いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2013年 10月 ( 3 )   > この月の画像一覧

▲ 秋をたのしむ間もなく冷たい風がふきぬけ始めて。しばらくは薄物に薄物かさねてかさねて凌いでたけど、とうとう一昨日セーターをひっぱりだしてきた。寝るときにはおこたまで登場。まだ、扇風機もしまってないのにね。
それにしても、なんだか年々季節のめりはりがなくなってる気がする。そうして、子どもの頃みたアメリカのホームドラマみたいに、街をゆけば半袖とコート姿がいっしょに歩いてる。で、コートの下は半袖やったりして。寒いのは外歩いてるときだけ。ビルや家の中ではシャツ一枚の暖かさ。たしかに天候も変だけど。ひとがしてることもおかしいなあ。

▲ この前ちょっと調べたいことあって地図みて気がついたこと。
わたしらがパン屋を始めた滋賀県・愛知川町も、その後引っ越した長野県・開田村も、どちらもいまはその名前が地図にはないんよね。開田村は木曽町として合併され、木曽町開田高原に。愛知川(えちがわ)は秦荘町(はたしょう)と合併して愛荘町に名を変えた。

▲ とりわけ愛知川周辺のまち~パン焼きのあと親子で何度も行ったプールのあった湖東町も、毎週通った図書館の八日市も、一時親子で夢中になったピアノ教室の五個荘町(ごかしょう)も、友人の家がある能登川町もみな東近江市にと変わってしまっており。
なじみ深いあの場所もこの場所も、であった人も風景も、こころと体にしっかり焼き付いてるのに、地図をみると違う名前が載っている。なんだかそれは知らない町のようでよそよそしくて。なつかしい「あの」町だとは思えなくて、さみしい。

▲ 土地の名前には、その名に決まるまでそれぞれに長い物語と歴史があって。それが行政の都合でかんたんに消えてゆくのはなんとも残念でならない。そんなことを思ってたら、ずいぶん前に図書館にリクエストしてた『鳥と雲と薬草袋』(梨木香歩著・新潮社)というふしぎなタイトルの本が届いた。自分で予約しておいてなんだけど時間がたちすぎて、どんな本だったのかも忘れてしまっており・・(苦笑)
でも、開けてびっくり。まさに地名についてのエッセイ集だった。

▲ 著者曰くこの「葉扁集」は(←「掌篇より はかなげなこの「葉篇」という言葉はある方の造語」とある)「文字通り葉っぱが降り積むように、これまでの生涯で縁のあった土地の名を重ねていく」西日本新聞での連載をまとめたものらしい。「まなざしからついた地名」「文字に倚り掛からない地名」「消えた地名」「正月らしい地名」「新しく生まれた地名」「温かな地名」「峠についた地名」「岬についた地名」「谷戸と迫と熊」「晴々とする”バル”」「いくつもの峠を越えて行く」「島のもつ名前」・・と目次もたのしくて、地名のひとつひとつ、その場所に込められた思いや物語がうかんでくるようで、わくわくする。

▲ ふしぎなタイトルのわけは、梨木さんのお家の窓から見える「鳥と雲(気象)」、梨木さんが旅の鞄に入れておくごちゃごちゃ袋~小さな島で貰ったハーブのブーケや旅の最中の色々なメモも入っている「薬草袋」から。あちこちに旅する鳥たちが運んでくれるもの、ちいさな袋にいっぱいの思いがハーブの香りといっしょにこぼれ落ちてくるようだ。
p170しかない本だから、その気になれば一気に読み終えられそうだけど、「著者がお願いするのもおかしいことだが、薄い本ではあるけれども、連載時と同じように一日一篇、と読んでくだされば」と「あとがき」にあって、図書館の帰り道から始まってすでに数篇読んでしまったわたしは首をすくめる。

▲ そうそう「新しく生まれた地名」には、なんと件の東近江市も登場していて、思わず「おお」と声がでた。
梨木さんは『あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る』(万葉集/額田王 ぬかたのおおきみ)を挙げ、この歌の舞台となる蒲生野(がもうの)を語る。

その名称は二〇〇五年まで、蒲生郡蒲生町という地名で残っていた。車で走っていて、蒲生町、という表示版を見るたびに、この万葉の古歌が浮かんできて、思わず口ずさんだりしたものだ。
その年、永源寺町、五個荘町など、由緒ある地名の一市四町を合併、さらに二〇〇六年には件の蒲生郡蒲生町、神崎郡能登川町を編入して、現在の東近江市になった。車を運転する人も、地図を観るひとも、ここがあの蒲生野のあった場所、とは、もう容易に結びつかないだろう。
」(p55)

▲ 最後の一篇は「ショルタ島」~「今まで旅した中で一番素朴な名を最後に取り上げたい」として、これだけが外国の地名を挙げている。アドリア海に浮ぶ島、クロアチアのショルタ島(さいしょに書いた梨木さんの「薬草袋」に入ってるハーブのブーケも、もとはこの島のおばあさんからもらったものだとか)にある港の上の村の名まえが日本語で言うと「上の方」というらしい。

古代、それで十分用が足りたのだろう。以来何千年も、その村は「上の方」と呼ばれている。
それが地名というものの本来の形なのだろう。その場所を呼ぶ必要があるとき、誰もが分かる形でそこを表す。それに文化的な修飾がついたり、中央集権的な記号性の高いものへ取って代わったりする。(中略)

「上の方」の村には咲き匂う野生のハーブの花を求めて養蜂業者も住み着いた。ここの野生のローズマリーの花の蜜は絶品だ。「上の方」という名のイメージは、そういう香り高いものになりつつある。地名も人名も、およそ名というものはそのように、長い年月をかけ本来の意味から自由に成長していくものなのだろう。
」(p135)

▲「上(うえ)の方」で思い出した。ジッカのあたりでは場所をしめすのに「上(かみ)」「下(しも)」をよくつかうんよね。ショルタ島のようにそれが地名としてあるのではないんだけど、吉野川に沿った町並みは 上(かみ)の方が奥で下(しも)に行くと街が開けてくる。街まで買い物に出るのに「ちょっと下に行ってくるわ」という広い範囲から、近所の親戚の家のことを「上の家」「下の家」と言ったりするのだった。

▲ああ、あちこちの地名のことおもってたら、どっかに行きたくなったなあ。遠くじゃなくてもいい。
しずかに読んだその後は、ふらりとどこかに出かけて行きたくなる本だ。



*追記
鳥といえば、これ。16の頃出会って、もうどれくらいくりかえし聴いてきたことか。
Birds-Neil young

最近は、このうたも。
Birdsong-Powerdove

こういうのもすき。
birds sing for their lives-nine horses
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by bacuminnote | 2013-10-22 00:13 | 音楽 | Comments(0)

うつっていないもの。

▲ 台風が通りすぎてゆく途中で夏を落っことしていったのか。いつまでも暑いこと、暑いこと。さすがにもう飽きたなあ、と思いつつくたびれた半袖Tシャツを今日も着た。街を歩いたらマネキンはコートにマフラー巻いてたりするのに。文房具屋さんの店頭にはもう来年のカレンダーや手帖が並んでるのに。居座る夏と出番待ちの冬の間で遠慮がちに見え隠れの秋よ!ぼやぼやしてたら冬に先越されるよ。早いこと みんなの前に出て来てください。

▲そんな毎日だけど(だから)久しぶりに大根とお揚げさんの炊いたんが食べたくなって。ことこと煮た。家じゅうに煮物のにおいがひろがって、ああ大根のにおいって 夕餉のにおいやなあ、と思う。
でも、まだまだ煮物には暑いしね、ビールのみながら(←やっぱり)本読みながら、引き続きことこと。母に電話したら「今日は何こしらえてるん?」と聞かれる。「大根の炊いたん、でっか。そら、よろしなあ。けど、変われば変わるもんやなあ」と呆れたように笑われるのもいつものこと。

▲野菜嫌いの子どもだった。
とりわけ大根の煮物はそのにおいも味も、それこそ「大」がつくほど苦手やったんよね。祖母にも母にも姉たちにも、学校では友だちやセンセにも「だまされたと思っていっぺん食べてみ。おいしいねんから」となんべん言われたことか。大根だけやなくて菜っ葉の炊いたんも、生野菜も苦手やったからガッコの給食の思い出は「残されて食べた」に尽きる。何がそんなに嫌だったのか思いもつかないけど。とにかく、いまでは野菜はすきな食べ物になってほんまによかった。そして、 ひさしぶりの大根はしみじみとおいしかった。

▲その夜のこと。何日か前にTwitterでみかけた「おしん」「大根めし」という言葉を思い出した。当時はひたすら我慢と辛抱の美談と思いこんでたし、ちょっと苦手かも~と リアルタイムでは観ることのないドラマだったんだけど。今年はじめからはBSで再放送されているようだし、映画にもなって今秋公開され、ノベライズもされたそうで。ネット検索したらいっぱいヒットした。「大根めし」はその頃の東北(山形)の小作農の貧しい暮らしの象徴で、それすら、おしんの子ども時代にはお腹いっぱいに食べられなかったそうで。時代がちがうとはいえ かつてのわがまま娘にはことばもない。

▲いや、それにしても30年も前のドラマが、なぜ今また映画に?
「おしん」の一生を描いた物語をどうして少女時代に焦点を当てたんかなあ?とか・・・いろいろ思ったりしながら鑑賞中。(関心のあった途中から見始めたけど長い!)
いまは敗戦後のあたりを観てるけれど(アジア太平洋戦争の)戦争前や戦中の人々の様子は今に繋がる空気も感じられて、こわくもあり興味ふかい。

▲おしんとその家族を中心に民衆の生活や、戦争への思い~不満を感じるところもあるものの、国や軍に対する疑問や怒りも、想像していた以上 辛辣に描いてるなあと思う。
何より30年前はこれをNHKの朝ドラで放映して高視聴率を獲得していたわけで。むしろ、こういうことを「想像以上」と思ってしまう「いま」の状況が問題なんやろなあ、と暗い気持ちになったり。
頭のなかは考える種と付箋だらけで、いまだ混乱のさなか~(苦笑)。

▲ ちょうど同じころに『戦後日本史の考え方・学び方  歴史って何だろう?』(成田龍一著 河出書房新社2013年刊)を読み始めており。これは「14歳の世渡り術シリーズ」の本なので中学生を対象に書かれていて、とてもわかりやすい。でも読むのはかんたんでも「考える」ことは易くはなくて。40年以上前の中学生(!)は錆びついた頭をみがきつつ 学び直さねば、と痛感。

▲そういえば、この本には考えるヒントとして映画『ALWAYS三丁目の夕日』(2005年山崎貴監督)が、たびたび登場するんよね。描かれた世界、描かれなかったこと。「歴史と記憶のちがい」。
歴史が描かれるドラマや映画は、それが物語の中心であっても、背景であっても、おもしろければおもしろいほどその世界にすーっと自然に入り込んでしまうけれど。つねに画面には映っていない部分や世界(描かれなかったもの)が在ることを、感じたり想像できる知識が必要と思う。
ああ、学びの秋です。

【たとえば、これまで見てきた高度経済成長の時代を語るとき、私たちが生きている「いま」がどんなかたちで持ち込まれているのか、そこまで思いを巡らせてみることが「歴史とは何か」を考えることなんです。『ALWAYA三丁目の夕日』は、高度経済成長の時代を、みんな貧しいけれども助けあって生きていた、まだ町内のまとまりがあった、人が温かかった、みんなが夢をもっていた時代として描きました。しかし、それは不況の「いま」を見てしまったからではないのか、ということです。】(”歴史はあとから語られる“より抜粋)

【自分たちが生きている「いま」をどう考えるか、という視線が過去に向かい、そのとき、必然的に、過去を「いま」と結びつけて考えること。このことこそが歴史ということになります。
いっぽう、「いま」を考えるということは「この先どうするか」ということと結びついているわけですから、過去を考えるということは未来を考えるということでもあります。】(”歴史は「いま」から逃れられない”より抜粋)

【歴史はひとつではない、しかし、なんでもありでもないのです。】(おわりに より)


*追記
その1)
ここを書いていた思い出した文章がある。
以前光文社から出ていた月刊誌『本が好き』(休刊中)の中にあった金原瑞人氏の連載『今月のYA(ヤング・アダルト)招待席』~第二十五回(2008年7月号 "「かつての記憶」と「これからの記憶」が交錯する物語" として
絵本『ちいさなあなたへ』と『てを つなご』の紹介のあと、こう書かれていた。

【おそらくここに介在するのは、「かつての記憶」と「これからの記憶」、そのふたつをつなぐ「いま」。ここで過去と未来が重なる。あざやかな記憶、あいまいな記憶、記憶に残っていくもの、そして記憶からこぼれていくもの……しかし「記憶」ってなんだろう。
今年の初めからかかわっていた『トム・ウェイツ 素面の、酔いどれ天使』パトリック・ハンフリーズ著 金原瑞人訳 東邦出版』)が出版の運びになった。いたるところに、トムの名言、金言、格言、箴言がちりばめられてる。そのなかからひとつ。
「記憶ってのはいったん事実をばらして、また組み立て直す機械みたいなものだ。そのあとには、必ず部品がいくつか余ってる」】

その2)
12月に公開される映画『ゼロ・グラビティ』予告編1にも流れてたけど~ 
エストニアの作曲家Arvo Pärt(アルヴォ・ペルト)の"Spiegel im Spiegel"(鏡の中の鏡)という曲~3つの楽器バージョンあって、わたしはチェロとピアノ版がいちばんすきです。
celo and piano→
violin and piano→
cello and harp→

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by bacuminnote | 2013-10-12 17:32 | 音楽 | Comments(2)
▲母から梨届く。
ケッコン以来毎年・・途中よしので暮らした時期をのぞいてずっとやから。もう32回目の梨。送り先はそのかん6回変わり、食べるひとは2人から3人に、やがて4人になり。くだものを買うのがたいへんだった若い家庭に、大きな箱いっぱいに届く梨はほんまにうれしかった。とりわけ梨好きの上の子は、おばあちゃんが送ってくれる梨で、くだものを剥くことを覚えた。用事で出かけて帰ってくるとテーブルの上にあった手紙~「なしむいて、れいぞうこにあります。」~広告の裏に書いた幼い文字は 今も浮かんでくるようだ。

▲ と、いろいろ家族の思い出かさなる「おばあちゃんの梨」なんだけど。
あちこちに送るその手配が母にはここ数年しんどくなってるらしく、すぐに「もう今年で最後にしとく」とか言うんよね。口の悪い娘は「それ毎年言うてるやん」と茶々を入れつつ、老いて弱気の母を励ましてた?つもりだったけど。90歳になった「今年こそほんまに最後」と受話器のむこうの声に力がなかったから。とっさに笑いで返すことができず、一瞬しんとしてしもた。

▲ 子どものころから見慣れた薄緑色の紙『大阿太高原・廿世紀梨』のなつかしいロゴを、眺めつつ梨を剥く。いまはもう奪い合うようにして伸びて来る男の子らの手はないけれど、相方とさりさり音たてて食べる しずかな夜だ。
来年もこうやって母の送ってくれる梨を食べる秋になるといいな。そんで母の繰り言に「それ毎年言うてるやん」と笑う秋であってほしい。

▲ さて、そんなこんなでちょっとセンチメンタルな今日この頃だったけど。
気分かえてDVDを借りてきた。
『ル・コルビジュエの家』
(監督/ガストン・ドゥプラット&マリアノ・コーン)というアルゼンチン映画。タイトルから最初は建築家ル・コルビジュエのドキュメンタリーかな、と思ったけど、そうではなくて、アルゼンチンにある彼が実際に設計した家を舞台に、脚本は自身建築家でもあるアンドレス・ドゥプラットによる劇映画だ。

▲まず、画面の左右にちがう壁が出て、右の壁をハンマーで叩いていくところから映画が始まる。ドンドンという重い音が響くにつれ、しだいに左側の壁が崩れてきて。
つまり、右の壁はお隣が光ほしさに窓を作ろうと、壁を叩き破ってる(壁の内側)を。左側は「そんなところに窓など作ってもらっては困る」ル・コルビュジエの家の窓から見えるお隣の壁(壁の外側)を映してるんよね。この場面はとても印象的。ここだけ切り取ってもアート。かっこいい。

▲ 主人公は「コルビュジエの家」に住む高名な椅子デザイナーのレオナルド。家具調度もモダンで、あちこちに現代美術の作品が飾られて、妻と娘と三人のいかにもアーティストな(って、どんなんかわからないけど)暮らしぶり。ある朝、隣家からの思いがけないドンドンという音に起こされたレオナルドは窓から見える隣の壁の大きな穴に愕然とする。さっそく見知らぬ隣の住人ビクトルに、それは「違法だ」と訴えるんだけど。「太陽の光がちょっとほしいだけなんだ」と返される。

▲ そうして隣の家の壁の穴がきっかけに、レオナルド一家の一見おだやかな日常の中に、細い煙がじわじわと立ち上がって不穏な煙が広がり始める。一方 正体不明の不気味なお隣さんのビクトルが、ちょっとかわいく思えてきたり。最後までしゃべらなかった(と思う)娘が窓越しにビクトルの変てこな指人形(これもすごいふしぎな魅力やなあと思ってたら、アルゼンチンのアーティストによるものだったらしい)に初めてみせる笑顔とか、妻のわけわからん「キスして」という要求も。ユーモア(時にブラックな)とシュールな空気。寓意的な物語展開のなかに知らないうちに入り込み、どこか別の家からこの2軒の家や、その住人たちの深いところまで覗いてるような気分で、とてもおもしろくてこわい映画だった。

▲ そういえば。
むかし北米旅行のときピッツバーグの友だちに車でフランク・ロイド・ライト設計の家(
FALLING WATER
~落水荘)に連れて行ってもらった。その森と川(落水)のうつくしさはよく覚えてるのに、かんじんの家のことはあまり印象に残っていなくて。いまある記憶や知識は後に本やネットで得た気がする。
むしろ、思い出すのはその日一緒に行った友だちのお母さんがランチに、と作ってくれたターキーのサンドイッチがものすごくおいしかったこと!それから、きれいな筆記体で書かれた息子の名前の包み。その中にはサンドイッチと"secret ! "って書いたマーブルチョコレートの袋が入ってたこと。
歳とって、前にもまして「忘れる」ことだらけやけど、人のやさしさとおいしいもんのことは覚えてる。たぶん、ずっと。

*追記
最近よく聴いてるCDから
The Sadness in Your Life Will Slowly Fade- Bill Wells & Aidan Moffat
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by bacuminnote | 2013-10-01 13:07 | 映画 | Comments(0)