いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2012年 07月 ( 3 )   > この月の画像一覧

ふつうのごはん。

▲ 夏の朝は、なんだかくたびれ果てて起きる気がする。これから一日が始まる、というのにね。夜中 暑さとトイレで(←一日じゅう水分のとりすぎ)何度も目が覚めては、うとうと。そのうち外は明るくなって、しーんとした中、小鳥の鳴き声がひびき始める。窓を開けると少し冷ための風がすいーっと流れて~ああ、ええきもち。なんかこの感じ 開田高原(信州)の朝みたいやなあ、と思いながら熟睡するも束の間のこと。
じきに蝉が鳴き始め、どんどんボリュームアップ。そのさわがしさと、やっぱりの暑さ(そりゃ、開田みたいなわけにはイカンよね)にがまんできず起きる、というパターン。ああ、ねむた。

▲ そんなわけで、朝から昼までぼぉーっとしてどうも調子がでない。外が暗くなり始めて、地の熱が下がる頃になってようやくわたしの頭も冷え始め、動き始めるのだった。
それでも、昨日は息子その2が近くに用事で来てごはん食べていくというので、夕方からちょっとはりきる。五ヶ月ぶりの親子でごはん。一人より二人、二人より三人、三人より大勢。にぎやかな食事はたのしい。
「何食べたい?お肉か?」と聞くと「ふつうのごはん」という返事。
カマスの塩焼き、かぼちゃのそぼろ煮、小松菜のお浸し、昨夜作って漬け込んだ煮豚。ふだん足りてないのか菜っ葉を山盛り食べ、梅干しと熱い番茶で〆「腹いっぱいになった」と、また「帰って」行った。
ふつうのごはん。ふつうの暮らし。
当たり前と思ってたものがそうでなくなったとき「ふつう」はとくべつなものになる。

▲この間『八月の光』という本を読んだ。著者の朽木祥さんの本のことは以前から何度も目にしながらも、なぜか「またこんど」と思ってたのに、この本は内容もよく知らなかったが「読みたい」とおもった。
本でも音楽でも映画でもいろんな出会い方がある。「やっぱり」よかったという時や、「思いもかけず」すばらしいものに出会えるときも。このタイミングはほんとうに不思議。自分にその支度ができてないときは、目の前を通っても、何度通っても、ぜんぜん気付かないこともあるもんね。

▲ 『八月の光』の表紙の背景は白。背に羽根の天使はうつくしくわかい女性の彫刻像(伊津野雄二氏)だ。その表情はやわらかだけど、力強いものをも感じて引き込まれる。
タイトル「八月の光」の横にはちいさく”Flash in August”と。lightではなくflashだ。ここで初めてわたしは「もしかしたら原爆の話?」と気づく。
目次のあとの頁に一行これもちいさな字でこう書いてあった。
「生き残った人びとのために」

▲ 正直なところ、この一行で ちょっと打ちのめされたような感じがあって「最後まで読めるかなあ」と思ったりしたんだけど。八月のあの朝 ヒロシマで(本文では片仮名表記)生き残った三人の十代の子の三つの物語~「雛の顔」「石の記憶」「水の緘黙(かんもく)」が綴られる。
「一発の爆弾のすさまじい暴力」が描かれているのに、語り口はとてもしずか。
だから、ことばが自分の思いを越えた深いところまで沁む。沁みておろおろする。
あとがきを入れても145頁の薄い本ですぐに読み終えたのに。それでお終いというのではなく。机の上に置いたその本を何度も開いた。開いたところから又読み始めては閉じることをくりかえす、そういう本だった。

▲ ふたつめのお話「石の記憶」は、亡き父の思い出から始まる。
因島出身で泳ぎが得意だったお父さんは「小柄でおとなしい人だったのに、水に入るとまるで人が変わったようにはしゃいだ」。わたしは海のないとこ生まれだけど、川育ちやからね、水を纏った(まとった)ときの、なんともいえないきもちよさや開放感がわかるから「水に入ったら河童みたいになっとった」というお父さんが、目の前に浮かんでくるようだ。
お父さんは町工場のたまの休みにお母さんのテルノと光子をつれて海に泳ぎに行く。ひとしきり遊んだあと、お父さんは二人を浜辺に置き、自分だけ遠くの沖まで泳いでいくんよね。そんなとき、ふっと光子はお父さんがもう帰ってこないのでは、と不安になり母の日傘からでて「伸びあがっては海をみつめる」。と、思いもよらない方角から父は水から飛び出し光子がびっくりするのを声をあげて笑う。

▲ そのお父さんの乗った船は南方に向かう途中撃沈され、お父さんは死んでしまう。送られてきた白木の箱は軽くて、石ころがころがるような音がした。
光子と母テルノと二人きりの生活。夜、仕立て物で生計をたてるお母さんが縫い物をし、そのそばで光子は仕立直しの着物の糸をほどきながら、お父さんの話をする。「お父ちゃんは、ひょおっとしたら泳いで逃げとらんかねえ、船から。わしはいつでも、どこまででも泳げるって、いっつも、言いよったよ」と。
母子が疎開しなかったのは、頼る身寄りがなかったからだけど、どこか、いつか、もしかしたらお父さんがが戻ってくるのではないか、と二人とも思っていたから。

▲ ところが、これまで空襲がほとんどなかったこの市の上空にもぽつぽつ飛行機が飛来するようになる。七月の終わりになると、近くこの市にも恐ろしい攻撃が仕掛けられるのでは、と噂を耳にするようになった。近所の男の子が拾ったというビラには背中に火のついた人の絵に、下手な字で「にげなさい、にげなさい」と書かれていた。
お母さんがいよいよ疎開の決心をするのはこのビラさわぎのあった夜。
山をこえた先の村にいる友だちを頼って行くことを光子に告げる。お父ちゃんが帰って来たらどうするん?と心配する娘にお母さんは、ちゃんと近所の人に連絡先渡しておくから、それに「わたしらの命が切れたら、お父ちゃんが迎えられんじゃろ」と説得する。

▲ その日。前夜、空襲警報がたびたび鳴って朝寝してる光子を起こして、お母さんは翌日の疎開に備え街の銀行に出かけてゆく。「涼しいうちに行って帰ってくるね。きょうも暑うなりそうじゃけえ」と。
そして、角を曲がって振り返り、光子に手を振ったのが、最後になる。
銀行の前の階段で、開店を待っていたテルノはそこで被曝する。帰ってこない母をさがして光子は焼け野原を走り抜け、近所のおばあさんが石段に腰掛けてたテルノを見たという銀行の前まで行く。

石段は、まるで洗われたみたいに白かった。正面の、ひさしがかぶっていたらしいところだけが、わずかに黒い。さえぎるものがあったところだけ、もとのまま黒く残ったのだ。そう思いあたった次の刹那、光子の目をとらえたものがあった。光子は石段を駆けあがっった。
—黒い、小さな影。やせて小柄な、母のかたちの影だった。母の影が、石段に腰掛けている。
』(p78~79)

▲ヒロシマ生まれで被曝二世の著者はあとがきに書く。
二十万の死があれば二十万の物語があり、残された人びとにはそれ以上の物語がある。この本に書いたのは、そのうちのたった三つの物語にすぎない。
だが、物語の中の少年少女たちは過去の亡霊ではない。未来のあなたでもあり、私でもある。だからこそ、私たちにできることは、”記憶“すること―あの人びとが確かにこの世にいて笑ったり泣いたりしていたこと、無惨にその生を奪われたこと、残された人びとが理不尽な罪責感に苦しみながらそれでも生きて、やがて信じられないような力で前を向いていこうとしたこと―そんなことをみな、決して忘れないでいて語り継いでいくことなのだと私は信じている。


ヒロシマもナガサキのことも、知っていると~知っているつもりでいたけど。読んでよかった。知ることから逃げだしそうになっていた自分を恥じる。実在のモデルがあるという物語に登場する人たちのこと、「一発の爆弾のすさまじい暴力」を改めて思う。
そしてそれはそのまま福島第一原発事故への思いにも繋がってゆく。原発反対。こどもを守れ。命を守れ。



*追記

過去のものですが伊津野雄二氏の個展案内がすばらしかったのでリンクします。
ギャラリー島田2010年11月伊津野雄二展 -Angels we have heard on high-


読んでる間じゅうグレゴリオ聖歌が耳の奥で小さく低く流れてるようだった。Gregorian Chant:Advocatam Llibre Vermell de Montserrat~youtube


朽木祥さんの本、さかのぼって『かはたれ―散在ガ池の河童猫』 福音館書店 (2005/10)から読み始めています。
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by bacuminnote | 2012-07-30 17:04 | 本をよむ
▲ 暑い。
暑いし、湯気の出るたべものは嫌やなあと思って「お昼は素麺にしよか」と、ついつい言ってしまったけれど。
せやせや。素麺はこしらえてる間に もうもうと湯気が出るんやった。
それに今は相方と二人になり、一人何束位茹でよか?つゆはどれくらい作ろか?と、季節の始まりは忘れてることが多く もたもたして余計に暑い。

▲ それでも、茹であがった素麺をザルにあげて氷水で洗ってるときの白くて細い麺の なんときれいなこと。つめたい素麺の ああ、おいしいこと。
パン屋の頃、売れ行きのがたんと落ちる夏に(おおきい声では言えんけど→)「夏はやっぱり麺やなあ」「おいしいなあ」と、家族でつるつる食べたことを思い出す。
いまはスーパーで播州や小豆島や、いろんな産地の6束ほど入ったパックを買って来るが、子どもの頃は素麺といえば「三輪(みわ)」だった。三輪素麺は素麺発祥の地とも言われてて、工場から個人のお家でやってはる所まで大小いっぱいの素麺屋さんがあるんよね。
門干し(かどぼし)と言うて麺を乾燥させてるときの風景は、子どもの眼にもうっとりするほどきれいやった。

▲夏休みのお昼は冷たいおかいさん(茶粥)か素麺が多かった。大きな長い木箱(いまのお中元用みたいな上品な桐の箱とかじゃなくて、200束~300束入りの)に入ってた素麺を母に「◯束出してきて」と言われては麺が折れないように、気ぃつけながらそろーっと取り出すんやけど。今思ったら家族だけでも大人数で、住み込みの従業員の人らも入れて一体どれくらい茹でていたんやろなぁ。
鮎の季節の夏は家業が忙しくて、五升釜(これで四升のご飯を炊く)が三つも並ぶへっついさん(かまど)の向かい側の壁に付けた(かっこよく言うたらカウンターみたいな)台とお尻がはみ出るような座面の狭い長い椅子があって、そこに手の空いた従業員の人から順番に座る。

▲ ふだん子どもらは居間で食べるのだけど、忙しい日はその台の端っこに並ぶんよね。大人たちは「食べる」というより「流しこむ」感じ。(せやから、おかいさんや素麺だったのか、と今頃気づく)母はいつでも一番あと。ゆっくり座って食べてるのを見たことがない。それに、なんといってもへっついさんの前やから、暑いの何の、って。

▲この間から 宮本常一著 『庶民の発見』(講談社学術文庫 1987年刊)という本を読んでいる。あちこちに吉野や木曽が出てきて「近い」感じがする。第二章の「貧しき人びと」に「嫁の座」という一節があり、ヨメ・ムコという言葉について書いてある。この二つの言葉は対(つい)のように思ってたけど、ヨメという言葉はムコよりずっと後におこったものだそうだ。(以下 ちょっと長くなるけど引用してみます)

▲『ムコというのはムカエルという言葉からきたものと思う。ムカエルは古くはムコウルである。ムコウル人の意味であろう。すでに九百年近いまえからある言葉である。そのころの男は好きな女ができるとそこへひそかにかよったものである。そして愛情が成立すると、女のほうではムコトリということをした。男は正式に女の家に迎えいれるのである。』(p44)

その後、鎌倉時代から室町時代にかけて武家政治がおこなわれ、戦を事とする日々がつづき、男の権力がいちじるしくのびてきてからは、女の位置に変化が生じてきた。(中略)男の家のいそがしいときには、女が男の家にも手伝いにいく習慣が生じたのである。これがヨメであった。ヨメというのはユイメという言葉のなまったものと思われる。鹿児島の南の島々にはユウメという言葉ものこっている。
ユウメというのはユイをする女ということであり、ユイとかヨイとか、またはユウというのは交換労働のことで、いまも民間ではひろくつかわれている言葉である。
』(p45)

ヨメはどこまでもヨメであった。ムコの家にいてもやとわれているようなものであって。かせぐだけはかせがされて、一年に二回か三回、センタク日といって里帰りをゆるされると、はじめて家へかえってのびのびと足腰をのばし、自分の身のまわりのことをしたいだけしてムコの家にかえったのである。』(p46)

▲時代を武家政治のころまで遡らずとも、わたしの親の世代でもじゅうぶんに「ヨメ」はヨメであったのだろうと思う。母もしかり。義母もよく結婚した頃のことを思い出しては 苦笑しながらぼやいてはった。「節分に式して嫁入りしたら、もう次の日から女中さんや。あとで聞いたらな、前に いはった女中さんは一月いっぱいで暇出したんやて。ほんま、昔は むちゃくちゃやろ」
でもね。そんな目に見える苦労も見えない苦労も、いっぱいしてきた「お母さん」二人が 家事分担してるカップルを見聞きすると「主人にそんなん させてお嫁さん何してはるんやろ」とか、信じられんようなこと 言うてるんやけどね。ふうう。



*追記
宮本常一情報サイト(NPO法人周防大島郷土大学HP)

■ 素麺の話から「ヨメ」の話まで飛んでしまいましたが。
ことばは生き物で~というのはこの前書いたとこやけど。せやけどね、わたしはこの頃の若い男子たちが自分の妻のことを「うちのヨメが」というのは、しっかり家事や育児のできる男子であっても、ううむ~と唸ってしまうんですが。

■素麺の門干しいうたら、天日干しの風景ってすきです。海のそばの魚も、梅干しも、胡麻も。
故郷では 国栖(くず)の和紙の天日干しと吉野杉の割り箸~「箸の花」が咲いてるところが、心にのこる風景です。
そうそう、わが家の夏定番のアイスキャンデー「北極のアイス」の棒は吉野の間伐材利用やそうです→

■きょうのBGMはだいすきなBALMORHEAの"RIVER ARMS"からBaleen Morning→
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by bacuminnote | 2012-07-19 11:36 | 本をよむ | Comments(0)

そのなかのひとつ。

▲この間 友人が『朝、土手を歩きながらいつも思う。今度生まれてくるときには、小さな鳥のように罪のない生き物に生まれてみたい・・』とツイートしてた。(←そう言えば、tweetって「小鳥のさえずり」という意味やったよねえ~)
自然の中で生きてゆくことは決して甘いもんやない、のはわかってる(つもり)。けど、そのきもちワカル。友のツイートは「次の瞬間、おまえ中学生か?とひとりでボケ&ツッコミする・・・」と続いて。散歩の途中ぶつぶつ独り言の友の様子が目の前にうかぶようで、笑ったあと「しかし、キミ、きょうびの中学生がそんなこと夢想するか?」とわたしもつっこんでみる(笑)

▲それでも。
朝、いくつも重なるいろんな小鳥の鳴く声を近く遠くに聴きながら、そろり庭にでて洗濯物を干してると、友よ、わたしもそんなことを思ったりする。そして、鳥になってさみしいあの人のとこや、たのしいあの人のとこに飛んでく。(などと、もっと甘いことを想像してる・・苦笑)
『小鳥来て幸福少し置いてゆく』(星野椿)

▲ この間から宮本亜門さんが気になっている。
きっかけは『THE BIG ISSUE』(2012.5.1 190号)で愛読してる連載コラム「自閉症の僕が生きていく風景」の東田直樹さんが宮本亜門さんと対談、という特集記事を読んでから。
この対談、とてもとても心に沁み入るすばらしいもので、もともと東田さんのコラムと、文章から湧く東田さん像には 惹かれていたけど。この対談記事読んで「違いがわかる」コーヒーのCMでしか知らんかった(・・すみません)演出家の宮本亜門さんもあわせて、いっぺんにふたりのファンになった。

▲ なんで対談相手が宮本さんかというと、彼もまた東田さんのコラムの愛読者やそうで。それは記事はじめに載ってる写真の東田さんに向けてはるうれしそうなやさしい視線でもよくわかる。
これ、ほんまにええ笑顔、ええ写真で(by高松英昭氏)『対談に同席したみんなが、二人の間で繰り広げられたすばらしい時間を共有した』とあったけど、その空気が写真にもちゃんと写ってるんやろなあ。

▲ この対談の中で宮本さんが「僕は子どもの頃ひきこもりで、自殺をしようと思ったことがあった」とあったのがずっと残っていて、どんな子ども時代を過ごさはったんやろ、と思ってた。さっそく図書館で『わたしが子どもだったころ3』という本を見つけて読んだ。この本は同名のケストナーの本ではなく、各界で活躍する人たちにその子ども時代を語ってもらう、というNHKの番組名らしい。その中での発言をまとめたのがこの本で、小さい子にも読めるように難しい言葉には注釈がついている。
宮本さんが生まれ育ったのは新橋演舞場前の喫茶店。『話し相手は大人、それも役者さんや芸者さんばかり。学校から帰ると芸事に夢中になっていたから、みんなが見るテレビ番組の話題にもついていけない』

▲ そのころ宮本少年がすきだったのが仏像。写真集で仏像を見て、以来その美しさにとりつかれ、中学生になると小遣いをためて一人夜行列車に乗って奈良や京都通いが始まる。
『向源寺の十一面観音の腰つきのなんとエロチックなこと、中尊寺の弥勒さま、洋の東西、時空を越えたような神々しさ、東大寺二月堂に並ぶ三尊のぞくっとするほどの美しさ、薬師寺東塔の、空を背景に屹立(きつりつ)するアンバランスでリズミカルなたたずまい・・・』(p79より)
すごいなあ。ひとり、夜行列車に乗って出かけていく熱情にリスペクト!

▲ 少年は男の子がおもしろがるちょっと暴力的な遊びにもついていけない。でも、そんな自分をさとられまいと、皆と一緒に笑おうとして。『本心を偽って、みんなに合わせてる自分はうそつきだ』と、どんどん人とのコミュニケーションを警戒するようになる。
その後、高1のとき寮生活で体をこわし不登校に。そうしてそのまま引きこもり生活。宮本さんはその間(かん)部屋のなかでミュージカルからクラッシックまでいろんな音楽を聴いて、聴いて、聴きこんでいたそうで。音楽が大きな救いだった自分の思春期を思い、これにはしんそこ共感。

▲翌年、お母さんのすすめで某大学病院の精神科を受診したときのこと。先生の気さくな問いかけや診察室にあった弥勒菩薩のレプリカに少し心が軽くなって、宮本さんは仏像のことを話し始める。
「ぼく、東大寺の戒壇院の四天王が好きなんです」
「わたしも四回くらい見たかな」
「ぼくは五回以上」
「すごいねえ」
という展開に。
ほんまに人はどこで何に、だれに、会うか、わからへんねえ。
このあと、凍ったきもちはすこしずつ、ゆっくりととけてゆく。よき人に出会ったからか、もうその時がきてたのか、その両方なのか。
そして何より、ずっと部屋のなかでひたすら音楽を聴いていた時間もまた「大事な時間だった」と、べつの場所で宮本さんが言うてはるのも読んで頷く。

▲ 「であう」といえば、いまこれを書いていて、数年前に観た『明るい瞳』(ジェローム・ボネル監督・脚本)というフランス映画を思い出した。
ちょっと風変わりで、不器用で。だから皆に理解されず、コミニュケーションがうまくとれない主人公ファニーという若い女性の物語なんだけど。映画のコピーはたしか「ことばは通じるがきもちが通じない。ことばは通じないがきもちは通じる」というのだったと思う。(←公式HPはもうなかったので確かめようもないのですが)そんなファニーが同居していた兄夫婦の家を出て、言葉の通じないドイツ人の木こりの青年と出会う。でも、ただ恋してハッピーエンドというのではないんよね。90分もない短い作品だったけど、とてもよかった。劇中いちばん心に残ったことばがこれ。
『自分にとって「上手く呼吸のできる世界」っていうのが、きっとどこかにある』

▲子どもも若いひとたちにも、せやから、「ここ」がすべて、って思わないで、とつたえたい。家が、親や家族が、学校が、生まれ育った場所が、合わないこともあるかもしれない。(わたしの周囲にはわたしも含め、むしろ「合わなかった」友だちのほうが圧倒的に多い)息苦しいかもしれないけれど。「ここ」は one of them でしかない。
どこかに「上手く呼吸できる世界」はある。きっとあるはず。甘い、と言われるかもしれないけど、わたしは自分が子どものときも、親となってからも、いまもずっとそうおもってる。


追記
その1
宮本亜門さん関連ではもう一冊『親子論。』(終刊朝日編・朝日新聞社刊)も読みました。文字通りいろんな親子の対談集。宮本父子の対談で印象深かったエピソードを。
宮本亜門さんの亡きお母さんと12歳年下だったお父さんは恋愛結婚なんだけど。当時お母さんの須美子さんは43歳。前夫との間にふたりのお子さんがいてはったとか。ケイオー出のお坊ちゃんだったお父さんと元SKDレビューガールの美しいお母さんの愛の結晶が亜門さん。
そのお母さんが亡くならはったとき、病室でのこと。
亜門「おふくろが死んだとき、親父が優しくキスしてたのが忘れられない」
父「髪が乱れておいたから、それを直して綺麗にしてあげないと、と思ってね。そしたら急にキスしたくなっちゃって。大好きだったよ、って。惚れてたし、本当に美人だったんだよ」

いいなあ。いいお話。

その2
『明るい瞳』予告編

その3
蛇足ながら
『小鳥来て幸福少し置いてゆく』の作者は星野立子の娘、高浜虚子の孫娘さんです。
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by bacuminnote | 2012-07-08 20:55 | 本をよむ | Comments(0)