いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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てばなさない。

▲ 選挙の翌日のこと。重い足取りで買い物に行く途中、選挙ポスターの前でつい止まってしまった。なんやのん。納得いかへん。何考えてんのん?ええかげんにせんかい!と、どんどん口が悪くなる。(←あ、声には出していないと思うが。自信はない)いや、苛立ってるのはこのポスターの人にだけじゃないんだけど、写真をみてたらまた腹が立ってきて。ぎゅっと握った拳に力が入る。と、後ろから灰色の作業服の男性二人が来はって、帽子に片手をかけながら「あのぉ~すんませんけど・・・これ、もう片付けさしてもらいますんで」と言われてしもた。

▲ 慣れた手つきでポスターは、さっさか剥がされ、掲示板は取り壊され。
そう「選挙は」終わったのだった。ちょっとすぐには立ち直れないほど さんざんな結果をみせつけられて。それはあっけなく開票とほぼ同時に、わけがわからないまま。
いやいや。終わってへんよ。ほんまのとこは「なーんも終わってない」んやから。そのことを忘れたらあかん。イカリつづけることを忘れたらあかんと思いながらいつもより大股で歩いた。
後ろの方ではドタンバタンと作業の音が響いてる。陽射しは明るくて温いのに、吹く風がほっぺたを射るようにつめたくて痛かった。

▲歩きながら、ふっと去年秋に読んだ 『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(梨木香歩著/ 理論社2011年刊)の最初の頁に書かれたことばが浮かんできた。
『群れが大きく激しく動く その一瞬にも、 自分を保っているために』
この本は主人公の14歳の男子中学生コペル君が(その昔学校の図書室で読んだ吉野源三郎『君たちはどう生きるのか』 の主人公もコペル君だったっけ。表紙がうかんでくる)小学六年から学校に来なくなった友だちユージンこと優人の家を久しぶりにたずねる。広い敷地にいろんな動植物のいる家にユージンはひとり暮らしていてるんよね。コペルは染色家の叔父さんと二人でよもぎの採集に来たのだった。

▲ そこで、叔父さん、ユージンの従妹のショウコ、彼女が森の中に匿ってるインジャって女の子。それに兵役拒否の米谷・・などが加わって、その一日が描かれる。学校に行かなくなった子、というと同じ著者の『西の魔女は死んだ』が「魔女修行」なら、これは「一人考え続ける」修行の話かもしれない。というか、そもそも「考える」ことは孤独な営みであるから、わたしなどはいつも途中で耐えられなくなって、つい「考える」糸を手放してしまっては「フリダシニモドル」をくりかえしてる気がする。

▲ 時としてかんたんに残酷になれる「群れ」。そこから確たる意志をもって離れるのか、あるいはもっと積極的に「群れ」の中に入っていくのか。それともその中で流されながら生きていくのか。
この本はほかの梨木作品とはちがって、怒りがぎしぎしと伝わって、それはちょっと息苦しいほどだったんだけど。その後もわたしの中にずっと熾火のようにして在るのが、前述冒頭のことばだ。

▲ だいじなのは「考える」しんどさに耐えかねて、投げ出さない。思考停止しない。人の判断に簡単に委ねたりしないこと。
歩きながら、何度も反復する。
駅前のショッピングセンターに着くと、ここでも選挙ポスターの掲示板撤去の作業中で。半分画鋲の外れたポスターがパタパタ忙しなく音たてて「取り戻す」が風に舞っていた。
 
▲以下『僕は、そして僕たちはどう生きるか』より抜粋。

「・・・泣いたら、だめだ。考え続けられなくなるから」(中略)確かに、泣いてる間はものが考えられない。よく、「泣きたいときは思いっきり泣け」とか言うけど、それは泣いていろんなものを発散させ、気持ちをすっきりさせる効用があるからだ。さもなくば甘い自己憐憫に浸る心地よさがあるからだ。僕はインジャのこの言葉で、一瞬にしてそのことを悟った。そうだ、確かに泣いていたって何にも考え続けられない。今、僕に 必要なのは、気持ちをすっきりさせることじゃない。とにかく「考え続ける」ことなんだ。』

『大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が、足がかりにすべきはそこだ。自分基準で「自分」をつくっていくんだ。他人の「普通」は、そこには関係ない。』

『人が生きるために、群れは必要だ。強制や糾弾のない、許し合える、ゆるやかで温かいきずなの群れが。人が一人になることも了解してくれる、離れていくことも認めてくれる、けど、いつでも迎えてくれる、そんな『いい加減』の群れ。
』 


* 追記
その1)
そういえば、高校生のころ聴いた岡林信康『見る前に翔べ』(1970年発表のセカンドアルバム。このときのバックは「はっぴいえんど」)をこのごろ時々思い出します。
この中に収められている『私たちの望むものは』は、映画『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』(2010年大森立嗣監督)で阿部芙蓉美がささやくような声でカヴァーしててじんときます。
『私たちの望むものは決して私たちではなく
私たちの望むものは私でありつづけることなのだ』
映画予告編

その2)
「考えつづける」で思い出したのは『茶色の朝』(フランク・パヴロフ/ 藤本一勇 訳 /ヴィンセント・ギャロ 絵 / 高橋哲哉 メッセージ)という本。以前(2008年) ここにも書きました。




その3)
今日はとても寒いです。気がつけばクリスマスイヴやね。クリスマス大好きだった子も大きくなり家を出て、ツリーはもちろんのこと、リースやオルゴールにいっぱいのお人形も飾らなくなって久しく。老夫婦ふたりは、小沢昭一さんの『母の日の常のままなる夕餉かな』をもじらせてもろうたら、「クリスマス常のままなる夕餉かな」です。
あ、この俳句は「母の日」を「誕生日」とおきかえても「(ケッコン)記念日」とおきかえても通用するわが家なり(苦笑)

ここでなんべんも紹介しているだいすきな変哲さん(小沢昭一さんの俳号)が先日亡くなられたそうです。とても、とてもさみしいです。
 『御降り(おさがり)や もうわがままに生きるべき  変哲』
 ※御降り~元来は元旦に降る雨をいう。今では正月三が日に降る雨や雪。

きょうはこんな歌聴きながら。今夜はギネスやな~
The Pogues and Kirsty MacColl - Fairytale of New York
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by bacuminnote | 2012-12-24 12:15 | 本をよむ | Comments(0)

口いっぱいに頬ばって。

▲ 「ちょっと涼しくなってから」と言うてた夏もすでに遠く「こんなきもちええ日に掃除やなんて」とパスした秋も仕舞い、「まだええか」とごまかした小春日和の午後の日もとうに過ぎてしもた。そうやって言い訳ばかりしているうちに、ほんまもんの冬がやってきて、ほんまに毎日寒いのナンのって。
せやからね、障子張替えも 押入れ片付けも古着の始末も。積んで積んで積んだ本の整理も、ぜんぶ「また、温うなったら」ということに。
そして、今年もなぜだか12月は駆け足で暮れてゆく、ね。

▲ 買い物の道中、つい選挙ポスターの前で足がとまる。見てたら腹たってくるのに。このうちから選ぶのか、と唸るのに。ここんとこ外出時につけているマスク(近所の団地解体工事の埃対策)のせいで眼鏡がすぐに曇るのに。
白く曇ったレンズの向こうに踊るのは空疎な言葉ばかりなのに。あーあと長—い溜息ひとつ付いて、そしてまた、ああ眼鏡はまた曇るのだけれど。
でも、でも「考える」ことも「怒る」ことも、手放してしもたらアカン。それではイカンのです。

▲ さて、スーパーに着いたら、どこからかぷーんとええにおいに引っ張られて、うろうろしてたら、催事コーナーで焼いたベーコンのにおいだった。やっぱりね。燻製のにおいは思い出のにおいだ。
開田高原で暮らしてた頃、相方が知り合いのペンションの人に燻製を教わり、当時13~14歳だった上の子と二人でハムやウインナやベーコンを拵えてくれた。相方が廃材で作った燻製小屋はご近所のおじいちゃんに「ゴミ箱作ってるんかい?」と言われた(苦笑)粗末なものだったけど。二人が時間かけて下ごしらえして、燻製して、旨かったな。あの頃は友人たちがやってくると、決まってハムやベーコンを食べてもらったっけ。
そうそう、薪ストーヴは燃やす薪の種類でときどき燻したにおいがするんだけど。ストーヴのそばに洗濯物を干してるもんやから、そのにおいがうつるんよね。まだ小さかった子どもが鼻をクンクンして「このシャツ、ベーコンのにおいがするね」と言って笑った日がなつかしい。

▲ ベーコンと言うたら、スタインベックの名作『朝めし』だ。これを読むときまってカリカリに焼いたベーコンとトースト、ちょっと濃い目に淹れた珈琲がのみたくなる。わたしがこの作品に初めて出会ったのは中学の国語の教科書(か、副教材か不明)だった。たしかその日は頭痛か寒気か、いや、眠気だったか(苦笑)とにかく不調ながらも我慢しつつぼーっと机の前に座っていたけど、この文章で一気に目が覚めた。

▲「朝めし」はわずかに四ページ半の短編で、たぶん綿摘みをしながら旅をしている「私」が通りがかりのテントのそばのストーブをかこんでる人たちに朝食をごちそうになる、というそれだけの話なんだけど。その描写は風景も色もにおいもすばらしくて、映画を観てるように情景が浮かんでくる。たぶん、文章からこんなに色やにおいや空気がたちのぼる、という快感はこのときが初めてだった気がする。そして何より、お腹がぐぐーっと鳴るのだった。

▲山あいの村、夜が明ける頃の空の色。深い藍色の山々。身にしみるような寒さのなか、若い母親が赤ん坊にお乳をやりながらストーブの火を突っつき、ベーコンをいためパンを焼く。
ストーブの裂け目からはオレンジ色の炎がほとばしり出ている。そうして彼女は
いためたベーコンを深い脂のなかからすくいあげて錫の大皿にのせた。ベーコンはかわくにつれてジュウジュウ音をたてて縮みあがった。若い女は錆びたオーブンの口をあけ、分厚い大きなパンがいっぱいはいってる四角な鍋をとり出した

若い女はベーコンの皿や、褐色の分厚いパンや、肉汁を入れた鉢や、コーヒーポットをならべ、それから自分も箱のそばにすわりこんだ。赤ん坊はまだ寒さから母親の胴着のなかに頭をうずめて乳を吸っていた。そのチュウチュウ吸う音を、私は聞くことができた。私たちはめいめいの皿に取りわけて、パンにベーコンの肉汁をかけコーヒーに砂糖を入れた。老人は口いっぱいに頬張って、ぐしゃぐしゃとかんでは、のみこんだ。
『スタインベック短編集』 大久保康雄訳/ 新潮文庫)

▲ いやあ、今これを書き写しながら、もうじっとしてられなくなる文章だ。
じっさい、わたしはその国語の授業のあと早退して家に帰るなり、トーストにベーコンをかりかりに焼いて肉汁をかけて「口いっぱいに頬ばって」食べたんよね。(←当時ベーコンは父の好物で冷蔵庫には たいてい入ってた)まだ濃いコーヒーは飲めなかったのでインスタントのコーヒーにミルクをたっぷりいれて。
いま思えばその時のベーコンは 後に作った自家製のものとは比べ物にならないほど、味も厚みも薄いものだったけど、おいしかったなあ。それに、なんで早退したかすっかり忘れてしまうほど、元気になった気がする。
しかし、その後もこの「早退して食べた」という思い出ばかりが強烈に残っていて、長いこと作品名がわからないままだったんだけど。大人になってそれがスタインベックの短編だと知って、改めて読んだら、案の定また食べたくなった。

*追記

今夜はこれを聴いています。
Goldmund - In A Notebook 
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by bacuminnote | 2012-12-12 21:49 | 開田村のころ | Comments(0)