いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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「のろのろいこう。」

▲雨音で目が覚めた。
いや、布団を蹴飛ばして足が冷えたからかもしれないけれど。
この、起き出すにはちょっと早く、二度寝するには遅い~こまった早起きに ため息をつきながら、枕元の電気スタンドを点けて本を開いた。

『冬の本』(夏葉社2012年刊)はこの間からの大掃除の最中、本の山がくずれて(泣)そのてっぺんにあった本で。何気なく手にとって、そのまま再読中。
この本、84人もの人たちが「冬の本」をテーマに2頁づつ綴ってはる。買ったときは夏葉社の本が出てうれしい〜というのもあって、ついつい駆け足で読んで「読了」のつもりでいたんやけど。

▲以後、思い出したように何となく手にとってはランダムに読み始め、また閉じる。ものすごーくお気に入りというわけではないものの(すまん)すきな書き手のんも、知らんかった人の文章も。読むたびに見えてくるものがちがって、小さな発見がおもしろく。それに自分の感じ方の変化もちょっと興味深かったりする。

▲こういう愉しみがあるから、本の整理(処分)はむずかしい(なやましい)。
そんで、こんな途中休憩ばかりが多くて、片付けはいっこうに進まないということになるのであった。
最近おなじように本の整理をしてるらしい友人がツイッターに"○年前の某誌にこんな作品が"とか "新聞のこんな記事が"~と、こころ引かれるツイートをいくつか発信してはって、わたしもいっしょに過去記事にとぶ。
そして、片付け始めたときより(今のほうが)エライことになってる部屋をながめつつ、彼女んちの本だらけの部屋を想像しながら一人笑うてる。いづこもおなじやねえ。

▲そうそう。
一連の大掃除の際、押入れ下に古新聞が敷いてあって、見たらなんと1967年10月9日の新聞だった。おどろいたのは、当時の新聞の文字の小さいことだけではない。(けど、ほんまに小さい〜)
一面は大きく前日の「10.8 羽田闘争」で京大生・山崎博昭さんが死亡したことを報じている。ベトナム戦争が続くなか、日本の首相が羽田空港から南ベトナムへ向かおうとしたこと〜日本がベトナム戦争に加担することを阻止しようとする学生たちの闘い〜とその後、本で読んだりして認識していたけれど。

▲紙面は「暴徒だ!もはや学生ではない」「狂った羽田デモ」という大きな見出しもさることながら「警官隊に投石する学生たち」というキャプションつきの写真と〜学生側を一方的に非難する記事は想像以上で、おどろいた。

▲1967年といえば、わたしは中1で。その頃はまだ「テレビや新聞で報道されることは正しい」と、無邪気に思い込んでいたように思う。2年生くらいになると、社会の授業でセンセが「一枚の写真もどっち側から撮るかで全くちがうものになり、見た人の判断も分かれる~」と言うてはったことに納得。「大きい声」が正しいとは限らない~と気付き始めた気がする。そして「小さい声」を聞き取るためにも「知る」ことがいかに大切ということも。
これは50年近くたった今まさに日々痛感している。

▲この古新聞におどろいたのはもうひとつ。
去年の秋だったかインターネットで、詩人の佐々木幹郎さんが山崎博昭さんと大阪・大手前高校の同期生で〜ふたたび戦争を繰りかえさないために〜「10.8山崎博昭プロジェクト」→の発起人の一人だと知ったところだから。

▲佐々木幹郎さんというたら、『詩のボクシング』で審査員のころ、屋台にてお酒のみながら終始くしゃくしゃの笑顔で、詩人というより大阪のおもろいおっちゃん然として、ユーモアたっぷりに感想を言うてはった印象が強かったから。プロジェクトの集まりのようすを動画でみて、そのきびしい表情にどきっとした。
そして、このとき佐々木さんが「最後に彼と生前、最後にかわした会話を、わたしはよく覚えています」と話されたことが、とても深く残っている。

▲ある日、大阪から京都へ行く電車のなかで佐々木さんが偶然 山﨑さんと会ったそうで。
『いま、何をしている?』というのが彼のわたしへの質問でした。その言葉が、絶えずこの50年間、甦ってきました。一番つらいときも、詩をやめようと思ったときも、『いま、何をしてる? 佐々木』という山﨑博昭の声が、しばしば聴こえてきました。それに答えるためにも書き続けるという、そういう思いで生きてきましたから(以下略)》(佐々木幹郎:発起人あいさつ より抜粋→

▲48年も前の新聞には、このほか「造成いそぐ万国博会場」の記事。
三百二十万平方メートルの敷地を八工区に分けて工事が進められている。(中略)梅雨明けから三ヶ月間、延べ一万八千台のブルドーザーやスクレーバーを昼夜兼行で動かし、基礎造成の六割を完了した》とあって、緑豊かな千里丘陵のそこだけごっそり削り取られた写真が大きく載っている。
なんか、どこかで、見たような光景だ。

▲さて、そろそろくずれた本や雑誌の山をなんとかせねば。
本棚に並んだ一冊一冊が、長屋の住人のようにつながりをもっていく。そのたくさんの本のあつまりが、またあたらしい一冊をえらばせる。読書というおこないは、自分にしか手にすることのない、小さな町のような本を編んでいくことだとおもう。
(『冬の本』〜「小さな町にて」北村知之p71より抜粋)

*追記
その1)
長い長い一ヶ月でした。(正確にいうと一ヶ月にはまだ足りない)
片付けをして一生分くらいモノを捨てた気分。で、うしろめたい気分が残りますが、ひとつ山をこせてほっとしています。
次はわが家の片付けですが、なんせ暑いことやし、ぼちぼち。
上記『冬の本』に、荻原魚雷さんの「冬眠居にて」というエッセイがあって。(p56〜57)

わたしは尾崎一雄から、弱っているときや寒いときは寝ていたほうがいいという人生の真理を学んだ。 寝ているうちに春が来る。 それまでは充電。のろのろいこう。 冬に怠けた分は、残りの季節でなんとか帳尻を合わせる方針だ。

(異議なし!「寒い」を「暑い」に、「冬」を「夏」に置き換えて、のろのろまいります・・苦笑)

その2)
きょうはこれを聴きながら。The Low Anthem play Apothecary (in Grand Central)→この駅は〜むかし、親子北米旅行の思い出の駅。

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by bacuminnote | 2015-07-22 22:14 | 本をよむ | Comments(2)

赤いくちべに。

▲いつのまにか7月になっていた。
こんなにブログを書かなかったのはたぶん初めて。
ひとは器一杯になると いっときことばをなくすのかなあ。いや、ただわたしの器が小さいだけなのかもしれへんなあ〜とか思いつつ。
それでも少し、ほんの少しでも隙間ができると、それが水路となり、とたんに溜まってたものがことばとなって流れ出してきて。もやもやしてわからへんかったけど、徐々にことばになってくると「ああ、これやったんか」と妙に納得したり。

▲そうそう、水路って英語で"waterway"というんよね。「まんま」な単語やけど、口にだしてみると、なんか透き通った水が勢いよく流れるとこが浮かんできて、どこか新しいところに向かう力のようなものを感じて。今朝から何度もウォーターウェイと言うてみる。(←相変わらずたんじゅんです)

▲昨日久しぶりの図書館で何気なく本棚見てたら『口紅のとき』(角田光代著/上田義彦写真/2011年求龍堂刊)という本に出会った。
装丁も口紅を思わせる真紅にゴールドの網目?のゴージャスな感じが、わたしにはちょっと遠い感じやったけど。だから逆に気になって手にとるや 一気に読んでしまった。

▲目次には6歳から始まり12、18、29、38、47、65、79歳とあり、その歳ごとの女性の口紅にまつわる話が綴られている。途中紙質もかわって写真集のように口紅を塗る少女や女性の写真が数点はさみこまれ。ぜんぶで100頁ほどの薄い本で、ひとつひとつの話も短くてあっという間に読めるけど。本を閉じたあともずーっと物語が続いてるような感じがするのは、どこかで自身と口紅の物語を重ねてるからかもしれない。

▲口紅というたら、ホームに入居の義母から買い物をたのまれて一番困ったのは化粧品やったんよね。遠いむかし、わたしにもちょっとの間お化粧していた時期はあったんだけど、ケッコン式のフルメイク!(笑)を最後にお化粧はしていない。
その後は身近に化粧品をみる機会もないので、義母からファンデーションを、眉墨を、頬紅を買うてきて〜と言われても(希望の品番のないときにはかわりに)どんなものを選んだらいいのか、どのくらい値段を上下させていいものか、どこに行けば買えるか(昔みたいに化粧品は化粧品店だけで売ってるわけとちゃうし)さっぱりわからないのである。

▲いつだったかナイトクリームを頼まれたときは、化粧品売場の試用品に(ドラッグストアのハンドクリームを試すが如く)指をずぼりと入れたら(苦笑)制服姿の店員さんがとんで来て「お客様、それは困ります」と言われた(泣)
一瞬何のことかわからず焦ったけど。すぐに耳かきみたいなものを持ってきて、クリームをほんの少し掬ってわたし手の甲に少し落とさはったので、納得。その後は何言われても上の空状態で〜説明終わるのをまちかねて退場、なんてこともあったっけ。

▲中でもよく頼まれたのは口紅で。
これは他のものとちがってこの色の感じが似合うかな〜というのが わたしにもわかりやすかったんよね。けど、「また "口紅買うて来て" やてぇ〜」と相方が聞いてきては、「ええっ?この間買うたとこやのになあ〜」と二人してため息をついたりした。
それでも、いつもテーブルの上に置いてあった黒い手鏡を持って口紅をぬる義母を思うと頬がゆるんで。「おしゃれできるいうのは元気な証拠やし、ええやん〜」とまた買いに走るのだった。

▲さて、
本のはじまりの「6歳」は、お母さんが鏡台(←なんと懐かしい響き)の前に座るとき《わたしはその短い時間が、待ち遠しいのと同時に、こわかった。》という思い出。
少しばかり尻を持ち上げ、鏡に顔を近づけて、細い筆をゆっくり動かした。その段になると、お出かけできるうれしい気持ちよりも、ほんの少し恐怖のほうがまさった。そして、こころのなかで叫んだ。 ねえおかあさん、ねえおかあさん、ねえおかあさん、ねえ、私のおかあさん。
母がお化粧するときも出かけるときくらいで。鏡台の前に座る母はいつもの「おかあちゃん」じゃない気がして、なんだかドキドキしたり、口紅だけでぱあっと顔が華やいで別人みたいにおもったことをよく覚えている。

▲そういえば、
ホームで知り合ったhさんは、出会った頃すでに80を越えてらしたけど、通りすがりの人も かならず振り返るほど華やかでうつくしい人だった。
まだ親しくさせてもらう前は、わたしと相方も、当時小学生の息子まで、廊下やエレベーターで会うたびにぼーっと見とれていたものだった。
真っ白の短い髪に、赤いルージュが(口紅ではなくルージュと呼ぶこともまたhさんらしくて)とてもよく似あっており。センスのよい服装で颯爽と歩く姿に、わたしはよく「きゃあ、かっこいい〜。hさん、ちょっと回って見せて〜」なぁんて言うと「まあまあ、あなた、大人をからかったらいけませんよ〜」と笑いながらも、モデルのようにくるりと回って見せてくれる、そんなお茶目なひとでもあった。

▲5年ほど前になるだろうか。体調を崩されて、いつのまにかhさんの唇から色がなくなった。
部屋をおたずねすると「もうね、おしゃれもお化粧もなーんにもする気がなくなっちゃったのよ」と長いため息をついてはった。
それから、「あの赤い色みてると元気でるんだけどね〜」と冷蔵庫のほうを見る。扉にマグネットで貼ったマチスのポストカード『赤のハーモニー(赤い部屋)』はいつだかわたしが送ったものだった。そう、赤い色はわたしもなんか元気でる気がする。
そのころのhさんは以前の華やかさが水底に沈んでしまったかのようだったけれど。
しずかに長椅子に横になって昔話をぽつりぽつり話してくれる彼女を やっぱりわたしはすてきな人やなあと思ってみとれてた。

▲本の最後「79歳」は、まさに老人ホームに入居している79歳の女性の物語で。
スタッフの若い女の子にメーキャップされるというお話だった。79歳の「私」に顔を近づけて女の子が口紅をぬる。
いいよそんなにていねいにやらなくたって。こんなばあさんに、そんなにていねいにすることはないんだ。だれにも見せるわけでもないんだから。そう思うのに、女の子は、筆でゆっくりとくちびるの輪郭をなぞり、幾度も紅をつけて、ぬっていく。女の子の、ふっくらとした頬が目の前にある。桃のようにすべやかな肌。

▲ところが、紅をひいた自分を鏡でみると十代の私が映っている。やがて二十代の、三十代の自分・・六十代で「あの人」をなくした頃のことが浮かぶ。そしてゆっくり、鏡のなかに映った女は、現在の私になって。
皺の一本一本に、しみのひとつひとつに、私の過去がある。私の過ごしてきた日々は、すべて私の顔のなかにある。その日々を、赤いくちべにが美しく光らせている。》(p98)

▲あとがきのような「ちいさなドラマ」という文章は《くちべには不思議だ》から始まるんだけど。
ほんまに。ほんまやね〜としみじみ思う。
くちべにには、ほかのどんなものより、あざやかなドラマがある。そして、ひっそりとつつましやかなのに、ほかの何より饒舌だ。

赤いルージュの似合うhさんは二年ほど前に亡くなられたそうで。
お義母さんは淡い藤色の訪問着姿にローズピンクの口紅ぬってもろぅて、きれいで穏やかな表情で。でも駆け足で、遠いとこにいかはった。引き出しには前回余分に買っておいた口紅が一本残ってる。
わたし?わたしはこれからもお化粧しないで歳をかさねてゆくのかなあ。
いつか義母のあの口紅をつかうときがあるのかなあ。


追記
その1)
何が何だかわからないほど、ばたばたした(する)日々の中、もう一冊『断片的なものの社会学』(岸政彦著/朝日出版社12015年刊)を読みました。
本の帯に書かれた星野智幸さんの《この本は何も教えてはくれない。ただ深く豊かに惑うだけだ。そして、ずっと黙ってそばにいてくれる。小石や犬のように。(略)》が、ずっと思いの中にありました。そのことに、時に苛立ちながら、時に深く頷きながら、読みました。

その2)
いつからかyoutubeは めあての一曲聴いたあとも次々自動再生するようになって。
何を聴いてたのかも忘れて、あとの曲は適当に流してたんだけど、この曲になってこおりつき、なきそうになりました。
Simon & Garfunkel - The Sound of Silence→
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by bacuminnote | 2015-07-08 14:50 | 本をよむ