いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

<   2013年 03月 ( 5 )   > この月の画像一覧

咲顔にて。

▲ いつもより早い桜の花にとまどいつつ、駅までの道、あっちの桜、こっちの桜を見上げる。ああ、桜なんて、と毒づきながらまた、つい桜を見上げて。わたし、クッセツしてるなあ~とため息ひとつ。
山ごと桜の咲きほこる故郷の春はもうちょっと先やけど。思わせぶりに寒暖を行きつ戻りつ、春は大阪にやってきた。
 
▲ サクラというたら、その語源にはいろんな説があるようだけど、動詞の「咲く」に接頭語の「ら」(複数の意味をもつ)をつけて名詞「さくら」になったという説を採用してる(笑)。
だから、以前書いてみた小説(『キスチョコレート』といいます)の登場人物に「咲ちゃん」と名付けたんよね。

▲何年か前に鷹羽狩行(たかはしゅぎょう)の挨拶句集 『啓上』(ふらんす堂2002年刊)を読んで、小説家の北原亞以子さん(先日亡くなられましたが)との対談のあとの一句に『咲くことは笑ふことにて福寿草』があって。
開田高原で暮らしてたころ、雪の残こる畑から見える黄色を思いだしてええなあと思って、ノートに書き留めた。

▲ そうして、笑顔のすてきなあの人、この人、と友だちの顔が次々うかんで。そのあと、あつかましいけど、わたしのテーマソングにしたいような句やなあとうれしくなった。
自慢やないけど、うまれてこの方 キレイやとかべっぴんさんとか言われたことはない。でも、笑うてる顔だけは ちっちゃい時から「笑顔良しやなあ」と言うてもろたから。(←今思ぅたら「そこしか」なかったのかも、やけどね)
そんなわけでこの句は以来、わたしの座右の句となったのである。
 
▲ 昨日、図書館で「きょう返った本」の棚の中、辰巳芳子さんの本が目に入った。近ごろ辰己さんの料理の本はあちこちで見すぎて、ちょっと満腹状態なんだけど、この本は 『庭の時間』(文化出版局刊)というもので。
さいしょに書かれた福岡伸一氏の「食べるものを限ることの意味」を立ったまま読んで、目次にむかうと十二ヶ月のタイトルがついていて、何ということなしに目で追ってたら四月のところで、とまる。

▲ 「四月 咲顔」とあったから。え?どう読むの?「さきがお」かな?・・・と、どきどきしながら頁をくると、みごとなしだれ桜の満開の写真に白抜きの文字で「四月 咲顔」。この辺りでわたしは(いつものことだけど)空いた椅子を探し、腰掛けてつづきを読む。
曰く、
柳田國男は「笑の本願」という文中で、声を立てて笑うのと、ほほえむ えみ とを大別し、ほほえむ笑顔を咲顔(えがお)と云うべきだと云っておられます。】(p46より抜粋)

▲ そうか。そういうことやったんか~と走るようにして(←こういうときの行動は早い・・)家に戻り、さっそく白川センセの本を開く。「咲」を開くと、最初に飛び込んだ象形文字が「笑」そのまんまで笑う。

咲は古い用例はなく、もとの字は笑で、「わらう」の意味であった。(中略)花がひらくことを、古くは花開(さ)く、花披(さ)くといったが、花咲くのように咲を「さく」の意味に使うようになったのは、花の開く様子を人の口もとのほころびる様子にたとえたのであろう。】(「常用字解」白川静著 平凡社刊)

▲自分の興味に引かれて走ったあとの、気持ちの昂ぶりもあってなんだけど、胸がいっぱいになった。
っていうのもね、じつは前から桜の花が咲くそのかんじ、おこられて拗ねた子どもが何かうれしいこと言うてもろて、ふふと笑う口もとみたいやなあ、って思ってたから。
そして、「ええ年して今だに<桜>に拗ねてる子ども」が「咲くことは笑ふこと」と知って胸つまらせてる。

▲なんか うれしい。
いやあ、ちょっと賢うなったなあ~
「知って」うれしいことはすぐだれかに「聞いて、聞いて~」と言いたくなるわたし。
せやからね、さっそく報告です。
春、しんどい人、痛いとこある人にも 咲顔のときがありますよう、ねがいつつ。



*追記
その1)
この前につづいて 連続投稿なり。
次回に書こうと思ってるうちに、忘れてしまうので。

その2)
今日はLouis Armstrong - When You're Smiling→

[PR]
by bacuminnote | 2013-03-29 14:09 | 音楽 | Comments(0)
▲ ちょっと暖かくなると、歩いてる人たちの表情も(それを見ているわたしの顔も)こころなしか緩んでいるように思える。いつも通る長い歩道橋の上、頬を刺すような冷たい風の中を お年寄りが一足一足 摺るようにしてゆっくり歩いてはるのを目にするのがつらかったけれど。
ぽかぽか陽気の日に、橋の真ん中でお知り合いと掛け合うてはる「ぬくなりましたなあ」の声と満面のえがおにも、春。

▲ このごろはご夫婦らしき、お年寄りのカップルが散歩や買い物に出て来てはるのをよく見かける。中には身を寄せ、手をつないでたり、腕を組んでるカップルもいて。どちらかの足腰の弱さを支えるためかもしれないけど。ええなあ~と、ときどき振り返って、春のひかりの中のふたりの後姿をもういっぺん見たりする。

▲ 気にいらんのは、なんかエラソーなおじいさん(苦笑)
手ぶらで先々歩いて、おつれあいが両手に重そうな買い物袋下げて、あとから追いかけるようにして歩いてはる姿。くわえて、おじいさんが(ときにはおばあさんが)相手のちょっとした失敗を(←たぶん)をなんべんもなじったり、怒ったりしてるのを耳にしたとき。
そういうときは、よそさんのことながら「なに言うてんのん!」と言いたくなる。なるけど、さすがによう言わんから(苦笑)ぐっと唇かみしめて通り過ぎる。

▲けど、そんなこと言うてるわたしが、家の中では相方にエラソーに言うてたり、エラソーに言われてかっかしてるんやから。よそさんのことを「見た目」だけでは単純に言えないんやけどね。でもでも、みんな、おたがいのパートナーや、だいじな人と、なかよぅに、何よりやさしくしようよ、とおもう。

▲ この間、図書館で手にした絵本はその名も 『老夫婦』(ジャック・ブレル 詞/ ガブリエル・バンサン 絵/今江祥智 訳/ブックローン出版)と、そんな年老いたふたりを描いた本だ。シャンソンのジャック・ブレルが作詞作曲、そして自らがうたう「LES VIEUX」(老夫婦)の歌詞にバンサンが絵を描く。

▲バンサンの絵はすばらしい。一見ラフなデッサンのようでいて人も、窓辺の珈琲カップでさえ、息づいて、動く。鉛筆や木炭の線描が、しかし力をもって見る者にせまってくる。せやからね。ことばがなくても(実際、バンサンの絵本に文字のないものもある)むしろ饒舌な感じがすることもあって。うまく言えないけど、わたしにとっては、すきだけど閉じたくなることもある(そしてまた開く)絵本だ。

▲ この『老夫婦』を初めて手にしたのは出版当時(1996年)だった気がするけど、その頃のわたしはまだ子育てに仕事に、文字通り無我夢中で。「老夫婦」といえば、相方の両親のことであり、朝早くから日の暮れるまで畑仕事に精をだすご近所の「じいちゃん、ばあちゃん」であり。いずれにしても自分には「遠い」ことだったのだろう。よくおぼえていない。
でも、今はいつしか自分にも近いことに思えるようになったんやろね。頁をめくるたびに、しんとしたきもちになって。またはじめから読み返した。

年老いた二人には、今はもう話すこともなく、ときおり、おたがいにそっと目をやるばかり。
お金があろうとなかろうと、みじめさはかわりなく、もうゆめもなく、思いやりがあるばかり。
家にいるふたりは、香草とラベンダー、それにこざっぱりしたにおいがしていて、昔の言葉が往き来する。・・・


▲ そうして、前書き(by クリスチャン・コンバ)最後の一文に深く頷く。
あなたのお仕事は余分なものを切り捨てて、品格をもって人間の信実を表現されています。老いたものにとっての哀しみは、外見ばかりにこだわる世間が、老いを醜いとしていることなのに、あなたくらいデリケートに、老いという主題を扱われることの出来る方はいないでしょう。本当にこの世での姿は老婦人であろうとも、心の奥に秘めたるもうひとつの「現実」ではまだ10歳の少女なんですよね

▲この絵本の世界は終始しずか。甘いごまかしなどなく、まっすぐに「老い」が描かれる。それはとてもきびしくてさみしいものだけど。若いときは読み過ごしたにちがいない場面のひとつひとつに、たちどまり眺めて「そうかもしれない」とかんがえる。
そうして、本を閉じてからもつらつらと「老い」や、相方と自分の老後を想像してみる。
こんなしずかな時間がわたしたちの上にも来るのかなあ。

▲そういえば、天野忠さんの『しずかな夫婦』という ええ詩があって、詩はこんな風に始まる。
結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。/とくに静かな夫婦が好きだった。/ 結婚をひとまたぎして直ぐ/ しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。
若いころわたしも「しずかなな夫婦」になれたらなあ、とおもったんよね。
けど、静かどころか、にぎやかな(うるさい?)夫婦のまんま 今年でもう34年目になる。

▲ 夫婦で、もうひとつ思い出すこと。
それは田辺聖子さんが「カモカのおっちゃん」と呼んではったおつれあいが亡くなられる少し前の病室でのエピソード( 『残花亭日暦』田辺聖子著 角川文庫刊)。
おっちゃんの看護、お母さんの介護、家事、作家として忙殺される日々。日々奮闘して疲労困憊のお聖さんにおっちゃんがベッドから言わはったということば。カモカのおっちゃん、やさしなあ。ええご夫婦やったんやなあ、とあらためて。
かわいそに。ワシは あんたの 味方やで。



*追記
その1)
天野忠さんの詩『しずかな夫婦』はここでも読めます。(個人の方のブログですが→
http://ameblo.jp/mrbean19680206/entry-11022242118.html)

その2)
この間も貼りましたが、再度。ジャック・ブレルうたう『Les Vieux』(老夫婦)
ジャック・ブレルといえば『Ne me quitte pas』(行かないで)が有名ですが
わたしはご本人の他ではnina simoneのうたうこの歌がすきです。→

[PR]
by bacuminnote | 2013-03-27 21:23 | 音楽 | Comments(0)

なおもしおんの。

▲ 梅の花が散って地面が桃色に染まってる。木瓜(ぼけ)の花は紅い蕾を日ごとにふくらませ。紫陽花の枝には芽吹いたきみどり色がまぶしくて。まだやわらかな葉っぱを広げ始めてるタンポポ。ああ春やね。今年も春は忘れんと来てくれたんや。ほったらかしの庭に、それでも時がきたら咲いてくれる花や新芽に、おおきになぁ~とおもう朝。
この間からの晴天続きに調子にのっていっぱい洗濯したけど、どうやら今日は雨になりそうだ。

▲さっきネットで『数珠ひろふ人や彼岸の天王寺』という正岡子規の俳句に出会って、天王寺のちかくのお寺にご納骨されてる友だちのお母さんのことを思っている。
もう長いことホームに入ってはったし、お会いすることもなかったから、わたしの中ではいつまでも若々しいお母さんのまんまなんだけど。
下宿ではなく友だちと一緒にママ(と彼女が呼んでいた)のとこに直帰、という日が、ほんま幾日あったことか。そのつどママは山盛りのごちそうを拵えてくれはった。そんな日はパパも仕事帰りに「ハイデ」(彼女んち近くのケーキ屋さん)のケーキをいっぱい買ってきてくれはって。

▲ 今思ったら、あの当時ママはまだ40代だったんよね。
初めて話したときに高橋和巳やニッティ・グリッティの名前まででてきて、すごいなあ。都会の「ママ」はちがうなあ、っていっぺんでママのファンになってしもた。
田舎育ちには何もかもが目新しく。トイレの壁にはjazz喫茶みたく大きなポスターが貼ってあって、リビングの本棚には、件の高橋和巳やパパの読む法律関係の本が並んでた。団地もテラスハウスというのも初めてだったし。
ときどきママの若い友だちの高校生や大学生が麻雀しに来てたりして。「進歩的」。ウチの親とえらいちがいや~と羨ましかった。

▲だから。
彼女がわたしと同じように家や親への不信や愚痴をこぼすのも、「家を出たい」というのも、その頃はちょっと考えられへんかったけど。
思春期の子どもと親の関係って、いつもどこでも、くんずほぐれず(←「組んず解れず」と書くと今知りました)の格闘期かも。そうして、わたしも友もさんざん親とぶつかり、時にイタイ思いもして。いつしか母になり。
悪友はやがて祖母にもなりにけり~

▲そういえばママが俳句の会に入ってはったこと、ずいぶん後になって知ったんだけど。いまだったら、いっぱい教えてもらいたいことや、話したいことあるのになあ。
俳名は紫苑だったそうで、いまは友がその名「しおん」で渋いええ句をひねる。
『淋しさを猶も紫苑ののびるなり』(あ、この句も正岡子規だ!)
紫苑の花言葉は「君を忘れず」だとか。
J、きみのママのことわすれません。ママが遠いとこに行かはった日からもう一年たったね。


*追記
ママとの話にでてきた ニッティ・グリッテイ・ダート・バンド~なつかしい!
Nitty Gritty Dirt Band~Mr.Bojangles
[PR]
by bacuminnote | 2013-03-18 13:14 | 俳句 | Comments(0)

ほんとにほんとに。

▲ ずいぶん前に姉(その1)が、冗談まじりに「わたし、時々な、人間が一生使えるお金って決まってる気ィするねん」と言い出した。「あんたはな、若いときまでに ようけ使ぅてしもたから、残りはちょっと。わたしは若いとき地味やったし、これからまだ使える」と言うや、あはは~と、自分で言うた説に自分で受け(苦笑)おかしくてたまらんという風に笑うのだった。

▲ その昔 、姉妹のうちでは末っ子のわたしが一番浪費家やったらしく、今の「地味」っぷりを何かというとそんな風にからかわれるんやけど。そして姉の珍説によれば、妹の財布はこれからも「残りちょっと」なまま 行くことになるわけやけど。まけおしみやのぅて、いつのまにか「ものすごぅほしい」「ほんまにほしい」というものがなくなった。それはある意味「足りている」ということかもしれないなとも思う。
そういうたら、子どもの頃はほしいものがいっぱいあったなあ。
当時の雑誌のクイズか何かで「写真の商品から◯円分自由に選ぶ」という景品があって、人形や人形の服、文房具、ブローチや髪飾り・・・どれも田舎には売ってないものばかりで、友だちとほしい品物の値段を紙に書き出して、なんべんも書いたり消したりして一生懸命計算したっけ。

▲なんでそんなことを思ってたかというと、この前「ほしいもの」の絵本を読んだから。
先日メルマガ「子どもの本だより」にて三冊の連作絵本の紹介があって、(『かあさんのいす』『ほんとにほんとにほしいもの』『うたいましょう おどりましょう』ベラ・B・ウィリアムズ作・絵 /佐野洋子 訳/ あかね書房)
すぐに図書館で本を借りてきた。家に帰るまで待てずに館内で立ったまま読む。(のちに座って読む)ああ、いい本教えてもろたなあ~なんかね、気持ちがこう、ふくふくとなる感じ。ぽかぽか陽気のなか 帰途おばちゃんはスキップする!

▲中でも
『ほんとにほんとにほしいもの』
(原題 "Something special for me" )はとても深く心にのこる本だった。これは連作の二冊目。
ある日、主人公の女の子ローザとかあさんとおばあちゃんの住む家が火事になり、何もかも失くしてしまう。アパートの一室に引越した後、かあさんは仕事先の食堂から大きなびんを持ち帰って、かあさんのチップやローザが食堂でお手伝いしてもらった小遣いや、おばあちゃんが日々の暮らしで節約したお金を貯めていくんよね。アパートにはかあさんが疲れて帰っても、くつろげる椅子がなかったから。やがて小銭が瓶いっぱいになって「かあさんのいす」を買う・・ってところまでが一冊目のお話。

▲ そうして、椅子を買って空っぽになった瓶に、またみんなで小銭をいれていくんだけど、やがてそれもいっぱいになり。こんどはローザの誕生日に「なにかすてきなもの」を買ってあげよう、ということになった。
わたしとかあさんは、おおいそぎでよそいきにきがえしました。
おばあちゃんは、小ぜにをおさつにかえました。げんかんを出ようとしたら、おばあちゃんの大きな声がしました。「ローザ、ほんとにほんとにすきなものを買うんだよ!」


▲ よそいきの服に着替えていそいそと出かける母子のようすが、目の前にうかぶようで、なんだか胸がいっぱいになる。最初に二人が行った先はローラースケート屋さん。友だちがみんな持ってる新しいローラースケート!ローラはオレンジ色の車のついた白いローラースケートを買ってもらうことになって。

▲お店の人が包装し始め、かあさんがお金を払おうとしたとき。
そのとき、きゅうにわたしは、ローラースケートがぜったいにほんとにほしいかどうか、わかんなくなりました。ほしいけど、あのびんをからっぽにするほど、ほしいのかしら。』と思い始めるのだった。
何もこの靴でなくても、道で競争だって、ダンスだってできる、ってね。
結局ふたりはなんにも買わずに店を出る。

▲ その次にむかったのはデパートの洋服売り場。
その次はアウトドアのお店にあったナップザック。
「ほしいけど、あのびんをからっぽにするほどほしいかしら」と思うと、やっぱり何も買わずに店を出て、とうとうローラは「なんにもきめられない」となきだす。
子どもが真剣に考え込む姿は、自分にも覚えがある。「お母さん、もうちょっと待ってあげて」と読んでるわたしまで泣きそうになる。と、同時に、かつて、わたしはこういう場面で、母として自分の子どもには「もう、何してんの。早う決めなさい!」とツノ出してた気もして。そのあまりに身勝手さに凹む。(息子たちよ、ごめん!)

▲ けど、ローラのかあさんは「しんぱいしないの。まだ時間があるもの」と言って、自分の働いている食堂に「おやつをたべながら、よーくかんがえようね」と連れて行く。
そうしたら、食堂の主人のジョセフィンは、アイスクリームののっけたパイ(おいしそう!)を運んでくれ、ローザが大好きな歌をジュークボックスでかけてくれるんよね。ああ、よかった。

▲さて、その後ローザが買ってもらうことになったものは?
「それはね」と、話したくてうずうずしてるけど、がまん。
ヒントは三冊目のタイトル『うたいましょう おどりましょう』
原題の "Music, Music, for Everyone"がすてき。
かあさんやおばあちゃんだけでなく、周囲のみんなの温かなきもちにつつまれて、これからもローザがすこやかに育っていきますように、と三冊目の本を閉じて。
そして、再び考える。
自分にとって「ほんとにほんとにほしいもの」「ほんとにほんとにすきなもの」って何なのかな、って。
ほんま、春の訪れをおもうような、清々しく、ふかく、いい読書の時間でした。
この本を教えてくれはった人に おおきにです。


*追記
ブログはじめて以来初の(たぶん)二日連続更新です。
いや、そんなこと自慢そうに書くのもはずかし。昨日書くつもりやったのに書けなかったからですが、ここまで書いて、ジャック・ブレルの歌の絵本『老夫婦』のことを書きそびれたことに気づき、呆然!
ああ、やっぱり目的地にはすんなり到着せず。

きょうは、これを聴きながら。
sparklehorse - shade and honey
[PR]
by bacuminnote | 2013-03-09 21:45 | 音楽 | Comments(0)

「そこにとどまるもの」

▲ よい天気。梅の木は白いのも紅いのも。かいらし花を細い枝にもうこれ以上付けないというほど、いっぱいいっぱいに咲かせて。
ほらほら、背筋伸ばして、上向いて。もうここまで春、来てるよ、としらせてくれる。
はればれとしたきもちで見上げる空も晴れわたる。すきとおる青はベビーブルーで。だのに、ああ、こんなきもちのよい日にマスクして外に出る憂鬱。
空を舞うてる目に見えないあれも、これも、それも、みな。よその国からとんでくるものだけとちがう。「複合汚染」ということばを改めておもう。わすれたらあかん。今(も)起き(続け)ていること。

▲ この間『ジョルダーニ家の人々』というイタリア映画を観た。この映画、もとはテレビドラマだそうで、ぜんぶで6時間39分。劇場上映のさい、岩波ホールでは13時40分から3回の休憩を挟み、終了は21時15分だったそうで。前に観たおなじ脚本家による『輝ける青春』(←これも6時間6分の作品。とってもいい映画やったのに。この邦題のセンスは哀しすぎる)も、長さを感じずに観終わったことを思い出して、DVD 4枚借りて二日がかりで観終えた。

▲ 原題は『LE COSE CHE RESTANO』で「そこにとどまるもの」という意味らしい。技術者の父、元医師の母、外交官の長男、精神科医の長女、建築を学ぶ次男、高校生の三男・・・と 仲のいい恵まれたジョルダーニ家の人々。
ある日、久しぶりの長男の帰省で家族全員が集まる。楽しい夕食の途中、三男はみんなに冷やかされながら、約束してたガールフレンドのところに泊りに行くんだけど。その翌朝、事故であっけなく亡くなってしまう。

▲ 母親の、父親の、姉兄たちの深い悲しみ。そして、このことが引き金となって、それまではみんな気づかなかった、いや、うすうす気づきながらも知らぬふりをしていようとした いろんなことが、次々とあぶりだされる。笑ってごまかせたかもしれない 小さかったほころびも、日毎にどんどん大きくなって。どうやって繕ってよいかわからないくらいに広がり。やがて家庭は崩壊する。

▲ そんな中、シチリアで不法移民の取締に立ち会う長男に会いに行った次男のニーノは、ひょんなことから難民の中年女性を匿い、一緒にローマに連れ帰ることに。行き先はいまは誰も住んでいないジョルダーニ家。
一度はみんな離れて行った空っぽの家に、彼女の出現がきっかけとなって、こんどは「ひと」が次々と戻ってくることになって。

▲ 血の繋がりのあるひとも、ないひとも。大人も子どもも。異性愛のひとも同性愛のひとも。民族をこえ。そうして家族はいつしか、あたらしい家族を紡いでゆく。
よい長編小説を読み終えたあとのように、ジョルダーニ家の人たちと一緒に歩いたかのように、観終わったあとふううと満足の長いためいきひとつ。

▲そうそう。
映画の終わりのほうで、次男のニーノが女友だちと二人で仕事を終えた夜、思いつきで町を縦断するバスに乗り込むんだけど。この場面がとてもよかった。車窓から流れる夜の町をみながらニーノが彼女につぶやき始める。
『これはさながら時の旅  古代から現代ローマへ 中心街から郊外へ 天国から地獄へ 始発駅から終点へ。』 
『これが旅の終わりだ。あの建物には100の家族がいる。500人以上の人間だ。鼠もそれ位。何十億かの蟻も』
『まだ息をしている。生きてる。ボイラーが配管から熱を送り、二~三人が階段を上がって 蛍光灯が雑音を発し 今日も口論やキスや八つ当たりを見て 宿題をする子や まだ来たばかりの赤ん坊を見守って 今は恋人たちの囁きに 耳を傾ける』

▲ こんな感じに次々ことばを紡いでゆくんよね。
窓の外は街の灯がきらきらひかって、画面ぜんたいが詩のようだった。
つぎは彼女の番。でもわたしはうまく言えないから、詩の言葉で、と彼女が言う。
『翔びゆくもの 鳥 時間 スズメバチ 私は気にしない 
 それから そこにとどまるもの 痛み 山の稜線 永遠』
そう、このエミリー・ディキンソンの詩の一節から原題『そこにとどまるもの』はつけられたらしい。
それにしても。
親子も、きょうだいも、夫婦も。家族って、だいじなひとの集まりなのに。なんだか ややこしい。
最後のほうの場面、開け放たれたジョルダーニ家の窓を思い浮かべながら、人と人の関係は封じ込めるものではなくて、解き放たれてこそと思う。




追記
その1)
エミリー・ディキンソンの詩、わたしが上に書いたのは映画の字幕を書き写したもので、詩集から書き写したものではないです。
手元に本がないのでわかりませんが、ネットで調べたところはこんな風でした。また訳をさがしてみます。

『そこを飛ぶものたち 小鳥、時間、花蜂 これらに悲しみの歌はない
そこに留まるものたち 悲嘆、稜線、永遠、わたしには合わない(わたしとは違う)』

その2)
前作『輝ける青春』の予告編
(残念ながら日本語字幕はないのですが、雰囲気だけでも)

その3)
今回はこの間読んだすてきな絵本ふたつのことを書くつもりで、書き始めたのに、映画の話で終わってしまいました。相変わらず目的地に到達せず、の自分にがっかりしながら、次回には。
そのうちのひとつ『老夫婦』はジャック・ブレルの歌詞にガブリエル・バンサンが絵を、訳は今江祥智さんが。
これはそのうたです→
Jacques Brel~ Les Vieux

[PR]
by bacuminnote | 2013-03-08 22:41 | 映画 | Comments(0)