いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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<   2014年 10月 ( 3 )   > この月の画像一覧

ハラタッタ。

▲久しぶりに怒ってしもた。
日頃おだやかな性格ながら(ほ、ほんまか?)たまにバクハツすると、しつこいらしい(←同居人の弁。苦笑)
けっこう気短かのくせに「あかんたれ」が災いして、いつも怒るタイミングを逃す。一人悶々とした後「まあええか」と思って通り過ぎるも「そら、やっぱり、きちんと怒らなあかんで」と呼び止める自分もいて。けど、たいてい気がついた時に列車はすでにむこうの方を走ってゆく(泣)

▲ いや、昨日はちょっとほんまに腹が立って(←しつこい)持って行き場のない思いをだれかに聞いてもらいたくて、あの人やこの人に電話するも何故だかみーんな外出中。くわえて相方も留守で。ああ、ハラタツ、ハラタッタと、外はまだ明るかったけどビールをのんだら、カッカするきもちはそのまんまでからだだけ冷えた。
それから、洗いもんをした。ガチャガチャ音たてて黙々とお茶わんや鍋を洗った。
と、そのとき。あ、あの本!とおもいだして、洗いかけのお茶わんはほったらかしたまま、あわてて袋からとり出した。それはその日のお昼に図書館で借りて来た『ピーター』(バーナデット・ワッツ作 福本友美子訳)という絵本だ。

▲表紙をめくると「おとうとのピーターへ」とある。
ピーターのお家は祖父母と両親、二人の姉とピーターの7人家族。両親が働きに出てる間、家の中のことはおばあちゃんが、家の外〜庭や畑や鶏の世話はおじいちゃんがしてくれる。
夏のある日、お母さんの誕生日が近づいて姉たちは贈り物の準備をはじめてる。ケイティは絵を描き、アンジェラはケーキをつくるつもりだ。
さて、弟のピーターは何を贈っていいのか見当がつかない。姉の贈り物計画に加わろうとすると「だめよ。うまくかけないでしょ」とか「だめよ。たな(の小麦の袋に)てがとどかないでしょ」とか言っわれて追い払われて。ああ、わかる。わかるなあ。末っ子の悲哀(苦笑)

▲ピーターはアンジェラにたのまれた卵を 庭にいるおじいちゃんのところにもらいに行くんだけど。そしたら、おじいちゃんにもママの誕生日にピーターが何を贈るつもりか?と尋ねられるんよね。

ピーターは かたをすくめました。なみだが でそうになったので、キャベツのはたけに ひざをついて、はっぱについたあおむしを とるふりをしました。
「アンジェラに たまごをもっていきなさい。おじいちゃんは、はたけでマメをとっているから、あとで おまえもおいで」と、おじいちゃんは やさしくいいました。「うん、ぼくも いっしょにとる!」とピーターは いいました。


▲ このページの絵はひまわりと輝くお陽ぃさんのイエローとオレンジ色に染まってきれい。
けなげにもピーターは青虫捕るふりして泣くのをがまんしてるというのに。「がまんのコップの水」があふれたのは読んでるわたしの方だ。
次の日もよいお天気で、ピーターはおねえちゃんたちに外で遊ぼうよ〜と誘うんだけど、口をそろえて《あたしたち いそがしいの。ママのたんじょう日は あしたなのよ!》と返される。
いかにも、おしゃまなおねえちゃんたちの口ぶりが聞こえてきそうだ。
意気消沈したピーターはおじいちゃんに《ママに せかいでいちばんきれいな木をあげたいの。でも、どこにあるかわからない……》と言う。

▲ 「だいじょうぶだよ!」と、おじいちゃんは小石を植木鉢にしきつめ、庭の奥に行って土の中から「ちいさな くろい ぼうのようなもの」を掘り出して植木鉢に土と共に入れてくれるんだけど。これ、ただの棒っきれを土につき差しただけにしか見えなくて。ピーターは「こんなもの、だれにも みられたくない」とマメのつるの裏に隠してしまうんよね。
そうして、とうとう誕生日のその日がきて、庭でおねえちゃんたちはおいしそうなケーキや絵をママに渡す。ピーターはなんにも渡すものがなくて。ただママのそばに行ってママの顔をみつめるだけ。でもママはにっこり笑って抱きしめてくれる。

▲ やがて秋がきて。
ママと一緒にピーターが庭の落ち葉を熊手でかき集めてた時のこと。なんとママがあの植木鉢を見つけるんよね。ピーターはむきになって《なんでもない。ただのぼうだよ。ママのたんじょう日に、せかいいちきれいな木をあげようとおもったのに!》と泣く。
するとママは「これはぼうじゃない。木のあかちゃんよ」と、台所の窓からみえる畑に植え替えるのだった。

▲ さて、季節は冬になって。ピーターの家のまわりはあたりは真っ白な雪景色。
木のあかちゃんはどうなるのか、どんな花をさかせてくれるのか。(このつづきは、ぜひ本を手にとって読んでほしいです。)文章だけでなく、ていねいに描き込まれた家や庭や動物たちもまた物語を持っている。
子どもが泣いたり笑ったりすねたりしながらゆっくり育ってゆくように、「ただの ぼう」も時間をかけてママへのすてきな贈り物になり、家族みんなの愉しみになってゆく。
最後の頁には現在の三姉弟のことがさらりと書かれていて。ほんとうの話なのか、これも物語の続きなのかはわからないけれど。最初の「おとうとのピーターへ」を思い出して、泣き虫の末っ子がこの後どんなふうに成長したのか、あれこれ想像したりして。
気がつけばわたしのきもちはしずかに そしてほかほかになってたよ。 ありがとう、ピーター。


追記
その1)
バーナテッド・ワッツさんのサイト→

その2)
洗いモンをしながら思い出していた短歌↓
《怒りつつ洗うお茶わんことごとく割れてさびしい ごめんさびしい》
(東直子『青卵』)
かっかしてたけど、途中できもちが絵本へと移ったおかげで、お茶わんは割れなくてよかった(苦笑)

そして本を読んだあとに、ようやく幼なじみと電話が繋がり、堰を切ったようにしゃべってしゃべって。泣き笑い。
mちゃん、おおきに。
そうこうしてるうちに、ハラタッタはハラヘッタに移行(笑)

その3)
ハラタッタがなければ書こうと思っていた『ぼくはアメリカを学んだ』(鎌田遵 著/ 岩波ジュニア新書)や『言葉と歩く日記』(多和田葉子著 / 岩波新書)はまたこんど。

その4)
今日はこれを聴きながら。
Essie Jain "I'm Not Afraid Of The Dark" (Wanderer Session #29)→
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by bacuminnote | 2014-10-27 22:34 | 本をよむ | Comments(0)
▲ 一昨日は大きな台風が来るというので、夕方から雨戸ぜんぶ閉めてしもたから。家の中は真っ暗で。そんなとこに、雨もあんまり降らない内からケイタイに緊急エリアメールの着信音が響いてドキン。《自主的に避難したい方のために、どこどこのホールを避難所として開設・・・》と知らせてきた。
けど、恐れていた「来客」はその後、雨降りにはなったものの植木鉢を飛ばすことも、雨戸を激しく叩くこともなく、思いの外あっさり通りすぎて。「大したことなくてよかった」と思わせる為〜みたいな(こういうのがほんまに適切な天気予報なのか、考えつつ)暗いままの長い夜となった。

▲ この間シネ・ヌーヴォという映画館に行ってきた。ふだん家から半径1km圏内で過ごしてるから。たまに「圏外」に出かけると街も人も、刺激的でおもしろい。
乗り換え駅で電車が来るまでベンチに座ってると、いきなりどすんと右横に座った40代くらいの男性はコンビニ弁当(たぶん)を袋から取り出すと、猛烈な勢いで食べ始めた。まだお昼には一時間ほどあるけど「昨夜から何にも食べてません」モードで、その人は唐揚げもポテトサラダもレタスもご飯も皆一緒くたに頬ばってはる。
左横の女性は鏡みながら目を重点的にメイクアップ中。その前に立つビジネスマン3人は億のつく数字入り会話を「かぼちゃ一個でその値段は高いで」的ノリで。
そうこうしてる内にホームに電車が入ってきた。ところが横の方はちょっとペースダウンしたものの、まだお食事中。電車乗るのか乗らへんのか気になりつつ、とりあえずわたしは乗車(苦笑)。なんか映画観に行くまえに、すでに映画が始まってるみたいでわくわくする。

▲ シネ・ヌーヴォに行くのは二回目だ。
去年3月、大阪アジアン映画祭で『日本の悲劇』(小林政広監督)を観に行った。そういえば、このとき行ってきたことを告げると、何人ものひとに「わあ。一人でよう九条まで行って来たねえ」とびっくりされた。いや、同じ大阪府下だし、それほど遠距離でもないんやけど。どれだけわたしが方向オンチ+出不精か、ってことやね。
そのときは映画館までの地図を前もってノートに書いて(コピーするより書くと頭に入る←たぶん)始まる2時間前に家を出て行くわたしに 相方が「ん?シネ・ヌーヴォーって大阪やったよな?」と聞き直してたっけ(苦笑)
そして、手書きしてしっかり頭に入ってるはずの地図やったのに、道中二回も迷いそうになったのであった。駅から「徒歩3分」ってホームページに書いてあったのに。

▲ でも、今回は大丈夫〜と自信満々家を出た。九条駅の長い階段をおりて商店街の前に立つと、記憶が蘇り道幅の広い商店街を行く。あ、あの洋品店は(←ブティックというより)帰りに寄ったとこや〜とか思い出しながら歩く。
『日本の悲劇』はこの映画祭での上映が日本初公開。どうしても観たかった。タイトル通り重くて深いテーマの作品だけど、ふっと自然に頬が緩む場面もいくつかあって。一瞬張り詰めた劇場内の空気が皆の小さな笑い声で満ちた。白黒で(いっときだけカラーになる)音楽のない映画ながら、生活の音がラジオドラマを聞いてるようでもあり。どんな小さな音や吐く息さえも聞き漏らすまいと耳をそばだてていた。

▲上映後あこがれの監督の舞台挨拶のあと質疑応答の時間は、映画青年たちの「撮る側」の質問が多かった。おばちゃんは聞いてみようかなと思ったことも聞けず、出口近くで監督にサインしてもらってる人の列にも並べず(本やCD、その他いろいろ持って行ってたけど・・苦笑)。ええねん。ええねん。ちょっと離れたとこで眺めてるのがファン〜とかなんとか。自分で自分に言い訳しながら館を出た。
それでも、初めてのところに一人で来て(←おおげさやなあ)観たかった映画を観ることができたという満足感で、なんだか晴れ晴れとした気持ちで商店街を歩いた。そうして件の洋品店の前を通り、表のセール品の中にグレイのスカートをみつけて。ふんぱつ。

▲そんなこんなを思い出しながら、喫茶店とパチンコ屋の角を曲がり、直進して。前はここで次の目標の薬局が見つからなかったんだけど。今回もちょっと迷いつつも・・・あ、あった。着いた!
早く来すぎたから、待合のコーナーはわたし一人で。持ってきたパンと珈琲で早めのお昼。緊張のせいかお腹がすいてたんよね。がつがつ頬張ってぐいぐい飲んで、ふっと、さっき猛スピードでお弁当食べてた人が浮んで、思い直してゆっくり噛んで食べた(笑)

▲ この日観たのは『シュトルム・ウント・ドランクッ』(山田勇男監督)
友だちがワンシーンだけど出演しているんよね。彼女から、たったひとつの台詞「十五円五十銭」を何度もくりかえし練習してること、関東大震災関連の本を何冊も読んだことなど聞かされており。
映画を観るのはたのしみでもあったけど、古い、身内のような子やから、なんか照れくさいような、心配なような気持ちで、登場のシーンになるまで落ち着かなかった。まるでわが子の出番をドキドキして待つお母ちゃんの気分やね。

▲ ところが「朝鮮あざみの女」(彼女の役名)は怖れで凍りつく女のひとの表情を、そのみじかい時間の中で微妙に変化させてとってもよかった。
いや、彼女はマンガ家でありイラストレーターであって、役者やないんやけど。あそこに映ってるのは、アーティスト「うらたじゅん」だなと思った。
・・と、「友だちの出演」に気を取られ、物語の中に深く入りそこねた気がするものの、場面 場面の印象は深い。
映像もきれいでよかった。くわえて、それにかぶさる音(効果音というのかな〜人が動き出すのに馬が走り出す音がしたり、マッチ擦る音が大きく聞こえたり)もことばのない詩のような感じがして いまだ耳にのこってる。音楽もいい感じ〜最後のほうでジンタらムータ with 黒色すみれの『ワルシャワ労働歌』が流れるシーンがすき。

▲クレジットのあと、もうおしまいと思ってたら《瞼は黒いスクリーンである》という言葉が現れて、どきっとする。照明が灯って場内がぱっと明るくなり、周囲の人たちの立つ気配を感じながらもそのまま座ってた。そうだ。忘れないうちに、とノートを出して書き留める。山田勇男監督のことばだった。
はっとして辺り見渡したら場内わたし一人になっていた。慌てて席を立つ。表には次の回の人たちが並んではった。

▲ 帰りは すいすい。(あたりまえ)
映画館に行く道中もすきだけど、帰り道はもっとすき。余韻のなかであれこれ思う時間。思いをことばにするんやなくて、思いを漂わせてるみたいな時間。
そんで、行くときは田舎からでてきたお母ちゃんみたく、きょろきょろしてたくせに、帰りは「まちの空気」にちょっと馴染んできて本を開く。『トリエステの坂道』(須賀敦子は表題作がすきで何度も読む。著者がミラノから夜遅い空の便で、勝手のわからないトリエステにひとり旅の話に自分をかさねる。(おおげさやなあ)
文庫で20頁ほどやからすぐに読み終えて、また映画のことに思いをはせる。
家に帰ったらおなかがすいて、相方とバゲットにハムとチーズ挟んでビール!〆はこれ(やっぱり)わたしの秋の遠足〜ええ一日でした。



* 追記
その1)
『シュトルム・ウント・ドランクッ』のメイキング←ここにジンタらムータ with 黒色すみれの『ワルシャワ労働歌』のシーンも。

その2 )
この間ツイッターで小林監督がトリフォーが来日したときのエピソードを書いてはった。
トリュフォーの時もそうだった。もう30年も前の話。パレスホテルのカウンターで、お土産と手紙を渡してくださいと言ったらカウンターの人が部屋に電話してくれて、今いらっしゃいますよ。直接渡したらどうですか?と言われビビって、走って退散した(略)
このきもち、とてもとてもよくわかる気がする。
そして、去年その小林監督の前からそぉーっと退散したときのこと、ふっと思い出していました。

その3)
『日本の悲劇』については北の友、番場早苗さんがブログ『陸繋砂州』ですばらしいレビューを書いてはります。→

その4)関東大震災というとこの本が深く残っています。
『九月、東京の路上で』(加藤直樹著 ころから刊)

その4)
今日はこれを聴きながら。ギリシャのバンド。この画像の写真の少女はうらたじゅんの絵の世界のようでもあります。タイトルがvagabond(さすらいびと)というのもね。
One Hour Before The Trip ~ Vagabond →
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by bacuminnote | 2014-10-15 11:54 | 映画 | Comments(0)
▲ 若いときは田舎ぎらいだったわたしも、今は目をつむれば自然に吉野の山と川がうかぶ。パン屋を始めた滋賀・愛知川で暮らしたあとは、車中から近江富士が見えると「ほぉ〜」と声がでて思わず立ち上がりそうになって。
信州・開田高原での13年近い日々には「おやま」(御嶽山のことをこう呼んだ)はいつもそばにあったから。その姿はくっきりと自分の中にきざみこまれてる。

▲ 郷愁のおもいに傾きやすいのは歳のせいやろか。いや、年齢や、好きとか嫌いとかの前に、山も川もあたりの空気もみな。わたしのからだの中の深〜いとこまで染みこんでいるんやろなと思う。
そして、そのどちらも身近にない街暮らしをしている今、ときどき河童のお皿がからっぽになったみたいなきもちになる。

▲先月末から日に何回も「御嶽山」のニュースや写真をみてそのつど胸がつまる。
噴火のその日と翌日と、ふだんは連絡してこない息子ふたり(!)からも電話やメールがあって。何度も引っ越しているけれど、あの子らにとっても開田はたいせつな故郷のひとつなんやなあと改めて思った。
かの地の友人たちからそれぞれに近況と「大丈夫」の返信が来てひとまず安堵のあと、でも、やっぱり気持ちはずっと落ち着かない。
かつて麓の村から毎日のように眺めてた、つねに思い出の背景にあった穏やかな「おやま」の、もうひとつの顔。改めて山は(も)生き物と思う。でもどうか早く鎮まってくれますよう。そして、亡くなられた多くの方々にはただもう手をあわせるばかりです。

▲ どきどき、ざわざわした思いのなか、しらんまに九月は終わり十月になった。
そろそろ扇風機がじゃまになって、片付けようかと思ったら、夏が戻ってきたみたいに暑い日もあって。よけいに身の持っていきどころがないような、宙ぶらりんな毎日だ。
そんな中〜9月1日から始まった毎日新聞(大阪本社発行版)連載童話『蝶々の木』(岩瀬成子 文 / 長谷川集平 絵)も30日で最終回となった。
だいすきな岩瀬さんと長谷川さんのコンビの作品。でも新聞は購読していないので、図書館で読むか〜と思ってたんだけど。図書館に行くと新聞コーナーはいつも満席で。そしたら、ご近所さんが「一日分やったらあっという間やろ」と、4〜5日分まとめて郵便受けに入れてくれることになった。(感謝!)

▲ 物語は夕方 川辺にひとり腰をおろし、川を眺めながら主人公の麻里生が泣きべそかいてる場面から始まる。
川面はつるつると平らで、川は流れていないように見えた。たが、じっと眼をこらしていると、ゆっくりと水は移動していた。 日が暮れかかっていた。ぼくの背後の土手に立っている大きな木の影がうっすら川面に写っている。僕もその影の中にいた。

弟が自分のジグソーパズルを無断で持ち出してるのをみつけた麻里生は、いきなり弟を殴ってしまうんよね。
泣いてる弟の肩を抱きながら母は麻里生を怒る。「どうしてそんな子になったの」「四つも下なのに」「6年生にもなって」と自身も泣きながら。それで、麻里生は家を出て来たというわけだ。

▲兄弟姉妹がいてたら、どこにでもありそうなエピソードだけど。この背景には両親の離婚、厳しい父に勉強も運動も、厳しく叱咤されてすっかり萎縮してしまってる麻里生がいる。
岩瀬成子の描く子どもの物語は、読んでるうちに子どもになって。こんな歳になっても自分の中に「子どものころのわたし」が居ることに気づいてどきんとする。

▲ わたしの生家のとなりは化粧品屋さんだったんだけど、ウチの裏に出るとそこんちの裏の木戸があって。
わがままで短気な父親がつまらないことで(←たぶん)怒って、手を上げそうになったりすると、末っ子で要領のいい(と、姉たちから言われてた)わたしは、とっさに裸足で裏に走って隣んちに逃げこむのだった。
隣のおばちゃんには子どもがいなくて、よく可愛がってくれはったんよね。とつぜん裏口から勝手に入って来る隣の子に「あんた〜またお父ちゃんに怒られたんか?」と言うて、おばちゃんは足の裏を雑巾でふいて家に上げてくれた。

▲その後は「まあ、これでも食べ」とお饅頭の皮(近所の和菓子屋さんで薯蕷饅頭の皮の余ったのをよくもらった)やら、おせんべいやら「よばれて」、ガッコや友だちのこと家族の話、いろいろぺちゃくちゃとおしゃべりのあと、機嫌よく家に帰ろうとして、履物がないことにはっと気づき。せやった、せやった。お父ちゃんに怒られてここに逃げてきたんや〜と思いだすんよね。
いかにもわたしらしい(苦笑)とぼけた話だ。

▲病気をくりかえしたこともあるだろうけど、晩年は穏やかで好々爺然とした父で。
わたしは抱っこしてもろたり手を繋いだ記憶もないけど、ウチの息子1がちっちゃかった頃はチャンバラごっこの切られ役から五目並べの相手まで、嬉々としてやっていた。
さいごは肺癌でさんざんしんどい思いして逝ったお父ちゃんやったし、入院中はいっぱい話もしたし。それに苦労かけた母に何度も「おおきに」と言うてたし。
せやからね、子どもの頃のことはもう許したる!と思ってはいるけれど。
昔はどこの父親も多かれ少なかれ、そんなもんやった〜と言う人もいるけれど。
弱いものを力で抑えつけるなんて、絶対にしたらあかんこと。
眼ぇ大きいして小さい子ども相手につまらんことで 手ぇあげたりカンカンに怒ったそのときの父の怖い顔は、今でも忘れることができない。

▲ 麻里生もまた、父親から受けた厳しい叱咤にふかく傷ついてる。ウチみたいに単純なことで怒られると、悪いのはお父ちゃんや!と決めてかかれるけど(苦笑)
麻里生の父親は「おまえのため」と、自分が「良い」と思い込んでいる方向に誘導しようとする。そのつど麻里生は自分はだめなやつ、と落ち込みながらも「なぜ?」と思う。思うけれど、きちんと反論する術もなく、結局父親の言いなりになって もやもやしたものを抱え続けている。

▲それなのに。
自分の弟を同じように殴ってしまうんよね。そして《台風の雲のような怒りの渦巻きはどんどん大きくなって》《おまえはすぐに泣くんだから。泣けばすむと思ってるのか》と、おびえる弟を追い詰める。
こんな場面を読むと胸や胃のあたりがきゅうと縮みそうになる。
でも、彼にも言い分はあって。弟が勝手に持ちだしたパズルは、両親が離婚するまで住んでたまちの学校の友だちが麻里生にくれたものやったんよね。それに父親が厳しかったのは兄のほうだけで、弟に手をあげることはなく。

▲ 物語に登場するのは、この一家以外にもうひとり黒田君という麻里生の友だちがいて。この子《学校の黒田はどことなくぼんやりしている。だるそうな感じというか。内気なタイプではないが、一緒にふざけていたかと思うと、すーっと、いつのまにか1人離れて窓から外を観ていたりする》子なんだけど。
彼の存在が(じつは彼にも「家庭の事情」というものがある)、なんか特別なこと言うたり、したり、するわけやないものの、かたく縮こまった胸をちょっとやわらかくしてくれる。

▲ そんなある日別れたお父さんから「会いたい」と麻里生に連絡があって・・・。麻里生はどうすべきか考える。弟や黒田君に話したり、母に報告しながらも考えて、結局会うことになって。
この間(かん)にも、子どもは少しづつ成長してるんよね。思いきって自分がつらかった時の話をしても、お父さんはちっとも「ほんとのところ」がわかってなくて。相変わらず「子どものため思って」厳しくしてきた、と思い込んでる。
だけど。大きくなり、変わってゆくのは子どもたち。

▲最後、麻里生が弟に導かれて公園の中〜蝶々の木の場面がいい。
「来て」と弟は言って、腰をかがめて木の下へともぐり込んでいった。ぼくもあとにつづく。
2人で木の根元に腰を下ろして上を見あげた。
木の葉の隙間を通して蝶がひらひらと木の周囲を飛んでいるのが見えた。


岩瀬成子さんは、大人にたいして、友だちにたいして、考えれば考えるほど言葉にできないもどかしさに、足踏みしてる そんな子どもを描くのがうまいなあとおもう。
長谷川集平さんの絵も子どもの奥深いところがふっと見え隠れするような表情に、毎回どきどきして。「挿し絵」というより、もうひとつの物語のようで惹きつけられた。

▲ そういえば。
川で毎日遊んだ子どものころ。向こう岸近くに大きな岩があって、そこまで泳ぎ着くのが小さい子が大きい子の仲間入りするというか、ひとつ上に進む目標みたいなものだった。
みんなそれぞれ川の流れを目算して川上のほうから流されながら、その岩を目指すんだけど、思いの外流れは早く、水は冷たくなって、どんどんちがう所に流されてしまいそうになるんだけど。

▲ そのとき、ふと先を見ると年上の子が川の中で立ってるのが見えて。あれ?とうてい背の立たない深さなのに、と思ったら、川面からは見えないけど、川底に岩があってそこに立っていることに気づいた。こわごわ立泳ぎしながら足先で探る。岩は小さくてぬるぬるしており、足にしっかり力を入れて立ってないと流されそうになるんだけど。
もうちょっと先の大きな岩まで泳ぐのに、ちょうどいい休憩地点だったんよね。
『蝶々の木』を読んでいて、その岩のことを思いだした。
岩瀬成子さんの物語が、けっして子どもに媚びることがないのに、そのきびしさに流されたり 沈んでしまわないのは、あの川底の岩みたいなものをそっと置いてくれてるからかもしれない。


*追記

その1)
今日はこれを聴きながら。Brian Eno - By This River→


その2)
この間友人から電話。「ごめん、ごめん。4日も前にメールもらってたのに。本ばっかり読んでて気ぃつかんかったんよ」とのこと。こういう感じ、わかるから頬がゆるむ。彼女をそんな夢中にさせたのは前回ここで書いた内田洋子さんの本とわかって、もっと頬がゆるむ。(ゆるみっぱなし・・)
本のこと書くとき、なるだけすばらしい読書評は読まないようにしてる(苦笑)
せやかてね、そういうの読んだら、わたしなんかが書くことは何にもない、って思ってしまうから。
けど、こんなふうに、わたしにもだれかに何か「手渡せた」と知ることが たまにはあって。
うれしい。ほんま うれしいです。おおきに。


その3)
岩瀬成子さんの本のことは、ここでもよく書いています。
以下、とりあげた書名とブログアップの日付を書いておきます。
『オール・マイ・ラヴィング』2010.12.20
『ピースヴィレッジ』2012.01.09
『なみだひっこんでろ』2012.06.17
『くもり ときどき 晴レル』2014.08.18
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by bacuminnote | 2014-10-04 09:34 | 本をよむ | Comments(0)