いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2013年 07月 ( 3 )   > この月の画像一覧

もたない。

▲ 午後から出かけようかと思ってたけれど、郵便受けを覗きに出たら 地面を焦がすようなその熱気にくらっときて、やめにした。こうして日々出不精は又出不精に。庭の草はボーボーやし、いまだに信州からの引越しの(もう今年9回目の夏!)段ボール箱からCD一枚一枚引き出したりしてるし。
「そんなことでええんか」という声がどこからともなく聞こえてくるようで。年末に「こんどからは夏にやろう」と決めた障子の張り替えをやってみた。(この暑いのに・・)

▲ お風呂でさっと桟を洗って、古い障子紙をそろりと剥がす。前にこれを貼らはったのはプロなので仕事がとてもていねい。糊付けも均一で、するりとおもしろいように剥がれる。桟を拭いて縁側に立てかけて乾かし、糊をつけて紙を貼る。余分をカッターで切る。
状況も季節もまるでちがうんだけど。なんだか雪かきしてる時みたいな気分。ナマケモノのくせに、こんなふうに無心で何かしてるときの感じはけっこう好きなのだ。何枚かしてるうちに、不器用なわたしでも少しは動きもなめらかになって、youtube動画の「障子の張替え」の時間よりはるかにオーバーしたものの、ぶじ終了。

▲ 障子戸をはめて、しばしうっとり眺める。真っ白。部屋がぱあっと明るく。畳の上にごろんと寝転んで、再度「仕上がり」を見上げて「なかなか上手やん」「わたしだって、やればできるやん」と一人声に出して言うてみる(笑)ところが夜になって、蛍光灯つけて又眺めてみたら(←しつこい)ピンと張ってるはずの紙があちこち波打っているのであった。霧吹きしたのになあ。間の悪いことに、そんな時になって相方が「お、上手に貼れた、って?」と見に来るのだった。ふん。

▲ 次の日、母に電話でそのこと話すと、かっかか~とうれしそうに笑う。自分やったら、そんな(波うつような)ことは絶対ない、と言わんばかりのカンペキ上から目線の笑いである。このところ「あれができんようになった」「こんなこともできんようになった」と日々しぼんだ風船みたいに凹んでる母が、人がかわったみたいに生き生きと「障子張り替えの術」を語り始める。

▲ 曰く「桟はよう乾かしたあとで糊つけなあかんで」「糊は丁寧につけなあかんで」・・と、◯◯せなあかんで、△△せなあかんで。そして最後には「昔はな、夜中の一時も二時までかかって、30枚ほど張ったことあるもんなあ・・」で終わるんよね。
いやあ、この話はね、もうこれまで数えきれんくらいに聞いてるんやけど。それ、話してるときの母は40代くらいの感じで、旅館とすし屋のおかみさんで、からだは弱いけど よう遊ぶ夫の妻で、にぎやかな娘たちの母親で。元気で、働き盛りで。足も腰も、身も心も、どんなに酷使しても尚へこたれなかった時代に戻ってるんよね。
まあ、ええかと思ってそのまま昔話聞いてたら、一転、消え入りそうな声で「わたしもあの頃はあんなに働けたのになあ」と長く、頼りなげなため息のあと、タイムスリップはあっけなく現在(90歳)に引き戻されるのであった。「また、コツ教えてや」と言うて受話器おいたけど。せつない。

▲ さて、障子を張り終え余った紙や道具を片付けてたら、物置にあった雑誌に手がのびて。たしか前にも読んだ気がする『おカネと人生ドラマを語る』という対談(『GRAPHICATION』No.186対談 知の交差点)を、ちょっと読み始めたらおもしろくなって、そのまま座り込んで読む。(つまり片付けは中断)
ドイツ文学の池内紀さんと作家の小沢信男さんがおカネと文学や社会について語ってはるんだけど、『世間胸算用』『日本永代蔵』から鴎外の『雁』一葉の『大つごもり』そして『ヴェニスの商人』『ファウスト』まで出てくる出てくる人間とおカネの話。

▲池内氏曰く『金銭人間の社会を小説にしたのは、日本がすごく早かったんです。ヨーロッパで金銭の話が文学に登場するのはバルザックあたりのことで、西鶴から百五十年ぐらいたっている
年の瀬の一番最後の一日は、ヨーロッパでは新しい年への祈りを捧げようと、終夜ミサをどこの教会も行うんです。それに対し、日本では借金取りを追い払うのがおなじみの行事だった(笑)年の一番最後の日の過ごし方が、祈りであるか支払いであるかというのは、やはり国民性の違いなんでしょうね。

▲ そうして「わらしべ長者」とグリム童話の「幸せなハンス」の話になるんだけど。
ごぞんじのように「わらしべ長者」はわら一本から始めて交換して、みかん、絹の布、馬、やがて長者の娘と結婚して、長者になったという話。
一方『幸せなハンス』は
七年間働いて親方からおカネをもらって国に帰る途中に、馬、牛、ガチョウ。と次々に交換していくんです。一番最後に職人が「砥石一つありゃいくらでもカネが稼げるんだ」と言うので、ガチョウを砥石と交換する。ところがその石があまりに重いので、井戸端で休んだ途端にドブーンと落としてしまうんです。それで、あぁよかった、これで軽くなったと(笑)、そういう話です。
向こうの人がこの話を子どもに聞かせるとき、最後にどんなふうに話すか知りたいですね。これを「馬鹿な男」の話にするのか、それとも余計なものを持たないで全く自由なのがいいんだよと話すか。親が試されるような話ですね。
』(池内氏)

(↑上記ハンスは親方からおカネをもらって、とありますが、実際は頭ほどある金のかたまりを給金としてもらう)
物々交換で、どんどん価値のあるものと交換してゆく話と、どんどん価値の低いものになってく話。物をふやしてゆくシアワセと 物を持たないシアワセ。ていうか、そもそも「価値」って何なんやろね。
要らんもん一杯の物置の前にすわりこみながら放哉の句をおもってた。
『入れものがない両手で受ける』


*追記
その1)
絵本『しあわせハンス』(フェリクス・ホフマン絵 せたていじ訳 福音館書店刊)


その2)
今日の話とは関係ないのですが、
ずいぶん前に買った『W.B.イェイツを唄う』というCDを最近また(段ボール箱からひっぱりだしてきて!)聴いています。アイルランドの詩人W.B.イェイツの詩に曲をつけていろんな人がうたっています。
いちばんよく聴くのはこのうた。
The Stolen Child - The Warter Boys
『妖精と 手を取り合って 湖へと 荒野へと 
ああ人間(ひと)の子よ! 逃げておいで 
人間世界は 理不尽に涙に満ちたところだから』
W.B .イェイツ ストールン・チャイルド(さらわれた子~「十字路」より抜粋)

その3 )
更新して、一夜明け 『尾崎放哉 Ozaki Hosai 全句集』(ちくま文庫刊)ぱらぱら見てたらこんなのがありました。
『障子張りかへて居る小さいナイフ一挺』
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by bacuminnote | 2013-07-27 00:44 | 音楽 | Comments(0)
▲ 夜も九時ぐらいになると、ようやくあたりの熱が引いて 窓から入る風も少ぅし涼しく感じられる。昼間は何回読んでも頭に入らなかった、ネットでの長い文章も、本も、すうーっと入ってくるようで、ついつい夜更かしの毎日だ。
それなのに、朝は結構早く目が覚めてしまうんよね。若いときは、親が途中からは怒鳴るように起こしても、タイマーにカセットレコーダーセットして(←古ぅ)ロックがんがんに鳴らしても、すやすや(たぶん)寝てたのに。
ケッコン前に母は「この子、朝、起きませんで」と相方に忠告?してたくらいやのに。ああ母よ。ねぼすけの娘も年とって、目覚まし時計も鳴らんうちに起きるようになりました~

▲早朝に目覚めたときは、それでもしばし目をつむって窓の外~朝の音に耳をすます。遠く幹線道路をひっきりなしに走る車のざーっという音。「ごはんよー」とでも言うてはるのか、お隣さんの家族を呼ぶ声がちいさく聞こえる。小鳥の鳴き声は、そのうち蝉の大合唱にかわり。わたしの頭もやっと回りだして。「よし」と起きだす。

▲ 朝食後パソコンに電源いれると、世界は変わることなく昨日からの続きだったことを知る。そんなの、当たり前なんだけど。昨日が今日になって、絶望的なあれもこれもが目覚めたら悪い夢やったらよかったのに、と未だどっかで思ってるのか。甘いな、わたし。世界も、悪いやつらも、休みなく動いてる。
今日は「世界初の核実験が行われた日」らしい。
始まりは68年前(1945年)の今日7月16日。アメリカニューメキシコ州・アラモゴード砂漠で。二回目、三回目はその後一ヶ月もたたないうちに広島と長崎に。実験ではなく実戦で。
数年前に知った「世界の核実験地図」という動画を再度観て、あらためて戦慄する。

▲ この間のこと。
友人の "ツイート詩"に カミユの『異邦人』の「 きょう、ママンが死んだ」が出てきた。
この有名な書き出しに、そういえばと「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」を思い出した。かの『アデン アラビア』(ポール・ニザン 著 篠田浩一郎訳)の冒頭文だ。
カミユも、ポール・ニザンも。若いころはそれこそ「手当たり次第」本を読んでいたけれど。
それは同時に、思い出すのも恥しい背伸びの時代でもあり。ジャズ喫茶でかっこええ人が読んでたから、映画の中で主人公が読んでたから~とまったくミーハーな動機で読み始めたものの、よく理解できないまま中断した本も、ほんの数頁で閉じた本もいっぱいあったくせに。人に聞かれたら「読んだ・・」とちいさく答えてた気がする。

▲ツイッターでは、その後 本棚に収まったままになってるあの本、この本の話になって。
わたしは、その昔(ケッコン前やから大昔!)「校本宮澤賢治全集」(天沢退二郎編)というのを買ったんだけど。「買った」ことで満足してしもたんか、読まずじまい。けど「いつか、きっと読む」と段ボール箱に詰めて。何回も引越しを手伝ってくれた友人に「あれ?この重たい箱、たしか前にも運んだなあ」とそのつど呆れられてもなお。そして、いまも開かずの箱である旨、つぶやいたら。
Bさん曰く『「チボー家の人々」"灰色のノート"は夢中で読んだけど、あとが続かなかった。ジュネも「泥棒日記」は読んだけれど、二十歳のころに買った全集4巻がそのまま』
Kさん曰く『ジュネは読みました。「泥棒日記」。「チボー家の人々」は、全巻揃えて、二巻目で挫折。翻訳がどうもあわなくて、頭に入らなかったです。』と、リプライがあっておもわず笑う。わたしだけやなかった!
(※BさんKさん、無断掲載すみません。書名わかりやすいように「 」など付けました)

▲そうして『それ、読まないなら、ください、(笑)ってのが、沢山ありそうだぞ、』というKさんのことばには、パソコンの前でひとり爆笑。
本好きのあの人、この人のお家の本棚で、段ボール箱の中で、「いつか、きっと」の本たちがしずかに出番を待ってる姿を想像して、じーんとする。
いま再読中の本『すべてきみに宛てた手紙』(長田弘著 晶文社2001年刊)の"手紙Ⅰ" の終わりにこんな一文があった。
物事のはじまりは、いつでも瓦礫のなかにあります。やめたこと、やめざるをえなかったこと、やめなければならなかったこと、わすれてしまったことの、そのあとに、それでもそこに、なおのこるもののなかに。

▲ そういえば、かの『アデン アラビア』も晶文社の本である。若いころは赤い犀(晶文社のロゴマーク)の本をよく読んだ。前述の長田弘さんの『自分の時間へ』のなかに「中村さんのこと」というエッセイがあって。晶文社を興した中村勝哉さんのことが書かれているんだけど、最初は穏やかなパンの神、昼寝の好きな牧神がロゴマークだったそうだ。それが犀になって登場したのが『アデン アラビア』から、だったという。このエッセイも最後にふかく印象にのこる一節があった。

水は方円の器に従い、本は出版という方円の器にしたがう。真面目な出版は真面目なバクチと言って、本のあり方に対するこだわりをこだわりとして崩さなかったところに、一人の出版人に徹してきた中村さんの、走る犀のごとき姿勢がある。

こういう文章を読むと、だいじに本にむきあいたいと思う。もう背伸びもジャンプも必要なくなった今やからこそ、あせらず、いきつもどりつ。ゆっくり、真面目に読みたいと思う。


* 追記
その1)
背伸びして本を読む、という話は前にも書いたことがあります。須賀敦子さん『遠い朝の本たち』の「父の鴎外」のこと岡崎武志さん『古本道場』のことなど~2009年7月2日のブログ→


その2)
上記『すべてきみに宛てた手紙』(表紙にはエミリー・ディキンソンの切手が描かれてる)には本、音楽、映画のこといっぱい詰まっています。思いがけずトム・ウェイツの「ロシアン・ダンス」も出てきました。
Russian Dance - Tom Waits
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by bacuminnote | 2013-07-16 22:26 | 音楽 | Comments(0)
▲ その日図書館に行ったのは、前夜からきもちがダウン気味で。
いや、図書館には気分のいい日だって、なんてことのないフツーの日だって行くんやけど。
途中マンション前に大きな引越しトラックが停まってた。蒸し暑いなか、汗びっしょりで荷物の運び出しをする若い人たち。ほんとに引越しの多いまちだ。人が来て、また人がどこかに越してゆく。通り過ぎる時に見えた段ボール箱の大きな字。きっと子どもが書いたんやろね。「ひきだしのなかみ」←おばちゃんはその中身が気になってる(笑)
この街、気に入るといいなあ。

▲ 図書館に着くとカウンターに中学生の職場体験の男子の姿。ウチの子も同じように隣町の図書館に通ったっけ。ついこの前のような気がするけど、もう6年もたったのか。
髭もなくて表情はどこかまだ小学生のようで。けど、この年頃ってけっこうムズカシんよね~と、ついおかあちゃん目線になる。届いてるはずのリクエスト本を告げると、おろおろして指導係の職員に「ほら、さっきも言ったでしょ」的に言われてた。(←すまん。フツーに貸出本にしたらよかったな)
13~14歳。わたしが読む本によく登場する年齢層。そしていつも気になる年頃だ。

▲ そういうたら、梨木香歩さんが『裏庭』で児童文学ファンタジー賞を受賞されたときのインタビュー記事(1995.11.9朝日新聞「ひと」欄)に、こんなことを語ってはる。『十三、四歳の子供の目は、この社会の新人みたいです。固定観念にとらわれず、まっすぐに人とものを見る。わたしもその視点を失いたくない。
ちょっと変色したこの記事の切り抜きを何故だいじに持ってるかというと、梨木さんが失いたくないという視点は、わたしもまた常々だいじにしたいと思ってきたことだったから。

▲『作品は思春期の少女たちへのエールです』というのにもじんときた。くわえて、お子さんのアトピーにかかりっきりだったのが、症状が安定してからワープロに向かい出した、という一節に、当時まさに渦中にいたわたしは思わず号泣してしまった。まさか自分に梨木さんのようなすばらしい小説が書けるなんて、大それたこと思いもしなかったけれど。それでも、いつか自分の時間を持てる日が来るかもしれない。自分にも何か書くことができるかもしれないと。長い暗いトンネルの先がぽっと明るく見えた気分だったんよね。それはもう忘れることのできない日だった。

▲ あかん、あかん。また話が横にそれてしまった。
そんなふうにして、中学生の彼のドキドキが伝わるような手で、棚からとってきてもらった絵本を開く。まだ出版間もない新しい本。紙が硬くて、緊張気味にそろりと開く。これから小さいひとも、大きいひとも、たくさんの人の手を通ってゆく図書館の本。想像するとたのしい。とりわけ絵本は借りてる間じゅう、何回も読まれることが多いからか「人気者」は たいていくたっとなってるんよね。

▲ 今回手にした一冊『グーテンベルクのふしぎな機械』(ジェームズ・ランフォード作 千葉茂樹訳 あすなろ書房刊)はタイトル通り、かのグーテンベルグが発明した印刷機のお話だ。
あ、「かのグーテンベルグ」なんて書いたけど、知ってることといえばむかし歴史の授業で「ルネサンス3大発明」として羅針盤・火薬・印刷機と、暗記しただけのことで。小説も辞書も雑誌もマンガも。宅配便の箱の底に入ったくしゃくしゃの古新聞でも、すわりこんで読むほど、活字がすきなくせに。印刷機がどんなものだったのか想像することもなかったなんて。なんかグーテンベルグに謝りたいようなきもちだ。

▲ それは1450年ごろのこと。ドイツのマインツ市にふしぎなものが登場する。紙のもとになるのは、ぼろぎれと骨。インクは真っ黒なススと亜麻の種から。ヤギの革、金は金箔に、活字を作るのには鉛と錫。印刷機にはじょうぶなオークの木材。ひとつひとつの工程に携わる職人や町のひとの暮らしぶりまで、とても丁寧に描かれて、なんか中世の世界をそーっと窓の外からのぞいてるような気になってうきうきする。
そうして、気が遠くなるような過程を経て活字が組まれ、紙に「印刷」される。この印刷物のうつくしいことと言ったら。初めてこの現場に立ち会った人の感動はどんなだったことだろう。いや、この絵本を通してですら、わたしは大感激だった。

▲ ほんのすこしの人だけじゃなく、多くの人が読める、印刷がここから始まって。この印刷機の発明が宗教改革へと繋がってゆくのは、歴史で習ったよね。(←苦笑)
それでも、時代はかわり印刷技術もどんどん進化して、もはやグーテンベルグの活版印刷はなくなってしまった。やがて紙やインクも印刷機もいらない電子書籍へと。いまは電子書籍なんて、と思ってるわたしもいつかその波に乗ってしまうかもしれない。でも、メールがこんなに便利になっても、やっぱりはがきを書くのもすきだし「そのひとの文字」で もらうたよりが何よりうれしいように。「紙の本」を読むという贅沢(たのしみ)は、いつまでも手放せないと思う。この絵本を読んで、あらためてそう思った。

▲ほくほくとゆたかな気持ちになって図書館を出るとき、入り口に大きな七夕飾りがあることに気がついた。短冊に書かれたおさない文字を眺める。ええなあ。かいらしなあ。さいこーです。
「じてんしゃにのれるようになりますように」「せ たかくなりたいです」「ウルトラマンにあってみたい」「おこられませんように」「たのしいひなまつりになりますように」!?
わたしのねがい→この子らが社会からまもられ、家族や、周囲のひとたちに愛され育ちますように。



*追記

その1)「贅沢」いうたらね、ずいぶん前に読んだ森毅さんの本にこんな一節を思いだしました。
時間のなかで効率を考えていては、ゆとりが持ちにくい。実際は忙しくても、ゆとりで贅沢したい。贅沢というのは、欲望を達成することではなくて、目標や効率などに関係なく生きることだろう
(『元気がなくてもええやんか』青土社)

その2)今日はこのうたをくりかえしながら。Lhasa de Sela " Is anything wrong
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by bacuminnote | 2013-07-05 21:37 | 音楽 | Comments(0)