いま 本を読んで いるところ。


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<   2014年 08月 ( 3 )   > この月の画像一覧

▲朝いちばんに珈琲を淹れたあとは、続いてヤカンいっぱい番茶をわかす。その熱気が暑いとぼやきながら、ヤカンごと洗い桶で冷やす〜というのがこの夏の朝の日課で。今日もお湯をわかしながら珈琲を飲んだけれど、湯気たちのぼる台所がちょうどよいくらいに 肌寒い朝だった。
もしかしたら、このまま秋になるのか、じき又「残暑」に戻ってゆくのか、わからないけれど。夏の間じゅう「しんどい」ことも「できない」ことも、言い訳はぜーんぶ「暑さのせい」にしていたもんで。この涼風のここちよさがうれしい反面「もう文句は言わせへんからね」と夏から言い渡されたみたいで。ちょっとこまってる。

▲この間いつもの書店に寄ったら“お気に入り棚”の前で書店員のnさんがいてはった。「おひさしぶり〜」の挨拶のあと「じつは」と今月いっぱいでこの店の勤務が終わること、来月からは別の支店に異動がきまった旨聞いておどろく。
3年前のこと。
この書店にはよく寄っていたのだけれど、長居するのはたいてい絵本や児童書のフロアで、ある日ぶらりと入った階上の「文学」の棚に『昔日の客』(関口良雄著・夏葉社刊)を見つけてびっくりした。
じつはその本、ここに置いてあるはずがないと(ごめんなさい!)善行堂ネットショップで購入。でも近くのお店に置いてはるんやったら、次に出た夏葉社の本〜『星を撒いた街』は迷わずここで、と決めた。

▲ 発行のその日がきて、うきうき出かけて行ったら、果たして目当ての本はまだ入ってなくて、がっかり。(←知らんかったけど、本の入荷システムってけっこう複雑なんよね)でも、そのとき応対してくれた若い女店員さんが感じよくて。7日頃(入荷)というのを「七夕さんの頃には入ります」という言い方 しはったのも印象的で。そして、彼女が入荷日の確認をとりにレジに行って、一緒に登場しはったんが、担当のnさん。

▲ レジからこっちにむかいながら「え?どこ?どの人?」というnさんの声が聞こえて、こんなことでわざわざ出てきてくれんかってもええのに、と恐縮しつつも頬がゆるんだ。
とにかく、みじかいやり取りの中にも 書店員さんの「本が好き」がじんじん伝わって(←においでわかる)その日、本は買えなかったけど「ええ棚」発見!と、はずむような気もちで家に帰った。
で、さっそくその旨ツイートしたら、夏葉社の島田潤一郎さんが《もしかしてそれは△書店さんではないですか?文芸担当の方が弊社のことをものすごい応援して下さっています。違っていたら、すいません…》とお返事。

▲えーっ!!わたしのツイートに書店名は一文字伏せ字にしてたのに。大阪というだけで、すぐにどこの書店かわかるやなんて。島田さんってすごいなあと思った。一人出版社で、注文受けるのも書店への営業も自分で歩いて回ってはるからやろか。いや、やっぱりこのひとも又誰よりも「本が好き」やからかもしれへんなあ、とちょっとドキドキしながら「もしかして、のそのお店ですよ〜」と書いたら、その後
《鳥肌ものです。その担当氏は本当に、本を愛されている方です。その方がいらっしゃる限り、△書店さんの棚は、文学ファンの期待に応えてくれはずです》とつづきリプライがあったんよね。

▲ いやあ、それにしても。
本がつないでくれた人やものが、これまでどれくらいあったことやろ〜しみじみと思いながら買った本(息子1の誕生日プレゼント)を手に映画館にむかう。
こことも又今月いっぱいでお別れなのだ。以前から「もしかしたら・・」という噂は何度か聞いたこともあったけど、ついに閉館がきまったという。
90席のこじんまりした試写室みたいないい感じの部屋。かかる映画もすきな作品が多かったし。方向音痴のわたしが迷わず一人ふらりと入れる唯一の映画館だったんよね。
ちょっと早かったからか、館内はわたしともう一人だけで。いくらなんでも二人はさみしいなあと思いながら、いつも通り前から7列目左から三番目の席に腰を下ろす。

▲この前きたときには『ハンナ・アーレント』を観たんだった。そういえば『海炭市叙景』もここで(そのときのブログ→)。相方は最近タルコフスキー特集を観て来た。信州のころは映画館が遠すぎて連れて行ったことなかったから、息子2が11歳にして映画館デビュー(笑)したのもここだったんよね。・・と思いにふけってるうちに次々お客さんで席が埋まった。多分これまでわたしが来た中でいちばん多い観客数。その賑わいがうれしくて さみしい。
おとなりの女性二人組も、いつもこんなに入ってるとよかったのに。あんなん観たねえ、☓☓もここやったねえ。さみしなるねえ〜と話してはるのが聞こえて。ほんまにねえ〜

▲ この日観たのは『おじいちゃんの里帰り』(予告編→というドイツ映画。
1960年代半ば家族の将来のためにトルコからドイツへと単身移住したおじいちゃんのフセイン。やがて家族も呼び寄せ、その家族も独立して、ある日フセインは子どもも孫も、家族全員集まった席で「みんな揃ってトルコに行こう」と提案〜(というか、半ば強引に押し切るんよね)一見なんということもなく、平凡な家庭だけど、その実みんなそれぞれに問題は抱えており。息子らは失業や離婚の問題を。孫のチェンク(6歳)は父がトルコ人、母はドイツ人。おじいちゃんは「おまえはトルコ人」と言うけれど、学校でトルコ対ドイツのサッカーの試合の応援をめぐって友だちとけんかになって。「いったい自分は何人なの?」と悩み始めてる。おじいちゃんのことが大好きな大学生の孫娘にはイギリス人の恋人がいて妊娠していることがわかり、悩んでいる最中で。

▲ そんな中でおじいちゃんの「トルコに行こう」という誘い。しかも「トルコに家を買ったから」と言い出すんよね。おじいちゃんの故郷はトルコでもイスタンブールのような都会ではなく、ドイツから3000キロも離れたアナトリア地方という田舎なんだけど、そこの黄色いおんぼろバスにみんな乗って旅に出る。
映画はこの一家のむかし〜トルコでの暮らしからドイツに移住してからの、生活習慣、言語や文化のちがい、とまどいを、現在の生活を交互にユーモラスに時に皮肉もこめて描く。
戦後の労働力不足にドイツで「ゲスト労働者」と呼ばれた人たち。まるで家畜のような入国前の身体検査の様子がニュースフィルムで流れる。いまのドイツにおけるトルコ系移民への労働問題や差別の深刻な問題は劇中には出てこないんだけど、合間に挟まれたそんな映像に深い問題がかいま見える。

▲ そうそう。トルコでは旅立つ人を見送るとき、うしろから水を道端に撒くんよね。これは水が蒸発するぐらい、早く戻ってくるようにという意味があるそうで。映画でもフセイン一家がドイツに移住するとき、トラックの荷台に家族5人と荷物積んでの旅立ちに、近所の人たちや親しい友だちが水の入ったバケツを持って集まってきて、水を撒くシーンがあって胸がつまった。
さて、8月もあと3日。映画館の閉館も、本好きのひとの異動も。さみしいけれど。心のなかで、映画で観たように水撒いて見送りたいなとおもう。
すぐまたもどってきてくれますように。


*追記
その1)
今日の新聞(web)によると、この映画館の閉館で《フィルムで上映する主要な映画館は、府内から姿を消す。》《愛知や三重、徳島などからも熱心な映画ファンが足を運んだ。》とあった。

その2)
トルコとドイツといえば、前に観た『そして、私たちは愛に帰る』(ファティ・アキン監督)がとてもよかった。この間思い出して又観たところです。

その3)
今日は本屋さんのことだけで、本のこと書けなかったけど、この間図書館で借りた『1969新宿西口地下広場』という本にドキュメンタリー映画『'69春~秋 地下広場』(大内田圭弥監督)のDVD付録がついていて、先にこれを観ました。1969年2月頃から、毎土曜日に新宿西口広場に始まった「フォークゲリラ」を中心に広場の人びとを記録したものですが。
深く残ったのがその名も「広場」という言葉でした。ここに集まった人たち、学生も労働者も、サラリーマンも、皆よくしゃべってる。運動に反対にしろ賛成にしろ、みな真剣に議論しており。そして、そのうち取り囲んでる人らも加わって。それがごく自然な感じで広場のあちこちでみられ、驚きました。ナレーションにこんな一節が。

昔、ギリシャに広場があった。人びとはアゴラと呼んだ。事が起きるたび、人びとは家の中から外に出てアゴラに集まり、それぞれの心ぶつけあったという。対立する意見が、ありのまま闘わされたにちがいない。たくさんの人びとが、それを聞き、参加していったにちがいない。全体の意思はそこで決められた

アゴラは自立する人たちによってつくられたのであろう。アゴラは、自立する人たちを新しく生み出していったのであろう。広場は人間たちが創るものだ
(同書p143映画『採録シナリオ』大内田監督本人による〜)

その3)
今日はこれを聴きながら。
King's Daughters & Sons - Lorelei
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by bacuminnote | 2014-08-29 12:20 | 映画

通り過ぎるために。

▲ まいにちまいにち暑い。
それでも時々ざーっと俄雨が降っては地の熱を鎮めてくれて、ふうう〜っとひと息つく。じきにまた「待ってました」とばかりにお陽ぃさんがぎらぎら照りつけ始めるんやけどね。そうして草の元気のええこと言うたら。あちこちに葦簀(よしず)や日除けを吊るしたのたのをええことに、極力まどの外は見んようにしてる(苦笑)
そんな中先週お墓そうじに行ったあと、週明け辺りからどうも調子が出ず、寝たり起きたり、読んだり、寝たり(!)の時間をすごした。
おかげでだいぶ回復したけど、大阪に戻って10年目にして初めての夏バテにちょっと弱気の今日このごろ。

▲ さて、その墓参に行った日のこと。
台風の前だったからか、朝はけっこう涼しくて。よかったぁ〜今のうち、暑くならへんうちにちょっとでも早く、と思っていたところ 予定より一本早いバスがまだ停車しており。ラッキーと〜慌ててダッシュ。
バスはわたしが乗車するなり発車したから。ひょっとしたら運転手さん バックミラーに「ヨロヨロ必死でむかってくるおばちゃん」が見えてたのかもしれないな(笑)
そんなわけで、走ったあとの火照ったからだに、いつもなら寒いクーラーも気持ちよく、これで予定より半時間は早く着く〜と気分上々持ってきた本を開く。

▲ 水色のかわいらしい装丁のその本は岩瀬成子さんの『くもり ときどき 晴レル』6人の子どもたちの話〜6つの短篇集だ。
ひとつめは「アスパラ」 アスパラっていうのはね、アスパラの好きないとこの冬二(ふゆじ)に「わたし」がつけたニックネームなんだけど。山盛りにゆでた緑あざやかなアスパラを1本1本「ぽくぽくと」マヨネーズつけて食べてる少年のすがたが浮んでてきて。物語が始まったばかりだというのに、わたしはせつない気分になった。

▲ 子どもが自分以外のだれかのことを思うきもち。けど、その思いの届け方もよくわからなくて、かんがえたり、思ったりして。
ある日、「わたし」は自分とはまるでちがうアスパラの家庭環境に同情する気もちが湧きかけるんだけど。こんなふうに思い直すんよね。

わたしはその落とし穴には落ちないように気をつけた。気もちの落とし穴に。
すぐに泣いたり、だれかをかわいそうに思うのは気もちの落とし穴で、罠みたいなもんだから、やすやすと罠にはまってしまってはいけない。いい人ぶるのは、いやだ。
》(p25)

▲ この一節で、会ったこともない本の世界のこの女の子が見えるような気がした。
そして、いつも、どんなことがあってもにこにこしてるアスパラが切ない。そんな《アスパラもそのうち、わたしと同じ五年生くらいになったら、悲しいことで泣けるようになる、と思う。自分のことで泣けるようになる、と思う》(p31〜32)と言いながら、アスパラが泣くときはそばにいてあげたい、守ってあげたいとおもう「わたし」もいとおしい。

▲アスパラを食べるたびにこの物語を思いだすことだろうな〜と 読後のなんともいえないきもちに浸っていた、そのときのこと。車中で”終点A駅には〜“というアナウンスが耳に入って、思わず飛び上がる。
わたしの目的地はまだもうちょっと先のB駅で。いつも墓参のとき乗るバスは終点がB駅のはず。
信号待ちを狙って運転手さんに聞きに行ったら「はい。このバスはA駅止まりですよ。B駅に行かはるんでしたら、電車に乗り換えが早いし安いです」と、にっこり。
ええ!?この前乗ったときはこの系統でもOKやったのに。いつのまに路線変わってしもたんよ!とびっくりしたけど、運転手さんの愛想のよさと運転中ということもあり、おとなしく下車仕度。ふうう。読書の余韻もいっぺんに飛んでしまった。

▲ やがて回り道のすえ目的のB駅に着いて、お花を買ってタクシーに乗り込む。
いつもは閑散としている墓地も、お盆前ということもあり、あちこちに草抜きする人、墓石をきれいにしてる人がいて。草払い機のぶーんぶーんという音が響いて、暑さ倍増。
洗い場でしゃがんで花入れを洗うてるだけで、汗がぽとぽと流れる。横で同じように洗い物してはる人と「きょうも暑いですねえ」「ほんまにねえ」「せやけど、暑うならんとお盆は来んさかいに」「ほな、お互い熱中症に気ぃつけて」と。知らん人との会話はいつもお決まりやけど。なんか ほっとするんよね。

▲ お墓でひとり黙々草抜きしているとなぜか俳句がうかぶ。
そういえば信州でいた頃、雪かきの合間スコップを置いて、ごっついスキー用グローブを指折って五七五七七(←当時いっとき短歌にはまってた)なんてやってたなあ、と思いだす。一面真っ白の世界にいると、どんなことばも光ってみえて(!)一人悦に入ってたもんやけど。
夏のお墓はあまりに暑過ぎて光らへん(苦笑)いや、そんなことより早いとこすませて帰ろう〜と気を取り直して草抜きしていたら「すんまへん。ちょっとうしろ、通りまっせ」と年配のご夫婦。うしろに人がいるなんて。まったく気がつかなかった。「いやあ、道ふさいでしもぅてすんませーん」と立ち上がるや、「あれ?△△さんのお家の方でっか?」とおじいさんが振り返って言わはる。
それからちょっと先の墓石をまるでお家みたいに指さして「わたし、あそこの◯◯ですねん」と。指の先の「◯◯家」の文字に、そういえば相方の祖母や親から聞いたことある名字、と気づく。こんな会話もまた「ここ」ならではのこと。

▲ お茶もいっぱい飲んで、着替え持ってきたらよかったと思うほど汗びっしょりかいて、予定終了。いつも帰りは徒歩。でも、この日の駅までの道の長かったこと。ああ、駅に着いたら、とりあえずソフトクリーム、かき氷、いや生ビールかなあ・・と、励ましながら歩くも(笑)駅では果たしてまたもや予定より一本早いバスが。
というわけで、こんどは行き先を確かめて乗車。どすんと座席に腰掛けて、しばし呆然。空いてたこともあって持参のパンとお茶でかんたんランチ。からだの火照りが少し収まってから、本のつづき。

▲ ふたつめは「恋じゃなくても」というお話。
毎週金曜にガッコ休んでる桃井さんを登校途中にみつけた「ぼく」が、中学校そばまで来ながら、ガッコには行かず桃井さんのあとをつけるんよね。わたしはもうこの段階でわくわく(笑)みんなおんなじ制服着て、おんなじ交差点で横断歩道渡ってガッコに行くのに。自分だけそこをスルーして違う道を行く、ってかっこええ。じきに桃井さんは「ぼく」に気づいて話をする。
桃井さんは一年の一学期と二学期は登校したり休んだりで、三学期は全休だったと言う。二年になってからはまた登校するんだけど《金曜日だけは休むことにしてるんだ。べつに毎日学校に行くと決心したわけじゃないんだよ、と自分に知らせるためにね》(p50)と言う。

▲ いいなあ。このかんじ。岩瀬成子の描く子どもはかんたんに、そのきもちわかる、とは言わなくて。
よくわからない理由だけれど、でも、桃井さんは自分の気もちを他人にすべてわかってもらいたいと思ってるわけでもないんだろう、たぶん。そういうことも、ぼくは最近、考えるようになった。誰かが言った言葉に言葉どおりの意味がくっついているわけじゃない、ということ。人は思ってもいないことを言ったり、ほんとうみたいな嘘だってつくし、言いたいことはどこか別のところに置きっぱなしにしていたりする。》(p50)


▲ そうやって話してるうちに「ぼく」は桃井さんがいじめにあってたと知る。
冗談っぽい言葉でしかないんだけど、刺は心にずばずば確実に刺さって、しだいに毒が効いてくるの。心ってやわらかいものでできているんだと思う》(p52)
ほんまやね。
桃井さんは歩きながらよその庭木を指さして「あれは金木犀」とかこれはモクレンで、あれはニシキギ・・とか言うんよね。「ぼく」が名前を言えるのは松だけやのに(まるでわたしみたいやな)
それから、ふたりはコンビニでプリン買って公園で食べるのだった。
そうそう、だいじなこと書き忘れていた。桃井さんが履いてた靴はローラーシューズ。学校の前を滑って通り過ぎるために。かっこいいぞ、桃井さん。

▲ ほんまいうと、帰り道はその場で寝転びたいくらいにくたびれてたけど。この本読んでさわやかな緑の風がふきこんできたみたいに、元気がでてきた。アスパラと「わたし」、桃井さんと「ぼく」ありがとう。そういう子どもたちを描く岩瀬成子さん、いいなあ。すごいなあ〜とバス降りて、たこ焼き屋に直進。「たこ一枚・・・あ、生ビールもひとつ、ね」


*追記
その1)
あつあつのたこ焼きとビール飲んだとこまではサイコーやったんですが、あとが暑くて、これまた家までの道の長かったこと。(あ、いま数えたら本文中に「暑い」が7個もあった。あつくるしい文章ですみません。あ、たった今気づいたのですが。暑いという字は"日"の下に"者"と書くんですよね〜改めてなっとく・・笑)
そして、この翌々日あたりからダウンすることになるのでありました。


その2)
この本のタイトルみて、ぱっと浮かんだのは以前観たイギリス映画『人生は、時々晴れ』(マイク・リー監督)
いつもじゃなく、時々しか晴れない空。だから、ジンセイはしんどくておもしろいのかもしれない。

その3)
今日はこれを聴きながら。
もうほんと長いこと泳いでないから、泳いでみたい。プールでもいいけど、やっぱり川がいいなあ。流れにのってすいすい泳ぐ。腕をすーっと前に伸ばす。指と指の間、透明の水が流れて、お陽ぃさんに照らされてキラキラ光るんよね。

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by bacuminnote | 2014-08-18 11:45 | 本をよむ | Comments(0)
▲ 一昨日中学校の同窓会の案内が届いた。
卒業して早や45年ってことで、いわゆるカンレキ同窓会っていうアレである。
つらなる幹事サンの名前を見ていたら、卒業以来いっぺんも会ってへん「子」(←苦笑)がほとんどやのに、ちょっと間があった後、じわじわと白い布に記憶の絵の具がにじみ始め。

▲やがて、そのころの顔がぱっと浮んで。あとはクラブから通学方法まで(町内1つに統合された学校だったので、徒歩・自転車・バス通学に分かれていた)するすると思い出して。えっ?そんなことまで覚えてたん?と自分でツッコミを入れたくなるような、細かなことまでを思い出したりして。夕飯の仕度をしながらひとり笑ってしまった。

▲そのくせ、出欠のはがきに3年のときのクラスを記入する欄があったけれど、自分が何組やったか覚えがない。中学校に限らずこれまで同窓会というものに行ったことがないし、卒業アルバムは滋賀→信州の引越しのとき詰めたままの段ボール箱を、信州→大阪の引越し準備で久しぶりに開けたら、カビですごいことになっており、迷ったすえに相方の分もあわせて全部処分してしもたしね。

▲最後に見納めたそのアルバムのわたしは、腫れぼったい目で写ってた気がする。たしか写真撮影の前日、担任のセンセとけんかして(苦笑)くやしくて家に帰ってから又親とけんかして大泣きしたんよね。何が原因だったのか肝心なところは思い出せないんだけど。
とにかく、ガッコにもセンセにも親にも「それはちがう」と言いたいことがいっぱいあって。そして何にもできない自分自身にも腹をたてていた。

▲ 通学鞄にはいつも本が入ってた。
帰りのバスが川沿いの道に出ると、本を膝の上に置いて、見飽きてるはずの川を窓に顔くっつけるようにして見入ってた。一方で、家にあるアルバムのわたしは、どの写真もみな 友だちと大きな口開けて弾けるように笑ってる。親やセンセに反抗するわたしも、賑やかにしゃべりまくるわたしも、ひとりしずかに本読んでるわたしも、当たり前やけどぜんぶわたしなんよね。

▲ 先月『偶然の装丁家』というとてもおもしろい本を読んだ。(これは晶文社から出ている「就職しないで生きるには21」シリーズの一冊で、同シリーズ夏葉社の島田順一郎さんの『あしたから出版社』もおすすめ〜)
著者の矢萩多聞さんの紹介に《1980年、横浜生まれ。画家・装丁家。中学1年で学校を辞め、ペンによる細密画を描きはじめる。95年から、南インドと日本を半年ごとに往復し・・》とあったのを読んで興味をもった。

▲ウチの上の子と同じ歳で、中1で学校をやめ、その後も学校に行くことなく、仕事をしているというとこにも共感。
でも、こういう刺激的なプロフィール読んだら「インドに行ったら、うちの子にも何かいい道開けるかも」っていう親があらわれるんちゃうかなあ、って思ったら、やっぱり著者にそういう質問をする人が少なからずいるらしい。

▲ここ十年ほどの間で不登校への世間の風当たりもずいぶん和らいだと思うけど、相変わらず学校行ってない子は、学歴のかわりに何か特別な才能や感性を持ってへんかったらアカンみたいな〜空気はつよく感じる。「ガッコも行かせないで、将来どうするつもり?」と、親は親で周囲や世間からチクチクと圧力かけられるから。気持ちはわからんこともないけど。

▲だからって、◯◯に行けば何もかも解決、なんてことはないわけで。
学校に行っても、行かなくても。
ひとによって「学び」の場はそれぞれなんよね。そこに尽きる気がする。

▲ ただ、著者が「学校に行かなかった」ことや、インドで暮らしたことで得たのであろう視界の広さや、何かに追われることのないゆったりとした時間の感覚というか、それは本当にかけがえのない体験だと思う。
そして、ある日、学校に行かない決心をした子どもも、その決意を尊重し やがては親子でインドで暮らしてみるってことをやってしまう親もすごいなあと思う。
いつだって、なんかを変えるとき、いろいろ「できない」理由をつけて ひるむ人の方が圧倒的に多いから。

視界がひらけた、風通しのよい場所があるからこそ、子どもの「想像」は生き生きとしていられる。個性や才能という名前で塗り固められ、とじられた堅い殻のなかにはなにも生まれない。「想像」はやわらかな呼吸のように、自分と他者の間を行き来する。いのちそのものといってもいい》(本書p271 五「日本で暮らす」)

▲ さて、タイトルにあるように矢萩さんはいつのまにやら装丁家になるわけだけど、この本のおもしろいのはそんな彼の来し方だけでなく、本づくりの話も。

本は書いた人が亡くなっても、存在しつづけ、著者の生きた証となる、目に見えないものが文字になり、人が動かされ、本のかたちがつくられ、大きなうねりを生む。まるで本づくりそのもが大きな生き物のようにも見える》(p142 四「本を作る仕事」)

ああ、でもやっぱり「偶然の装丁家」というより、家族や出会った人たちや、インドに日本の風景や食べ物、大小いっぱいのパーツで、できあがった絵のようなものかもしれないな。そんでその絵は生き物。これからもどんどん変化し続けるんやろうな。

▲彼と同じ絵はだれにも描けないし、まねしても仕方ない。何より自分には自分の絵が描けるもんね。
いわゆるYAの本ではないけど、新しいドアの前で立ちすくんでるそんな十代の子に読んでもらいたいです。







*追記
その1)
心に残った文章ふたつ。

本というのはふしぎなものだ。近ごろは、本がきっかけで人と人がつながり、会話をしたりすることのほうが、本そのものよりおもしろいんじゃないかと思うことさえある。
人の奥にひめられた物語は、何気ないようでいて、どれも多層的で豊かだ。
》(p265 五「日本で暮らす」)

音楽でも映画でも料理でも、その瞬間にしか味わえないライブなものって、すぐに言葉にはならない。「かっこいい」「感動した」「おいしい」とか、感嘆符のような言葉は出たとしても、その瞬間感じたことは時間を経ていくなかでようやく言葉と結びついていくものだ。最初になんとも思わなかったのに、時間を経てボディーブローのようにじわじわ効いてくることもある。
そういった時間経過の妙が、リアルタイムで何かを発信していくことで損なわれてしまわないか。ぼくは日頃からほんとうに心動かされたときは、言葉にはしないでおく努力をしている。何かに書いてしまうと、客体化されて、余韻の伸びしろが切り落とされてしまうような気がして、言いふらしたいのをぐっと我慢する。

(p219 五「日本で暮らす」)


その2)
今日はなつかしいこのうた聴きながら。
Janis Ian - At Seventeen (Live, 1976)

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by bacuminnote | 2014-08-05 09:49 | 本をよむ