いま 本を読んで いるところ。


by bacuminnote
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みずのおと。

▲庭で洗濯物を干した後、何となくそのまましゃがみこんで足元の草抜きをする。
頭の中はこの間から考えてることがオートリバースのテープみたく(←古い? )ゆっくりsideAからsideBに。そしてまたBからAに~をくりかえし。抜いた草の小山が知らんまにいくつかできていた。お日ぃさんに照らされて背中がぬくい。

▲それから、膝と腰をかばいながら「よっこいしょ」と立ち上がる。見上げた秋の空はまぶしくて青くて、くらくらするようで。カラスが時々思い出したようにカアカアと間延びした声で鳴いてる。
ここだけ、
ここだけを切り取ったら、ヘイワでのどかな九月の、シルバーウイークとやらの休日の朝だ。

▲それにしても、国会での(いや国会内外での)「汚い手」はこれまでのやり口を見て十分予想はしてたけど。それ以上の暴挙だった。そして、彼らと一緒になって都合のいいところだけ報道するマスコミ〜とりわけNHKに(何ヶ月ぶりかでスイッチ入れたテレビで)改めてイカリ、絶望する。

【公共放送NHKは、“いつでも、どこでも、誰にでも、確かな情報や豊かな文化を分け隔てなく伝える”ことを基本的な役割として担っています。
そして、その運営財源が受信料です。NHKが、特定の勢力、団体の意向に左右されない公正で質の高い番組や、視聴率競争にとらわれずに社会的に不可欠な教育・福祉番組をお届けできるのも、テレビをお備えのすべての方に公平に負担していただく受信料によって財政面での自主性が保障されているからです。】
(NHKオンライン「よくある質問」なぜNHKは受信料を取るのか?より)

▲「公共」「公平」「公正」って連発してるけど、意味わかってるんやろか。あまりに現実離れしたこの返答は、看板だけ「自由・民主」を掲げる与党みたいやな。(ていうか、この「自由」って「何でも自分らの自由にできる」の「自由」やったのか・・)言葉を汚さんといてほしい。
中継を見てるだけでもすっかり消耗してしまったけれど。
これで終わったわけやなく(「暴挙」がそのまま「暴走」へと繋がらんように)知ることも考えることも怒ることもずっと続くんやし。忘れない。
しゃきっとしようと思う。

▲先週の日曜日のこと。
ひさしぶりに母の顔を見に出かけた〜考えてみたら年始以来のよしの行き。
前日、母と電話でしゃべってたら、きょうは玄関マットで足すべらせて、ずるーっと寝そべるみたいになってこけてん~と言うてたので、そのことも気になったし、足の調子もまあまあいけそうやし(←わたしの)例によって前夜「よし、行こう」と決めた。

▲今年は家族の病気や死。友人やその家族の、病気、死・・とほんまにいろんなことが続いて。
あ、そうだ。しんどいさびしいことばかりやなくて、新しい命の誕生の知らせもこの間から続けてふたつあったんよね。
「おばあちゃん」になった友人たちから届いた写真には新生児のあまいにおいが立ち上がってくるようで、その清らかさ、かいらしさに胸がいっぱいになった。
この子らのためにも、ほんま、大人はしっかりせなあかんよね。

▲さて、いつものようにデパート地下であれやこれや食べるモンを買って、電車にのりこむ。
秋晴れの日曜日やのに、乗客は思ったより少なくて。
うれしいような、がっかりするようなきもちは、わたしのきょうどあい(←気恥しくて漢字変換不可)ゆえか。荷物を空いた隣席に置く。
通路隔てて斜めむこうの席は女性二人の旅行のようでにぎやか。コーフン気味の空気が、こっちまでつたわってくる。

▲パソコンからプリントアウトしたという紙束をパラパラ見ながら、吉野山ではあそこに行って、ここでお茶して、お昼はどこそこに・・と盛り上がってはるんやけど、出てくるお店の名前がちっともわからず。全然知らんとこの話を聞いてるみたいで(って、勝手に聞いてるだけですが)ちょっとさびしい。
そういえば、長いあいだ山には(地元では吉野山のことは「山」という)行ってへんことに気づく。祖母の法事以来やから、もう5年になるんやなあ〜と吉野建の三階(ここが玄関)の部屋から見下ろした桜の紅葉がみごとやったことを思いだす。

▲家に着くと母が満面のえがおで「おかえり。よう帰って来てくれたなあ」と言う。
ジッカに「帰る」と、いつまで言えるんやろか〜と道中、川を眺めながらふと思ったんだけど。いつの日にか母不在となっても、やっぱりここは「帰る」場所のひとつやなと思いながら「ただいま」と答えた。すべってころんで〜は大したことなかったようで、ほっとする。
窓の外の景色はいつもかわらない。子どもの頃、しょっちゅう登っては駆け下りて遊んだ山があって、おなじく遊び呆けた川が流れてる。

▲最近ではグーグルマップでストリートビューも見れるようになったけど、以前は地図と航空写真だけで。この辺りは緑緑緑やったんよね。
とはいえ、ここはまだよしのの入り口。まだまだ「ええとこ」は奥に行けば行くほどなんぼでもあって。けど、いっつもこの窓から見える山と川と、それからだいすきな庭の桜の木と、何より母や姉の顔をみてまんぞくして帰って来るから、これ又長いこと行ってないなぁ。

▲今夏、母は92歳になった。
いっときは、あれもできんようになった、これもできんようになった〜と泣き虫になってて心配したけど、いつのまにか好奇心旺盛〜「知りたいこと」に突進してゆく母(!)にちゃんと戻ってる。
机の上にはいつだかわたしが送った『365日で味わう 美しい季語の花』(金子兜太監修)が開いてあった。前から母に一日一句を薦めてるんやけど(一日一句やて〜よう言うわ、と自分でつっこむ)なかなか「浮かばへん」という。
どうやらイメージする俳句が「稀代の俳人」のそれであるらしく。
「そんなすごい俳句つくろうと思ったら、おかあさん(生きてる間に)間に合えへんで」と娘は憎まれ口を叩きつつ、もっと気楽に。例えばこんな感じで、と先日わたしが某誌に投稿してみた句をよんでみたらソッコウ「えっ??そんなんでええの?」と返って来て絶句(苦笑!)
「そんなん」で、エラソーに俳句俳句いうてすんませんなあ。

▲まあこんな母なんやけどね。
電車の時間になって「もうええ」というてるのに、階下まで降りて来て、姉の車が出てもなおそこに立っていて。わたしは「ほな、また」とわざと素っ気なく手を振り返す。帰りはいつもせつない。
大阪にむかう電車は登山スタイルのグループがいっぱいで、車中撮ってきた写真をスマホで見せ合い、送り合い、お菓子の袋を回してはって。つい となりに手を伸ばしそうになる(笑)
いや、お昼が中途半端になったからおなかが空いてきたのであった。夕飯にでも、と姉がもたせてくれた巻きずしを早くもとり出してつまむ。

▲この日お伴の本は『岸辺のヤービ』(梨木香歩著 福音館刊)。
これ、近頃ではめずらしい函入りで。本が届いた日、そわそわと函から本を取り出した。本文も挿絵(小沢さかえ)や活字や装幀(名久井直子)も、なんだか昔の児童書風。それに文体も子どもの頃に読んだ翻訳児童書みたいで、なつかしい感じ。けれど、梨木香歩さんの本は読むたびに、いつも新しいなあと思う。
「永遠の子どもたちに。」という献辞にどきんとする。
で、読んでみて、ほんとうにそういう思いの詰まった本だった。

▲主人公は二足歩行のハリネズミみたいなふしぎな生き物、クーイ族のヤービ。そしてフリースクールの教師をしている〈わたし〉はマッドガイド・ウォーターに浮かべたボートの上でヤービと出会うんよね。

【クーイ族のなかには、一世代のに一人くらいの割合で、「異種間交流」の可能な特殊な個体が出てくるのだそうです。なんであれ、ヤービがその「特殊な個体」であったことはまちがいないようで、そのことはわたしにはかりしれない幸福をもたらしたのでした。】(「岸辺の出会い」p17)

【ヤービはそういう男の子なのでした。ちょっと落ち込んでも、しばらくたつとかならず、何か説明のつかない、いのちの力のようなものが、体の奥深くからわきあがってくるようなのです】
(「しゃべるカワアイサの古巣」p220)

壮大なファンタジーものはどっちかというとにがて。でも、小学生のころ自分がコロボックルになった気分で何度も読んだ『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる)や、このヤービの世界は読んでいると、前のめりになって、いつのまにか物語の中に入り込んでる。

▲とくに、この本はタイトルにあるように岸辺の物語で水がそばにあって、川育ちのわたしは「水」に惹かれるようにして読んだ。ゆっくりだいじに読もうと思ってたのに、帰途の電車の中で読了。
ふううっと、まんぞくのため息をついて車窓から夕暮れ時のうすぼんやりとした景色を眺める。吉野川はとうに見えなくなっていたけど、読んでいる間じゅうずっと水の音が耳元でちいさく流れてた気がする。

▲翌日だったか著者へのインタビューを読んで梨木さんが【どんな時も自分の中に絶えざる水の音がする。そんないのちの奏でる水音に耳を傾けるようにして、この物語は生まれた。】と書いてはったのを読んで、思わず声をあげる。そして、なっとく。なんだかその水が自分にも流れこんできたみたいで。うれしかった。
子どもの頃のわたしに読ませてやったら、どんな顔するやろ。


*追記
その1)
この間古い雑誌を整理してきて、そのまま座り込んで読書。(そんで、整理前よりひどい状況に・・というのもいつものパターンなり。苦笑)
富士ゼロックスの広報誌『GRAPHICATION No.156』(2008.5)「専門主義から総合知へ」池内了氏と赤木昭夫氏の対談で赤木氏が言うてはったこと。「ものごとを疑う」「筋道を立てて考える」ことの大切さをあらためて。

【ものごとを広く深く考えることが「知」であり、その結果も「知」であるとすると、その出発点の「考える」ことの中身は、つまるところ、ものごとを疑うことではないかと思うんですね。疑った上で筋道を立てて考えることが、「考える」ということではないかと。その結果が降り積もると「思想」というものになる】

この雑誌長いこと無料でたのしませてもらったけど、今回で「紙の雑誌」はおしまい。次回からは電子版になるそうだ。もうだいぶ前に林さかなさんが紹介してはったので知って、以来 友人知人に会うと薦めて、行く先々にこの雑誌がある〜みたいな感じやったけど。ほんま残念です。
*林さかなさん編集発行の「子どもの本だより」メールマガジン→

その2)
長くなりますがもうひとつ。
この前大阪大正区の『エイサー祭り』の冊子を読んだんだけど、中に山之口貘の見たことのない詩が掲載されていて、深く残ったので書いてみます。
あとで出典をしらべたら思潮社から2013年に出た『新編 山之口貘全集』第1巻(詩篇)→の中「既刊詩集未収録詩篇」に収められていることがとわかったので、図書館で借りてきました。(この本の発行は知ってたけど、高くてよう買わんかったのでした・・)
1918年(大正7)〜1921年(大正10)獏さんが15歳〜18歳の間に書かれた詩のようです。


「私は歌はねばならない唄を」     山之口貘

私(わし)は歌はねばならない唄をうたつてゐる
古沼からは淡い綠(みどり)色の光の音がきこえ
樹々の葉は彼等の金色の幽かな聲でうたひ
西(いり)の空は眞紅(まつか)な口紅を染めてうたひ
黄昏に
雲のうへで惡魔(たれ)かゞこそこそ笑ひ
水底からつめたい女の顏があらはれ
樹々の葉裏には美女の玉の小指が吊るされ

あゝ私(わし)がひそかに彼等を見るとき 悪魔(たれ)かゞ私(わし)の胸に耐え切れない寂しさをながしてゐる

だけどあゝ私(わし)は歌はねばならない唄をうたひ
私(わし)は是非訪ねゝばならぬ――私(わし)は私(わし)の歌ふてゐる唄を立ち聞きしたたつた一人の聽人(きゝて)を。


その3)
きょうはこれを聴きながら。さいごまで読んでくれはっておおきに。

このアルバム(よかった!)のタイトルは「わたしたちの欠点のなかにあるきらめき」Chantal Acda 〜"The Sparkle In Our Flaws"
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by bacuminnote | 2015-09-22 13:19 | yoshino | Comments(0)

他には何も知らない。

▲足が弱いのもあって、できるだけ毎日歩くようにしている。
というてもスーパーや図書館のある所まで~歩いてる時間はせいぜい往復で40分くらいなんだけど。
朝から出るときも、お昼たべてからのこともあって時間はまちまち。
それでも、ここに越して来て十年もすぎると道中よく顔を合わす人(犬)たちがいる。それとなく軽く会釈する人も、お互いに「あ、またあの人や」と思いながらも(←たぶん)すーっと視線そらして通り過ぎる人もいる。
ただ偶然に会うて、その外見の他には何にも知らんのに。しばらく顔をみないと「どうしてはるんやろ?」と、ちょっと気になったりする。中には相方も知ってる(というかよく見かける)ひともいて。あの「赤い帽子のおじいさん」とか「エラソー」とか「ピンクの服の人」とか「笑ってる人」とか(苦笑)~勝手に名付けてウチの話に登場してもろてる。

▲道を歩いてて、知らない人に会うということが殆どなかった信州の頃の暮らしを、時々思い出しては、今のこの知らん人ばっかりの中で歩いてる自分~というのがなんとも不思議な感じがして。ふと立ち止まってみたりする。
次々人が追い越してゆく。スマホや携帯でしゃべりながら歩いてる人も結構いて。あれって、ふつうに話してるときより声が大きいなるのか~しゃべってはるのが(聞くつもりなくても)耳に入ってくるんよね。
「○○買ってかえろか?」「雨降り出しそうやし洗濯物とり入れといてね」~というような日常会話から「○○円も用意できるわけないでしょ!」とか「それは裁判で・・」「どない思ってるの?」「謝るつもりありません!」なんてはげしい口調の声も聞こえてきたりして、どきっとすることもある。日常は非日常でもあるなあ~とおもう。

▲昨日『あなたを選んでくれるもの』(ミランダ・ジュライ著/ 岸本佐知子訳 /ブリジッド・サイアー写真/新潮社2015年刊)という本を読んだ。
脚本家でもある著者は、書きかけの脚本に行き詰って、フリーペーパーに載ってる「○○売ります、買います」の広告を出す人たちに電話をかけ、インタビューを申し込んで、家を訪ねて話を聞く~ってことを思いつくんよね。

▲例えば【LA在住の某さん、ジャケットを売りに出す。ジャケットは革。そして黒のLサイズ】という広告に【わたしはこの革ジャケットの人の考えていることをもっと知りたいと思った。この人がどんなふうに日々を過ごしているのか、何を夢見、何を恐れているのか、知りたいと思った】というわけだ。
こういう「知りたい」「聞いてみたい」という欲求~わかる気がする。でも「気がする」のと、実際どんな人か何もわからない人に電話する、インタビューを申し出る、家まで会いに行く~というのは全くちがう。生半可な好奇心でできるもんやない、よね。

▲そして、この本は彼女がそうやって会うことに成功した(たいていはNO!だったらしい)12人のひとへのインタビューと写真で綴られた本なんだけど。
どんな展開になるのだろうと、終始どきどきしながら彼女の訪問記を読んだ。さすがに単身で~ということはなくてカメラマンのブリジッドとアシスタントのアルフレッド(←彼に来てもらうのは、はっきり「レイプ防止のためだった」と書いてある)と三人で。
このひとの他者にとびこんでゆく好奇心もやさしさも、そして冷静な眼も。すごいなあと思う。そして、合間に挟み込まれる彼女のこれまで~若いときのエピソードにも惹かれる。
【わたしは例によって早く着きすぎ、あちこち走りまわって道に迷い、おかげで例によって遅刻した。】なんていうのには、とても親近感おぼえたし(笑)
翻訳もいい感じで、ゆっくり大事に読もうと思ってたのに一日で読了してしまった。そして、いい本に出合ったときの読後はいつも同じ。しばらくぼぉーっとしてる。

▲そうそう、昨日この本を読んでいる間に、いつも楽しみにしているwebのインタビュー記事がアップされたと知りさっそく。今回は先日読んだ『断片的なものの社会学』の岸政彦氏。
この方もまた人に会いに行く、話を聞きに行く人。『あなたを選んでくれるもの』に重なるところがあってとても興味深かった。

▲曰く
【皆さん、ご自身では「語るに値しない人生ですよ。もっと成功した人に聞けばいい」と言われます。でも、語りを聞くと、ほんとうに、人それぞれの個別の人生というものがあります。】

【他人に自分の生い立ちや人生を語る、ということは普通のことではなく、とても特殊な状況における特殊な行為です。生い立ちを聞くのは、特殊なことであると同時に、「暴力的」なことだと思います。聞く方も語る方もしんどい。誰しもが自分の話を聞かれたいかどうかわかりません。】

(MANMO.TV #360 ”私たちはわかりあえない。だが他者を理解しようとすることをやめてはならない”→

▲さて、本にもどって。
売りに出されたものは、最初書いた黒い革のジャケット、インドの衣装、スーツケース~というフツーのものから、ウシガエルのおたまじゃくしやレパードキャット(ベンガルヤマネコ)の仔!まで。
時にその稠密な話は息苦しくもあり、長引く語りにはいつ引きあげたらええんやろ~と、著者になった気分でドキドキした。
【質問をさしはさむのは高速道路で合流するのに似ていたーーわたしはアクセルをぐっと踏んで、彼が言葉を切ったわずかな隙に割り込んだ。】(p125)
で、このあとの質問が「将来の夢は何ですか?」なのである(笑)すごい!
最後 ジョーの話は後日談もあって沁みる。本のはじめにあった”ジョー・パターリックと奥さんのキャロリンに”のその人だ。彼が売りに出したのは「クリスマスカードの表紙部分のみ50枚/1ドル」で。

▲ジョーを訪ねたあと【わたしたちはやっとのことで外に出ると、車の中でしばらくじっとしていた。だれもが無口で、そしてなぜかみんな泣きそうだった。アルフレッドは、これからはもっとガールフレンドに優しくするとか、そんなようなことを言った。わたしは自分が人生を十分に生きていないような気がした。】(p206)
そして彼女はその日のうちにもう一度ジョーに電話することになって。このあとの物語もまたじんとする。

何かに出会うというのは「あなたが選んだ」ではなく「あなたを選んでくれるもの」なのかもしれない。


*追記
その1)
この本の中で何度もでてくる脚本・映画『ザ・フューチャー』は2013年に日本でも公開されています。残念ながらわたしは観そこねたまま。
予告編→

その2)
知らない人との出会い〜といえば、この間ひさしぶりの邦画『滝を見に行く』→を観ました。前情報もなく、ただタイトルに惹かれてDVDを借りてきました。
舞台は信州~妙高高原やそうです。

紅葉をたのしみ滝をみて、温泉につかる~のを楽しみにバスツアーに集まったおばちゃんたち~ところが新米ガイド(この人だけ男性)がどこかに消えてしまい(迷い)山中に取り残されてしまいます。二人組で参加した人、ひとり参加の人~ストーリーは想像の域をこえませんが、みんなそれぞれに味があって~出演者は素人の方も多いようで。ああ、こういうタイプの人いてる、いてる~とか思いながら。

そういえば、上記リンク先、公式HPの「キャスト」のところに登場人物一人ひとりのキャラクターが、劇中には出てこない経歴までこまかく書かれてておもしろかった。たのしい作品でした。あとで監督が『横道世之介』の沖田修一さんやった〜と知りました。

その3)
きょうはこれを聴きながら。Beck Song Reader, Please Leave a Light on When You Go→
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by bacuminnote | 2015-09-08 20:21 | 本をよむ | Comments(0)