いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2013年 08月 ( 3 )   > この月の画像一覧

"I am"

▲ ようやくヒトの平熱以下の気温になって「人心地」つく今日このごろ。いやあ、ほんまに暑い夏やった。(←まだ続行中)子どもの時分は「30度越える暑さ」というのが猛暑とよばれる日だった気がするけど。このあいだ、うんと気温が下がったなと思った日の気温30度のなんと快適やったこと。

▲今夏は白いTシャツを何枚か変わりばんこに着ては洗い、乾くと、また着てたからかなりヨロヨロになって、何よりもう飽きた(苦笑)
せやからね、買い物の道中、秋物の服着せたマネキンについふらふら吸い寄せられて、立ちどまったりしてしまうものの。ああ、やっぱりまだ時期尚早。「暑ぅ」と汗拭ってる。

▲ 一昨日のこと、朝からtwitterの調子がおかしくて、いつものように見るのもツイートもできなくて、いろいろやってみたけど、調べてみたらどうやらわたしだけじゃないことがわかったので、潔く(笑)システム終了。
図書館にリクエストの本を取りに行き、買い物をすませ、本を読み、凉しい風のふく夕方には「よぉし」と庭の草刈りまでして(この夏じゅう、ずっとしなかったのに)本の続きを読んで。どれだけPCは時間ドロボーであるか再確認して(すぐまた忘れるんやけど)、そして本を読み終えた。

▲本の内容があまりに重かったので、なんだかしゅんとしながら夕ご飯をこしらえた。子どもが主人公の本を読む事が多いけど、子どもが辛い話は大人のそれより堪える。『チャーシューの月』(村中 李衣 著/ 佐藤 真紀子 絵/ 小峰書店2013年刊)は春から中学生になる美香が語り手となって、彼女が暮らす児童養護施設「あけぼの園」のできごとが、2月に入園してきた6歳の明希のことを絡めながら綴られてゆく。

▲ 共同生活は合宿や修学旅行じゃなく「日常」だから、楽しいことばかりじゃないことは経験のないわたしでも想像はつく。まして甘えたい年頃の子どもや、思春期にさしかかる子ども、いろんな子どもがそれぞれに家庭での複雑な問題を抱えて、家から離れて暮らしているのだから。それゆえに仲よくなる子どもも、だから、ぶつかり合う子どももいて。

▲小学生の合同遠足の日のこと。
あけぼの学園ではお弁当を詰める先生たちが朝から大わらわだ。18個のお弁当は『ひとつずつ、なるべく同じ弁当に見えないように、ケチャプをかけてみたり、胡麻をふってみたり、おにぎりの形を別にしたり。よく見ると、おかずの詰め方の微妙に変えている。詰めおわると、十八個全部並べて、そっくりなのがないか、チェックしてる。』(p93 歓迎遠足)

▲ そんなお弁当を持って出かけた子どもたちだったけど、三年のしゅうじとさなえは同じ三年の子から弁当をとりあげられて「見ろー。見ろー見ろー。おそろいじゃー。あかーいチェックに、あおーいチェック。さなえとしゅうじは、ラブラブじゃー」「おまえら寝るときもいっしょの家で寝るんじゃろ。パジャマも、あかーいチェックに、あおーいチェックだったりして」とからかわれる。

▲怒ったしゅうじはその子の髪をつかんで自分の弁当をとりかえすんよね。じいっと下むいてたさなえも「弁当の中身もいっしょだったりしてぇ。ふたりでなかよく食べるのかなー」と言われ、がまんできなくなってその子の腕にかみつくや、弁当をもぎ取ると、思い切り地面にたたきつける。

▲ 転がりおちて草や土だらけになった わかめのおにぎりや、たこちゃんウインナーが、浮かんでくるようで。なんともかなしく、腹立たしく、忘れられない場面だ。そうして、なぜ先生たちが細心の注意をはらって、一人ひとり違って見えるように、お弁当を詰めてはったのか。

▲その理由が「あなただけのために」ということよりは、むしろこういう偏見やいじめの前に子どもたちが傷つかないように、という配慮のような気がして(いや、それは楽しいお弁当の時間が、そんなことで台なしにならないように、という事なのだろうけれど)やりきれない思いでいっぱいだ。

▲ 物語のなかでは遠足の帰り道、学園の男の子たちが団結してからかった男子二名を小さな川に落として、川上から皆並んでおしっこする~という仕返しが子どもたちの笑い声と共に描かれるんだけど。
わらえなかった。

▲もしかしたら、クラスメートの中には、親と暮らしてはいてもお弁当を作ってもらえない子も、朝、お金だけもらってコンビニで買って持ってくる子もいるかもしれない。そもそも、そのお金だってもらえず「病欠」する子だっているかもしれない。子どもの世界は大人の事情がそのまま映されてる。
お弁当の話は、この本に限らず、ほんまいろいろとつらい。彼らとは比べようもないけど、わたしにもかなしかった思い出がある。それは、この国のお弁当文化~「見せる食文化」みたいなものや、「母の愛」的象徴やったりすることにも繋がってる気もする。

▲そういえば。
前に読んだ『10歳の放浪記』のなこちゃんも、『サラスの旅』のサラス、映画では『冬の小鳥』のジニも、『少年と自転車』のシリルも、『僕がいない場所』のクンデルだって。親が生きていながら共に暮らせない子どもの物語だった。みーんな親の悪いところや、いいかげんなところはわかってるのに。親のことが好きで、自分のところに来てくれることを辛抱強く待って。祈るように待ち続けるんよね。

▲『僕がいない場所』のラスト、施設から脱走して一人川に浮ぶ廃船に住み着くクンデルが、通報されて捕まるんだけど。刑事が「キミの苗字は?」と問う。クンデルは言う。それが何なの? 刑事が再び問う。「君が誰かと聞いているんだ」 クンデルは顔をあげて刑事の方をふりむいて、何でもないことのようにこう応える。
「僕だよ」 この映画の原題がポーランド語で”Jestem” 英語で”I am”だと、後で知って頷く。とてもつらい映画だったけど、印象深くすきなシーンだ。

▲ 子どもを育て支えるのが親であるのは、生物としても自然なことだけど、守ることができるのは親だけではないと思う。子どもはやがて親以外のだれかに、なにかに出会い、階段をまたひとつのぼってゆく。
早くにその階段に放り出されてしまった子どもたちに、そこから知らない道や人や景色が、すこしでも多く見えますように。そうして世界の広さを感じることができますように。

▲「出会い」は半分以上運のようなものかもしれないけれど、だとしたら幸運の種よ、どうか必要とする子どもたちの上に舞い降りてきて、とねがいます。
そして無力なわたしだけど、せめて、しっかり「大人」であろう、と思う。つまり、アカンことはアカンという。通せない、許せないことにはNO !という。

追記
その1)
今回書いた本や映画のことは以前ここにも書きました。もし時間があったら
もういっぺん読んでみてください。
『十歳の放浪記』のこと→「あればあるほど みえなくなるもの」(2007.9.12)
『サラスの旅』のこと→「たいせつにしてもらった成分」(2012.8.20)
『少年と自転車』のこと→ 「おとうちゃん。」(2012.10.7)


その2)
『冬の小鳥』公式HP

『僕がいない場所』予告編(字幕なしですが、ラストの場面あり)
この監督の最近の作品 『明日の空の向こうに』の惹句は”行こう すこし幸福になれる場所に”

その3)
きょうはこれを聴きながら~
ボブ・ディランがひとりアリゾナ州に行って、そこで息子のことを思いながらつくったという"Forever Young"
「毎日が きみの はじまりの日  
 きょうも あしたも 
 あたらしい きみのはじまりの日」(アーサー・ビナードさん訳)

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by bacuminnote | 2013-08-31 12:44 | 本をよむ | Comments(0)
▲到着のアナウンスと共に電車の扉が開きホームに降り立つと、ちょっとひんやりした空気に姉と「やっぱりよしのやなあ」と顔をみあわせた。
タクシーに乗り込んで川沿いの道を走るはずが、お盆休みの最後の土曜日のせいか、いつもだったらスイスイ進む道がえらく渋滞しており、機転をきかせてくれた運転手さんが旧道へと引き返してくれはった。

▲「今日も暑いでんなあ。けど昨夜(ゆんべ)なんかは、夏布団やったら、もうちょっと寒いくらいでしてん。か、いうてなあ、冬のんでは、まだ暑いしなあ・・」おなじ関西とはいえ、わたしの住む大阪でもなく、姉の住む奈良のでもない、故郷(ここ)のことばがそれらとどうちがうか、説明するのはほんまむずかしい。でも。こういうの聞くと「ああ、よしのに帰ってきたなあ」というきもちになる。

▲子どものときも若いときも。
その山間の言葉遣いの野暮ったさや田舎くささが嫌で、わたし同様たいていの子は高校生になって「まち」へと電車通学を始めると、みな知らず知らずのうちに、なんとのぅ大阪弁っぽい言葉(苦笑)をしゃべるようになるんよね。
当時は家が吉野というだけで、「山奥から出てきた」というふうに言う人が、まだけっこういて。口の悪い教師が「吉野の山猿」と笑うてたことなんかは、いまだに思い出すたびカッカする。
田舎の、山奥の、どこがあかんのん!と思いながら、一方では「垢抜けた」都会の子にあこがれて、身も心も「まち」へ「まち」へと向いていたあの頃の自分が、あほらしゅうて、腹立たしくて。そして哀しい。

▲ 旧道を通るのは久しぶりだった。
もうずいぶん前に店終いしはったお店屋さん。姉の友だちの家、同級生や、センセの家。住む人をもたない家が続いて、胸がいっぱいになる。昔は魚屋も八百屋もパン屋に食堂。おもちゃ屋に金物屋、わたしのだいすきな本屋。洋装店や紳士服の仕立屋さん。そうだ。揚げたての天ぷらの店だってあったんよね。

▲でも、キミはそんな小さな商店のならぶ「田舎まち」より、何でも揃う都会がよかったんやろ?と自問。そうやなあ。そやったんよなあ。友だちの誕生日のプレゼント買うのだって、ここより駅3つむこうのまちが洒落たものがあった。そのうち、高校のあるまちに。やがて大阪や京都に出ることを好んだ。
運転手さんが言う。「ここら、まだましなほうでっせ。そういうたら◯駅前の売店も、もうなくなったし。◎の駅前の商店街なんか見てみなはれ。シャッターおりた店ばっかしでっせ」

▲ この春、母の見舞いに来たときは確かにあった◯駅の売店を思い浮かべながら、姉とふたり、なんだかしゅんとなってたら、川が見えた。
いつ来ても、どんなときも、川が見えるとほっとする。
姉もわたしも、夏休みは雨とお盆以外、毎日毎日およぎに行った川。むかし一緒におよいだ友だちと、このあいだ電話で話したとき「海もプールもええけど、川で思いっきり泳いだあと、家に帰って、水着とタオル干したら、ごろーんと昼寝。あれ、きもちよかったなあ」と盛り上がった。

▲ そのくせ、夏休みの一日の予定表(円グラフ)にかならず書かされた「ひるね」が嫌でしかたなかったんやけど。「子どもはええなあ。昼寝しい、って言うてもろて。わたしが替わってやりたいわ」と笑って母が言うてたのをおもいだす。
いま地元の子は皆ガッコのプールで泳ぐ時代やもんね。
車窓から川原に色とりどりのテントと車がずらりとならんでいるのが見えた。


*追記
その1)
昼寝でおもいだしたけど、以前「おんなの昼寝」という脚本家の故・市川森一さんのエッセイについて、 ここに書きました。

その2)
きょうはこれを聴きながら~
"Ca va, ça vient"がすきで、utubeで探してたらみつけました。
"Ca va, ça vient"とは、フランス語で"行ったり来たり”という意味だそうです。
Chloé Lacan, Oldelaf & Nicolas Cloche(→うたは1’20”過ぎから始まります)
ごぞんじPierre Barouhがうたうのは
MERLOTは
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by bacuminnote | 2013-08-20 00:26 | 音楽 | Comments(0)

バスにのって。

▲信州から大阪に戻ってずいぶん経つから(いま数えたらもう9回目の夏!)もはや夏は暑いもの、とあきらめてるけど。まあ、大阪の日中の暑いこというたら。(あきらめ悪いなあ・・苦笑)
それでも、昨日は夜中にちょっとの間ものすごい雨が降って、朝方も曇天で涼しかったので墓参に。
とはいえ、むこうに着くのは11時前やから。水はもちろん、タオル、保冷剤、塩飴にビスケット、ウチワ、お花と線香、ゴミ袋に軍手、それに道中読む本も入れて。帽子に長袖長ずぼん。大きな袋二つ持って、一体どこに行くんや、というような格好で(笑)バスに乗り込んだら、ああ~生き返る。やっぱりクーラーは凉しいなあ(ウチではずっとOFFやしね)と、ヨロコビに浸ったのもほんの10分ほど。

▲そのうち足元が冷え始め、袋からごそごそソックスを出して、肩にはショール(どこに行くにもこのふたつは常備)をかける。そんな車内に慣れてるのか、乗ってる人らはみなさん上着着用。
数えきれないほどのバス停に、停まって停まって、小一時間。ようやく終点のJR駅前に到着。とちゅう窓の外が暗くなってちょっとドキドキしたけど、降りる頃には真っ青な空。よかったぁ。

▲ と、思ったのもつかの間のこと。
水を汲みに行っただけで、早くも全身汗びっしょり。間近でからだじゅうにドライヤーの熱風をかけられてるみたいに、熱気が直に伝わってきて暑いのナンの。首に巻いた保冷剤もあっというまに溶けてしもた。
通路と墓石まわりの草を抜き、花入れやコップを洗いながら「8月6日」の暑さをおもってた。自然に去年のいまごろ読んだ『八月の光』(朽木祥著 偕成社2012年刊)へと繋がって。それから、ボンボンと丸い球が、花火のように次から次へと打ち上がっては消える「世界核実験地図」の動画が浮かんで。そのうち、めまいがするようだった。

▲いつもは、きれいになったお墓まわりにきもちよく帰途につくんだけど、暑いのと、思い巡らせたことの重さにクラクラしながら、とぼとぼ歩き始めた。一時間に一本のバスにはまだじゅうぶん時間もあるし、そうだ、駅に着いたらソフトクリームでも買おうと、ふと腕に目をやったら。
そこにあるはずの時計がない!腕に時計バンドが汗でぺったりして気持ち悪いので、外したとこまでは覚えてるんだけど。
慌てて路地に入って、小学生みたいにかばんひっくり返してみるも時計はなくて。お墓からはけっこう遠くに来てしもたしね。あるかなあ。ないかもなあ、とがっかり、しょんぼりしながらまた墓地へと戻った。

▲おちつけ、おちつけ、と言い聞かせながら、ぼぉーっとした頭で懸命にじぶんの「行動」を思い返す。そうそう。暑いから、と腕から外したあと、ウエストポーチのベルトのところに通してぶら下げてたんよね。で、作業もおわって、墓地を出たときポーチを外してそのままかばんに入れた(つもりやった)から・・・と思いだしてたら、まさにその場所にころんところがっていたマイウォッチ!ああ、よかったぁ。これ、何年か前の誕生日に姉が買ってくれたんよね。

▲ そんなわけで、期待のアイスは食べられなかったけど。
ぶじ時計もみつかったことやし、バスにはなんとか間に合ったんやから、よしとしよう。
すっかり予定がくるって早足で駅まで向かったので、汗びっしょりかいてバスに乗り込み冷たすぎるクーラーに救われる。(苦笑)
と、わたしのあとに車椅子の高齢の方が乗車。施設の職員さん風の方が二人つきそって、バスの運転手さんが動かないように固定しはった。

▲ バスに車椅子で乗車しはるのは見たことがあるけど、高齢の方は初めて。とっさに寒くないかなあ、と思って振り返ると膝にはちゃあんと毛布がかかってた。
斜めむかいの席に腰掛けた付き添いの女性が「◯さん、とても90には見えないよねえ。肌もつやつやして」と言うと、かわいいブレスレットしたおばあちゃんは黒い大きな帽子の下、色白のお顔で恥ずかしそうに、うれしそうに笑ってはる。つられてわたしもにっこり。職員さんとも目があって再びにっこり。なんかほのぼのした空気がバスの中に流れる。

▲ このところ、お年寄りの出てくる本や映画ばっかり観ている。その日持ってきた本(『きみがくれたぼくの星空』ロレンツォ・リカルツィ著)も、老人ホームが舞台のお話だ。この前観た
『マリーゴールドホテルで会いましょう』
はイギリスから初老の男女7人がそれぞれの事情や夢や思いを抱いてインドのマリーゴールドホテルに長期滞在する話だったし。再読した大好きな湯本香樹実さんの本にはきまって、ちょっとヘンコで魅力的なおじいちゃんやおばあちゃんが登場するし、ね。選んで読んだり観たのではなく、たまたまだったのだけど、日々話す母の愚痴やいたみや悩み、小さなよろこびに重なって、老いることをおもうこの頃だ。

▲ さて、バスが出る前のこと。
運転手さんの「市役所前から子どもが51人乗ってくることになってますんで、ちょっと窮屈かもしれんけど」ということばに、乗り合わせた7人思わずドキリ、顔を見合わせる。ご、ごじゅういちにん!って。
「そもそも、このバス一台に乗れますのんやろか?」70代くらいの女性客ふたりが心配そうに、そして思いがけない大勢のお客さんに楽しそうに話してはるのが聞こえてくる。わたしの前の席に一人ですわってはったおじいさんも、腰浮かして外見たりしてはる。(いや、いまはまだ外みても、だれもいませんよ・・・なんですが)

▲ やがて、バスは市役所前に到着。来るわ来るわ。日焼けした子どもがぞろぞろ、ぞろぞろ、いっぱい!「ええ!?あの子ら全部乗らはるん?」「あんなようけ乗れまへんで」と体をよじって、窓の外をみる。
どうも、わたしらの乗ってるバスの後ろにも別のバスが停まってるらしく、子どもたちはそこを目指して通りすぎてゆくばかり。そのうち、ようやく一組がバスの前に並び始めた。みんな「まだか、まだか」とそわそわしてる様子がみえて(あ、子どもらじゃなく、わたしを含めた乗客たち)おかしい。
そろそろ乗ってくるかと思ってたそのときに、バス会社の人が入ってきて運転手さんに何か伝えてる。どうやら、この次にくるバスに乗車が決まったらしい。(せやろねえ。ここに51人は無理やと思った)

▲ 結局だれも乗せずに、バスが発車したときの、なんともいえない肩すかし、というか落胆の車内の空気が、でも、なんだかとても愛おしくおもえた。
車椅子のおばあちゃんに付き添ってた人が「子どもが乗ってきて、にぎやかになるかと思ったのにねえ」と話してはる。おばあちゃんの返事は聞こえなかったけど、頷くお顔が浮ぶようで。わたしも小さな声で「ほんまにねえ」とつぶやいた。


* 追記(いつも長くてすみません)
その1)
『八月の光』のことは去年のいま頃ここにも書きました。

その2)
今回再読の湯本果樹実さん
『夏の庭』
は、出版当時(1994年)読んで、その後相米慎二監督の映画で観て、その印象が強くて、他の作品はくりかえし読んでるけど、この本はその時きりになっていましたが。このブログのコメント欄によく本のことメッセージくださるイギリス在住のlapisさんが『夏になると読みたくなる本の1冊です。』と書いてはるのを読んで、わたしも、とあちこち探すも見つからず、改めて文庫本購入。いやあ、よかったです。本を読んで泣いてしもたんは久しぶり。もしかしたら、いまが自分にとっての「旬」やったのかもしれません。
ちょっと長くなりついでに(苦笑)
少年3人組がひょんなことから出入りするようになったひとり暮らしのおじいさん宅で庭の草を刈り、コスモスのたねを植え、ホースで水をまく場面から引用してみます。

ホースの角度をちょっと変えると、縁側からも小さな虹を見ることができた。太陽の光の七つの色。それはいつもは見えないけれど、たったひと筋の水の流れによって姿を現す。光はもともとあったのに、その色は隠れていたのだ。たぶん、この世界には隠れているもの、見えないものがいっぱいあるんだろう。虹のように、ほんのちょっとしたことで姿を現してくれるものもあれば、長くてつらい道のりの果てに、やっと出会えるものもあるに違いない。ぼくが見つけるのを待っている何かが、今もどこかにひっそりと隠れているのだろうか。

その3)
今回の話とは全然関係ないのですが、この間観たDVD『オルランド』(サリー・ポッター監督がヴァージニア・ウルフの小説『オーランドー』を、監督独自の解釈で映像化した作品)のラストに流れてた曲が印象的だったので、あげてみます。Jimmy Somerville coming
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by bacuminnote | 2013-08-07 22:18 | 音楽 | Comments(0)