いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2012年 09月 ( 3 )   > この月の画像一覧

ふしぎななぞ。

▲ いつだったか、webのインタビュー記事で映画監督の吉田大八氏(1963年生まれ)が自らの高校生時代を『当時は携帯できるプレイヤーがなかったから、学校にいるあいだも早く家に帰って音楽を聴きたい、とひたすら耐えていたことだけは覚えています』と語ってはって、思わず「おんなじ!」とパソコン画面にむかってさけんだ。

▲というてもね、当時(←監督より8年前になる)の高校生はそんなにたくさんレコードも持ってないし、わたしの場合、そのレコードだって田舎じゃ売ってなくて。ガッコのある街にもなくて。結局ガッコ帰りに(途中まで定期券を使って)大阪まで買いに行くんやから。電車賃やら何やら考えても、ほんまその道のりの長かったこと。

▲ そうして、やっと手にしたレコードも、ヨロコビを共有できる友だちがなかなか いなくて。ああ、だれかと一日中音楽聴いてずっとずっとレコードの話ができたらいいなあと思ってた。
だから、ひとつ上のセンパイがいつも気になるレコードの袋を小脇にかかえてるのをみて、もうそれだけで「この人と話がしたい」と、大胆にもラブレタアならぬミュージックレタア(こんなん聴いてる、あんなん聴きたい・・こんど◯◯が出す新譜たのしみ・・・みたいなはがき)を出したりして。

▲17歳。ロックと詩。と、まあ、これがコイに発展したら小説で。(・・・というか、実際「ポストカード」って小説をむかし書きました)
残念なことに現実の世界ではコイなどはるか遠く、しかし「文通」はしばらく続いてた気がする。いま思い出しても、得難い、ありがたい、すてきな「音ともだち」だったなあとおもってる。

▲ さて、昨日イーユン・リーの『黄金の少年、エメラルドの少女』(篠森ゆりこ訳 河出書房新社2102.7刊)を読み終えた。短篇集でふだんだったら一日~二日で読める本かもしれないんだけど。
なんか「そうはさせまい」感じがあって。ゆっくり、ゆっくり。毎日寝る前に一編を行きつ戻りつしながら読んだ。

▲訳者のあとがきに、著者のリーは音楽好きで『小説の雰囲気に合った一曲を特別に選んで何度も聴いて、身につけ、それに合わせて書くこともあるそうだ』とあって、うれしく納得する。作品中にも歌をうたう場面や楽器がよく出てくるんよね。小説でも、映画でも、直接音楽が出てこなくても、作品や文体、映像に音楽をかんじるものに、いつも惹かれる。
そうそう、前作『千年の祈り』を執筆中はU2を聴いていたらしい。今作(「優しさ」)ではマーラーの交響曲第一番を聴きながら~とのこと。

▲ 前のも、今のも「孤独」をぎしぎし感じながら読んだ。さみしくてつらくて、でも人が生きてゆく根幹と思える「独りであること」その尊さ。
最後の一編、表題作の『黄金の少年、エメラルドの少女』はこんな風に終わる。
三人とも、孤独で悲しい人間だ。しかも、互いの悲しみを癒せはしないだろう。でも孤独を包み込む世界を、丹精こめて作っていくことはできるのだ。
ほぉー、と長い息をついて本を閉じる。

▲ そういえば、と絵本『エミリー』(マイケル・ビダード文 / バーバラ・クーニー絵 / 掛川恭子訳/ ほるぷ出版1993年刊)を。このしずかな絵本にもピアノの音が流れてる。
エミリーとはアメリカの詩人エミリー・ディキンソン(1830~1886)のこと。
「わたし」がこんど引っ越した家のむかいに妹と二人で住んでいる女の人は、もう20年近くも家の外に出たことがなくて、知らない人がくると、どこかにかくれるそうで。町の人は彼女(エミリー)のことをいろいろに噂するのだけど。

▲ わたしはピアノの上手なママとパパの三人暮らし。ある日、わたしの家の郵便受け口にエミリーからの手紙が届いて・・・。
この絵本はエミリーが書いたのではないけど、どの頁を開いてもことばのはこびが、とても詩的。
「詩ってなあに?」ときくわたしにパパがこう答える。
ママがピアノをひいているのをきいてごらん。おなじ曲を、なんどもなんども練習しているうちに、あるとき、ふしぎなことがおこって、その曲がいきもののように呼吸しはじめる。きいている人はぞくぞくっとする。口ではうまく説明できない、ふしぎななぞだ。それとおなじことをことばがするとき、それを詩というんだよ

▲ 又、ある場面では ひざの上の紙をみて「それ、詩なの?」と聞くわたしに、その人は答える。
いいえ、詩はあなた。これは詩になろうとしているだけ
文章だけでなく バーバラ・クーニーの絵も(もとはといえば、エミリー・ディキンソンのこともよく知らずに、バーバラ・クーニーの名前に手にとった本だったし)しずかな文章にとてもよくあってすき。ていねいに描き込まれた絵の一枚一枚に、その中に込められたものを考えながら、謎解きのようにまたもう一回と読むのもたのしい。

▲ ああ、まだまだ、あの場面もこの場面も書きたいことだらけだけど。(つづきはどうぞ絵本を手にとってください。)
最後にマイケル・ビダートのあとがきの中で、エミリーが亡くなる前の25年間の隠遁ぶりと、しかし、その間(かん)のエミリーが庭仕事の達人だったこと、知らない人に会わなくても、子どもたちとはいつもなかよしだったこと。子どもたちに二階の自分の部屋からかごにショウガ入りクッキーを入れて、下ろしてあげたというすてきなエピソードが紹介されていて、うれしくなる。
そしてマイケル・ビダートは後書きをこうしめるんよね。うっとり。
エミリーの部屋の窓の下に立ったとき、エミリーがこのお話をわたしに、部屋からおろしてくれました。


*追記
その1
エミリー・デキィンソン ミュージアムの HP。英語なのでちんぷんかんぷんですが、動画もあってふんいきを楽しんでいます。
です。

その2
イーユン・リーの前作は映画化(DVD化も)されています。公式HP
この方は北京大学を卒業後、渡米、アイオワ大学院で免疫学の修士課程を終えた後に、方向転換して創作科に~そして英語で執筆されるようになったそうです。イーユン・リー以外でも 母語でない言語での創作に、ここ数年関心をもっていますが、その意味について考えながらも、中国語が母語の人が英語で書き、その英語を日本語が母語の人が邦訳したのをわたしは読んでいるのだなあ・・とあらためて。

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by bacuminnote | 2012-09-27 16:31 | 音楽 | Comments(0)
▲ 着ては洗い、干して乾くとすぐまた着て。すっかりくたびれたTシャツを今日もまた洗って干した。9月も半ばすぎやのに相変わらずの暑さやから、明日もまたコレ着るんやろなあ。
若いときは無理しても「かっこええ」方を選んでた気がするけど、この頃はかっこより着心地がだいじ。ここちよいものは色あせても、何度も、いつまでも着てる。でも、年をとってきたからこそ、若いときとはちょっとちがう観点で「かっこええひと」にはやっぱり憧れるなあ。
さっぱりとしてよく馴染んだ服。やさしさと賢さが しずかな人。あと、背筋のぴんとのびた人。(ハードル高し)

▲ 先週末、京都に行って来た。
一番の目的は うらたじゅんの個展。二番目はそのギャラリーのわりあい近くの 北村美術館という茶道具の美術館。
じゅん同様40年来の旧友Mと久しぶりに歩く京都のまち。美術館のある河原町今出川あたりもなつかしい通りだ。それでも、もうほとんど忘れてるなぁ、と思ってたのに。交差点でふと見上げた「出町柳輸入食品」の看板に、とつぜん記憶のスイッチ・オン。この店の前を通ると買ったチョコレートに始まって、次々にいろんなことを思い出した。

▲ 北村美術館は吉野出身の実業家で茶人でもあった北村謹次郎氏のコレクションの保存・公開のために昭和52年(1977)に設立されたそうだ。だけど、わたしはつい最近まで知らなかった。(又この存在を知ったのが、ブログ「加藤わこ三度笠書簡」のコメント欄で。そしてブログ主で、おなじく吉野出身で隣町のわこちゃんも知らなかったというのもおもしろい。)
わたしはその北村本家のすぐ近くで生まれ育った。子どもの頃は毎日近所の友だちと北村さんちの高い木塀にボールあてて遊んでた。(すみません)
そうして、塀を越してボールを飛ばしてしまってはそのつど「取らせてくださーい」とお願いしに行くんよね。

▲ここのお家は子どもの目にも「とくべつ」な感じがして、ひんやりと薄暗い玄関に自分の声がひびいて緊張する。それでも顔見知りのお手伝いのおばさんのやさしい顔が 藍色の大きい暖簾のむこうから見えるとほっとして、広い土間を越え、ようやくお庭に出るんやけどね。そこは「お庭」とはいえないくらい広くて迷いそうになって、たいていボールは探せないまま「おおきにぃ」と出てきて、外で待ち受ける仲間に「やっぱりあかんかった」と答えるのだった。

▲ おっと、またまた道草ばかりしてたら美術館の話までたどり着けなくなるのでこのへんにして。
今回はMが一緒だったから道に迷うこともなくスムーズに到着。
ここは年に二期(春と秋)のみの開館で、その日は秋期展の初日。お茶会の設定で「寄付(よりつけ)」「濃茶」「続き薄茶」「懐石」と道具立てされているそうで。お茶事の経験も豊富なMがいろいろ教えてくれて、ちょっと見直した。(←「ちょっとだけ~?」と言われそう・・笑)
信楽の四方瓶掛(陶器の四角い火鉢みたいなもの)と織部の焼物鉢(これは重要文化財とのこと)と鍍金経筒(←いま調べたら「めっき きょうづつ」と読むそうだ。この他にも難読漢字多し。目録にふりがなつけておいてほしいなあ・・苦笑)の花入れがとってもよかった。

▲ 北村美術館を出て、こんどはいよいよ出町柳のトランスポップギャラリーに。
いつもあほなこと言い合うては、あははと笑いころげてる仲間のじゅんが、マンガ家・イラストレーター「うらたじゅん」の顔で作品の前に立つのがガラス戸越しにみえて、どきっとした。そう、たまに(?)見せてくれる このきりりとした顔にわたしは会いに来たのだ。
今回は『駅で待っている』というタイトルで、いろんな汽車、電車をめぐる作品。じゅんのマンガにも登場する嵐電、わがセイシュンの市電。京津線に和歌山の野上鉄道。そうして今春亡くならはったじゅんのママの故郷 岡山の臨港鉄道~ていねいに描き込まれたペン画。初めて見るのに、いつかどこかで会ったことのあるような、なつかしい時間や風景。でも郷愁だけではない、その合間に見え隠れするふしぎな空気に、ああ、うらたじゅん、とおもう。
そう、猫も金魚も蝶、人魚姫にカブトムシもまた。子どもたちとおなじ存在感でもって物語を紡いでいて愉しい。

▲ ギャラリーでは画家の林哲夫さんが帰らはるところで、思わず氏の"daily-sumus"のファン宣言をしてしもたり、なんと先述の三度笠・加藤わこちゃんもちょうど来ていて、うれしいおどろきが重なった。そういえば、Mもわこちゃんもじゅんの紹介で知り合ったことに気づく。
ありがたい。(ついでに?わが相方にもじゅん繋がりで出会ったことを思い出す)
18の春に会うてから、お互いそんなふうにあの人この人を紹介し合って、おもしろくて、ええ人らといっぱいつきあってきたんよね。
ギャラリーを出てMと二人で 駅近くのジャズ喫茶にて旨い珈琲とケーキとええ音楽にしばし聴きほれて。
ああ、しみじみと佳い一日だったな。
そうして北村美術館の秋季展のタイトル『追憶の茶』を思いながら、京阪電車に乗り込んだ。


*追記

その1

うらたじゅん個展「駅で待っている」
2012年9月15日(土)~30日(日)
<在廊日>各土日pm2:00~
<場所>京都・出町柳トランスポップギャラリー 京都市左京区田中関田町22-75 Tel.075-723-1780
<営業時間>
(注・19日(水)は臨時休業となりました)
■水~土曜日:12:00~19:00

■日 曜 日:12:00~18:00

■定 休 日:月、火曜日



その2

きょうはこんなのを聴きながら。All My Favorite People(by Over The Rhine)
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by bacuminnote | 2012-09-18 15:10 | 出かける | Comments(0)

いまなら言える。

▲ ほんまに暑い夏やったけど(まだ暑いけど)朝夕はずいぶんすごしやすくなった。この間ぱらぱら俳句の本をめくってたら『足音のすずしき朝や胡麻の花』(松村蒼石)という句にであい、なんだか長い夏のつかれがすうーっと引いていくような気がした。
結局、今夏クーラーは一度もつけなかった。まあ別に今年に限ったことではなく、ここ数年そんな感じなんだけど。去年までは熱い物食べるときや、来客のときにはつけてたから。あ、つまり今夏はお客さんがなかったってことか。

▲ そういえば、信州から大阪に戻って一年目か二年目の夏だったか。
友人のブログに「わが家は扇風機だけ」とあって、十数年間 ♪ 夏でも寒いヨイヨイヨイ~の木曽の山中暮らしで身も心もすっかり「寒冷地仕様」になっていたわたしたちは「わあ。なんちゅうツワモノ。こりゃ、あの子ンちに行くのは夏すぎてからやなあ」とか思ったのだった(すまん。)
でも、もしかしたら、ここを読んでくれてる友人たちも、今夏のわが家に同じことを思ってたかもしれへんよなあ~と、ふと気づく。
いやあ、こんどから『どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません』と 看板あげとこか~(笑)

▲ さて、あちこち道草してる間に夏休みもおわり、もう九月になってしまったけれど 、今日こそ『最後の七月』(長薗安浩著・2010年理論社刊)だ。(二年前に図書館で借りて読んで、その後買って読んで、この間また読んだ~)
物語は長崎のとある小学校、四年の教室の「お別れ会」から始まる。今回転校するのは主人公の永坂ヤスハルとその友だちの田上カズちゃん。町の大きな自動車部品工場の閉鎖で、そこで働いていた人やその家族が次々と町を出て行くことになって、すでにクラスで九人も転校してしまい、みんな「お別れ会」にも慣れ?教室内もがらんとしている。

▲ 引越しの決まった二人はいつも一緒だったこの町に残る松浦にプレゼントしよう、とカブトムシとクワガタを十匹づつ捕まえる計画をたてる。
それが「バナナストラップ」といって、ストッキングにバナナを入れて焼酎につけて砂糖をかけて、樹液のような甘い汁でおびき出すという代物で。ふたりともそれぞれお母ちゃんにパンティストッキングをねだり、仕掛けを作るんだけどね。途中、高校生のお姉ちゃん・道子にストッキングを手にしたところを見られたヤスハルは「そんなもんはいてよその誰かに見られたら、あんた、一生棒に振るからね」とぴしゃりと言われるんよね(笑)

▲ この道子姉ちゃんがまた生意気で、ええ味出してておかしい。なんだか『オール・マイ・ラヴィング』(岩瀬成子著)のおねえちゃんみたいやなあ、と思った。このあたり兄弟姉妹の「下の子」のみが知る悲哀である。
道子姉ちゃんは「将来、外交官か通訳になった時とき、正しい標準語が話せないと困るから」とか言って家族とおなじ長崎弁を話さない。
「おれたちの方言は、そんなにおかしかと?」「あっちへ行っても、方言はあるとやろ?」と、弟は心配になって転居先の愛知県刈谷市のことを物知りの姉にたずねたりする。
というのも、クラスで先に大阪へ転校して行った子が方言をからかわれて、暴力事件を起こして捕まった、とか噂になっていたこともあって、ヤスハルだけでなく、神奈川県に引っ越すカズちゃんや他の子たちも長崎弁しかしゃべれないことが不安なのだ。

▲ 子ども時代にわたしは転居も転校も経験がないけど、夏休みに遊びにくる大阪のいとこたちの言葉遣いがものすごく都会的な気がして、最初の日はいつも、初めて会うたみたいにもじもじしてた。子どものことやから、そのうち慣れて方言そのまんまで話すんだけど。帰る時もよしのでは「さいなら」としか言わなかったのに「さよなら~バイバイ」と軽やかに手を振って家を出る姿に、ちっちゃい声でバイバイと応えたことが忘れられない。いや、いとこの喋ってた言葉というてもね、そんなしゃれたもの(苦笑)やなくて、別にどってことないわたしが今まさに喋ってる大阪弁やったのに。「都会」のまえで縮こまってたんやろね。

▲ さて、二人の昆虫採集のようすもなかなかゆかいだ。
おばちゃんの眼からみたら「かいらしなあ」と思える小4男子も、読んでる間にいつしか小4の女子に(←わたし)戻ってしまうと「男子って、ほんま、あほやねんから」と道子姉ちゃんばりに小馬鹿にして笑ってしまう。今まで読んだ多くの子どもの本は女の子の物語が圧倒的に多いから、男の子の話では『夏の庭』(湯本香樹実著)や
『ごめん』(ひこ・田中 著)以来の気がして、とても新鮮でおもしろかった。

▲ そうそう、この二人がプレゼントしようと思ってる松浦、って男子は切れ者でクールで語彙も多く大人びてる。実際、二人より一足先に十歳の誕生日を七月に迎える。曰く、十代になったらな、青春が始まる。
そうたい、青春たい。青い春、と書いて、青春たい。青い春をすごすと、男子は、男に変わって、いくけんね。髭が生えて、ちんちんにも、毛がはえて、声も、渋うなって。(中略)女子は、子どもの産める、大人の女に変わるとやぞ。すごかやろ、青春は。ティーンエイジャーは、すごかやろ・・・』(p19)

▲松浦は体が不自由なので、二人がいつもかばんを持ったり肩を貸したりしてるんだけど、松浦は「ありがとう」とは一度も言ったことがない。二人だけでなく先生にも他の人にも一切言わない。松浦の中に何かがあるんやろ、とヤスハルはおもう。
本の帯にも書かれてる『おまえも、体の半分が、動かんくなったつもりで、生きてみんね』は松浦からヤスハルへの贈る言葉。沁みる。
この本がおんなじように引越しすることになった 子どもたちに届くといいな。
そして、その子たちが新しい地でもたのしいことがいっぱいありますように。
居心地のいい場所がひとつでも持てるように、ねがっています。



*いつもながら長い 追記

その1
昨日から長谷川摂子著 『家郷のガラス絵』(未來社刊)を読み始めました。副題「出雲の子ども時代」にあるように長谷川さんは島根県生まれ。さいしょは明治十九年生まれのおじいちゃんの話から始まるんだけど、でてくる会話はみな出雲弁で。おじいちゃんとおばあちゃんの結婚話を孫(長谷川さん)が聞く場面ではこんなふう。ええかんじなので、ちょっと長いけど書き写してみます。

もうわしに嫁さんがきまっとる話は聞いとったが。松江の大橋をわたったとき、むこうから若い娘さんがお針道具をかかえて歩いてきた。叔母さんがわしのひじをつついて『あれ、あのしゅ、ああが、おまえさんの決まったひとだが』てていうだ。わしゃ、びっくらして立ち止まって、その娘さんを穴が開くほど見たがね」
「向こうは気がついたかね」
「いんや、知らん顔してすれ違っていかしゃったけん」
「ふうん、そおで、おじいちゃん、どげ思った?」
祖父はにやにやしながら答えた。
「ぽちゃぽちゃとかわいかったのう

(p15「祖父の新婚旅行」より抜粋)

会ったことも見たこともない長谷川さんのおじいちゃんやおばあちゃんの若かりし日が、なんか映画みてるみたいに浮かんでくるのは、方言での会話の力やなあ、と思う。テレビが登場してからは、地方のことばはどんどん薄まってゆくけれど。その昔はいやだった方言だけど。「標準語」「共通語」それが何やのん と、今なら言える。
自分の生まれ育った土地のことばがいとおしい。大事につきあっていきたいです。


その2
引越しといえば、前に読んだ『ドアーズ』(ジャネット・リー・ケアリー著 /浅尾敦則 訳/ 理論社刊)もよかった。この本のことは前に(2007/3/17)ここにも書きました。
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by bacuminnote | 2012-09-07 20:40 | 本をよむ | Comments(0)