なんとか乗り換え駅に着く寸前にはっとして「ここはどこ」か確認、無事下車。近鉄に乗り換えてからもずっと下向きっぱなしで、やっぱりジッカのある駅手前で「はっ」と本から目をあげた。(この「お、もうすぐかも」という感覚は、5月6月、とよしの通いをした成果かも~)
そんなこんなで、帰りの電車のなかにて無事読了。内容もわたしの読み方も、ちょっと一気に走りすぎた気もするけど、たのしい読書時間となった。

▲それにしても。
辞書編纂のたいへんさは以前から少しは見聞きしてたけど、これほど時間も人の手も入っているものだったとは。
時代の流れ、人の生活志向の変化・・生き物である言葉にこれで終わり~はないんよね。
くわえて、辞書の体裁や紙の話は知らないことばかりで興味深かった。紙質ひとつとっても、できるだけ薄く、でも裏の字が透けることなく、しかも一定の強度も不可欠。それに頁を繰る指の感触など。文中 製紙会社の人のいう「やや黄色味を帯びた紙のなかに、ほのかに薄く赤味が差すでしょう。こういうぬくもりのある色合いが出るまで、試行錯誤しました」には、すごいなあ。ああ、もうこれは紙に恋してはるんやな~と。

▲そして、主人公の馬締(まじめ)を営業部から新しい辞書『大渡海』を編纂すべく辞書編集部に引き抜いたベテラン編集者 荒木と監修者 松本先生のやりとりに、あらためて子どものころから佳き「舟」にであえたシアワセをおもう。

「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」魂の根幹を吐露する思いで、荒木は告げた。
「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かび上がる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう」
「海をわたるにふさわしい舟を編む」松本先生が静かに言った。
「その思いを込めて、荒木君とわたしとで名づけました」
』(p27)





*追記

■小説もおもしろかったけど、やっぱりリアルに言葉の海で泳いだり、潜ったりしてはる人の話はもっと刺激的です。朝日新聞(わたしは購読をやめて久しいけど)夕刊の連載は辞書の話から方言の話、縦書き横書きの話しまで~とてもよかったです。
調べてみたらwebでは→第一回のみ読めるようになっており、
あとの回は有料記事(!)でした。機会があれば図書館などで読んでみてください。 (5.22~)



■いつものように、電車の中の読書話を書いてたら、よしののこと母のこと書けないまま終わってしまいましたが。
おかげさまで、母は元気に杖つきながら一人で歩いており、びっくり。来月の誕生日で満89歳なり~
[PR]
by bacuminnote | 2012-06-27 21:15 | 本をよむ | Comments(13)

「ことばの箱」

▲ つめたい雨。しずかな朝。梅雨冷え。熱めの珈琲がのどを通り 下ってゆくのを感じながら、庭いっぱいの白十字と雨に濡れて一層みどり濃いその葉っぱを眺める。ちょっとの間そうしてたら、前夜ネットでみていた首相官邸前集会の声が耳の奥でこだまして、ひとり声にだして言うてみる。
サイカドウハンタイ!サイカドウハンタイ!再稼働反対!
(11000人もの人たちが集まったそうやのに。どこにも報道されなかったらしい。そして今日(15日)『政府は十分な安全政策を取らないまま、裏打ちのない首相の「安全宣言」によって再稼働を強行した』~web東京新聞6.15 14:00~)

▲いろんなことを思ったり、考えたりしながら、ぬるくなった珈琲をもう一杯。湿気てひんやりした座布団にぺたんと座り母にはがきを書いた。
病室に宛てて書くたよりは自分のための鎮静剤みたいなものかもしれない。
「お見舞い」というのが苦手。そんなの得意な人なんか いてへんやろけど。
おしゃべりなわたしは「沈黙」がこまる。だから、何かしゃべらないと、とか。何かおもしろいこと言うて相手を笑わさんと、とか。ついつい思ってしまうから。

▲黙っているのは気詰まりだし、しゃべったらしゃべったで、相手の方が疲れはったかもしれないと落ち込む。いや、けど、もしかしたら退屈してるかもしれん。いやいや、しんどい時にしんどい顔を見られるのは嫌かも・・・そんなことをぐるぐる考えてるうちに、ぐったりして。ああ、ここでしずかにその人のことをおもっていよう、と抽斗からポストカードをとりだす。

▲ この前ここに書いた『トリエステの坂道』に心に残る場面がある。それはトリエステ生まれの詩人ヴィルジリオ・ジョッティ(1885-1957)の『用途のない備忘録』という日記からの話だ。
ジョッティは息子がロシア軍に捕らえられて、収容所で肺炎にかかって死んだ、ということを戦友だった男からの手紙で知る。それは息子の死から三年もたってからのことで、妻はそのこともあってか精神を病み家にいない。訃報から一年たったあるとき、街でおなじく詩人の ウンベルト・サバを見かける。

▲『会ってしまったら、通りいっぺんの挨拶ではすまない。向こうだって、きっとそう思うだろう。「そうしたら、なにをどう言えばいいか、私にも彼にもわからないに決まっている。たぶん、無意味な、心にもない言葉をかわしただろう。どうしてもそれを避けたくて、とっさに身をかくす建物の入り口か店がないかとあたりをみわたした。ところが、ほっとしたことに、サバのほうが、あの緑のジャケットを着た彼が、チーズ屋にとびこんでくれたのだ。私を見かけたのだったか。そう思う。こちらのせいで、サバは、思ってもみなかったチーズかなにかを買うはめになった。」』(『トリエステの坂道』ヒヤシンスの記憶~より抜粋)

▲ 行ったこともないトリエステの街並みと、ふたりの詩人を想像する。お互い視界に入った相手をそれぞれに思い、同じように身を隠すことをかんがえて。
ことばをいっぱい持ってるふたりだけど(だからこそ?)とっさに取った行動がおかしくて、温うて、せつない。
ほんまに、ことばって何なんやろね。
『オール・マイ・ラヴイング』(岩瀬成子著)にも、そんなことばへの思いが語られる場面があった。

▲『カラスが斜め樹の上に二、三羽止まって、かわりばんこにカアカアカアと大声で鳴いていた。 カアカア。口のなかでいってみた。いつも大事なときには言葉が役にたたない気がする。どうしてもいいたいことがあると思うときにかぎって、言葉の箱が空っぽになっている。日ごろはそんなことは思わないのに、誰かと向きあったりすると、箱が空っぽでなにもいえなくなる』(p59)

こちらは思春期の子。ほんとうとうそ。ことばの前でしゃがみこむ少女のつぶやき。もはやその頃からは遙か遠いとこまで来てしまったわたしもこころから共感。そして今 ここでも外でカラスが鳴いており。わたしもカアカアないてみる。





* 追記 

その1
岩瀬成子さん新刊『なみだひっこんでろ』(岩瀬成子 著・上路ナオ子 絵 岩崎書店刊)を読みました。ひとつちがいの姉妹の、70ページほどのみじかい物語ですが、ほんま、岩瀬さんは子ども(とりわけ女の子)のことばにならんようなぐちゃぐちゃとした(苦笑)思いを書かはるのがうまい。
あ、今回書いた『オール・マイ・ラヴイング』のことは前にもに。
姉妹もの~ってことで思い出した絵本→『ぺろぺろキャンディ』も、すごく、とってもいい絵本でした。


その2
ここんとこ くりかえし観て(聴いている)フラメンコギターとチェロ。父子だそうです。すばらしい。ああ、チェロ!(←すき) Pedro Soler And Gaspar Claus この"Tiny Desk Concert "というシリーズ?の中にはDaniel Johnstonも~

この元サイト"npr music"は以前 livroさんに教えてもらって以来よくみ、よくきき、よくたのしませてもろてます。おおきに。
[PR]
by bacuminnote | 2012-06-17 11:39 | 本をよむ | Comments(0)

つづきは次の地下鉄で。

▲ またまた、よしのに。
長いこと「遠くにありて」思ってた故郷へのキョリがこうして縮まると、小旅行きぶんで乗ってた吉野行き近鉄特急も、座席に座るなり本を開き、途中うたたねの後、読書。川が見える時だけ、はっとして腰が浮くけど「確認」したら安心してまた読書(苦笑)そのうち電車に乗ってることすら忘れそうになって「つぎは◯◯駅~」のアナウンスにあわてて荷物を鷲掴みにして下車、という展開にかわりつつある。
なんべんも「帰ってる」うちに その昔のわたしに戻ってるのかなあ。
山も川もきれいやけど。
古い町、狭い世間と、きゅうくつな決まりごと。ちいさな空。
「引いて見る」のと「寄って見る」のでは、ちがうものが見えてくる。

▲そういえば、 以前読んだ 『ひとりの午後に』(上野千鶴子著・NHK出版)というエッセイ集のなかに「W(ダブリュー)坂」という上野氏の故郷金沢での高校生のころのことを書いた作品がある。
城下町・金沢はわたしの生まれ育った田舎とはちがって、もっと洗練された町という気がするのだけど、古い町なかを吹く風にはどこか近いものを感じる。だから上野氏の文章にも「その頃」のよしの の町とわたしや幼馴染の顔が重なって。無邪気に遊んだ頃から、なんだか胸のあたりが重くるしいような、もの想う年頃のことまでよみがえってくる。

▲【とりわけ金沢という街は、過去が澱(おり)のように溜(た)まって、変化を拒む土地がらだ。ものごとが堆積し発酵する、腐臭すれすれの匂いがする。レヴィー・ストロースの「料理の三角形」、煮たものと焼いたものそして腐ったもののうち。わたしはいまでも「腐ったもの」、つまり発酵食品が大好きだが、発酵と腐敗とは同じ現象の両面にすぎない。京都生まれの友人が、「嗜好」とかいて「老人の口に旨い」と解き明かしたのを、なるほどと納得した。腐ったものは、若者の口に合わない。】

【クラスメートにはサラリーマンの家庭は少なく、商人や職人、医者や僧職の息子や娘たちが多かった。友だちをたずねていくと老舗の奥の暗がりから、声がかかる。】    (「W坂」より抜粋)

▲ 「老人の口に旨い」か~うまいこと言わはるなあ。
まあ、ええこともわるいことも。すきなとこもきらいなとこも。美醜、明暗、温冷、甘辛、表裏、愛憎。粗野と優雅。喜び哀しみ、泣き笑い。まるで「反対語辞典」を開いてるみたいに相反するいろんなもの。自分が長いことかけて越えたものも、見えないふりして通り過ぎたものも。いつのまにか、もうどうでもよくなったことまで。全部ひっくるめての故郷であり、親で、家族やから、ね。
書いたり話したりすると、ちょっと「ええかっこしい」が発動して(苦笑)ややこしいモンや散らかったモンを慌てて押入れに放りこんで、隠したり ごまかしたりしてしまうとこあるけど。
まあ、こんなもんかな、と思う。

▲そうして、母との会話もだんだん昔に帰ってゆく。
ついこの間もけんかしたわけでもないのに(いや、弱ってる年寄り相手にかっかしたらあかんと、友人たちに諭されたこともあり、ぐっと抑え気味だったからか)きもちが昂って収まらず、帰りの電車の中でもヒートアップしたままで。そんな自分を「ええ年して何やのん」と、ちょっと持て余してたんだけど。
ふとバッグに入れてきた文庫本を何気なく開いたら、思いの外すーっと引き込まれるように本の中に入っていけた。

▲そのうち熱かったわたしも「平熱」となり、しずかになり、ああ救われたなあと。ちょっと大げさかもしれんけど、ほんまにそう思える時間となってうれしかった。
読んだのは『トリエステの坂道』(須賀敦子著・新潮社刊)。初めてじゃなかったけれど、須賀敦子の文章は初めて読んでも、何回読んでも、いつもあたらしさとなつかしさを感じる。あこがれの人の文章を行きつ戻りつだいじにゆっくり味わって、ふううと満足の長いためいきひとつ。気がついたら「終点あべのばし~」のアナウンスが流れた。つづきは次の地下鉄で。


*追記
この『トリエステの坂道』の話から この前観たイタリア映画(DVDになっています)『人生、ここにあり』のことを書くつもりが、いつものことながら、書きたいところまで到達せず。(苦笑・・前にも書いたけど、遠足の作文書くのに、朝起きてからガッコに集合するまでのとこで原稿用紙使いきる・・みたいな事、この年になってもまだ直ってません・・)
映画の公式HP内にトリエステの街並みの写真もあって、ああ、イタリア(も。イギリスもアイルランドもフランスにも・・・)~行ってみたいなあ。

この映画のさいごの場面に流れてたうたが こころに沁みました。
[PR]
by bacuminnote | 2012-06-10 14:30 | 本をよむ | Comments(0)